木蓮のつぼみ2018年02月03日 16:49

生殖医療の問題について取り上げるのは、次回に延期します。(^∧^)

毎日、毎日、寒いですね。雪はどうですか?
筆者の住居のある辺りはほとんど雪がふりません。先日、めずらしく、ちらほら降りました。溶け残った雪をかき集めて作った泥だらけの雪だるまが、駐車場の隅で溶けかけた首をかしげていました。

以前のブログで「相田みつを美術館」のことを述べました。ちょうど2月頃の木蓮をうたった詩があります。美術館で、この書を展示していました。次の様な詩です。


「裸の木蓮」

「いま庭の木蓮は裸です
 枯葉一枚枝に残しておりません
 余分なものはみんな落として
 完全な裸です

   しかしよく見ると
   それぞれの枝の先に
   固い蕾(つぼみ)を一ツづつ
   持っています

 つまり木蓮にとって
 一番大事なもの
 ただ一ツをしっかり と
 守りながら

冬の天を仰いで
キゼンと立っています
 キゼンということばを
 独占したかのように
   裸の木蓮は
 寒風の中に
 ただ黙って立っています

   みつを  」


書では、一つ一つの段落がつぼみの形にみえます。墨の濃淡と造形で詩を表現しています。皆さんも、機会があれば見に行って下さい。東京駅の直ぐそばです。

筆者は、木蓮が好きです。淡い黄みどり色の中心から、やわらかな厚紙のような白い花弁が、「もくれん」という言葉にふさわしい花です。

暖かな風を連れて来る冷たい雨の後の晴れ間に、沈丁花が香ります。歩いていると、不意に良い香。どこにあるのか思わず周囲を見回して、花の在処を探します。沈丁花が香ると、いよいよ暖かな春の到来です。

間もなく、木蓮が咲きます。待ちに待った木蓮です。白色の、濃い紫の。
ほんとうに木蓮が待ち遠しい。


1、酒鬼薔薇聖斗

ここから、本題です。

神戸連続児童殺傷事件を覚えていますか?

酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る犯人が、小学生を通り魔的に殺傷したあの事件です。特に、特殊学級に通う小学6年生の子供の命を奪い、頭部を切り落として、中学校の正門前に置いていたことで、社会を震撼させました。その犯人は、少年Aと呼ばれた14才の中学生でした。

当時、新聞、雑誌、テレビの取材合戦が起きて、様々な報道がありました。

その中で、被害者加害者双方の当事者からの手記が公表されています。

被害者の父親の書いた手記です。
『淳』 (新潮文庫) ・土師 守 (著)

あどけない少年の様子が表紙に載っています。残忍な犯行に対して憎悪を掻き立てます。

その日、いつもと変わらない様子で家を出た子は知的障害のある子でした。家族がどんなに大切にして、愛おしんでいたか。

元少年Aは少年院を退院した後、『絶歌』(太田出版)という手記を発表しています(2015年)。

加害少年の父母の手記も刊行されました。『少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記』 (文春文庫)

少年院で、加害少年の矯正に取り組んだ元法務教官の記録も公刊されています。

多分に信憑性に欠けるところもありますが、ネットの情報によると、少年院を退院後、四国に居住していたことがあるそうです。

事件直後に、加害少年は実名や写真のほか、刑事事件における供述調書の内容を雑誌に公開されました。今現在に至るまで、居住地や最近の雑誌社の取材の様子など多くの情報が、虚偽のものを含めてネット上に掲載されています。

成人した加害者が日本の社会でどのように暮らしていけるのでしょうか。名前を変えたり、もしかすると整形しないといけないかもしれませんね。

2,刑罰の目的と国家による社会の管理

犯罪を犯すと、刑罰や処分が下されます。犯罪者(非行少年)の矯正や更生がその目的であると考えるのが、わが国の刑法学上の多数説です。教育刑という考え方です。

もっとも被害者側の報復感情に答えるという側面や、そのような犯罪に対しては罰を与えるべきであるという因果応報に対する社会心理も関係するように思えます。

犯罪加害者に対する人権の尊重と、これにより現代的な刑罰観が確立される前は、社会には残虐な刑罰が存在しました。公衆の面前での斬首はフランス革命の史実として有名です。江戸時代の日本では磔獄門(晒し首)が通常の刑罰の方法でした。被害者が犯罪者の最期を見ることでその報復感情に答えることができるし、公衆がこれを見物することは、社会一般の犯罪抑止のための見せしめとなります。

また、応報の観念に即することで、何をすれば、どうなるかの過程を知ることができ、社会的ルールを確認することができます。結果として社会的安心に通じるかもしれません。

公衆が死刑を「見物」できることは、古来より一般的でした。残虐な暴力が死を招く瞬間を見ることが、多くの人々の、感興の的であったのではないでしょうか。そのようないわば行事が定期的に催されることで、その社会の暴力を総体的に抑制できると考えられたのでしょう。その意味では、祭りが、その地域社会すなわち共同体の結束の証しであり、許された「けんか」として、暴力の発露が一定のルールの下に認められるのと似ています。

現在でも、例えばアメリカの州の中には、死刑を公開しているところが多いです。電気椅子や薬殺の場面が、近隣地域の住民に一般公開されます。被害者や住民の前で、死刑が執行されるのですが、これがその地域社会の伝統なのです。その目的はやはり、被害感情への応答や悪者の最期を見届ける住民の意思が考えられます。

人類は、動物として、その遺伝情報に暴力的因子を持っているのです。この発動を適度に押さえない限り、人類社会の存立が危機に曝されます。

弱肉強食の動物としての群れが、類人猿の集落を経て、一定の規範を備えた人類社会へと「進化」するとして、その共同体におけるルールは、動物としての一定の規則性から、集落の慣習や宗教的(神事としての)規範が生まれ、やがて法としての規範に至ります。どの段階から「法」と呼び得るかには議論がありますが、書かれた法か不文の法かは別として、ある段階からは原初的な法的ルールとなることに疑いがありません。そのルールは、社会経済的には、その共同体において、最大多数の個体を維持できるために考案されたと言えるでしょう。規範の存在が社会的安心に通じる仕組みが我々の社会の深層に存在するのです。


『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)という1972年公開の米国映画があります。近未来を描くSF映画です。

残虐な暴力行為を繰り返す非行集団のリーダーが、刑務所で矯正措置を受けます。映像による暗示と生理的拒絶という「最新の科学的方法」により、暴力行為に対して拒否反応を引を起こすように改造されるのです。その過程は、身体的な手術を伴わないけれど、まるでロボトミー手術のようにも見えます。この方法で全ての犯罪者を矯正することができれば、犯罪を防止し、社会を安全にするというわけです。

他方、キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』という映画があります。前半は、ベトナム戦争のために徴兵された若者が、米国軍隊のキャンプで殺人兵器に改造される様子を描いています。米国内の駐留地で改造が施された兵士達が、ベトナムに送り込まれるのです。

キューブリック監督の映画では、いずれの改造もある意味では失敗に終わります。

何を犯罪にするのか、どんな刑罰を与えるのが相応か。教育刑としても、報復感情や因果応報の理に訴えるとしても、いずれにしても国家が社会を統制したり、管理することに関係します。キューブリックの映画は、このような社会統制や社会管理に国家制度が関わることを如実に描き出しているようです。

3,日本人のランク付け

最近よく「東大生の・・・」というテレビ番組や書籍を見かけるようになりました。その出身者である研究者が研究の粋を公表するというものではなくて、現役東大生である若者が出てくるものです。東大生は「頭が良い」から、そのような若者の凄いところを見るのが、大衆の感興の的なんでしょうかね。

以前、東京大出身のある学者に聞いたことなんですが、東大入学式で、法学部出身の総長が次の様な祝辞を述べたそうです。君たちは、日本を引っ張ることになっているのだから、しっかり頑張って、日本のために働きなさい、という趣旨の祝辞です。東大以外にほぼ人が居ないというほどの強いエリート意識を持ったその集団は、実際に、勤勉であり、人によると血を吐くほどの努力家でもあります。

もっとも東大以外にも、京都大学にも多かれ少なかれそのような側面があるのでしょう。

一部の能力のある者が大衆を先導し、社会運営に当たり、社会の発展に寄与するべきだというのが、エリート主義です。われわれは、これに慣れてしまっているのでしょうか。

日本人は偏差値によるランク付けをほとんど大前提にしているようです。思春期の大部分を偏差値と格闘して、漸く大学に入学すると、多くの学生が勉学を放棄するというのが、大学教員としての日常的経験です。多くの場合に、高校入試で偏差値の洗礼を受け、そのランク付けを当然視しながら、それ以降は、このランクの枠を意識して、具体的には偏差値の5ポイント単位の変動を目指しながら勉強をします。公立学校の教育には飽き足らず、終業後に塾通いするのが通常でしょう。

ランク付けは勉学だけではなく、スポーツでは一層当たり前です。全国的な運動テストにる能力比較がなされます。例えば、市域の大会から始まって、各都道府県大会、更に大きな地域大会から全国大会へと、子供達の中から選抜されて行きます。このような組織的なスポーツ大会も、国の政策の下で遂行されます。スポーツの振興に伴い、国民の世界大会での活躍がその国の国力を示すかのような、国威発揚の宣伝にも用いられます。

小学生や中学生の大会で優秀な成績を上げると、中学あるいは高校のスポーツ推薦入学、その後は大学へと続きます。入学金や学費は免除、全寮制で生活費の心配も無く、スポーツの鍛練に集中することができます。そのスポーツ部を退部しない限り、一銭もかからないのです。その後、プロ選手になる一部の者を除くと、大卒資格を得て社会人となります。スポーツ・エリートです。

余談ですが、ナチスドイツでは、オリンピックで活躍できるような優秀なスポーツ選手が民族主義的な宣伝に使われました。ゲルマン民族の優秀性を示すものとされました。

話を元に戻すと、勉学にしても、スポーツにしても、人の能力の数値化がここでのキーワードです。全国的な試験に基づく偏差値による全日本人のランク付け、速度や採点による数値化によるランク付けが、人の「階級」を決めます。その若者の将来を決定するものが、それらの数字です。

幼い知的、精神的能力のままに、このシステムに気づいてしまった者が、そびえ立つ岸壁の前に唖然として立ち止まってしまうことは無いでしょうか。幸いにして、多くの人がシステムの中にあって、このランク付けのシステムを内面化しているので、辛うじて正気を保つことができます。無意識裡に、自覚的理解の能力もなく、これに気づき、その岸壁をよじ登るなんてとても不可能だと、全ての希望を失ってしまうかもしれません。実際は、知らず知らず登らされて行くので、そんなに心配はいらないとしてもです。

4,再び、少年A

驚くような非行に陥る未成年者が、家庭や学校では大人しい良い子であったということが間々あります。親や教師の面前では、気に入られるような態度を身につけているけれど、内面的には病的な問題を抱えていることが有り得ます。少年Aも、その両親には、後に非行に繋がるような精神的な問題点を感じさせなかったのかもしれません。

当時の新聞記事を今でも覚えています。少年Aが、登校した振りをして自宅を出た後、児童公園のいつものベンチに腰掛けて、誰も居ない広場や遊具を見て過ごしていたというものです。

13,4才の少年が学校の集団生活から逃避して、たった1人で、公園にたたずんでいるのです。誰も居ない砂場、座る者のないブランコが微かに揺れ、湿ったグランドに陽が当たり、そこに雀ぐらいは遊んでいるかもしれません。何時間も、ぼんやりとそのような風景を見ていたのでしょう。

なんという孤独でしょうか!その切なさが胸に迫りました。

そんな事件を起こしてしまうなんて。大切な人の命を奪うなんて。

同時に、淳君のお父さんの慟哭が!

私たちは、どちらの子供も救うことができないのですね。

2月の寒風にさらされている木蓮の堅いつぼみを。

代理母と社会的合意12018年02月10日 02:28

今日は、近くのタイ料理専門店でトムヤムクンとエビすり身の揚げ物を食べてきました。この辺りでは古くからある有名店ですが、そんなに高くなくて、美味いです。シェフがタイ人です。

生殖補助医療と社会的合意について、二回目です。

1、代理母

日本生殖医学会のホームページには、一般の人向けに、生殖補助医療の種類が説明されていますし、学会としての声明・ガイドラインが掲載されています。
http://www.jsrm.or.jp/index.html

試験官内で卵子を受精させた受精卵を母胎内に移植する不妊治療は一般的に行われていますが、更に、夫婦である男女間の卵子および精子による受精卵を用いる場合、夫婦の片方のみの卵子または精子と、他人の精子または卵子を受精させた受精卵を、妻たる女性に移植する場合、両親となる男女または母または父となるべき男女の卵子と精子による受精卵を、その男女とは無関係の他人に移植する場合などが考えられます。この最後の場合が代理母による方法です。また、借り腹と言われたりします。

今回の題材は代理母です。

健康な女性に頼んで、体外受精した受精卵によって、子供を産んでもらう方法で、法律上禁じられていません。前々回に述べたように、クローン胚の子宮への移植のみが法律で禁止されており、代理母の方法は、日本産科婦人科学会の会告によって禁じられているだけです。これは会員向けルールに過ぎません。そこで従わない医師もいるようです。しかし、代理母については、日本では実施されることが少ないとも言われています。

2、インド代理出産

週刊朝日の記事(2008年8月29日号)が元ネタです。独身の男性医師がインドで代理母に依頼して、自らの遺伝的繋がりのある子供を授かろうとしたという記事です。インド人女性と代理母契約を締結したのですが、卵子提供者はネパール人だそうです。婚姻関係のない女性の卵子を用いて受精卵を作り、やはり婚姻関係のない女性に代理母を依頼したのです。エージェントととなるインド人医師が仲介していました。代理母となった女性はそのお金で家を建てると言っていたそうです。

少し古い情報になりますが、上記の記事によると、インドの代理出産ビジネスは、2000年頃から盛んになり、2005年には、500億円市場になり、年々増加していました。代理母の謝礼が平均2800ドル~5600ドルなので、インド(当時)の年間平均所得、約980ドルに比べて相当の高額です。インド人女性は、麻薬や飲酒、タバコの弊害が少ないため、人気があるのだそうです。

顧客は欧米人が中心であるというのですが、このような人達は、子を母胎内で生育してくれる若くて健康な母体を求めて、遥々海を渡るのですね。

日本人医師である依頼者が父親となるつもりだったのでが、インドの戸籍上、生まれた子の父母の欄が空欄となっていたようです。卵子提供者および代理母となった女性は匿名が条件であり、独身である男性はインド法上、養子縁組も許されないからです。そのため、子供の国籍がはっきりしない状態となってしまいます。

父親となろうとした男性は、一刻も早く子供を日本に連れて帰りたかったのでが、パスポートの取得が困難です。また、インド国内で福祉団体がこのことを人身売買であるとして、裁判所に人身保護命令を求める騒ぎになりました。インドの代理母契約では、このような出国トラブルがよくあるそうです。

男性は離婚経験者であり、子供ももうけたのですが、離婚後は子供とも会えていない、とのことでした。欧米では離婚時に父母が子の共同親権を取得することや、離婚後も、普段は養育していない方の親の面接交渉権が保障されること国も多いです。しかし、日本法は単独親権であるため、離婚後は、養育しない方の親が、実際上、実子に二度と会えないということも多いようです。

この男性は、もう一度わが子を抱きしめたいと思ったのではないでしょうか。自分と血の繋がりのある子供がどうしても欲しかったそうです。

3、メディブリッジの広告

メディブリッジという企業があります。代理母に関する業界最大のエージェンシーを名乗っています。
http://www.medi-bridges.com/surrogate_1.html

筆者の授業でも随分前から扱っている企業です。このホームページに代理母契約についての「広告」とも言えるページがあります。
この企業や代理母という方法を推奨している訳では決してありませんが、後で、この問題を考えるために、その広告の内容を転載します。

「この画期的な生殖医療プログラムにおいては、代理母の協力のもと、ご夫婦は「遺伝的・生物学的に100%自分達夫婦の子供」を授かるための治療を受けることができる、ということになります」。

代理母ご紹介と題するページでは次のようになっています。

「代理母になって頂く女性は21歳~35歳の女性に限っています。また代理母になる必要条件として、最低一人の健康な赤ちゃんを既に出産している経験がある女性に限っております。
代理母になるには、感染症検査、血清検査、サラセミア検査(遺伝的欠陥のためにヘモグロビン合成の過程においてヘモグロビンを構成するグロビン鎖間の合成不均衡を来たした 疾患。遺伝性の溶血性貧血であり、抹消血に標的赤血球が出現するのが特徴)を事前に行いパスしなければなりません。

ご夫婦の卵子と精子を体外受精して行う代理出産の場合は、妊娠中に代理母自身の遺伝子が胎児に組み込まれるようなことは起こり得ませんから、代理母自身の人種は問いません。
代理母候補者になって頂く女性達は、健康状態の良い経産婦であり、飲酒・喫煙の習慣がないことから、アメリカからもアジアの代理母にお任せした方が安心だと良い評判を得ております。」

代理出産費用について

費用項目:「体外受精・胚移植医療費・検査費・技術料、 薬剤代金、 代理母謝礼・経費、 代理母医療保険掛金、 代理母生命保険掛金、 代理母登録機関手数料、 新生児用医療保険 掛金、 手続代行・コーディネート手数料、 通訳・翻訳費用、 付き添い費用、 弁護士費用、 親権申請費用、 出生証明書費用、 代理母周産期検診・出産費用、 新生児検診・入院費用、 航空券代金、宿泊費・雑費等」

総額で、一回の胚移植に、390万円から、となっています(2018年2月現在)。

4、最高裁判決 平成19年3月23日の事件
日本に住む日本人夫婦の間の「子」の問題です。

女優とプロレスラーの有名な夫婦です。このとき記者会見を開き、テレビなどでも報道されましたので、記憶している方もおられるでしょう。

女性は病気で子宮を摘出したので、自ら懐胎し子をもうけることができなくなりました。しかし、摘出前に卵子を保存しておいたので、夫の精子を用いた受精卵による代理母の方法により、夫婦の遺伝子を受け継ぐ子を得ることにしました。

ネバダ州での代理出産に臨んだのです。アメリカ人夫婦と間で有償の代理出産契約を締結しました。次のような内容です。
「上記女性の卵子と男性の精子により体外受精を行い、この受精卵を、アメリカ人女性が提供を受け、自己の子宮内に受け入れ、受精卵移植を行う。この女性は、出産まで子供を妊娠し、生まれた子については依頼者夫婦らが法律上の父母であり、アメリカ人夫妻は、子に関するいかなる法的権利又は責任も有しない。この夫婦は、医療費及び生活費以外の金員等を受け取らず、ボランティア精神に基づく」。

ネバダ州法上、

このような代理出産契約が完全に有効であり、法的にあらゆる点で日本人夫婦が実親として取り扱われ、アメリカ人夫婦と生まれた子は、親子であることを否定されます。

そして、実際に、ネバダ州政府より、日本人夫婦の嫡出子とする出生証明書が発行され、ネバダ州裁判所が、生まれた子と日本人夫婦との間の親子関係を確定する決定を下しました。

代理出産に成功した夫婦は、大喜びで、早速その子の養育を開始し、日本に連れて帰ったのです。そして、住居のある品川区に、自分達を実親として、子を嫡出子とする出生届を提出しました。

ところが、品川区は、この出生届を受理しませんでした。

理由は、母親となる女性に分娩の事実がないため、この子との間に親子関係が認められない。従って、嫡出子としての出生届けが認められないというのです。

お腹を痛めて産んだ子という表現がありますが、自分のお腹の中で育てて産んだ子でなければ、その子の実の親ではないとするのです。血縁関係という観点からは、全く問題が無いとしても、従って、生物学的、遺伝的には、まさにその子の親であるとしても、法律上の親子関係は否定されるとしたのです。

もちろん養子縁組という手段があります。しかし、この夫婦はこれに納得しませんでした。なお、通常の養子縁組のほかに、特別養子という方法もあります。通常の養子縁組では、子が、実親の戸籍から、縁組により養親の戸籍に編入したことが記述されます。特別養子であれば、戸籍上、実親の痕跡の残らない、養親が実親と異ならない形式によることができます。夫婦は、この方法も拒絶したのです。

そこで、夫婦は、品川区が出生届を受理しなかったのはおかしいとして、裁判所に訴えたのです。

法的に正確にいうと、ネバダ州の裁判所の決定により、嫡出親子関係が確定されているとして、日本でも、外国裁判の効力を認めるよう求めたのです。

わが国には、諸外国と同様に、外国判決承認制度という法制度があります。外国で下された判決・決定の効力が、もう一度同じ裁判をしなくても認められるという制度です。

しかし、結論的にわが国の最高裁判所は、ネバダ州裁判所の決定を承認しませんでした。わが国の公序に反するという理由です。

どんな公序かというと、

日本の民法上、「出生した子を懐胎し出産した女性をその子の母と解さざるを得ず、その子を懐胎、出産していない女性との間には、その女性が卵子を提供した場合であっても、母子関係の成立を認めることはできない」。

この民法の解釈が、わが国の身分法秩序の根本的な原則であるので、これに反するネバダ州裁判所の決定は、わが国内では効力を認められないとするのです。結局、品川区の判断と同様となりました。

しかし、その原審である高等裁判所判決は正反対の結論でした。ネバダの決定の効力を認めていたのです。

最高裁も、代理母という方法について、実際に行われていることが「公知の事実」となっており、立法の問題として早急に検討を要するとしました。最高裁判決は、現行民法の解釈論としては、代理母が生まれた子の法律上の母となるべきであり、卵子提供者は母親とならないとしたのです。

この結論は、ネバダ州法と異なり、州政府の発行した出生証明書やネバダ州裁判所の決定と真っ向から対立します。アメリカ人女性と子は親子関係を否定されます。もちろん、女性自身にその意思がありません。

子供は、法律上、母無しの子となりました。

日本の民法は全体としては明治期に制定されたのですが、家族法部分は第二次世界大戦後に新たに立法されました。戦前の封建的家制度を前提とした家族法が、新憲法の個人主義や男女の本質的平等の理念にそぐわないからです。

その頃の日本では、現在のような生殖補助医療の進歩発展は全く予想もできなかったでしょう。代理母など、想定外の出来事なのです。その頃には、出産・分娩した女性が当然に子の母であったはずです。そこで出産の事実から直ちに母子関係を確定することが、子の法的身分の安定に通じるし、全く問題がないと考えられたのです。

時代が変わり、科学技術も進歩した今日、代理母を許容できるかについて社会的合意があると言えるでしょうか?

法は、社会の合意の上に成り立ちます。社会通念とも言います。社会一般のものの考え方が移り変わるなら、法が変わるべきです。法の解釈も可能な範囲で変わるべきです。

どのようにして、社会通念というのは確認できるのでしょうか。裁判所や法律家、あるいは立法者は、どのようにして、社会の合意を確定しているのでしょうか。

代理母の立法論および上述した最高裁判決の事件に即して、次回に続きます。

代理母と社会的合意22018年02月17日 19:59

1,前回のまとめ

代理母という方法を社会的に公認するか否か。すなわち、代理母となる出産した女性を法律上の母親とするのではなく、遺伝的、生物学的な母親である卵子提供者を法律上の母親とするか。

前回ブログで述べた平成19年3月23日最の高裁判決は前者でした。そして、その原審である東京高裁判決は、後者の立場をとりました。法的にはわが国の民法の解釈ではなく、外国裁判の効果の承認に際して、後者の結論が、わが国の公序に反しないとしたのです。

前回述べた様に、法律上、代理母による方法が禁止されていません。
民法には、このことに関して直接規定する条文がなく、出産した女性を母親とすることを前提とした条文が存在するだけです。しかし、出産した女性を母とする民法の解釈が、判例としても確立されていました。

最高裁判決は、代理母の方法によって遺伝的な繋がりのある子をもうけることが行われていることが、「公知の事実」であるともしています。今後も、この方法が実施されることが予想されます。

従って、傍論ですが、

「社会一般の倫理的感情を踏まえて、医療法制、親子法制の両面にわたる検討が必要になると考えられ、立法による速やかな対応が強く望まれる」と述べています。

民法制定時には予想もできなかったことが科学的に可能となり、社会的に公知の事実となっているのです。民法の想定外の出来事だと言えます。

2,法と社会通念

法は、その国の歴史、文化、経済や宗教、また慣習や風土などを前提として、その社会を規律するために作られます。逆に言えば、その社会と切り離された法はうまく社会を規律できません。社会を土台として、その上に、法が形成されます。

歴史や文化、慣習の上に、その社会にその時点での合意が形成されると考えて、これを社会通念と言い換えるならば、それが法の大前提となります。

民法制定時の日本社会が想像もできなかった代理母という方法について、これを組み込んだ法が成立していないことは当然でしょう。

わが国において、制定法は、主として国会が作ります。立法機関です。主権者たる国民が選挙した、国民の代表者である国会議員が、作った法であるから、国民はその法に服します。憲法の考え方です。

国会議員は立法の際に、先に述べたわが国社会のあり方や倫理観等を考慮して、その社会に適した法を作るはずです。

時代が変われば、社会が変わります。

時代が変わって社会が変わるとしても、法が以前のままであるとしたら、法がうまく社会を規律出来なくなります。

そこで、法を作り替える(改正する)必要を生じます。国会議員、あるいは法案を準備する政府機関は、どのようにしてそのときの社会通念を知り得るのでしょうか。

3,法制審議会の役割

政治的な耳目を集めるような法律については、議員立法という方法(議員発議)もありますが、専門的、技術的な法については、一般に法案を政府機関が準備します(内閣提出)。

基本的な法を作る上で、極めて重要な役割を担うのが法務省の法制審議会です。所掌事項は、法務大臣の諮問に応じて、民事法、刑事法その他法務に関する基本な事項を調査審議することで、構成員は、定員20名以内の学識経験者とされています。その分野の専門家である大学教授・研究者や実務家であることが通常です。

多くの法が、法制審議会で審議され、法律要綱としてまとめられると、内閣法制局で調整の上、法案として国会に送られます。そこで、更に、国会議員による審議に付され、国会において、可決成立すると、正式に法律となり、施行されます。

よほど政治的社会的な意味合いが大きく、世論に関係するのでない限り、実際に国会議員がこの間に介入することは少なく、多くの場合に、国会に上程された法案がそのまま通過するのです。

各種委員会で審議されるとしても、国会議員がその内容について、十分な専門的知見を有しているとは言えない場合も多いのです。

与野党とも、議員は、担当官庁の官僚の用意した文書と法案とを見比べて検討し、大臣でさえ、官僚の用意したアンチョコで答弁するなど、通常の光景でしょう。

そこで、法制審議会の役割が重要なのです。

生殖補助医療については、生殖補助医療関連親子法制部会が、平成13年に第1回目の会議が開催され、法案の前提となる中間試案を発表した後、15年第19回会議で中断しています。

http://www.moj.go.jp/shingi1/shingikai_seishoku.html

なぜ、中断しているかというと、19回目会議の議事録を読む限り、法務省のお役人が国会議員に法案について打診してみたのだけれど、どうも感触が良くない。むしろ、法制化に向けて十分な意欲が無く、理解が得られないというのが理由のようです。

中間試案というのは、法案となるべき条文案、多くの場合に複数選択肢を用意しているものを公表して、パブリックコメントを徴するものです。

このパブリックコメントを参照しつつ、最終的な法律要綱という法案の原型となるものを作ります。その中間試案の段階で、止まったままです。

4,厚生科学審議会生殖補助医療部会報告書(平成15年)

他方、厚労省の審議会として、厚生科学審議会の生殖補助医療部会というものがあります。平成13年に第1回会議が開催され、平成15年に第27回会議を最終回として、報告書が公表されています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/shingi-kousei.html?tid=127750

平成10年に設置された専門委員会の報告書が、「インフォームド・コンセント、カウンセリング体制の整備、親子関係の確定のための法整備等の必要な制度整備が行われることを条件に、代理懐胎を除く精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療を認めるとともに、必要な制度整備を3年以内(平成15年中)に行うことを求める」ものであった(平成12年)ので、

新しい部会の設置目的は、「この報告書の要請を踏まえ、報告書の内容に基づく制度整備の具体化のための検討を行うこと」です。

その構成員は、医療関係者、法律家、倫理学者、心理の専門家等の精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療に関する幅広い分野の関係者を委員とする(おおむね20名程度)、とされています。

当初委員の名簿を見ると、医師、医学者、法学者、弁護士などで、産科婦人科学会会長や医師会副会長、著名な大学教授を含んでいます。

ここでは代理母に焦点を当てています。

この15年の報告書でも、代理母の方法(代理懐胎)は許されないとする結論です。代理母の産んだ子はその懐胎した女性の子である、子からみれば代理母が母であるとする結論となります。

この報告書lをまとめる際に、前提として、素案に対するパブリックコメントが徴されました。

以下には、報告書が代理母の方法に反対であるとした理由と、そのパブリックコメントにおいて、むしろ代理母の方法に賛成する少数意見とを紹介します。

5,部会報告書ー代理母の方法に反対の理由

(1)人の尊厳に関わるという理由

代理母は10カ月間子を懐胎するのですから、妊娠がどれほど生命・身体の危険を伴うかはよく知られているでしょう。それほどの危険を冒しながら、赤の他人の受精卵によって子を産むのです。その身体を生殖の手段として扱うことになる点で、「人」を専ら生殖の手段として扱ってはならないという基本的な倫理観に反するという側面があります。

女性が、10カ月間子を胎内において育てるのですから、代理母がお腹の中の子に母性を感じることが有り得ます。その子を、生まれた後に、代理母から引き離すことになります。

代理母が懐胎後、妊娠・出産に不安を感じて中絶を望むとき、あるいはその生命・身体の危険を避けるために、中絶が必要なとき、中絶は許されるのでしょうか? 逆に、代理母の懐胎後に、依頼主夫婦が中絶を望んだらどうなるでしょう。子に母性を感じ、生命を途絶させることに躊躇するなら、中絶をしない権利が保障されるべきでしょうか?

胎児は誰の子なのでしょう。

(2)子の福祉に関わる理由

代理母が母性を感じる場合に、代理懐胎を依頼した夫婦と代理懐胎を行った人との間で生まれた子を巡る深刻な争いを生じる可能性があります。子の手を両方の「親」が引っ張り合ってしまうわけです。

また、その方法によったということで、子が将来、出生の経緯に悩むことが無いとも言えません。

他人の精子又は卵子の提供を受ける場合、子が将来、遺伝学的な父又は母を知りたがるようなときに、出自を知る権利を保障すべきでしょうか。

代理母によって誕生した子に、すなわちお腹を痛めた訳ではない子に対して、血の繋がりがあるとしても、遺伝学上の母親が真の愛情を持って養育できるでしょうか。

他の人種・民族の精子または卵子を用いる場合には、人種や民族の異なる子が生まれることがありますが、そのような子が日本の社会にうまく適合できるかという心配もあります。

(3)優生思想の排除という理由

遺伝子情報に基づき確率上優秀な人間に育つはずの、例えば、容姿端麗でスポーツ万能の人間となる確率の高い受精卵を、多くの代理母jの胎内に移植するとすれば、その国の国民はすべて、そのような人間になり得るのでしょうか。これが優生思想です。

かつてナチスドイツが、地球上の諸民族の中でゲルマン民族の優位を唱えたように、民族的特質をよく備えた人同士の受精卵のみで、いわば子を製造するとしたら、・・想像しただけで、ぞっとしますね。

(4)商業主義の排除という理由

生命の誕生に関して商業主義が許されるかという基本的な倫理観念が関係します。代理母に代金を払って子を懐胎・出産してもらうのです。代理母の探索や契約業務のために、エージェントが必要であるなら、その料金も必要でしょう。多額の料金を取るなら、人身売買という非難も当たるかもしれません。子の売買です。

6,代理母に賛成である意見

パブリックコメントに寄せられた賛成意見をそのまま引用します。

(1)まず、妻の代理で執筆したという放送作家の意見です。

「代理母によることを真剣に望む女性の手記」という標題です。

「妊娠2ヶ月になるかならないか、普通なら気がつかない位の時期…でも私はすぐに気がついたんです。それほど、子供を望んでいました。嬉しかった、楽しかった、お腹が少しずつ、大きくなり、母親になることが何より幸せでした。母性というのでしょうか、身体も心も日々、満たされていました」。

しかし、女性は、突然、流産し、その後、血が止まらなくなる病気と、胎盤剥離という病気の合併症になり、死ぬか、生きるかの大変危険な状態になったため、やむなく子宮の摘出を行い、一生、自分では、子供が産めなくなりました。しかし、卵巣は残されたために、卵子の摘出は可能です。

「夫に“外で子供を作ってきて、いつでも離婚してあげるね“と言った事もあります。夫を愛していても、愛する人が父親になることが出来ない。私が妻だから…悩んだあげくの言葉でした」。

「でも夫は“バカいうな、お前の子供だから欲しいんだよ”と言ってくれました。嬉しかったけど、悲しい、辛い言葉でした」。

「愛する人と愛する人の子供と一緒に生きたい!」

「きっと普通の当たり前の生活を送っている人々は、“神の領域を越えて、何を言っている。何を考えているんだ”と言うと思います。でも、方法があるのなら、その方法にかけてみたい。かけてみたいと思う私は、おかしいのでしょうか?」

人の命の誕生に関する問題は、かつて神の領域にあること、人の手の届かないことであったかもしれません。現在、ことに日本では、宗教上の理由で立法に反対するという人は余りいないでしょう。法は、世俗の問題であり、宗教上の規範とは異なります。

しかし、このことが必ずしも、宗教を意味するとも限らないのではないでしょうか。人の尊厳に関わることだから、社会の倫理観念に反するからという理由付けは、「人の手の届かない」問題であると言っているようにも聞こえます。

(2)「妊娠・出産をめぐる自己決定権を支える会」の意見

進歩発展した生殖医療を選択し、享受することは憲法の保障する国民の権利であるという意見です。

「本来国民は他人に損害(迷惑)を与えない範囲で極力それぞれの幸福を追求する権利を有するべきだと考えます。その意味で不妊に悩む夫婦の為に善意で代理母を引き受ける女性の行動を政府が規制すべきではないと思います」。

「判断力を持った大人の女性がそのような危険性を認識した上で代理母を引き受けるのであれば、その行動を国が規制するのは出過ぎた真似」

「更に女性を道具として扱うので反対だと、そう感じる人もいるでしょうね。しかし、そう感じない人もいて当然ではないでしょうか。自分は道具と感じるから反対だ、あなたもそう感じなさい!と言うのは僭越な発想だと思います」。

そうして、法が、代理母の方法を禁じることは、幸福追求権を行使しようとする人に制裁を加えることになる、というのです。

次に憲法13条の条文を掲げます。

憲法第十三条
 「すべて国民は、個人として尊重される。
  生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

  この後段が、幸福追求権と呼ばれます。

7,原審東京高裁判決

平成19年最高裁判決の原審である東京高裁は、最高裁と反対の結論でした。

次に、東京高裁の理由付けを引用します。
 
依頼主夫婦らと代理懐胎の方法によった子との間に血縁関係が存在している。

代理母が代理出産を申し出たのは、ボランティア精神に基づくものであり、その動機・目的において不当な要素がない。その手数料は,代理母が提供した働き及びこれに関する経費に関する最低限の支払(ネバダ州法において認められているもの)であり、子の対価ではない。

代理出産契約の内容についても、妊娠及び出産のいかなる場面においても、代理母の生命及び身体の安全を最優先とし、代理母が胎児を中絶する権利及び中絶しない権利を有しこれに反する何らの約束も強制力を持たないこととされ、代理母の尊厳を侵害する要素を見いだすことはできない。

代理母の側の夫婦は、その子らと親子関係にあることもこれを養育することも望んでいない。他方、依頼主夫婦らは、子らを出生直後から養育し、今後も実子として養育することを強く望んでいる。依頼主夫婦を法律的な親と認めることが子の福祉を害するおそれはなく、むしろ、その夫婦に養育されることがもっともその福祉にかなう。

「現在、我が国では代理出産契約について明らかにこれを禁止する規定は存せず、我が国では代理出産を否定するだけの社会通念が確立されているとまではいえない」。

8,社会の進展と法発展

代理母を知らない時代の社会通念を前提として、民法が制定され、これを前提とした最高裁判決が下されました。

しかし、現代は、代理出産が公知の事実であるとされます。


代理母についての、これを許容する社会的合意があるでしょうか?これが形成され、社会通念であるとすると、社会通念が、時代と共に変遷し、移り変わっても、古い時代にできた法がそのままである可能性があるのです。

その場合には、立法がなされるべきでしょう。そのような法を変えるべきです。

もしそれがなされないとすれば、この社会通念を法解釈に反映させる必要があります。

法解釈は、裁判所が有権的最終的に行います。それが裁判所の役割です。

個別の事件毎に、法を解釈し、その事件の当事者を救済するべきです。

但し、三権分立がわが国の国家制度の基本的仕組みです。

立法=法を作ることは国会の役割であり、解釈=法を解釈適用することは裁判所の役割です。選挙で選ばれていない裁判官が法を作ることは許されません。

あくまでも、現に存在する法を前提として、その解釈の範囲に留まらなければなりません。解釈の枠を超えてしまうと、法を作ることと同じ意味になります。国民主権にもとるのです。

裁判所も法解釈において、社会通念を参照します。可能な範囲で、これを解釈に反映させるべきです。

立法機関である国会(内閣=政府)が社会通念の在処を探ることは当然です。

そして、立法府や政府、裁判所がそのために参照するのが、主として各種審議会ということになります。

要するに政府により選ばれた20名ほどの有識者の会議です。その中には裁判官や官僚自身も含まれます。

公聴=パブリックコメントを徴する機会も形式的にはありますが、それほど有意義であるとも思えません。

もっとも、これは先に述べたように、国会議員が無関心であるような一般の法律の話です。

9,最高裁判決後の生殖補助医療を巡る状況

政府が日本学術会議に依頼し、作成された次の文書があります。

「代理懐胎を中心とする生殖補助医療の課題-社会的合意に向けて-」
平成20年(2008年)4月8日
日本学術会議・生殖補助医療の在り方検討委員会
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t56-1.pdf

日本学術会議というのは、人文社会科学、自然科学の双方の科学者を代表する団体です。この団体に対して、法務大臣及び厚生労働大臣が連名で、「代理懐胎を中心に生殖補助医療をめぐる諸問題」についての審議を行うよう依頼し、これに答えてまとめられた報告書です。

「医療、法律、生命倫理その他幅広い分野の専門家」による検討委員会が設けられたそうで、その報告書です。結論的には、最高裁判決を追認しており、これを越えるものではありません。

子を出産した女性が法律上の母親であり、代理懐胎の方法は認められないというものです。


更に、「生殖補助医療法」という法律についての、次のニュースがありました。これは議員立法です。

第三者卵子の提供を受けて出産した場合、出産した女性を母親とし、夫の同意を得て第三者精子の提供を受けた場合には、夫が嫡子とすることの否認ができないことを、明文で定める民法特例法の法案です。議員立法として起草され、自民党内委員会で了承されたとのことでした。

要するに、不妊に悩む女性が他人の卵子をもらい出産した場合には、出産した女性を母親とします。また、夫の同意の下で、他人の精子の提供を受けて受精した場合、夫がその子が嫡出子であることを否定できないとするものです。代理懐胎の方法は認めていません。

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG16H5Q_W6A310C1CR8000/

この法案ですら、2017年3月時点では国会で審議入りできていないようです。

https://www.nikkei.com/article/DGXKZO14438680U7A320C1EA1000/

このような重要な問題について、あなたはどのようにお考えになりますか?

あなたは、その結論の前提となる社会的合意の形成に参加しているのでしょうか?

全国民的議論が惹起され、その世論によって、このような法は作られるべきではないでしょうか?

エルサレム首都認定ー最後に出てきます2018年02月25日 22:40

最近、とても忙しいので、ブログ更新が遅れがちです。(;´ρ`) グッタリ

NHKニュースです。
以前のブログで取り上げたシリア内戦で、
5日間で、子供96人を含む416人が死亡したというニュースです。

シリア内戦で空爆 住民が動画投稿で訴え(2018年2月23日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180223/k10011339671000.html?utm_int=word_contents_list-items_002&word_result=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6

6日間で、命を失った子供が114人に登るという記事です。この1日で18人亡くなったという計算になります。国連事務総長が、この世の地獄だと言っているそうです。その中で、子供たちがインターネット上に悲痛な叫び声を上げているという内容です。

「助けて」 ネットに子どもたちの悲痛な声 シリア東グータ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180224/k10011341491000.html?utm_int=word_contents_list-items_001&word_result=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6

停戦のための国連決議がロシアの反対のために、実行されません。連日の空爆に、化学兵器の使用もあるようです。

アサド政権と対立する反政権派の中に、過激なイスラム教テロ集団として有名なイスラム国がありました。シリアにその拠点を置いていたときがあります。

イスラム国と言っても、決して領域国家ではありません。宗教的集団であるに過ぎません。

世界の中にある共同体の形として、まず、国家が挙げられます。国境線で囲まれた領域を有し、そこに住む人々と、その領域を支配する政府が存在します。日本もそうですね。

しかし、世界に存在する共同体は、国家だけではありません。国境を超えた民族共同体というものも観念し得るでしょう。有名なのは、アフリカです。

アフリカは、第二次世界大戦前に西欧列強による植民地支配を受け、列強各国の話し合いによって、その都合に従って国境線が引かれました。領域を伴う近代的な国家の観念が成立していないアフリカでは、むしろ、民族的繋がり、部族的繋がりによる共同体が人々の生活の基本でした。その民族・部族に関わりなく、国境線が引かれたのです。そのために、民族・部族が国境により分断され、各国家内に、多数派・少数派の民族・部族集団が生じたのです。つまり、ある国の多数派が他国の少数派となり、その多数と少数が相互的に異なると、それぞれ自分の民族集団のために、国家間の紛争を生じたり、自民族救済と称して他国内乱への介入を招くことがあります。アフリカでは、国家よりも、民族・部族の集団が強固に存在し、政治的支配と対立するのです。

ルワンダの虐殺は、一国内の民族間対立が原因です。2004年の合作映画「ホテル・ルワンダ」はその様相を如実に描いています。

華僑というのは、中華系民族が中国・台湾以外の世界各地に存在する場合の呼び名です。各国の政治・文化に同化しながら、確固とした文化的基盤を決して崩さず、むしろ世界中に中華文化を広めています。民族的文化的に共通の、国境を超えた共同体を形成しているとも言えるでしょう。親族的繋がりや、友人知人としての繋がりが、国境を超えて継続し得るのです。

このような共同体の中で通用している規範は、所属する国家の法規範と共に、むしろ、生活に即する場面、文化的には民族固有の慣習的規範であり得ます。

少し話がそれましたが、ここでの問題は宗教的共同体です。これも国境を容易に超えます。イスラム教では、コーランの教えが法と同義です。イランなどのイスラム教国では宗教的規範と世俗の法が一致します。世俗の法とは、国家法として、裁判所で適用される法のことです。キリスト教で言えば、聖書が世俗の法と一致するというようなものです。人がコーランによって裁かれ、人々の生活を規律する法がコーランなのです。

イスラム教のある宗派を信仰する集団が国境を超えて存在すると、その人々を支配するものが、その宗派の教義ということになります。所属国の法に服するのであれば良いのですが、この法に反しても良いと考えるのがテロ集団ということになるでしょう。

イスラム国というのも、国境線に囲まれた領域を有するものではありません。一時、シリア内に拠点を有して、そのような趣を有していたようにも思えますが、むしろ武装集団としてのアジトが複数の国に存在しており、世界各国にその信者、教義に共鳴する人々を募り、実際に、そのような人々が存在すると考えられます。そのような国境を超えた宗教的共同体を形成しているのです。

現代の戦争は、国家間紛争と共に、このような宗教的紛争、それもテロリズム集団が国家や国際社会と対立するという形態を取ります。

国家間紛争にしても、国境を超えたテロ対国家にしても、宗教的対立を根源的要素とすることが多いです。その淵源が、パレスチナ問題でしょう。イスラエルとパレスチナ自治区の紛争ですが、もともとユダヤ人とアラブ人の平和共存する地域に、突如イスラエルという国家が成立し、国境線を引いたことに端を発します。ユダヤ教とイスラム教、キリスト教とイスラム教の争いとも言えます。

パレスチナ問題が中東全体の紛争を引き起こし、世界中の様々な場所でテロリズムの原因となって来たのです。配偶者や親、兄弟、子供を殺された人が怨念によって、対立する民族や宗教集団に報復する。その報復の連鎖が長年月継続し、抜き差しならない怨嗟の集積、解決不能とも考えられるほどの憎悪によって、暴力と殺生が繰り返されるのです。

パレスチナ周辺で繰り返される戦争と和平への試みが、今なお、継続しているのですが、一向に解決しません。血を流しては、停戦に合意し、平和へのあゆみがあったと思ったら、一歩後退する。結局、最初から微動だにしていないとも思えます。

1978年のキャンプ・デービットの合意というのがあります。当時のカーター米大統領とベギン・イスラエル首相、それにエジプト・サーダート大統領がアメリカのキャンプ・デービッド山荘において、平和条約に合意したのです。第4次中東戦争まで、戦乱の渦の中にあったこの地域に一定の平和をもたらしました。

まだ大学生だった頃の筆者は、新聞報道でこのことを知り、上の三人の写った白黒写真を食い入るように見つめました。これで世界から、相当の戦争が無くなるのだと!まだ、世界政治のことも、中東のことも余り知らなくて、無知のなせる技でしょう。大きな誤解です。

冷戦終結後、国家間、国家地域間の戦争から、世界的なテロリズムが注目されるようになりました。

どんなに無駄だと思えても、一歩も進まないと思えても、平和への努力を怠る訳にはいかないでしょう。戦争=人殺しへの傾向が止まない限り、平和への志向が止まってしまったら、ただただ戦争の渦の中に、世界が巻き込まれていってしまうだけだから。その均衡を破ることは許されないのです。

最近、仰天したニュースがあります。トランプ大統領がイスラエルのエルサレムに大使館を移設するというものです。

http://www.sankei.com/world/news/180224/wor1802240013-n1.html(2018年2月24日産経ニュース)

イスラエルの首都をエルサレムであると、アメリカが認定する宣言をした後、国際社会からの非難を受け、国際的に孤立を深めたにも関わらず、今年に入って、首都であるエルサレムに大使館を移すと発表したのです。

トランプ大統領は、「他の大統領はみんな選挙で声高に主張しながら実際には[首都]認定しなかった。私は正しいことをした」と述べました(前期ウェブ参照)。

他の大統領が「首都認定しなかった」のには理由があります。

エルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、三つの宗教の聖地です。そして、イスラエルが首都としていると同時に、パレスチナ自治政府にとって将来、首都の置かれるべき場所なのです。

トランプ大統領の宣言は、休火山の中に原爆を投下するようなものではありませんか?