法解釈と、憲法2018年04月15日 01:44

以下、少々長い前置きです。

少し遠出して、野菜の創作料理のレストランに行きました。

曇り空から、パラパラ雨が降り出して、石畳の道に黒い染みを付けて行きます。その店の前まで早足で歩き、大きな木の扉を押すと、でてきた店員さんに、ひと差し指を立てて、「ひとり」と言い、女性客が大声でおしゃべりしている席の隣に案内されました。

注文を取りに来た店員さんに、若い女性でしたが、「これ」と、メニューの一つを指すと、「サラダドレッシングは、どれになさいますか」と聞かれ、麦味噌ゴボウというのを指して、また、「この一番上の、ゴボウの」と言うと、「分かりました」。

その若い店員さんは、注文を調理場に伝えるとき、「やっぱり、漢字が読めないんだ」と囁いていました。実は、漢字が読めないのではなく、近視メガネをかけたままだったので、老眼のかかった眼には、字が霞んでいたのです。「やっぱり」と言う言葉に怪訝な感じを覚えたのです。

何度か行ったことのある店なので、前も同じことしたかな。

何種類か眼鏡を持っています。ど近眼なので、牛乳瓶の底のような分厚いレンズのものも持っていますが、普通はコンタクトレンズを付けています。中学のとき初めてコンタクトレンズに挑戦しました。当時はメニコンO2というハードレンズが出た頃で、眼鏡店の店員に勧められるままに、これにしたのですが、痛くて涙が止まらなかったことを覚えています。
今はソフトレンズにしているのですが、それ以来、コンタクトレンズを装用しています。遠くが良く見えるレンズだと、目が疲れるので、あまり度の強いレンズは避けて、普段はその上から弱い近視用眼鏡をかけています。そうすると、眼鏡を取ると、近くが良く見えるのです。この眼鏡を数種類持っていて、気分に応じて変えます。

フード付きパーカーにジーパンを履いていると、本人はちょい悪気味のおやじを気取っているのに、妙に若く見えるらしく、見栄を張って眼鏡を外していないことを、その店員さんに気づいてもらえなかったようです。

前置きが長くなりました。長すぎたかな。

1、社会を見るレンズ

この社会を見るとき、あなたはどんなレンズを通して見ていますか?

目が良いので、眼鏡も、コンタクトレンズも要らない、と言うかもしれません。
いいえ、そういうことを言っているのではありません。

物理学に「ひも理論」というのがあるそうです。門外漢なので、全く分からないのですが、この世界にある物体の全てが、分子からなり、更に、これが原子からなり、更に更に、これが素粒子という物質からなると言います。そんなもの、顕微鏡でも見えないらしいです。その素粒子が、様々なひも状の物質であるとする仮説です。そうすると、目の前にあって、つまらない日本のドラマを映し出しているテレビや、家具や、絨毯や、・・・、空中に漂うちり、ほこり、空気?その気体を構成する物質まで、素粒子を見ることができるレンズを通してみると、そのようなひも状の物質がうごめく集合体としてのみ見えることでしょう。

あるいは、この世界を「ことば」だけで構成されるのだと考えることもできます。「ことば」がなければ、その物体は存在しないのです。人間社会は、全てのものを名付け、その関係を表す「ことば」を発明し、この世の中のあらゆるものを「ことば」で表すことができるようになりました。思念や感情までも。
そうすると、逆に、「ことば」が無ければ、この世の中には何も存在しないことになりませんか?

どのような「ことば」で?

日本語? 英語? フランス語?・・・・世界中にある言語の数は数えたことがありませんが、民族や住むところに従い、無数にありそうです。

先の物理学ではありませんが、物理学者の研究集会で語られることばを、それが日本語であるとしても、非専門家が理解することは容易ではありません。

実は、この世界を、法律のことばでだけ記述し尽くすことも可能なのです。

2、法のことばと解釈

次に民法709条の条文を示します。「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」。

日本の民法709条は、故意、過失により、他人の権利または法律上守られる利益を侵害し、損害を引き起こした人は、その他人の損害を賠償する(埋め合わせる)責任があることを規定しています。

過失というのは、簡単に言ってしまうと「落ち度」があるということです。その落ち度があるというためには、まず、他人に損害を与えないよう、注意する義務があるという、注意義務を前提にします。その義務に反するから、落ち度=過失があるとします。

例えば、自動車で猛スピードで走行した結果、人を撥ねてしまって、大怪我を負わせたとすると、そのようなスピードを出さないで、人と衝突しないようにするべき義務に違反するので、運転者には過失があります。

この社会は注意義務で満たされている?
道を歩いていても、他人に損害を与えないように注意しないといけないの?
いつもいつも、そんなに気を使っていられないですよね。

普通は空気のように気づかないけれど、問題が起こった途端、そんな義務があったことに気付くのです。

普通に道を歩いているのではなく、車道にむやみに飛び出したとします。交通法規を守って走行している自動車が、飛び出した人を避けて急ハンドルを切ったために、道路端の電信柱に激突して、運転者が大怪我を負ったとすると、歩行者には、そのような無謀な行為をしないで、運転者の損害を避ける義務があるのに、その義務に違反したので、過失があるとします。

以上は、民法709条の「過失」の「解釈」です。条文だけではなく、その解釈自体が、法のことばです。

3、憲法の解釈

民法は、私法に属します。つまり、私人と私人との間の関係を規律する法です。この点で、基本的に、国家と私人との間の関係を規律する公法とは異なります。

私法は一般に柔軟に解釈されます。しかし、憲法のような法は、そう柔軟に解釈することが許されない種類の法です。

立憲主義の由来からも分かるように、憲法が政府の手を縛るために制定された法だからです。強大な権力が、国民の権利を踏みにじることが無いように、国民の権利を規定し、容易に国家の仕組みを変更しないように、国家制度の根本を規定しているからです。
ところで法は、「賢慮」あるいは、賢慮を生じる場とも言われます。ローマ帝国時代に生じたローマ法以来の法的な判断が集積した人類の叡智であるとする考え方です。また、法的ルールを解釈して、紛争を解決することは、法が賢慮を生み出す場として機能していることを示します。

ルールを解釈するために、いくつかの解釈原則(code)が編み出されました。その解釈原則を駆使しつつ、法を解釈して、事実に当てはめ、紛争を解決するのです。ローマ時代の法諺から、西洋中世には各民族に固有の慣習を付け加え、修正を経ながら、近世に至り、そして近代法が誕生しました。絶対王政を打ち倒した市民革命により、民法典が制定され、そして立憲主義に基づき憲法典が生み出されたのです。

憲法のような国の基本法は、抽象的な、一般原則が並列しているものです。その一般原則は互いに対立しかねません。一個の条文中に例外則が規定されている場合もあり、常に矛盾に満ちた存在です。条文間の優先順位すら、解釈の産物です。

このような場合には、論理からは、あらゆる結論を導き出すことが可能となります。しかし、論理操作の一切が法解釈ではありません。法の解釈を行う専門家には、その国の法伝統に従う解釈原則に則った解釈としての規範的な議論のみが法解釈として認知されます。

しかし、そのような法解釈も一様ではあり得ません。実に多様な解釈が可能となります。文言の通常の意義、法全体の文脈、起草者意思、立法者意思、起草文書を参照して、論理的議論を重ねて、あるいは母法となる外国法の解釈や、法が生み出された時代背景を含めて、解釈者の結論が区区となることが通常です。

それでも、このような法解釈にも一定の枠が感じられます。これ以上は、解釈としては無理だとする、解釈としての限界があるとされるのです。このこと自体は、三権分立の原則に照らして重要です。解釈者は、立法者ではないからです。法学者も、裁判所で通用する解釈を目指します。裁判所は法の解釈を行うことができるだけであり、法を作ることになってはいけないからです。立法は国会が行うのです(憲法の場合、改正には国民投票まで必要です)。

4、日本の法学者と解釈の枠

日本の法学者は、大学法学部の指導教授の下でその絶大な影響を受けながら、研究生活を開始します。師匠と弟子という言い方をするのが一般です。まるで徒弟制度ですが、指導教授にもよりますが、弟子が師匠と学説的に対立することもまま見受けられことです。著名な研究者は多くの弟子を取ることが多く、日本の様々な大学の教員となり、更に、その教員から孫弟子が生まれます。これを系列と呼びます。

わが国の法学者の世界では、他の分野同様、東京大学と京都大学の派閥があります。ことに、憲法とか国際法では、この両者の対立が、学説的にもそうですし、学会における派閥争いも相当激しい側面があります。この両者が日本の大学をいわば系列化しており、旧帝大系国立大学や、早稲田、慶応などの私立大学が、これに次ぎます。いずれにせよ、東大、京大の学説的影響力は群を抜いています。そして、多くの場合に、両者の間で、解釈的態度に相違があるとされています。ごく概括的には、東大出身者は比較的自由に目的論的解釈をする傾向にあり、京大出身者は、むしろ文言に即した厳密な解釈を好むとされます。もっとも、これはごく概括的にそう言えるだけであり、人によっては異なることがあるのは当然ですし、法律の性質にもよります。

このような子集団毎の共同体が更に母集団を形成し、各々の集団が間主観的共同体を形成しています。誰に強制されることが無いとしても、系列に特有の解釈態度があり、更に、その法律科目毎のいわば「間(マ)」のようなものがあります。この間を外すと、間抜けな解釈として、非難されたりするのです。このことが、外界に閉じられた仲間集団として、これに入らない余所者を受け入れない原因にもなり得ます。

このような法学者養成のあり方も、法解釈の一定の枠が生じる原因の一であるかもしれません。

しかし、民法のような科目であると、その財産法分野は明治時代にできた条文を現在に至るまで、ほぼそのまま使っています。民法起草者(東大教授)の起草意見を編纂した書物やその教科書、同時代の著名な複数の教科書があり、これが時代の変遷とともに、社会の変化に応じて、解釈の体系が変化すると、新たな教科書がものされ、学界の中で最高峰と目されるに至るという、民法解釈の理論体系の変転が常に生じるのです。研究者による理論体系としての対立もあるのですが、これら理論的変転の樹形図を最初から跡づけるという研究から、解釈には一定の枠を生じます。

日本国憲法は、戦後制定されたものです。それでも、その後の解釈学者の理論的変転を跡づける研究により、一定の枠を生じると言えるでしょう。論理的に可能な全ての解釈を許さない、法解釈としての一定の枠の存在です。

このような解釈の枠を、法解釈の客観性と呼ぶことが一応できそうです。

法の研究者は、西欧法伝統を、主として、その母法となる法に遡り研究しつつ、わが国における実に多様な研究者(同業者)による解釈の変遷を跡づけているのです。

ちなみに、わが国の法は、ドイツ法の影響を強く受けている場合が多いです。しかし、フランス法や英米法の影響を受けていることもあり、これらの比較法的研究も欠かせません。憲法の母法は、アメリカ法であるので、アメリカ憲法の研究も極めて盛んです。ドイツ法系の研究者と拮抗しているようです。

5、憲法解釈と枠

立憲主義の下で、憲法解釈には枠があって当然であるとは考えられます。論理的に全ての解釈が可能であり、政府が如何ともできるのであれば、もはや立憲主義とは言えないからです。その点で、文言を尊重する解釈が望ましいとも言えるのですが、時代が変わり、社会が変わる場合に、解釈を変更する必要があるのも事実でしょう。憲法が時代に合わない場合です。しかし、解釈の枠を超える「解釈」は許されるべきではありません。そのような場合は、憲法の改正をするべきです。

政府解釈の変遷は、この枠を超えているのではありませんか?

憲法解釈をする研究者の醍醐味であると同時に、気の毒に思われる側面は、憲法解釈に関する議論が政治的議論と混同されがちである点です。また、憲法に特有の問題として、むしろ政治的な意味において、「解釈として」発言をする必要に迫られることもあるでしょう。ひょっとすると、憲法学者は、政治的意図を有する間主観的共同体として積極的に評価可能かもしれません。

憲法を解釈する人はどのようなレンズを通して、わが国の憲法を見ているのでしょう?

憲法解釈は、政府に専属するのでなく、解釈学者や一部の知識人のみのものではありません。一部政治家や知識人が、憲法はこういうものであるとして、大衆を教え諭すことで足りるものではないでしょう?これではエリート主義です。真の民主主義のためにには、国民の議論によって、憲法の解釈を確定するべきではありませんか?

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