年末に思うこと2017年12月29日 04:24

年末になりました。なんだか色々仕事があって、本業の方の研究も、論文が年明けの締め切りに間に合うかどうか、瀬戸際です(^_^;)
その上、掃除があるし、年末年始の買い物も。玄関用にしめ縄の飾りと、プラスチック製の型に小餅の入った鏡餅を買いました。

クリスマスには、ツリーを飾る習慣が我が家にもありました。西洋では本物の木を使うのでしょうが、日本では、多くの家庭でプラスチックや紙でできたまがい物のツリーで済ませますね。

イブにはケーキに子供のプレゼント。筆者の家では、決まって本を贈られましたが、子供にはさっぱり面白くない、低学年用の勉強の本で、毎年、辟易していたことを思い出します。

年末恒例の年越しそば、正月になると鏡餅、初詣。

節分の豆まき。お盆には墓参りと盆踊り。

最近はバレンタインデーのチョコレートも習慣化したようですね。

今でも、笹の枝に願い事を書いた短冊を飾って、七夕をお祝いしているのでしょうか。

日本人も習俗が好きですよね。しかし、よく言われているように、キリストの誕生日のお祝いやヨーロッパ伝来の神のお祭り、仏教の行事に日本の神道のお祭りと、節操がない。もともとあった宗教的な意味合いなどどうでも良いのでしょうね

このことが悪いことだとは思いません。

子煩悩な父親が子供の喜ぶ顔を見たさにプレゼントを買うのです。ひょっとしたら、日頃ほったらかしの罪滅ぼしかもしれません。また、お盆の集まりや法事は、たまには亡くなった故人を偲び、親戚が一堂に会して宴を催す機会となります。

核家族化の進んだ日本では、盆正月や法事での家族の集まりが、廃れつつあるとも言われていました。実際どうなのかは分かりません。

親戚付き合いが面倒なので、自分の家族だけで旅行した方が楽しいと思えるかもしれません。筆者が子供のころには、正月には、親戚らが祖父の家に集まりました。長子である父の若い頃の子供だったので、メンバーの中でただ一人の子供でした。

「明けましておめでとうございます」

顔を合わせた大人には必ずこれを言う決まりのようなもので、そう言うと、お年玉をもらうことができました。つまり、お年玉をもらうための合図だったのです。

お年玉を独り占めできます。ポチ袋からお金を出して、集計するのが、子供ながらに楽しかったのをよく覚えています。

そして宴会となると、酒好きで陽気な大叔父が、幼い子供に酒を勧めて、周囲にたしなめられていました。親戚中にとても扁壺な子供として知られていた筆者が、随分年の離れた大人たちに混じって、ちょこんと座っていました。

ところで、「お墓参り」の意味を考えたことがありますか?
年寄りがうるさいので、一緒について行ってやるか。あるいはそんなもの年寄りにだけ任せておけばいいや、と。
筆者は、お墓参りを、割とします。年寄りだからではありません。若い頃から、誰に言われなくてもそうしています。都会の土地は高いので、遠い山の中を切り開いて造られた、広大な墓地の一画が筆者の家のお墓です。夏涼しく、冬には寒風吹き荒ぶ。
でも深閑とした山の中のお墓も良いものです。綺麗な空気を吸って、雑草を抜いていると、故人のために、未だに世話をしてあげているような優しい心持ちになれます。父母があり、祖父母があり、そのまた先祖があり、自分が生まれたことを、その都度確認しているように思えます。私という、個の、命の大切さを思うことができるように感じます。

自分の大切な人にも、そう思ってほしい。

自分以外の他の人の命。人類。動物や植物まで、個々の命が愛おしい。急に良い人になれます。

日本の文化や伝統を、どうしても守るという固い信念はないのですが、そんなに簡単に無くなるとは、到底思えないのです。むしろ、ここに住む人々の中に、その意識、無意識の中にさえ、確固とした地歩を持って存在するのではないでしょうか。

以前のブログでは、日本の文化伝統の規制緩和が必要だと主張しました。上のような伝統的な習俗、習慣や、価値観の一切を捨てるべきだといっているのではありません。新しい家族の形がどのようなものであれ、家族として、その国、民族や地域の文化や風習を守ることができるでしょう。家族の形が旧来のものと異なっても良いことと、文化的伝統を破壊することとは別次元の問題です。

例えば、個人の信条や人格として、セクシャル・マイノリティーであることが、伝統的価値や保守的思考様式と相容れないとしても、それだけで排斥されてはならない。そのような自由の領域を確保しながら、新しい価値観と伝統的な家族観が融合し、新しい家族の形が生まれることを妨害しない必要があるでしょう。

このことは、全ての人々が、同じ価値観、新しい価値観を持つべきだというのではありません。異なるものの考え方を、私的な領域に留まる限りは許容するべきだと言うのです。自分とは何らかの点で異なる人が隣にいることを認めるだけで良いのです。

その自由を妨げるような法規制が、多数者には気付かずに、存在します。そういう法規制の緩和が必要だというわけです。

家族という共同体が、妻・母は家を守り、夫・父は外で働き、一家のために稼ぐという、大時代的な考え方も一部にはまだ残されているようです。しかし、女性労働力の活用が、日本の死活問題となってきたので、女性の社会進出を推し進める政策を政府がとっていて、いよいよ夫婦共働きの世帯が増えてきたのです。少子化対策としても、保育所の確保が叫ばれて久しいですね。

選択的夫婦別姓の制度も、もう何十年も議論されていますが、未だに実現されません。夫の姓を名乗りたい夫婦にはそれも可能だというのに。

法律上の婚姻が男女間に限定して許容されているとする考え方は、先進諸国の中では、もう珍しい方になりつつあります。同性婚も、一つの家族の形であり得るのでしょう。

時代とともに、社会の通念も変わり得ます。しかし、「社会通念」を探求するということは、そのときの「社会通念」がいかなるものかを突き止めない限り、胎動する新しい価値は一切認めないとすることです。社会の進展を押し留める方向に作用します。

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