護憲の意味とリベラルの価値2017年11月10日 03:08

日本の自衛権と憲法を巡る争点が安保法制に関して議論されています。

護憲とは、平和主義すなわち憲法9条に基づき、自衛隊を違憲であるとし、あるいは自衛隊の活動範囲を限定することであり、この内容の憲法を決して変えないことと定義することは、「護憲」という普通の言葉の意味に即していますか。

現在ある憲法の条文を一言一句変えることが到底許されないというのが、護憲なんでしょうか。

憲法を解釈し、その確定された意味内容の下で、憲法を遵守すること、これに違反しないことが護憲であることは疑いを得ません。

但し、憲法解釈をいくら客観的に行おうとしても、法の解釈という方法によっても、結論が多様で有り得ます。筆者の考え方によると、解釈者の真摯な態度の下で、解釈原則に則った規範的議論を踏み外さない解釈的結論であれば、その内容の憲法を護ることが護憲です。

それ以上でもそれ以下でもありません。

上位規範の授権に基づき下位規範の内容が定まり、行政行為もこれに基づかなければならないという法の体系に服するわが国において、最高規範である憲法に反する法や行政の行為は無効とされます。

もし、自衛隊が違憲の存在なら、自衛隊そのものがあってはならなくなります。現実問題として、これは困るというのが多くの国民の感想でしょう。

太平洋戦争終結後、アメリカが、米軍占領下に日本を武装解除し、そのまま米軍のアジア太平洋地域の前線基地を置いた。そして、これを固定化するためにわが国憲法、特に9条が起草されたとするのが政治的事実であるとする考え方があります。

そうかもしれません。

やがて、これを平和主義として理想化されたものが法学者によって広められ、わが国国民の間に定着した。

そうかもしれません。

しかし、これがまた政治的事実ではないでしょうか。国民に広く親しまれ、日本の理想像として理解されているのが現実であるように思われます。

これを罪と呼ぶなら、その罪は、憲法学者にのみ留まりません。法の解釈を行うほぼ全ての者に共有された価値観であり、これを普及させた張本人であると言えるでしょう。

しかし、憲法の率直な「読み」からは、そうせざるを得ません。

解釈学は、一定の限定された立法資料を前提に、「法」として与えられたテクストを読み込みます。テクストは、一旦、それを作った者の手を離れた途端、創造主とは切り離されて、それ自体として客観的に存在します。法の解釈学者は、テクストそれ自体を読解する。本来的にはそれ以外をしません。

同時に、現在の国民は、自衛隊が無くなっては困ると考えているとしたら、

憲法9条とこの現実との接点をどのように考えれば良いのか。憲法学者の中に、平和主義との妥協を図る解釈論が生まれたのは、社会の進展に応じた解釈論の変遷としては理解できます。

しかし、9条のテクストから、技巧的とされるに過ぎない解釈ではなく、憲法全体におよぶ読み直しを行い、解釈理論として説得的な解釈を生み出すのは並大抵のことではないだろうと、門外漢からも、容易に予想できます。

憲法の意味については、憲法解釈を専門の業とする憲法学者の解釈を参照できます。その多数決は、政治的議論の起点とするに足ります。

そして、憲法の規定する手続に従い、法に則って、憲法改正を行い、新たな価値観を導入することも、また、有り得るというべきでしょう。

しかし、その憲法は、政府により遵守されるものでなければなりません。既成事実の積み重ねにより、いつの間にか護られなくなる。このことが解釈改憲に通じる、というのでは真の立憲主義とは言えません。

もっとも、憲法の内容は、平和主義や国際主義に留まりません。

第二次世界大戦終結後、政治のみならず教育や文化面でも、戦前とは、価値観が一変した。よく知られていることです。

天皇神格化の否定、家制度の破棄、個人の尊厳と自由の尊重、両性の本質的平等と法の下の平等原則等々。

確かに、価値観の大転換です。天と地がひっくり返るほどでしょう。

更に、現代社会において、社会の進展に伴い、新たに多様な問題群を生じました。

その際に、文化的伝統を頑なに守り続けようとする価値観と、むしろ社会の変化に応じて新たな価値観を創造しようとする立場の相違があります。

筆者は、後者の立場から、現行法の下にある、文化・伝統に係る法規制の規制緩和が必要であると考えています。

例えば、選択的夫婦別姓の制度は、女性の社会進出が益々奨励されている今日、配偶者一方の姓を名乗る法の義務付けから、女性及び男性を解放し、そうしないことを可能にします。

不妊症を抱える夫婦にとって、代理母の方法によろうとしても、出産した女性(代理母)のみを子の法律上の母親とする現行法により、これが阻まれてしまいます。

婚姻を男女間に限るとする現行の法解釈を緩和すると、LGBTの人々の選択肢が増えます。

以上は、新たな家族の形への法規制の緩和と言えるでしょう。個々人の自己決定を尊重するということであって、新たな価値の芽生えを法が摘み取ることを回避します。

また、二重国籍の容認と権利帰化制度の創設も、この社会に住む市民を増加させ、構成員として受け入れ、日本の社会が多様な文化と価値観の総体として発展するために必要な規制緩和でしょう。

更に、女性や障害者、外国人など少数者に対する、多様な社会的アファーマティブ・アクションや、ヘイト・スピーチの違法化が積極的な意味での規制緩和であり得ます。

人の多様性、相違に寛容であることが、「リベラル」の重要な価値観であると考えます。

これに対立する保守との区別が重要です。

この点で、希望の党の標榜する、寛容な中道「保守」という曖昧な位置づけがよく分かりません。そこでいう「保守」とは何でしょう?

日本は保守政権が長く続きすぎました。リベラルな価値観に基づく社会変革が長らく滞っているか、余りに緩慢であります。リベラル政党と保守政党の政権交代により、互いに補完的にこの社会を発展させていく必要があります。