憲法改正論議2ー憲法9条2018年03月09日 00:30

日経ビジネスONLINE で、「私の憲法改正論」という特集が掲載されています。多数の人の多様な解釈論や改憲論がよくまとめられておて。大変、興味深いです。

https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/


このブログの筆者は、憲法学者ではありませんので、憲法解釈論に立ち入ることを避けます。法の研究者であるとしても、専門家でない者が、憲法の解釈的議論を行うのは、無責任だからです。

ここでは、私なりに、一般的に、憲法9条をめぐる改正論議について考えてみたいと思います。

1、個別的自衛権と集団的自衛権の境いめ
安全保障についても、専門家とは言えませんが、個別的自衛権と集団的自衛権との間に、日本が実際何ができて、何をしてはならないのか、曖昧でよく分からない点があります。

自衛隊法76条の条文を次に掲げます。

「第七十六条 内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、・・・国会の承認を得なければならない。
一 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
二 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」

(なお、内閣府「平和安全法制等の整備について資料」参照 2018/03/08現在)
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html

(武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(武力事態対処法)2条3号 「武力攻撃予測事態」の定義も参照。)

自衛隊法1項2号が集団的自衛権の行使を可能とする明文規定です。改正当時、反安保運動が全国的に展開されましたが、その際に、野党や市民運動が特にこの規定に反対しました。

日本が攻撃され、あるいは危険が切迫しているときに、日本が「武力」を行使して、防衛する場合が、個別自衛権の発動です。

日本の同盟国が攻撃されたときに、その救援のために、相手国軍に攻撃を加えるとすると、これが集団的自衛権です。

例えば、実際に北朝鮮からの攻撃があった場合に、日米安保条約に基づき、米軍が在日基地から発動したとすると、日本の自衛隊が全く独自に行動するべきでしょうか。当然、共同の軍事行動を行うでしょう。

交戦状態となったとして、日米の艦船が北朝鮮の潜水艦に対抗するために、日本海(公海)に共同戦線を展開するとして、これもあり得るのではないでしょうか。

この場合、日本は日本の防衛のために個別的自衛権を行使するのであり、アメリカは日本のために集団的自衛権を行使します。

それでは、日本海(公海)において、米国艦船が攻撃を受けたり、いずれの領空にも属さない空域で、米国の戦闘機の隊列が攻撃されていた場合に、自衛隊が米軍を救援するために発動するとしたら、日本が集団的自衛権を行使したことになりそうです。

実は、維新の党は、現行自衛隊法76条に規定されている、存立危機事態を「武力攻撃危機事態」に変えた修正案を提出していました。

次の通りです。
「条約に基づきわが国周辺の地域においてわが国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」と定義したのです。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/15/security-law-wakariyasuku_n_7806570.html

「わが国の防衛のために活動している外国の軍隊」に対する攻撃であり、「これにより」わが国に対する攻撃の危険が切迫している場合であれば、76条1項1号を拡張しつつ、個別自衛権の行使の範囲内であるという解釈も可能かもしれません。実際に、維新の党はそのように主張していたようです。

外国の軍隊に対する攻撃であっても、日本の防衛のためにのみ、自衛隊が出動するからです。

しかし、この維新の案も受け入れず、より包括的な文言の現行規定(2号)に改正したのです。

外国の軍隊が攻撃されて、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」というのは、どのような場合でしょうか。

グアムや、あるいは北太平洋上に展開するアメリカ国籍の船舶(軍隊とは限りません)が攻撃されたので、日本が攻撃される恐れがあると、政府が判断したら、この規定を根拠に自衛隊が出動することもあり得るでしょう? 日本から遠く離れた所へ、その国と共に戦うために、日本の軍隊が出動するのです。

このことは十分文言の範囲内と言えます。まさに集団的自衛権を行使するのです。

集団的自衛権の行使が日本にも認められるとする議論では、国連憲章51条が引用されることが多いです。

国連憲章 第51条
「・・国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。・・」

実は、国連憲章によると、安全保障理事会が、ある国の「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為」を認定する権限を有し、経済制裁などの方法を行う権限(41条)と、兵力を用いた措置をとることを決定する権限を有することになっています。この決定に対して、全ての国連加盟国が協力する義務を負います。

従って、破壊行為・侵略行為があれば、国連軍が救済に来てくれるはずなのですが、それでは間に合わない、大きな犠牲を生じる場合が考えられます。従って、それまでの間、自分で防衛する国の権利を先の51条が認めているのです。個別的自衛権と集団的自衛権の双方を認めています。

安全保障上の、兵力を行使できる同盟関係を結び、その国とお互いに共同して、他国からの攻撃に対して防衛することもできることになります。

従って、国際法上、日本にも集団的自衛権が認められるということになります。各国家の固有の権利とされています。

しかし、ここで、権利があるというのと、義務があるということの相違を確認する必要があります。権利があるので、そういうことができるとしても、必ずそのことを行わなければならない義務づけがある訳ではありません。

ある国が、個別的自衛権のみを行使するが、集団的自衛権は不要であると決定することは、さらさら自由であるということです。その国の憲法で、そのように決めておくことができます。

日本国憲法9条は、どのような内容なのでしょうか?

国内法と国際法の関係について述べた後で、再度、取り上げます。

2、国際救助隊

国際平和協力法(PKO法)と国際平和支援法は、
日本の自衛隊が国連決議等に基づいて、外国における平和維持やその支援のために、最小限の武力行使を認めつつ、外国領域に出動できることを規定する法律です。

日本の「軍隊」が、その国の平和のために、戦争に苦しむその国の人々のために、ほとんど武器も持たずに井戸を掘りに行くことが、どれほど素晴らしいことでしょうか。

内戦や虐殺で苦しむ人々が世界に救いを求めるなら、国際共同活動のための厳密な要件の下に、他の国々の人々と共に、手を差し伸べる活動を行うことは許されるでしょう。

大きな災害救助のために、危険な地域に出動することもあり得ると考えられます。戦争だけでなく、無政府状態に陥った国での活動は、生命の危険に晒される恐れもあるでしょう。

そのような他の国々との協力は、国際における、必要不可欠のいわばご近所付き合いであるとも考えられます。金持ちの国が、金だけではなく、人手も出すのでなければ、他の国に疎まれます。

日本は、その素晴らしい活動を過去においても十分行って来たし、これからもその役割を果たしていくはずです。

サンダーバードという人形劇がありましたね。そのような国際救助隊としての、自衛隊の機能が益々発展していくことがあり得るように思えます。どこかの国で誰かが救いを求めていたら、どの国よりも早く、世界中に、武力を使うのではなく、最新の技術・技能を用いて、誰も傷つけることが無く、その命を救うことができるのです。SFのお話ですか?

3、国内法と国際法の関係

国際法という法が存在するかについて議論があります。国際社会に「法」など存在しないという見解もあるのです。有名なのは、アメリカの国際政治学における、国際的リアリズムの立場です。

国際共同体は、政治力学でのみ動く社会であるとするのです。

わが国やヨーロッパの国々の大多数の学説は、国際「法」の存在を肯定します。

条約というのは国際法の一種ですが、国と国との契約になぞらえて、約束は守られねばならないという基本的な規範的観念に支えられて遵守されると考えられます。もっとも、国と国との約束も、過去に、最近に至るまで、容易に反故にされた歴史が有りましたよね。(^_-)
わが国が反故にした例を含めて。

国際社会にも法は存在すると、筆者も考えます。書かれた法としての条約があり、明文規定をテキストとして、これを解釈する営みが日常的に行われます。条文テキストと、起草過程での議論・資料、条約の趣旨・目的に照らして、条約解釈のための条約もあるのですが、その解釈が国家実行として行われます。ある国の政府・機関がその条約の履行として行った活動、宣言などです。通常、西欧法的論理を用いた理由付けを伴う法の解釈です。

条約が国家実行を生み、国家実行が条約の解釈として定着すると、これが更にルール化するという、フィードバックの連続過程として、国際「法」というのも動態的に理解できると考えています。多くの国の解釈実践も、新たな事象を生じると、各国の国家実行がバラバラになって、ルールとして不安定な状態となりますが、これが再度、異なるルールへと収斂することもあり得ます。

前置きが長くなりましたが、国内法と国際法の関係について、一元論と二元論の争いがあります。

国際法一元論は、法の効力関係のヒエラルキーの頂点として、国際法があり、国際法による授権によって、国内法が効力を与えられるとします。一国内の法秩序においては、憲法を頂点とした法の優先劣後のヒエラルキーがあると考えられています。憲法に反した通常の法律は無効となります。法律は憲法によって法としての効力を与えられるからです。国際法優位の一元論というのは、単純に言うと、国内法における憲法を頂点とした効力関係と同様に解するのです。憲法の更に上位の規範が、国際法であるので、国際法に反する国内法(=憲法)は効力を否定されるとします。

国内法優位の一元論は、憲法学説の通説です。
国際法に対して憲法が優先すると解します。その重要な理由づけは次のものです。条約はある国の政府機関と他国の政府機関が署名し、その国の議会の批准などの各々の国の承認により、成立します。条約として成立すると、それぞれの国の領域内で、法としての効力を有するに至ります。わが国では、国会の批准が必要となるのですが、条約の批准というのは、国会議員の単純多数で足ります。従って、国際法優位であるとすると、例えば、憲法9条に反する内容の日米安保条約が成立すると、これが憲法に優先しますので、憲法9条が改正されることになるのです。これでは、国会議員の3分の2以上の発議により、国民投票による必要があるはずの憲法改正が、国会議員の単純多数で容易になされることになってしまい、おかしいからです。

現在の国際法学説の多数が、二元論によっていると考えられます。簡単に言うと、国内法が国内の場で、国際法が国際の場で、それぞれ至高の存在であるとするものです。

国際法に違反するある国の行為も、その国の領域の中では、その国の政府や裁判所が合法であるとする限り、合法であると言う他無いからです。国際法に反するからといって、その国の中では、その国家の行為が無効になるわけではなく、完全に合法・有効です。

しかし、国際社会では、国際法違反であると、その国の国家責任を生じることになり、国際的な非難を浴びるし、場合によると、国連などを通じて世界の諸国から何らかの制裁を受けることもあり得ます。

国内法が国内の場で、国際法が国際の場で、それぞれ至高の存在であると解するのが、最も国際社会の現実に則していると思います。

もし仮に、国連憲章で集団的自衛権を保有することが、法的な義務であるとすると、これを保持しないことが、国際法違反となります。しかし、そうではありません。国際法は、そういう国の権利を認めるので、集団的自衛権を保有するとする国があっても、これを違法とはしないというに過ぎません。

従って、第一に、国連憲章の存在により、わが国の憲法9条の解釈がストレートに決定されるものでは決してありません。第二に、国連憲章は、集団的自衛権の「権利」を認めるが、これを保持しないとしても、このことに国際法は関知しません。

要するに、わが国の憲法をどう解釈し、どのように改正するかという問題に帰着します。

あんなに明確に規定されている憲法9条の条文を、それこそ、中学生が読んでも分かる文言を、国民の生命・自由、幸福追求権(13条)や、国際協調主義・国際協力義務などという抽象的でごく一般的規定や規範内容によって、異なる意味に解釈してしまうというのは、何とも筋の悪い解釈論(へ理屈)であると言わざるを得ません。

但し、筆者の主張は、このことを直裁に国民に問え!というものです。

4、憲法裁判所の必要

憲法9条の同じ条文の下で、日本は兵力・軍隊を持つことができないという解釈から、自衛隊を保有しつつ、それを戦力とは呼ばないというおかしな形式論に至り、憲法上、個別的自衛権のみを行使できるとした解釈が行われていたのですが、遂に、集団的自衛権を行使できるとされるようになったのです。これが政府解釈の変遷です。

憲法学説を単純化すると、自衛隊違憲説が圧倒的通説であった時代もあったのですが、やがて自衛隊は違憲であるが合法的存在であるという違憲合法説が有力化したり、今では、解釈によって改憲されたとする解釈改憲説や端的に合憲とする学説が有力になりつつあるようです。解釈論としては集団的自衛権の行使を否定するのが多数説です。

野党の解釈もその時代の憲法学説に準じているように見えます。

憲法9条というのは、どのような内容なのでしょう。政府の解釈、各政党の解釈、憲法学者の解釈、政治学者の解釈、評論家の解釈 etc.日本の社会には実に多様な解釈が主張されています。

ところが、憲法9条と自衛隊に関して、裁判所の解釈が存在しません? あると言えるかもしれません。統治行為論というのがそれです。高度に政治的な問題であるので、裁判所は何も決められないというものです。

政治部門に委ねる。

結局、自衛隊法の改正は、政府と、与党という国会議員によって、達成されました。国会の単純多数で決められるということなのです。

このような社会に並立する様々な憲法解釈論と、社会的な混乱の中で、裁判所による有効な解釈がなされず、結局、政府解釈が有権的で最終的な憲法解釈とされるということになっています。

政府解釈が有権的最終的な憲法解釈!???

政府が憲法をどうにでもできるのですか?

憲法が、国家権力の最たるものである政府を拘束するものであるとするのが、立憲主義だったはずです。

司法消極に過ぎるではありませんか!

裁判所が政治を忖度するとは、三権分流がないがしろにされている、どこかの国みたいですね。

既存の裁判所ができないのなら、憲法裁判所を作るしか無いのではないでしょうか。

5、まとめ

そこで、筆者の主張をまとめると次のようになります。

個別的自衛権と集団的自衛権の境いめを明確にして、どのような場合に、何ができるかを、憲法に書き込むべきである。

このことについて、政治家が嘘偽りなく、分かりやすく、明白に主張し、直裁に、国民に問うべきである。

国民的議論を巻き起こして、その結果として、憲法の規定が確定されたら、その憲法はどうしても守らないといけない。

そのために、既存の裁判所にはできないのだから、憲法裁判所を設置するべきだ。そのための憲法改正も必要である。

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