憲法解釈と改正2019年02月03日 23:51

昼から雨。ベランダの観葉植物の大きな葉に小さな水滴が転がっていました。
遅い時間に漸く、ブログの更新です。
次回は、2月15~17日の間に更新する予定です。

憲法9条の解釈?

憲法9条の解釈論の複雑さには辟易とします。私が学生だった頃は、当時の憲法の教科書を何冊も、喜々として読み比べていました。それでも、1項と2項の関係において、各項の解釈の組合せと場合を尽くす議論に、幾重にも分岐した学説を整理するのがやっとであったことを覚えています。そのときの憲法の先生は、自説以外を答案に書くと点数が悪いというもっぱらの評判でしたが、私はどの科目でも自分で考えた結論を答案に書くことにしていました。その結果、よく勉強したのに、「良」しかもらえなかった苦い思い出があります。

これから述べることは、憲法学者でもないし、安全保障の専門家でもない者が考えたことです。その前提で、議論にお付き合いください。

さて、

憲法第二章「戦争の放棄」は、次の条文からなります。

第九条 第1項
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

第2項
 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

この9条の「解釈」です。

憲法制定時における吉田茂内閣の立場(昭和21年)から始めるとすると、個別自衛権の否定と、いかなる戦力の保有も許されないとする解釈から、個別自衛権の肯定へと政府解釈が変更され、

これが、少なくとも鳩山一郎内閣のときまでには(昭和29年~)、そのための最小限の実力としての自衛隊を保有することが合憲であるとする解釈が確立されたのです。

そして、田中角栄内閣の時に個別自衛権を行使可能としつつ、集団的自衛権は、憲法の制約の下、行使できないとする政府解釈が明確にされました。これが、現在の安倍内閣において、平成26年に至り、集団的自衛権の一部が行使できることになりました。

「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきである。」(平成26年閣議決定)

今でも、自衛隊が軍隊であることは政府解釈として認められていません。

内閣法制局の解釈によれば、従来、武力行使と一体となった後方支援が集団的自衛権の行使に当たるとされていたのです。これが、安保法制の改正により、上述の閣議決定の要件の下では可能とされるようになったわけです。

ここでは、憲法9条の政府解釈の変遷が、このようになされたということを確認しておきましょう。

そうすると、例えば、北朝鮮の核ミサイルが韓国内に打ち込まれ、更に、わが国に照準を合わせていることが確認されたようなとき、アメリカ軍が北朝鮮を攻撃する場合を想定します。わが国への存立危機事態である蓋然性が50%を超えると判断されると、公海上を航行中のわが国自衛隊艦船「いずも」に、アメリカ軍の爆撃機が停留、給油を受け、そこから出発することは許されそうです。

また、更に、上のアメリカ軍機が北朝鮮の戦艦に攻撃されているときに、これを助けるために自衛隊が、北朝鮮戦艦を攻撃することが許される可能性があるということになるでしょう。実は、法的には、船舶についてはその旗国の領域であるとされるので、この場合には既に相手国領域への攻撃に等しいとも言えます。

国会議員の議論において、わが国が敵地攻撃能力を保有することについて議論されることがあります。

個別自衛権と専守防衛についても、次の例を考えてみましょう。上例で、核弾頭がわが国に向けられているときに、わが国の自衛隊航空機が、アメリカ軍とともに、あるいは単独で、北朝鮮領域内にあるミサイル基地に対して攻撃に向かうとすると、わが国の敵地攻撃能力に基づき実力行使することを意味します。個別自衛権の発動が専守防衛に基づくとしても、抽象的には、必ずしも、わが国が敵地攻撃能力を保有しないことを意味しません。

「専守防衛」という語の解釈によるでしょう。①わが国領域が実際に攻撃された場合にのみ、その後、これに対応することを意味するのか、それとも、②わが国への攻撃が確実に予測される場合をも含むのか。(a)わが国領域内においてのみ抗戦し、相手国の軍隊をわが国領域外に追い返す、あるいは未然に着弾を防ぐことのみを意味するのか、それとも、(b)わが国領域外の周辺において、相手国軍隊と交戦することまでは認めるのか。(c)相手国領域内における攻撃まで認めるのか。

①に対して、(a)~(c)まで、又は、②に対して、(a)~(c)までの、どこまでの武力行使が許されるのでしょうか。専守防衛の語の解釈として、①に対して(a)のみとする立場から、①と②に対して(c)まで含むとする立場まで有り得るように思われます。当然、前者からは、後者は「専守防衛」を踏み越えるとするのです。そのほかに、①、②に対して、(a)~(c)の多様な組合せが考えられます。

先ほどの例に戻ります。韓国に核攻撃がなされ、北朝鮮の弾道ミサイルがわが国に向けられていることが確認されたとき(②の場合)、ミサイルが発射されるまで待って、わが国領域内において、これを迎撃する(a)、わが国の自衛隊が出動して、北朝鮮のミサイル基地を攻撃する(c)の、いずれかの立場が有り得ます。最後の立場が、②に対して(c)を含むことになります。

このことについて、未だ不勉強なので、わが国政府解釈がどのあたりであるのかよく分かりません。国会で、しっかりと議論をしてもらいたいところです。

ここで、先ほど述べた憲法9条の政府解釈の変遷を思い出してください。

日本が永久に戦争を放棄し、従って自衛のためといえども戦力(実力でも、軍隊でも何でも良いです)を保有しないとする解釈から、現在の、明らかに軍隊である自衛隊(政府解釈のいう最小限の「実力」)の公認と集団的自衛権の一部、片面的行使まで、わが国における政府解釈が変遷しているのです。これを要するに解釈改憲ではありませんか?

「政府」の「解釈」によって、政府の手を縛るための憲法が改正されていることを意味します。憲法改正とは正面からは言いにくいので、ただの解釈の変更とされます。

もっとも、このことは憲法解釈の第一の担い手である憲法学者も免れません。私の学生時代(おおよそ40年前(^-^*))の通説が自衛隊違憲説であったのです。現在の多数説が自衛隊は合憲であり、かつ、個別自衛権のみが認められるとするようです。時代が変わり、社会の要請に応えて、解釈学説がゆっくりと変わったようです。法に携わる者は、得てしてこのように「保守的」です。

自衛隊を違憲とする学説の中にも、その当時の社会党がこれを採用したのですが、自衛隊を違憲ではあっても合法的な存在であるとするものもあるのです。違憲かつ合法? 実に奇妙ではあります。しかし、自衛隊は、「実力」と呼ぼうと何と呼ぼうと、実際には誰もが認めるように軍隊であり、しかも厳然として存在するのです。国民もそれを容認し、必要としている。憲法学者がその解釈に苦心惨憺してきた歴史が窺えます。

法の解釈も、時代が変わり、社会が変わるとともに、変わり得るとは言えます。これも法の性質に応じてその柔軟さが異なるのです。例えば、民商法のような私法であれば、相当柔軟に解釈が変わる場合のあることを認めることができます。

しかし、一例を挙げれば、法的な母子関係の成立について、生殖補助医療の進展した現在においても、子を懐胎し出産した母のみが、子の法律上の母であるとする解釈を、わが国の最高裁が維持しています。従って、父母の受精卵を子宮内に移植された代理母より誕生した子は、たとえ遺伝学的には卵子を提供した母の子であるとしても、従っていわゆる血の繋がりのある子であるとしても、卵子提供者は母子関係を否定され、代理母の方が法律上の母であるとされます。代理母など知らなかった戦後間もない時代に制定された家族法であっても、法は、現在においても、そのようにしか解釈できないからだとしています。判決は、これを解決できるのが立法機関だけであるとしているのです。

代理母についての結論について賛否を述べるのではありません。しかし、次の様に言えます。裁判所や行政機関は、法を「解釈」することしかできません。三権分立の観点から、法を作る(「立法」する)のは国会であるので、自ずから、法の解釈には限界があるべきなのです。国会は選挙で選ばれた国民の代表から構成されるから、その作った法に国民が服するという、国民によるコントロールと法の支配の関係が民主主義の根本にあるからです。

さて、憲法はどうでしょう。憲法と通常の法律とは異なります。法律より優越する最高法規が憲法であり、憲法違反の法律は無効となります。憲法を全く政府の「解釈」に委ねる、どのように「解釈」しても良いというのでは、憲法の定義に悖ります。憲法の、解釈を超える改変は、憲法制定権力の発動を待たなければなりません。憲法制定権力とは国民の意思です。

自民党の改憲案は、9条をそのまま残して、9条の2を設け、自衛隊を明記するというものです。しかし、与党内においても必ずしも議論が収斂していないようです。改正発議に向けて、十分な準備が整っていると言い難いでしょう。
https://www.sankei.com/politics/news/180503/plt1805030019-n1.html (産経新聞インターネット)

立憲民主党は、自民党政権下における憲法改正に反対であるとしています。

自衛隊と憲法の関係について、上述のような問いに対しても、私自身が明確な回答を持ちあわせていません。少なくとも、自衛隊が必要であるなら、それは合憲でなければならない。もうこの辺で、自衛隊と憲法の関係について、国民の意思を問うべきではありませんか?そのための憲法改正手続なのです。

新冷戦と、集団安全保障?2019年02月16日 18:52

この時期、大学の教員はとても忙しいです。通常の期末試験の採点に加えて、卒論の指導、入試の監督、採点があります。論文の締め切りもあるし、予算処理も面倒だなぁ。もうそろそろ、木蓮の蕾も膨らんできているでしょうか。春には、大学正門前の桜の下を、晴れやかな顔をした新入生達がまたやって来ます。



2月2日、米国が中距離核戦力(INF)全廃条約から離脱しました。ロシアがその義務を履行していないとしています。ロシアはこれを否定していたのですが、米国による義務履行停止の通告を受けて、ロシアも即応しました。中国は、そもそもこの条約には無関係であり、遠隔操作による攻撃能力を高めているとされています。各国が中距離核兵器の増産に踏み切るかもしれません。その可能性が高いのです。先の冷戦終結の象徴が無くなり、新冷戦が始まりました。

中距離弾道ミサイルが、各国に配備され、容易に核弾頭を装着できる状況にあるのです。

日本は、アメリカ、中国、ロシアの三国に接する交点に位置します。アメリカの前線基地を擁する日本に、アメリカの弾道ミサイルが配備されると、数十分の内には、相手国領域に着弾します。その脅威によって、日本自体が、中国やロシアからも標的となり得ます。

核戦争が現実に起こるとするなら、集団的自衛権と専守防衛を巡る安全保障の議論はただの机上の空論に過ぎません。わずかな時間で、互いの核ミサイルが飛び交い、双方に多大な被害をもたらすからです。核弾頭の前の通常兵器はハチドリでしかないでしょう。もっとも核兵器の被害は甚大であるから、これを避けるためには、双方がハチドリの攻防に終始するのかもしれません。そびえ立つ核ミサイルを目の前にしながら、互いに、戦艦・戦機と砲弾による戦争にとどめるよう自制するのです。

前述したように核の脅威を前提とする新冷戦が開始されました。現代の冷戦は、資本市場主義を採用する国々があらゆる交易を行いつつ遂行する点で、過去のそれと異なります。相手が商売の良い取引相手であり互いに金儲けできる限り、おいそれとは戦争を始めないでしょう。しかし軍事的脅威をも背景として、貿易戦争が勃発しました。各国のナショナリズムが高揚し、将来の経済的覇権をかけた派手な戦争です。

アメリカの経済ナショナリズムはトランプ政権の下で自明です。他国で行われる人権侵害を問題とし、テロに対抗する防波堤たらんとして、世界の警察とまで言われたアメリカの軍事的側面が、シリア撤退に見られるように後退し、アメリカ・ファーストはアメリカ一国主義に堕しました。まるでモンロー主義に戻ったかのようです。

中国は自由貿易主義を標榜しているが、実は、狡猾に世界経済のルールを潜脱し、自国の経済的覇権を確立してアメリカを追い抜こうとする野心が歴然としています。その軍事的拡張も明らかであり、少なくとも軍事的な制圧圏を更に拡大しつつあります。アメリカと世界を二分し、対峙していこうと考えているのです。

日本がアメリカの核の傘に守られています。核兵器の数あるいは破壊力の数値が均衡していることが、核抑止力であるなら、核保有国による際限ない核軍拡に陥ります。もう既に始まっているのです。そもそも核抑止力は核保有国の疑心暗鬼に基づく被害妄想の産物に過ぎません。世界を何百回も何千回も破壊して余りあるほどの核兵器を既に持っているのだから。

しかし、核兵器に対する被害妄想とハチドリ作戦の机上の空論は、異常な博士の頭の中にあるのではなく、それこそが現実の国際社会なのです。

その真っ只中に日本もある。
この世界を眼前に置くとき、諦念に基づく安全保障の議論が始まる。

各国の野心と妄想の大きな渦に、日本も巻き込まれざるを得ません。

そのような国際社会とのお付き合い、殊に、三国の中で最も恐いアメリカの要求に必要最小限のお付き合いをしなければならないでしょう。そして、現実の日本の政治において、核の暴走を食い止めるべく、その臨界点を見定めながら、核削減の方途を模索し、各国間の平和を達成するように積極的な役割を果たしてもらいたいものです。

同時に、今現在の政策とは別に、未来を見据えた、多国主義、国際主義の集団安全保障の構想を持たなければなりません。トランプ大統領がNATO脱退の口吻を示していることが話題になっています。アメリカにとって一方的に不利な、すなわち金がかかる状態であることを、トランプ政権が問題視しています。ヨーロッパ諸国のアメリカに対する不信感が高まっています。

アメリカ軍基地の存在によって三国の交点に位置せざるを得ない日本にとって、アメリカとの強い関係を継続しながら、どのような多国間の集団安全保障が構想できるでしょう。第一にオセアニアが候補となるかもしれません。西洋文明を接ぎ木した日本からみて、政治的、経済的体制が似通っており、普遍的価値観を共有することも可能な国々であるからです。もっとも、独立的であっても英連邦に属しており、イギリスとの関係の深い地域です。

地理的には、東南アジアも考慮の余地があるでしょうが、各国の政治的、経済的発展の度合いがまちまちであり、日本の安全保障の観点からみて、相当のリスクを負うので、現在直ちには対象外とならざるを得ないでしょう。しかも、この地域は、歴史的に中国及びインドとの結びつきが強く、日本との独自の集団安全保障体制ができるとすると、両国との関係が問題となります。特に、中国は、自国と結ぶ一路一帯の交易路を構築するとして、権益の拡大を図っているので、黙ってみているとも思えません。充分の時間をかけて、日本が、法制度の構築やインフラ運用における技術的協力など、ソフト面での協力関係を強め、人権・人道面での貢献、特に女性や子供の支援と、環境保護、消費者・労働者保護など、日本と友好国が主導して、この地域全体に高いレベルで共通の価値観を醸成することができたなら、将来的にはEU型の共同体に発展する可能性も否定されません。そのときには、NATOのような仕組みも考え得るのでしょう。

あるいは、距離は遠いが、日本が欧州諸国と集団安全保障の態勢に向かう方が手っ取り早いのかもしれません。その前に、日本がEUに加盟するということも、あながち考えられなくもありません。