あうんの文化と忖度2017年11月29日 01:42

欧米は契約の文化と言われます。当事者が何を為すべきであるか、何を求められるか、違反した場合の責任について、予め決めておき、それを書面にしておく。

ディズニー映画にも、契約書を交わす場面が出てくることが有ります。リトル・マーメイドでは、ヒロインが魔女と契約して、人間となる代わりに声を失うこと、3日以内に王子の接吻を受けないと再び人魚に戻った上、魔女のものとなることを約束し、それを契約書に規定する場面があります。

児童文学や子供を主たる対象とする映画にさえ、契約書が出てくるのです。口約束ではだめですかね。日本であれば、「契約」などとは言わないでしょう。(道垣内正人『自分で考えるちょっと違った法学入門 第3版』参照)

互いの信頼関係を基礎とするとして、契約という法技術を用いる必要があるか否かという法文化の問題です。日本社会の一般的な感覚としてどうでしょうか。

契約というのはもともと欧米の法律概念です。ただの約束ではなく、契約であれば、法律上の義務として拘束を受け、違反に対しては法律上のサンクションが与えられます。

日本は明治時代に西欧法を継受しました。江戸時代までの日本法と決別して、西欧の法を受け入れ、日本の法律として制定しました。それ以前の法とは断絶しているとするのが通説的見解です。

後発開発途上国として出発した日本が西欧列強に比べ、特に、科学技術に著しい遅れをとり、産業革命を達成した西欧諸国には経済規模も比べものにならなかったのです。

屈辱的な不平等条約を解消するために、明治政府が西欧法に倣った法律を日本でも制定し、列強諸国を安心させる必要がありました。そして西欧諸国の商人達との貿易取引のためには、日本の法が透明であり、彼らの法と近似的であることが前提となりました。例えば契約の概念がないと、その取引の運命について計算可能でないので、国際取引の円滑化が見込めないからです。

そして、第一に彼らに日本が同様の価値観を持っていて、安心できる対等の交渉相手である、取引相手であると思わせる必要がありました。東洋の野蛮な土人(歴史的文脈でこの語を用いています)ではないと信用させないといけなかったのです。

ちなみに、明治時代に鎖国を解いた途端に国際私法が必要となり、やはりこの時期に西欧法に学んで法例という国際私法の法源が制定されたのは印象的です。

取引社会では、西欧的な法制度の下、日本の会社も契約という法制度を活用していると言えるでしょう。

しかし、一般社会の感覚、あるいは通念として、「契約」という言葉が、先述の例のように(児童文学などで)使われるでしょうか。

西欧流の合理的なものの考え方が、日本にそれほど定着しているかは、相当慎重な留保が必要でしょう。

契約条件が双方の当事者に合理的である場合にのみ、契約を締結する。一端、契約が成立したら、当事者は契約に規定された条件に拘束される。契約は当事者間では法として機能します。

ある集団の決定過程において、法があれば、その法に則り、法の規定する条件に従わなければならない。指揮命令系統がある場合、その権限の範囲内にある上司の明確な命令がない限り、行動しない。

そうではなくて、

むしろ、「空気を読む」とか、腹芸とかができないと日本人の中では「浮く」でしょう? 日本的な協調性を重んじる決定方法が重要であり、それを守れない方に問題性があると判断されます。集団行動を維持するためには自分が一歩引き下がるべきであり、他の人々の意見を聞きながら皆同じように行動する「べき」であるとする考え方です。

「あうんの呼吸」で事態をうまく処理するのは日本人には当たり前でしょう。また、上位者や同じ集団に属する他人が、明確に言わなくても、その意向を察して実現してあげなければならない。そんなことぐらいできないと「気が利かない」変な奴にされませんか?

これが忖度ですよね。日本の文化的特徴の一つが「忖度」ではないでしょうか。

また、思っていることをはっきり言うと、角が立つので、やめるべきだとされます。

以上は、グローバル・スタンダードではありません。日本的態度に終始すると、何を考えているか分からない不可解な民族であると思われます。

何でも契約にしてしまうと、角が立つ。謙譲の美徳で相手も同様に考えてくれるはずだからそれまで待っておこう。そんな態度では世界を股に掛ける日本のビジネスマンにはなれませんよね。誰もそんなマネはしません。

地球規模で通用する、すなわちどの国の人も理解できる言葉を身につけて、それを駆使する必要があるでしょう。それが今のところは英語であったり、西欧法の言葉であり、論理です。

翻って、日本国内において、ほぼ単一の民族が法的政治的に支配するこの国の中では、何世紀にもわたって継承されてきた文化的伝統があり、他国から見ると一種独特の文化圏です。グローバル化が進展し、他国の人々との交流を余儀なくされるようになると、日本人特有のものの考え方をひとまず置いて、よりグローバル・スタンダードに則った思考様式を身につけないといけなくなる場面を生じるでしょう。

世界的な貿易立国として成功した日本の、内なる国際化が国際化の第二段階(永遠の?)です。日本国内において、あうんの呼吸を求めたり、忖度を要求することなく、論理的に主張しなければならない必要に迫られることが増えて行くように思われます。本格的な国際化に対して、日本社会の準備は整っているでしょうか?

本格的な「内なる」国際化です。これが必然なら、準備が必要です。内面化された道徳観の変更なり、そのことの自覚的な認識に基づいて、場合分けができる能力を身につけることです。

自己主張の極めて苦手な国民性であるとすると、その克服は、第一に学校教育に委ねられます。あるいは、公共の場における、多文化への接触と、他者を理解できないということへの理解を醸成する機会を増やす努力が要ります。何ごとも当然視しないでいちいち確認をする態度を養い、いろいろの意味で「標識」を社会の隅々に渉り設置する必要があります。

このことは、外国人、他の文化圏出身者にだけ言えることではなく、あらゆる多様性の問題に当てはるでしょう。

なお、このように言うと、西欧的価値観の亡者であると思われるかもしれません。西欧的合理主義と対立する価値観があることは重々承知しています。筆者自身としては相当古風な価値観を持っているかもしれません。

法の問題としても、現代の日本法が日本の社会や文化と無関係に発展した訳ではないこと、

国際法が西欧法の原理を基礎としているものであり、戦前の列強諸国に有利な法原則を用いているという主張が途上国を中心としてあり、途上国に有利な法原則を採用するべきだとする考え方が存在することを注記しておきます。更に、イスラムの法は西欧法とは相容れない部分があります。

すると、量的には、西欧法的価値観に必ずしも支配されない諸国及び人口が随分あることになります。

真の意味で日本の内なる国際化を達成するために、日本の中に、西欧法を土台としつつも、そのプラットフォームを、作ることを目指すべきです。東洋と西欧の十字路である日本にこそ、それができると思いませんか? 東洋にあり、日本文化を背景としながら、西欧法を基本にして、これを独自に発展させ、法文化として世界に通用する普遍性を獲得する。ちょっと照れます。

ところで、

官僚は、弱い一市民のことは杓子定規に扱い、強い相手、権限があるとか、いわゆる声が大きい相手には忖度する。自己に与えられた法律上の権限を柔軟に解釈し、これを駆使することでもありますが、このような忖度を一切法で禁止してみてはどうでしょう。(^O^)