エルサレム首都認定ー最後に出てきます ― 2018年02月25日 22:40
NHKニュースです。
以前のブログで取り上げたシリア内戦で、
5日間で、子供96人を含む416人が死亡したというニュースです。
シリア内戦で空爆 住民が動画投稿で訴え(2018年2月23日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180223/k10011339671000.html?utm_int=word_contents_list-items_002&word_result=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6
6日間で、命を失った子供が114人に登るという記事です。この1日で18人亡くなったという計算になります。国連事務総長が、この世の地獄だと言っているそうです。その中で、子供たちがインターネット上に悲痛な叫び声を上げているという内容です。
「助けて」 ネットに子どもたちの悲痛な声 シリア東グータ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180224/k10011341491000.html?utm_int=word_contents_list-items_001&word_result=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6
停戦のための国連決議がロシアの反対のために、実行されません。連日の空爆に、化学兵器の使用もあるようです。
アサド政権と対立する反政権派の中に、過激なイスラム教テロ集団として有名なイスラム国がありました。シリアにその拠点を置いていたときがあります。
イスラム国と言っても、決して領域国家ではありません。宗教的集団であるに過ぎません。
世界の中にある共同体の形として、まず、国家が挙げられます。国境線で囲まれた領域を有し、そこに住む人々と、その領域を支配する政府が存在します。日本もそうですね。
しかし、世界に存在する共同体は、国家だけではありません。国境を超えた民族共同体というものも観念し得るでしょう。有名なのは、アフリカです。
アフリカは、第二次世界大戦前に西欧列強による植民地支配を受け、列強各国の話し合いによって、その都合に従って国境線が引かれました。領域を伴う近代的な国家の観念が成立していないアフリカでは、むしろ、民族的繋がり、部族的繋がりによる共同体が人々の生活の基本でした。その民族・部族に関わりなく、国境線が引かれたのです。そのために、民族・部族が国境により分断され、各国家内に、多数派・少数派の民族・部族集団が生じたのです。つまり、ある国の多数派が他国の少数派となり、その多数と少数が相互的に異なると、それぞれ自分の民族集団のために、国家間の紛争を生じたり、自民族救済と称して他国内乱への介入を招くことがあります。アフリカでは、国家よりも、民族・部族の集団が強固に存在し、政治的支配と対立するのです。
ルワンダの虐殺は、一国内の民族間対立が原因です。2004年の合作映画「ホテル・ルワンダ」はその様相を如実に描いています。
華僑というのは、中華系民族が中国・台湾以外の世界各地に存在する場合の呼び名です。各国の政治・文化に同化しながら、確固とした文化的基盤を決して崩さず、むしろ世界中に中華文化を広めています。民族的文化的に共通の、国境を超えた共同体を形成しているとも言えるでしょう。親族的繋がりや、友人知人としての繋がりが、国境を超えて継続し得るのです。
このような共同体の中で通用している規範は、所属する国家の法規範と共に、むしろ、生活に即する場面、文化的には民族固有の慣習的規範であり得ます。
少し話がそれましたが、ここでの問題は宗教的共同体です。これも国境を容易に超えます。イスラム教では、コーランの教えが法と同義です。イランなどのイスラム教国では宗教的規範と世俗の法が一致します。世俗の法とは、国家法として、裁判所で適用される法のことです。キリスト教で言えば、聖書が世俗の法と一致するというようなものです。人がコーランによって裁かれ、人々の生活を規律する法がコーランなのです。
イスラム教のある宗派を信仰する集団が国境を超えて存在すると、その人々を支配するものが、その宗派の教義ということになります。所属国の法に服するのであれば良いのですが、この法に反しても良いと考えるのがテロ集団ということになるでしょう。
イスラム国というのも、国境線に囲まれた領域を有するものではありません。一時、シリア内に拠点を有して、そのような趣を有していたようにも思えますが、むしろ武装集団としてのアジトが複数の国に存在しており、世界各国にその信者、教義に共鳴する人々を募り、実際に、そのような人々が存在すると考えられます。そのような国境を超えた宗教的共同体を形成しているのです。
現代の戦争は、国家間紛争と共に、このような宗教的紛争、それもテロリズム集団が国家や国際社会と対立するという形態を取ります。
国家間紛争にしても、国境を超えたテロ対国家にしても、宗教的対立を根源的要素とすることが多いです。その淵源が、パレスチナ問題でしょう。イスラエルとパレスチナ自治区の紛争ですが、もともとユダヤ人とアラブ人の平和共存する地域に、突如イスラエルという国家が成立し、国境線を引いたことに端を発します。ユダヤ教とイスラム教、キリスト教とイスラム教の争いとも言えます。
パレスチナ問題が中東全体の紛争を引き起こし、世界中の様々な場所でテロリズムの原因となって来たのです。配偶者や親、兄弟、子供を殺された人が怨念によって、対立する民族や宗教集団に報復する。その報復の連鎖が長年月継続し、抜き差しならない怨嗟の集積、解決不能とも考えられるほどの憎悪によって、暴力と殺生が繰り返されるのです。
パレスチナ周辺で繰り返される戦争と和平への試みが、今なお、継続しているのですが、一向に解決しません。血を流しては、停戦に合意し、平和へのあゆみがあったと思ったら、一歩後退する。結局、最初から微動だにしていないとも思えます。
1978年のキャンプ・デービットの合意というのがあります。当時のカーター米大統領とベギン・イスラエル首相、それにエジプト・サーダート大統領がアメリカのキャンプ・デービッド山荘において、平和条約に合意したのです。第4次中東戦争まで、戦乱の渦の中にあったこの地域に一定の平和をもたらしました。
まだ大学生だった頃の筆者は、新聞報道でこのことを知り、上の三人の写った白黒写真を食い入るように見つめました。これで世界から、相当の戦争が無くなるのだと!まだ、世界政治のことも、中東のことも余り知らなくて、無知のなせる技でしょう。大きな誤解です。
冷戦終結後、国家間、国家地域間の戦争から、世界的なテロリズムが注目されるようになりました。
どんなに無駄だと思えても、一歩も進まないと思えても、平和への努力を怠る訳にはいかないでしょう。戦争=人殺しへの傾向が止まない限り、平和への志向が止まってしまったら、ただただ戦争の渦の中に、世界が巻き込まれていってしまうだけだから。その均衡を破ることは許されないのです。
最近、仰天したニュースがあります。トランプ大統領がイスラエルのエルサレムに大使館を移設するというものです。
http://www.sankei.com/world/news/180224/wor1802240013-n1.html(2018年2月24日産経ニュース)
イスラエルの首都をエルサレムであると、アメリカが認定する宣言をした後、国際社会からの非難を受け、国際的に孤立を深めたにも関わらず、今年に入って、首都であるエルサレムに大使館を移すと発表したのです。
トランプ大統領は、「他の大統領はみんな選挙で声高に主張しながら実際には[首都]認定しなかった。私は正しいことをした」と述べました(前期ウェブ参照)。
他の大統領が「首都認定しなかった」のには理由があります。
エルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、三つの宗教の聖地です。そして、イスラエルが首都としていると同時に、パレスチナ自治政府にとって将来、首都の置かれるべき場所なのです。
トランプ大統領の宣言は、休火山の中に原爆を投下するようなものではありませんか?
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://shosuke.asablo.jp/blog/2018/02/25/8794437/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。