子供の日に、少し遅れた憲法記念日2019年05月05日 20:06

久ぶりに更新します。論文の締め切りが迫っています。少し息抜きをするために、奥道後 ♨︎ に行ってきました。大きな露天風呂に浸かりながら、裏山の新緑を眺めて来ました。(^ ^)

今回から、本文については、デスマス調をやめました。デスマス調の文章にするのに手間がかかります。

子供の日に、少し遅れた憲法記念日です。



今年の4月18日に、経済同友会の憲法問題委員会が、憲法問題に関する活動報告書を公表した。グローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展によって、未曾有のスケールとスピードで変わろうとしている世界の中にあって、日本の新しい社会のあり方を考えるために、国の形を規定する憲法の議論が避けれらないとしている。

確かに第3次産業革命が更に進展している。その上、日本が世界の中でも最も早い方のペースで人口が減少する国となった。少子高齢化社会に対する政策を策定し、全力でこれを実行すると、政府がその取り組みを喧伝している。女性と高齢者の労働力の活用余力がそろそろ上限に近づいていおり、労働力不足を生産性を下げることなく克服するためには、AIとロボット技術の開発を促し、これが必要に応じて実際に用いられる社会とすること、同時に、それでも不足する部分を外国人労働力で埋め合わせることが喫緊の課題となっている。日本社会が多様性に寛容であることが一層要請されている。

女性や高齢者に対する差別の克服が叫ばれて久しい。これらの人々が充分に能力を発揮できる社会となるために必要不可欠である。その他のマイノリティーの問題について、同じ文脈においても言及できる。

外国人移民の受け入れに伴う更なる価値観の多様化と、社会全体のコミュニケーションの方法が革新される必要があるかもしれない。同質的な日本人社会のコミュニケーションに慣らされており、空気を読むこと、腹芸、忖度が、渡世のための必須の社会的スキルとなっているこの国に、そのことが必ずしも前提とならない人々と暮らすことになるからである。このことは、外国人移民を受け入れるからというだけではなく、もともとグローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展により、世界が極端に狭くなってきたのだから、日本という国が、あらゆる文化や産業において、今後の世界の中で生き残るためにこそ必要なのである。

工学などの理系分野のみならず、法学、及び、経済学とこれを社会に応用する商学、社会学や心理学といった社会科学と人文学を総動員して、社会的イノベーションを生み出すのでなければ、このような「国難」を乗り切ることは不可能であると思われる。

このような日本の社会及び日本を取り巻く国際社会全体の大きな変動をむかえて今日、日本の憲法はどうあるべきなのだろう。

日本国憲法の改正には、国会議員の3分の2以上の賛成と国民投票が必要である。従って改正がとても難しい。硬性憲法である。実際に、憲法が制定されて以来、改正されたことがない。

しかし、日本の憲法は、非常に抽象的、簡明であって、主として理念を宣明する憲法である。実際には、法律や判例によって補完されることによってその意義が明確にされていると言われている。実質的な意味の憲法が、「憲法」という名の法典を含めて存在しているのである。そのような法律が憲法付属法と呼ばれることがある。実質的な意味の憲法には、政府見解による憲法解釈も含まれよう。憲法典を取り巻く、実質的憲法の範囲が諸外国よりも広いと考えれる。外国では憲法典に書き込まれているようなことも、法律に規定している場合がある。すると、外国では憲法改正手続きによらなければならないことが、法律の改正、すなわち国会の単純過半数で改正可能であることになる。

このことにも良し悪しがあるだろう。例えば、選挙権を与えられる年齢が憲法に書かれている場合に、これを引き下げる度に、憲法を改正しなければならなくなる。日本であれば、公職選挙法を改正するだけで、選挙年齢を20歳から18歳に引き下げることができたのである。選挙年齢をそれほど重要視しないなら、憲法改正手続きによらねばならないとすることは煩雑であろう。

政府の憲法解釈というのが、日本のような議院内閣制を取る場合には、与党の支持を前提にするので、結局、国会の過半数の意見に相当するとも言えよう。

そもそも国家権力、具体的には、国会、政府、裁判所といった国家機関に義務付けを行うのが憲法である。そして、憲法を制定する権力は、国民にのみ与えられている。ある法を、作ること=制定・改正と、解釈することとは全く範疇の異なることなのである。憲法を、国会の単純過半数で改正できるとすること、まして政府が勝手に改正できるとすることが、ナンセンスである。

国会議員は国民の選挙によって選ばれた代表であるから、その決定で構わないとする議論もあり得よう。しかし、それでは何故、憲法の改正手続きが定められているのか分からない。憲法が法律と異なり、その改正には特別に厳格な手続きを用意した意味である。

憲法が抽象的であり、憲法的内容を国会、政府、裁判所が補充できる範囲が広範に過ぎるのであるなら、このことが既に問題なのである。他方、日本の裁判所は一般に憲法判断を可能な限り回避する傾向があり、違憲の判断を下すことに躊躇する。法の専門家であって、憲法を解釈できる最後の砦であるべき裁判所である。結局、重要な憲法問題について、国会と政府に委ねられることになる。

憲法9条と自衛隊との関係、日本が保有する自衛のための実力の解釈、専守防衛の範囲について、政府解釈が幾度も変転し、このことがその都度、憲法の内容に変更をもたらしたとする考え方が多い。憲法9条の文言は極めて平明である。世界に類例のない戦争放棄を規定している。素晴らしい理念である。もっとも、類例がないということは、経済力そのほかの能力の点で可能なのに、そのようなことをしている国が他に無いということである。

このことを世界に冠たるものとして歓迎する人々がいる。私たちの世代は、義務教育の頃から、社会科の教科書に基づきそのように教わった。政府解釈がその内容を補充し、その上、変えてしまったとして非難するのである。他方で、時代と日本を取り巻く国際情勢の変遷を受けて、政府・が適切に対処したとして、これを歓迎する意見もある。その内容の良し悪しについては、ここでは触れない。しかし、憲法9条は、その言葉はそこに厳然として存在している。

先に述べた実質的憲法の範囲で、国会と政府によって、「日本国憲法」として書かれたテキストの内容について、重大な変更を来したのは間違いない。憲法という法の性質を考えると、このこと自体がおかしいと考える余地がある。憲法という法の力を損なっている。

国際社会の進展に応じて、新たな日本社会に必要な、具体的な内容を憲法に書き込むべきである。憲法を変えないことが護憲であるとは思えないのである。