木蓮のつぼみ2018年02月03日 16:49

生殖医療の問題について取り上げるのは、次回に延期します。(^∧^)

毎日、毎日、寒いですね。雪はどうですか?
筆者の住居のある辺りはほとんど雪がふりません。先日、めずらしく、ちらほら降りました。溶け残った雪をかき集めて作った泥だらけの雪だるまが、駐車場の隅で溶けかけた首をかしげていました。

以前のブログで「相田みつを美術館」のことを述べました。ちょうど2月頃の木蓮をうたった詩があります。美術館で、この書を展示していました。次の様な詩です。


「裸の木蓮」

「いま庭の木蓮は裸です
 枯葉一枚枝に残しておりません
 余分なものはみんな落として
 完全な裸です

   しかしよく見ると
   それぞれの枝の先に
   固い蕾(つぼみ)を一ツづつ
   持っています

 つまり木蓮にとって
 一番大事なもの
 ただ一ツをしっかり と
 守りながら

冬の天を仰いで
キゼンと立っています
 キゼンということばを
 独占したかのように
   裸の木蓮は
 寒風の中に
 ただ黙って立っています

   みつを  」


書では、一つ一つの段落がつぼみの形にみえます。墨の濃淡と造形で詩を表現しています。皆さんも、機会があれば見に行って下さい。東京駅の直ぐそばです。

筆者は、木蓮が好きです。淡い黄みどり色の中心から、やわらかな厚紙のような白い花弁が、「もくれん」という言葉にふさわしい花です。

暖かな風を連れて来る冷たい雨の後の晴れ間に、沈丁花が香ります。歩いていると、不意に良い香。どこにあるのか思わず周囲を見回して、花の在処を探します。沈丁花が香ると、いよいよ暖かな春の到来です。

間もなく、木蓮が咲きます。待ちに待った木蓮です。白色の、濃い紫の。
ほんとうに木蓮が待ち遠しい。


1、酒鬼薔薇聖斗

ここから、本題です。

神戸連続児童殺傷事件を覚えていますか?

酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る犯人が、小学生を通り魔的に殺傷したあの事件です。特に、特殊学級に通う小学6年生の子供の命を奪い、頭部を切り落として、中学校の正門前に置いていたことで、社会を震撼させました。その犯人は、少年Aと呼ばれた14才の中学生でした。

当時、新聞、雑誌、テレビの取材合戦が起きて、様々な報道がありました。

その中で、被害者加害者双方の当事者からの手記が公表されています。

被害者の父親の書いた手記です。
『淳』 (新潮文庫) ・土師 守 (著)

あどけない少年の様子が表紙に載っています。残忍な犯行に対して憎悪を掻き立てます。

その日、いつもと変わらない様子で家を出た子は知的障害のある子でした。家族がどんなに大切にして、愛おしんでいたか。

元少年Aは少年院を退院した後、『絶歌』(太田出版)という手記を発表しています(2015年)。

加害少年の父母の手記も刊行されました。『少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記』 (文春文庫)

少年院で、加害少年の矯正に取り組んだ元法務教官の記録も公刊されています。

多分に信憑性に欠けるところもありますが、ネットの情報によると、少年院を退院後、四国に居住していたことがあるそうです。

事件直後に、加害少年は実名や写真のほか、刑事事件における供述調書の内容を雑誌に公開されました。今現在に至るまで、居住地や最近の雑誌社の取材の様子など多くの情報が、虚偽のものを含めてネット上に掲載されています。

成人した加害者が日本の社会でどのように暮らしていけるのでしょうか。名前を変えたり、もしかすると整形しないといけないかもしれませんね。

2,刑罰の目的と国家による社会の管理

犯罪を犯すと、刑罰や処分が下されます。犯罪者(非行少年)の矯正や更生がその目的であると考えるのが、わが国の刑法学上の多数説です。教育刑という考え方です。

もっとも被害者側の報復感情に答えるという側面や、そのような犯罪に対しては罰を与えるべきであるという因果応報に対する社会心理も関係するように思えます。

犯罪加害者に対する人権の尊重と、これにより現代的な刑罰観が確立される前は、社会には残虐な刑罰が存在しました。公衆の面前での斬首はフランス革命の史実として有名です。江戸時代の日本では磔獄門(晒し首)が通常の刑罰の方法でした。被害者が犯罪者の最期を見ることでその報復感情に答えることができるし、公衆がこれを見物することは、社会一般の犯罪抑止のための見せしめとなります。

また、応報の観念に即することで、何をすれば、どうなるかの過程を知ることができ、社会的ルールを確認することができます。結果として社会的安心に通じるかもしれません。

公衆が死刑を「見物」できることは、古来より一般的でした。残虐な暴力が死を招く瞬間を見ることが、多くの人々の、感興の的であったのではないでしょうか。そのようないわば行事が定期的に催されることで、その社会の暴力を総体的に抑制できると考えられたのでしょう。その意味では、祭りが、その地域社会すなわち共同体の結束の証しであり、許された「けんか」として、暴力の発露が一定のルールの下に認められるのと似ています。

現在でも、例えばアメリカの州の中には、死刑を公開しているところが多いです。電気椅子や薬殺の場面が、近隣地域の住民に一般公開されます。被害者や住民の前で、死刑が執行されるのですが、これがその地域社会の伝統なのです。その目的はやはり、被害感情への応答や悪者の最期を見届ける住民の意思が考えられます。

人類は、動物として、その遺伝情報に暴力的因子を持っているのです。この発動を適度に押さえない限り、人類社会の存立が危機に曝されます。

弱肉強食の動物としての群れが、類人猿の集落を経て、一定の規範を備えた人類社会へと「進化」するとして、その共同体におけるルールは、動物としての一定の規則性から、集落の慣習や宗教的(神事としての)規範が生まれ、やがて法としての規範に至ります。どの段階から「法」と呼び得るかには議論がありますが、書かれた法か不文の法かは別として、ある段階からは原初的な法的ルールとなることに疑いがありません。そのルールは、社会経済的には、その共同体において、最大多数の個体を維持できるために考案されたと言えるでしょう。規範の存在が社会的安心に通じる仕組みが我々の社会の深層に存在するのです。


『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)という1972年公開の米国映画があります。近未来を描くSF映画です。

残虐な暴力行為を繰り返す非行集団のリーダーが、刑務所で矯正措置を受けます。映像による暗示と生理的拒絶という「最新の科学的方法」により、暴力行為に対して拒否反応を引を起こすように改造されるのです。その過程は、身体的な手術を伴わないけれど、まるでロボトミー手術のようにも見えます。この方法で全ての犯罪者を矯正することができれば、犯罪を防止し、社会を安全にするというわけです。

他方、キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』という映画があります。前半は、ベトナム戦争のために徴兵された若者が、米国軍隊のキャンプで殺人兵器に改造される様子を描いています。米国内の駐留地で改造が施された兵士達が、ベトナムに送り込まれるのです。

キューブリック監督の映画では、いずれの改造もある意味では失敗に終わります。

何を犯罪にするのか、どんな刑罰を与えるのが相応か。教育刑としても、報復感情や因果応報の理に訴えるとしても、いずれにしても国家が社会を統制したり、管理することに関係します。キューブリックの映画は、このような社会統制や社会管理に国家制度が関わることを如実に描き出しているようです。

3,日本人のランク付け

最近よく「東大生の・・・」というテレビ番組や書籍を見かけるようになりました。その出身者である研究者が研究の粋を公表するというものではなくて、現役東大生である若者が出てくるものです。東大生は「頭が良い」から、そのような若者の凄いところを見るのが、大衆の感興の的なんでしょうかね。

以前、東京大出身のある学者に聞いたことなんですが、東大入学式で、法学部出身の総長が次の様な祝辞を述べたそうです。君たちは、日本を引っ張ることになっているのだから、しっかり頑張って、日本のために働きなさい、という趣旨の祝辞です。東大以外にほぼ人が居ないというほどの強いエリート意識を持ったその集団は、実際に、勤勉であり、人によると血を吐くほどの努力家でもあります。

もっとも東大以外にも、京都大学にも多かれ少なかれそのような側面があるのでしょう。

一部の能力のある者が大衆を先導し、社会運営に当たり、社会の発展に寄与するべきだというのが、エリート主義です。われわれは、これに慣れてしまっているのでしょうか。

日本人は偏差値によるランク付けをほとんど大前提にしているようです。思春期の大部分を偏差値と格闘して、漸く大学に入学すると、多くの学生が勉学を放棄するというのが、大学教員としての日常的経験です。多くの場合に、高校入試で偏差値の洗礼を受け、そのランク付けを当然視しながら、それ以降は、このランクの枠を意識して、具体的には偏差値の5ポイント単位の変動を目指しながら勉強をします。公立学校の教育には飽き足らず、終業後に塾通いするのが通常でしょう。

ランク付けは勉学だけではなく、スポーツでは一層当たり前です。全国的な運動テストにる能力比較がなされます。例えば、市域の大会から始まって、各都道府県大会、更に大きな地域大会から全国大会へと、子供達の中から選抜されて行きます。このような組織的なスポーツ大会も、国の政策の下で遂行されます。スポーツの振興に伴い、国民の世界大会での活躍がその国の国力を示すかのような、国威発揚の宣伝にも用いられます。

小学生や中学生の大会で優秀な成績を上げると、中学あるいは高校のスポーツ推薦入学、その後は大学へと続きます。入学金や学費は免除、全寮制で生活費の心配も無く、スポーツの鍛練に集中することができます。そのスポーツ部を退部しない限り、一銭もかからないのです。その後、プロ選手になる一部の者を除くと、大卒資格を得て社会人となります。スポーツ・エリートです。

余談ですが、ナチスドイツでは、オリンピックで活躍できるような優秀なスポーツ選手が民族主義的な宣伝に使われました。ゲルマン民族の優秀性を示すものとされました。

話を元に戻すと、勉学にしても、スポーツにしても、人の能力の数値化がここでのキーワードです。全国的な試験に基づく偏差値による全日本人のランク付け、速度や採点による数値化によるランク付けが、人の「階級」を決めます。その若者の将来を決定するものが、それらの数字です。

幼い知的、精神的能力のままに、このシステムに気づいてしまった者が、そびえ立つ岸壁の前に唖然として立ち止まってしまうことは無いでしょうか。幸いにして、多くの人がシステムの中にあって、このランク付けのシステムを内面化しているので、辛うじて正気を保つことができます。無意識裡に、自覚的理解の能力もなく、これに気づき、その岸壁をよじ登るなんてとても不可能だと、全ての希望を失ってしまうかもしれません。実際は、知らず知らず登らされて行くので、そんなに心配はいらないとしてもです。

4,再び、少年A

驚くような非行に陥る未成年者が、家庭や学校では大人しい良い子であったということが間々あります。親や教師の面前では、気に入られるような態度を身につけているけれど、内面的には病的な問題を抱えていることが有り得ます。少年Aも、その両親には、後に非行に繋がるような精神的な問題点を感じさせなかったのかもしれません。

当時の新聞記事を今でも覚えています。少年Aが、登校した振りをして自宅を出た後、児童公園のいつものベンチに腰掛けて、誰も居ない広場や遊具を見て過ごしていたというものです。

13,4才の少年が学校の集団生活から逃避して、たった1人で、公園にたたずんでいるのです。誰も居ない砂場、座る者のないブランコが微かに揺れ、湿ったグランドに陽が当たり、そこに雀ぐらいは遊んでいるかもしれません。何時間も、ぼんやりとそのような風景を見ていたのでしょう。

なんという孤独でしょうか!その切なさが胸に迫りました。

そんな事件を起こしてしまうなんて。大切な人の命を奪うなんて。

同時に、淳君のお父さんの慟哭が!

私たちは、どちらの子供も救うことができないのですね。

2月の寒風にさらされている木蓮の堅いつぼみを。

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