逃げるは恥だが役に立つ2018年01月06日 02:09

明けましておめでとうございます。( ◠‿◠ )

今年もよろしくお願いします。

今年はいぬの年で、干支では戊戌の年だそうです。そこで、副題は、戊戌夜話となるべきでしょうが、読み難いし、語呂が悪いから、丁酉の年から始めたという意味で、そのまま丁酉夜話とします。

人気マンガが原作のテレビ・ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(http://www.tbs.co.jp/NIGEHAJI_tbs/)というのがあり、年始の深夜時間帯にテレビのスイッチを入れるとたまたま放映されていて、つい見てしまいました。星野源が主役の一人で主題歌の「恋」は大ヒットしましたね。サビの部分は、次のような歌詞です。

「距離の中にある鼓動
恋をしたの貴方の
指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ」

筆者もたまに歌いますが、カラオケの定番化したみたいです。

ドラマの方は、時給計算で家事代行サービスを行なっていた(院卒無職の)女性に対して、依頼者の独身男性が「就職という意味で結婚するのはどうですか?」 という提案をします。そうして開始される「契約結婚」がテーマとなっています。そして、主人公達が、周囲には秘密にしながら結婚生活を始めるのです。これだけだと、普通の結婚とどう違うの?という疑問を抱きそうです。

女性にとって、結婚が就職と同列だというのはそんなに抵抗がありますか? 確かに、恐らく最終的な、永久就職ではあるのでしょう。

結婚すると、夫婦になる。つまり、元々は他人だった二人が、夫婦共同体を形成するということです。このドラマでは、キャリアを目指した女性が挫折して、「妻」という身分を得ることになるのですが、むしろ雇用主=夫、従業員=妻という、法的な意味での労働契約を締結しようという発想が奇想天外で面白いのです。

妻の家事労働の対価を時給計算して、夫名義の家の(妻が間借りしている)家賃や経費を差し引いた上で、夫が、残額を給料として支払うというわけです。恋愛を必然とする結婚もあれば、お見合いで気が合えば、むしろお互いの打算から結婚するということもあるかもしれません。

なぜ、結婚が必要なのでしょう?

古い時代といっても、日本でも、その他の先進国でも、ほんの一昔前まで、女性の社会進出は異例のこととされ、男性が「家」の外=社会で仕事に就き、食い扶持を稼ぐものであり、女性は家内労働に従事して生活するものだとされていました。これが社会規範でした。その国の産業や経済的発展の在り方から、最も多くの人がより良く生きていける方法が、規範化ないし制度化されるとも考えられます。

そして、夫婦の共同体が、一対一の人と人との結びつきを前提として成立し、やがて子が産まれると(産まれない場合もあるでしょうが)、この一つの「家族」が社会に存在する共同体の最小の単位となります。それが親兄弟の集まりから、親族共同体を形成する場合もあれば、個々の核家族の集合体である場合もあるでしょう。その全体集合がその社会=国の共同体です。

夫婦→家族(子の誕生)が必然化されるのは、その社会における人類としての「種」の保存本能を基底として、無意識化に社会規範とされるからかもしれません。現在の日本では、経済発展のおかげで、かつてのように人々が食うに困るということが例外的なこととなり、女性の社会進出も進みました。女性は、専業的に家事労働に従事しなくても、食っていけるのです。そして、一般的に個人の選択の自由が重視されるようになると、上述の社会規範の規範意識も希薄になってきました。

それにしても、今でもそのような社会規範に縛られるという側面もあるのあかもしれません。女性にだけ、「お局様」や「行き遅れ」、「出戻り」などのレッテルを貼って蔑む傾向が根強く残る場面もありそうではあります。男の方にも、適齢期を過ぎてくると、親族などの所属集団内で、「結婚はまだか」コールが煩く聞こえてくる
こともあるようです。結婚すると、今度は「子供はまだか」コールでしょう。

しかし、生涯に一度も結婚を経験しない人がますます増加しているという、政府統計を始めとして、各種統計がよく話題になっています。「おひとりさま」という言葉が流行しましたよね。日本の少子高齢化の元凶の一つとも言われます。

現在の日本社会において、結婚の意味を問い直す必要に迫られているようにも思います。自由な二個の独立した人格が共同生活を営む。この社会は、たった一人で生き抜くことが、それほど厳しい。そういうことかもしれません。

前述のテレビ・ドラマに話を戻します。筆者が違和感を覚えたのは、夫=雇用主、妻=従業員という固定した関係の契約を締結して、それを結婚契約と呼んでいる点です。これでは、明治時代から、第二次世界大戦の終戦を経て、昭和の時代にかけて存在した古臭い「家」の観念と同じではないですか。もっとも、ドラマでは、妻が、合理的な家事労働の対価を要求するのであるし、夫も粛々とこれに応え、現代的な「契約」として説明するので、家の観念とは意味が異なります。

結婚というのは、法的には、婚姻という法律行為を、二人の合意に従って締結するということです。単なる同棲とは異なり、婚姻届を出した以上、つまり婚姻を締結した以上、その共同体の構成員には、法律上、夫婦としての一定の権利義務が発生します。個人の次に、社会の最小の構成要素として、様々な法律関係が、その基礎の上に築き上げられて行きます。

その内の一つとして、夫婦の財産関係を取り上げてみます。比較法的には、夫婦財産の共有制と別産制の違いがあります。日本法は別産制を基本とします。つまり、夫名義の財産は夫の所有物であり、妻名義のそれは妻の所有に帰するという考え方です。

しかし、これでは、夫が稼いで来て、妻が家を守る式の、従来型の家族の場合、妻は、その間の家事労働や精神的な支援を行なったにしても、何の評価もされません。そこで、離婚となると、こういう「内助の功」を金銭的に計算して財産分与がなされます。夫から、その名義にかかる財産であっても、その分の金銭なり財産を拠出させる仕組みです。その他、離婚に責任のある配偶者が慰謝料を支払う義務がある場合があります。慰謝料の負担が相当大きいこともあるでしょう。また、子供の養育費の負担があります。

弁護士が何で稼いでいるか? 離婚、相続、相隣関係が何と言っても一番なんです。離婚は、とかくもめる。財産関係も大変な争いとなることが普通です。

他方、夫婦財産共有制は、結婚後取得した全ての財産が、原則として、いずれの名義であれ夫婦の共有物とされるという仕組みです。そこで、離婚時には、この共有財産を金銭的に評価して、真っ二つにします。フランス法がこの立場を取っています。フランス法を継受したカリフォルニア州の法もそうです。

フランスでは、男女平等原則が共和国の根本理念とされ、最も重要な基本原則の一つです。フランスに住むイスラム移民との価値観の極めて深刻な相違が此処から生じます。イスラム教のコーランの教えでは、一夫多妻制が正当化されており、女性の社会進出にも懐疑的であり、女性が公衆の面前で肌や髪の毛を晒すことを忌み嫌います。そこで、公的な教育機関の体育の授業を、イスラム教徒の女生徒が拒否することが社会問題となり、また、女性がニカブやブルカを公共の場で着用することを禁止することを法制化することが行われました。女性蔑視の象徴であるとされました。

フランスにおける、夫婦財産共有制の由来がどこから来るのか。面白そうでしょう?

想像にすぎませんが、フランス革命では、女性が男に負けず活躍して、血を流したことが、男女平等原則を重視する理由の一つだとしたらどうでしょう。

現在の日本の法とは異なりますが、日本でも、次のような考え方があり得るように思います。

夫婦財産共有制を前提とします。何にも言わないで結婚すると、その後に取得した財産は、全て夫婦の共有物となります。名義のいかんに関わりません。夫名義の銀行預金であれ、不動産であれ、全てです。夫が稼ぎ、妻が家を守る式の家族であれば、前述したドラマ、「逃げるは・・」の問題は、そもそもこれで解決されるのではありませんか?

各人の労働の対価の厳密な金銭評価をしなくても、全ての財産が夫婦が共同して稼いだ代物だから・・と。どちらかが、その役割を放棄していたら、その財産は無かったのだと考えれば済むようにも思えます。

ひょっとすると、専業主婦の役割の評価がまだ低いのかもしれません。妻=従業員なんでしょうか?夫婦共同体の対等の構成員であり、夫とは別個の人格の持ち主です。夫婦が各々の役割を担い目標に向かって協働することで、この共同体が成り立ちます。

女性がこのことを自覚することも重要でしょうが、男性は一般的にこのことを前提しないのかもしれません。これが熟年離婚を引き起こす、原因の一つではないでしょうか。

夫が定年間近かになって、突然、妻から離婚を切り出される。
夫は必死になって、仕事に明け暮れて、それもみんな妻や子供のためじゃないか、と思っている。妻は、夫はなんにも分かっていないと言う。

他方で、夫婦共稼ぎの現代型夫婦であるならば、夫婦財産契約を結ぶのです。現在の日本の法にもその制度はあるのですが、実際はあまり利用されないようです。しかし、このブログでの前提は夫婦財産共有制です。夫婦共稼ぎであれば、どちらの蓄財が成功するか分かりません。各人の名義の個別財産と、共有財産を分けて管理する訳です。それを予め契約書で規定しておくんです。随時これを契約できるし、また、変更できるように、利用しやすい制度にすれば良いでしょう。

まとめると、夫婦財産については、共有制を原則として、従来型の夫婦における専業主婦の財産的地位を引き上げること。そして、共稼ぎの夫婦の場合には、別途の、利用しやすい契約の余地を認めること。そのいずれも自由に選択できるようにするのです。

もっとも、世界には、別産制の国も共有制の国もあります。イギリスは別産制ですし、アメリカの中でも、ニューヨーク州は別産制です。どちらにも一長一短があります。このブログでは、日本における専業主婦という身分について、もっとよく考えてみようという趣旨で取り上げました。

「距離の中にある鼓動
恋をしたの貴方の
指の混ざり 頬の香り
夫婦を超えてゆけ
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ」

THE END

ハナミズキ2018年01月12日 01:22

ハナミズキという樹木がありますね。

5月ごろに、白色や薄ピンクの花をつけて、街路樹にもよく使われます。

「日本における植栽は、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼として贈られたのが始まり」だそうです。(ウィキペディアより)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%82%AD

その後、太平洋戦争が起きて、日米が敵国となり、壮絶な殺し合いとなりました。どちらの国にも多大な犠牲を生じました。

日本よりアメリカに桜が送られたエピソードは有名です。アメリカの首都ワシントンのポトマック河岸は、全米で著名な桜の名所となっています。

ハナミズキがその返礼であったということは、日本人にあまり知られていないようです。筆者も寡聞にして知りませんでした。

待ち遠しい暖かな春を、沈丁花の香りと木蓮の可憐な花が連れて来てくれます。その後、桜が散ると、ハナミズキの季節です。

晩春から初夏にかけて、とても心地よい風の中に、地味なハナミズキの花が咲きます。自己主張の少ないこの花が昔から好きでした。

一青窈のハナミズキという歌が有ります。男性から親しい人に向けて送られる花の歌です。

サビの部分です。

「ひらり蝶々を
 追いかけて白い帆を揚げて
 母の日になれば
 ミズキの葉、贈って下さい
 待たなくてもいいよ
 知らなくてもいいよ

 薄紅色の可愛い君のね
 果てない夢がちゃんと
 終わりますように
 君と好きな人が
 百年続きますように

僕の我慢がいつか実を結び
 果てない波がちゃんと
 止まりますように
 君と好きな人が
 百年続きますように」

以外に知られていない、ハナミズキの歌詞の意味まとめ。
https://matome.naver.jp/odai/2140316640183955001

筆者もよく歌います。披露宴の定番のようです。片思いの男性が好きな女性への純愛を歌い上げているのだと思っていました。

実は、9.11テロのことを知って、一青窈が、涙を流しながら書き上げた歌だったそうです。筆者も同様の経験をしました。

詩というものは、読み手の好きなように解釈して構わないものです。テロで亡くなった夫、父、恋人が、天国から、地上のかけがえのない人に送った歌なんですね。遺体さえ見つからない。遺族は、せめて遺体だけでも探し出して、弔いたい。自分の身体のすぐそばに置いておきたいと、心からそう願ったでしょう。

「待たなくてもいいよ、知らなくてもいいよ。君と好きな人が百年続きますように」。

口ずさみながら、思わず涙ぐみました。

ところで、一青窈は、台湾人の父と日本人の母の間の子供です。幼くして父を亡くし、亡き父親に会いたいと思ったことがあったそうです。

アメリカによるイスラムへの攻撃と、その反撃としてのテロ。怨嗟と力による報復の連鎖があります。この連鎖を断ち切るにはどうすれば良いのでしょう。

国境の壁が、人々の交流を阻み、国境の壁で取り囲まれた領域の中で、ナショナリズムが高揚すると、もう自分の国のことしか考えられなくなって、他の国の人はどうなっても良い、「殺しても良い」!!!というふうに考えるのでしょう?

私は血が嫌いだ
他人の血をみることが嫌いだ
血をみると たまらなく胸くそが悪くなる。
血が嫌いだから
戦争が嫌だ
世界中の戦争が嫌だ
この世の中から戦争が無くなれば良い
もしも
もしも
この国で戦争が始まりそうになったら
何が何でも
戦争は嫌だ
喉から血を流しても
そう叫びたい

赤ワインをグラスで二杯飲んで、酔っています。
テロで亡くなった人の気持ちを考えると
泣き出しそうになります。

池田小事件のことと・・・2018年01月19日 23:03

小学校の校庭を見下ろすヘリコプターの映像が、突然テレビで放映されました。どこかの新聞社か?のヘリコプターが旋回している様子も映っています。初夏の小学校のグランドの上を、沢山の児童たちが列を作って走っています。グランドの真ん中あたりに集合しているようでした。グランドの土埃のなか、沢山の児童が制服を着て走っているので、運動会の練習なんだろうか。それにしては何か変だ。緊迫感が漂っていました。

「何か事件が、重大な事件が起きた模様です」。

いつもの番組が上述の放映に突然切り替わったのです。

大阪教育大学附属池田小学校事件というは、2001年6月8日に起きた、無差別殺人事件です。覚えておられる方も多いでしょう。

元用務員の、宅間守、元死刑囚が小学2年生と1年生の多くの児童を殺傷しました。8人の児童が亡くなり、15人が重軽傷を負った事件です。2004年9月14日に死刑が執行されました。

教室の中で、授業時間中に、先生を待っている子供たち。37才の男が、2年生と1年生の教室に入って、子供たちが椅子に座っているところを背後から、次々に出刃包丁で刺していったのです。

小さな机に、小さな椅子。お行儀よく座っていたのでしょう。

一昨年、事件から15年目の追悼式典が同小学校で催されました。そのころ、NHKで放送されたドキュメンタリー番組があります。
15年目の丁度同じ日、6月8日の放映でした。
クローズアップ現代+「傷ついても、きっと歩きだせる〜附属池田小事件15年目の“子供たち”〜」です。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3818/1.html

事件の概要も上のページで知ることができます。同じ教室で重傷を負わされた児童、助かった子供たち、幼なじみを亡くした子、成人した5人が記憶を語っています。

ある女性は、当時2年生でした。じっと教卓の下で隠れていた。

「隣の教室から聞こえてくる声」や「音」を覚えている、と述べています。

また、重傷を負った我が子から、

「今日、私死んでしまうの?」

と問いかけられた母親は、その手記で、あんな幼い子供にそんなことを言わせせてしまったと、ずいぶん後悔したと云います。

6つ7つの子どもだから、まだ何も分からないだろう、直ぐ忘れてくれるだろうと、思っていました。しかし、その辛い記憶を決して忘れることができないそうです。その経験が各人の心の傷となっているのです。

岡江昇著『宅間守 精神鑑定書――精神医療と刑事司法のはざまで』

元死刑囚を精神鑑定した医師が、裁判所に提出した鑑定書をまとめたものです。このような人格の人間が、この社会には存在し得るのだということを広く知らしめること望んで、その医師が出版したそうです。
報道スクープSP 激動! 世紀の大事件 「悪の快楽」という番組で(番組名は少し曖昧です)、ある精神科医が述べていたのですが、宅間守は、「人間らしさ」を司る脳の部分に傷害があった可能性があるというのです。

筆者は、この事件のことが頭を離れません。事件直後のニュース番組です。夕方6時過ぎの番組でした。

亡くなった小学1年生の男児のことを取り上げていました。殺傷された多くが2年生の女児だったので、男児というのが珍しかった。

亡くなった子が小学校に上がる直前に、庭で、お父さんとキャッチ・ボールをしているビデオ・テープでした。まだ幼い子は、にこりともせずに、ボールを拾うとお父さんの方に投げてよこす。この子を真正面に写して、父親の声だけが聞こえていました。とてもうれしそうで、弾むような声を子どもにかけながら、ビデオに、子どもの様子を収めているようです。子が、本当ににこりともせずに、懸命に何度もボールを投げていました。真面目そうな、かわいい子どもでした。

受験のある小学校ですね。その学校に入れてあげて、大喜びの父親が、大事な子どものビデオを撮っているのです。事件が6月ですから、ビデオを撮った直ぐ後の出来事だったでしょう。

父親から、どうしても放映して欲しいと頼まれたのだと、アナウンサーが言っていました。筆者は、その画面から目を逸らすことができなくなりました。食い入るように見ていました。

話が変わりますが、シリア難民のことを以前、このブログで取り上げたことがあります。

次の記事はニューズウィーク日本版のホーム・ページに出ています。昨年の4月の記事です。
「シリアの子供たちは、何度化学兵器で殺されるのか」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/post-7338.php

化学兵器の使用があったと考えられています。多くの民間人が犠牲になり、その中には子供も多数含まれているようです。

今、現在。この時間に、ベッドの下に隠れて、家の外で聞こえる銃声に怯え、爆撃の轟音の中で、耳を塞ぎながら、その音の過ぎ去るのをじっと待っている子供たちが、世界中にいるのです。

人が人を殺す行為。戦争は多くの人の命を一瞬のうちに奪います。
どんな兵器を使っても同じでしょう。核兵器でも、化学兵器でも、何でも良い。
殺す相手は、子供でも。
私たちは、人間らしさを、どうして失ってしまうのでしょうか?

さて、日経新聞2018年1月19日朝刊に、同社コメンテーターの和田浩之氏のオピニオンが掲載されています。

「米国は北朝鮮を攻めるか」という表題です。

平昌冬季五輪が終わると、危機が再び高まるという予想です。軍事圧力を用いた北の核に対する抑止策を取るか、先制攻撃を辞さない方法を選ぶか。先制攻撃をめぐる賛否がほぼ五分五分だとしています。

米国が北朝鮮を殲滅するのに要する時間と、北が日本や韓国に攻撃を加えるのに要する時間と、どちらが早いかが焦点となりそうです。そのような計算がなされつつあるということです。

米国は、北朝鮮をどのような兵器を使って攻撃するのでしょうね。米国は、日本の防衛のために、どんな兵器を使ってくれるのでしょう。
韓国内に生じる犠牲者の数はどれほどでしょう。日本は?

このような犠牲の数と、米国の利益の考量がなされるでしょう。

ところで、トランプ大統領は、アメリカ・ファーストですよね(^_-)

クローン猿だ!2018年01月26日 03:26

中国科学院がクローン猿を造った!という報道がありました。テレビ・ニュースでも、カニクイザルの赤ちゃんの映像が放映されていましたね。個体差のない二匹のサルの赤ちゃんでした。

例えば、次の日経新聞記事にも出ています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26084340U8A120C1CR8000/

類人猿でクローンを造ったのは、世界で初めてだそうです。今までに、クローン羊やクローン牛の成功というニュースは耳にしたことがありました。クローン羊のドリーは、衝撃的でした。

クローンサルを造るため、大量のサルが必要だそうです。換言すれば、それだけのサルが殺されたということです。TBS系のニュースによると、日本では動物愛護の観点から問題視されており、そのような実験が行われていないといいます。

同じ番組で放映された記者会見で、中国の技術者が、ヒトクローンは決して造ることがないと強調していました。

クローン人間を造ることが技術的には可能であると、その技術者も言っていました。日本の生殖補助医療、特に、ips 細胞や es 細胞の研究の発達は顕著であり、異なる技術であっても、日本でもヒトクローンの創造が可能であることは当然でしょう。

ところで、「フランケン・シュタイン」は人造人間です。小説から、数多くの映画やドラマになりました。死体を、雷の強力な電力で蘇らせるというものです。

ヒトクローンは死体を蘇らせるのではなく、あるヒトの細胞から元のヒトと同じ個体を造りだすというものです。例えば、子供を不慮の事故で亡くした親が、もう一度、その子供を抱きしめたい。そのために、亡き子の細胞から、その子供を再現することができるかもしれません。

単性の一個の生殖細胞から、全く同じ遺伝情報を持つ生殖細胞を造り出し、これが母胎内で分裂すれば良いのです。

2005年米映画「アイランド」があります。ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンが主演しました。クローン人間の製造工場を描くSF映画です。リンカーン・6・エコー は、トム・リンカーンの、ジョーダン・2・デルタはサラ・ジョーダンのクローン人間です。依頼主が大金と引き換えに、クローン人間を作らせて、自分に事故や病気があったときに、損傷を受けた臓器や器官をクローン人間のもの取り替えるのです。臓器や器官を取り出した後のクローン人間は死を迎えます。クローン人間が家畜のように扱われています。

日本を始め多くの国で、ヒトクローンの研究が規制されています。クローン人間の創造を禁止するのです。

ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律(以下、クローン人間禁止法)
(平成十二年法律第百四十六号)
http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=412AC0000000146&openerCode=1

同法第三条 何人も、人クローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚又はヒト性集合胚を人又は動物の胎内に移植してはならない。

禁止に違反すると、刑事罰に処せられます。

ヒトの卵子を受精させると、胚になります。これが子宮内に着床すると胎盤を形成し、胎児となります。胎児は女性のお腹の中で、やがて赤ちゃんとして誕生する、人として誕生する以前の状態です。

法的には、出産と同時に、胎児が人となり、法的権利を享受することのできる主体となります。また、この後、その人の命を奪うと刑法上の殺人罪に当たりますが、胎児のときには、堕胎により、殺人罪に問われることはありません。しかし、堕胎罪に該当する場合があります。また、人として誕生した場合に、胎児のときに遡り相続権が与えられます。母親のお腹の中にいるときに、父親が死亡した場合、その子が誕生したら、父の財産相続ができるということです。

このように、やがて人となる胎児にも一定の法的な保護が与えられています。それでは胚はどうでしょう。試験管内で受精卵を造り出すことができます。これを母体内に移植することが不妊治療においてよく行われています。母体に移植する以前の状態が胚です。

胚も、人に繋がる、命の萌芽として尊重しなければならないとする考え方があります。人間の尊厳を守る必要があるからです。

クローン人間禁止法は、ヒトクローン胚(不妊治療の前提となるような男女間の受精卵ではない)を女性や動物の胎内に移植することを禁止しています。わが国社会の「生命倫理」を、法が体現し、科学技術の進展を規制しているのです。

クローン人間禁止法!

そもそもどれほど多くの国民がその法の存在を知っているのでしょうか。

短期間に、政党間の合意に基づき、党議拘束の下で可決されました。元々の法案が、政府の専門委員会や審議会での議論を踏まえたものですが、その構成メンバーは、医学研究者、法学者、その他の識者でした。
田村 充代「クローン人間禁止法の政治過程 : 生命倫理問題の決定の選択肢を探る」 Cinii 論文オープンアクセス
https://ci.nii.ac.jp/naid/110004632020/

多くの国民の関心を引かず、政府により任命された「専門家」により検討された後に、国会議員のおざなりの議論を経て、制定されたわけです。

このような法律は結構あります。クローン人間禁止法もそうだと言えます。新聞に記事が掲載されて、ああそういう法律ができたんだなと、お上の言うことに間違いがないと、ただそう思うのでしょうか。

生殖補助医療やゲノム解析、臓器移植のための ips 細胞等の研究は、人類に明るい未来をもたらす可能性を秘めており、同時に、ビジネスとしても成立し、このような科学技術の発展した国家に多大な利益をもたらすでしょう。人間の命、尊厳のために、新しい科学技術が貢献すると同時に、功利主義的な計算が存在し、「国」という「会社」が利潤追求に走ると、後者の暴走が止まらなくなるかもしれません。

これを食い止める生命倫理とは何でしょうか?

一万人の命を救えるなら、一人が犠牲になっても良い。仮に、答えが肯であるとすると、一千人に一人なら、更に、百人に一人ならどうでしょう。致死率の高い感染病予防のために、重篤な副作用があるワクチンが開発されたとして、現実的な問題が生起する可能性があります。

その程度の犠牲は、科学技術の進歩のためにはやむを得ないという考え方と、一人の命こそ大切であるという考え方が対立します。何人生きることができるなら、その犠牲が正当化されるのか。これを決めるものが生命倫理だとすると、時代や国により、また、扱われる問題によって、異なるとしか言えません。

上の論文によると、クローン研究に関するカトリックの態度は明確です。カトリック教国であるフランスの法的態度が厳格なのは、そのせいかも知れません。宗教的な規範が問題であるなら、その宗教を信仰しない多数の人々にとって、あまり意味がありません。アメリカやイギリスの立場からは、より功利主義的なアプローチが取られているようです。容認されるべきだとする社会的合意の無い部分を禁止して、それ以外は許容することで、科学技術の発展に寛容です。日本法の立場でもあります。

日本でも、法律を作るとき、法を解釈する際に、社会通念ないし社会的合意を基準にします。国会や裁判所が、日本における社会的合意の在り処を測るために、政府委員会の結論や医師会などの専門家集団の議論に依拠しています。

ここで言いたい事は、その「法」に関する問題について、政府が分かり易い形で国民に情報提供し周知した上で、積極的に議論を誘発しているか、ということです。官公庁でも、最近は図版入りのパンフレットやインターネットを通じた方法によることがあり、分かり易いと言えばそう言えるものもあります。また、公聴に付する手続があると、官僚や政治家は胸を張っていうかもしれません。しかしこれすら、おざなりで、形式的です。どんな意見を一個人や団体が述べても、結局、政府方針のままに決定されるのが常態ではありませんか。

批判をいかにかわして、政府案を通過させることが、担当官の手腕とされているとすら思えます。

そこでは、一部専門家などの、高齢かも知れない、お偉いさん方の、ひょっとしたら日本的決定過程を経た多数決が、社会的「合意」として擬制されてはいないか、ということです。

全国民的議論が、先のような問題についても必要でありませんか?

お上に従順な国民性なんでしょうか。国民の側も、どのようなことにも問題意識を持って、社会的な運動にまで発展するかも知れない大きな議論の渦を引き起こす態度、そういう自覚が必要ではありませんか?

次回も、生殖補助医療と社会的合意の問題を扱います。