国際主義と国家主義2019年06月02日 13:11

やっと論文の締め切りに間に合いました。所属する学会が多数あるのですが、その一つである国際私法学会の機関誌向けに投稿するものです。もっともまだ査読がありますので、掲載が確定しているわけではありません。ちなみに、国際私法は法例という名の法律として明治期に制定されていましたが、戦後、国際私法学会が1949年に創立され、今日240名を超える会員を擁しており、ほとんど全ての会員が国際法学会の構成員でもあります。

可能な限り、隔週で更新して行こうと思います。次回は、22日ぐらい、週末を予定しています。


トランプ大統領が先日来日していました。当初は、首脳同士の話し合いにより、日米の貿易交渉にある程度、解決の方向性が見いだせるのかもしれないという期待があったのです。しかし、今回はそのような無粋な仕事の話は適当にして、日米の親善のため、アメリカの大統領が新天皇御即位の挨拶に来たということになりました。アメリカでは観光旅行として揶揄されたようです。

今回の大統領来日によって最も得したのは、安倍総理と自民党でしょう。日本の政治家のすることで、アメリカの大統領をここまで上手く使えたことがかつて無かったと思います。日本の文化を堪能した大統領は、むしろ日本国民に対して最高のパフォーマンスを発揮してくれました。

確かに、日米の同盟強化が国の内外に示されることで、日本の国際的立場がより高められることは疑いの無いことです。

以上のこととは直接関係がないのですが、最近、わが国を取り巻く国際社会で、ナショナリズムの高揚がみられるようです。今日は、国際主義の意味と日本について考えてみます。


国際共同体

国際主義という語は、internationalism という語の訳語です。国際という語が明治期に作られた造語であり、それ以前の大和言葉には存在しなかった言葉です。inter=間、nation=国ですから、internationalとは国と国との間という意味で、これに対して、国際という日本語は、あるものの周辺を意味する「際」という語を当ててその意味を表したのです。実に妙訳ですね。

国という語は、境界線で囲まれた領域に宝ものが守られている様を表しているに思えます。国語学者ではないので、この辺り思いつきです。宝物は、その時代に応じて、王様であったり、ときの政府であったり、国民、あるいはそこに住む全ての人々であったりするのでしょう。その一個一個の国を前提として、国とは異なる、国と国の間にある何かが国際です。

共同体というとき、個人に最も身近な存在としては家族や親戚であり、もう少し大きくして、村や町、そしてその町を含む地域共同体となり、ひいて国家という大きな共同体を考えることができます。個人に対する、それを囲む人の集団が共同体です。人は生まれた瞬間から共同体の中に暮らしています。

個人の集合が共同体であり、共同体の構成要素が個人です。人が隣人と協働して全体集合としての共同体を支えるのであり、共同体は人を個人として尊重しなければ、個人はそれを動かす機械の歯車でしかない。それに気づいた途端、絶望の淵に立たされるでしょう。個が協働し、個と全体が相互に影響し合いながら、個と全体としての個人と共同体が共に成り立ちます。

それでは国家共同体を超える、国際共同体は存在するのでしょうか。一国、一国が構成要素である共同体です。少なくとも、一定の領域と、そこに住む人と、支配する政府の存在として、国家という存在が人々の意識の中に確立された、近代以降において、国際社会と言うときも、単に国がたくさん地球上に存在しているという状態を指し、武力による実力行使のみが紛争解決の手段であるとすると、それは弱肉強食の社会です。地球人は何世紀にもわたって、戦争に明け暮れ、このことを経験してきました。そのうちに、一つの国の中に法があり、秩序を生み出すことが、人々が安全に豊かに暮らしていくために必要であるように、国際社会にも、国と国との間に秩序を生み出す法が必要であると感じられたのです。


国際連盟と国際連合、憲法9条

国際連合の前身である国際連盟が1920年に設立され、1928年にパリ不戦条約が締結されました。パリ不戦条約では、国際紛争の解決のための戦争放棄を規定した画期的な条約です。人類の歴史上始めて戦争が違法であるとしたのです。

戦争は悪である。漸くこのとき始めて、このことが法として確立されたのです。なんて遅いんだ! あぁ、人類は何と愚かな!!

もっとも戦争放棄は国際紛争の解決手段としては放棄されるのであり、自衛権は当然の前提として国家間において合意されていたとされています。

ところが、この条約もあの忌まわしい第二次世界大戦を防止することはできませんでした。焼け野原となった国土と夥しい数の人命の犠牲を目の当たりにした世界の人々が、今度こそそのような戦争を回避するために、国際連合憲章が作られました。その第2条4項が、他国を侵略し、その政治的独立を侵害するための、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じるものであり、パリ不戦条約の趣旨を取り込んでいます。

どこかの国が他国を武力により侵略したとしたら、その戦争は違法です。侵略を受けた国はどうすれば良いのでしょう。武力行使が禁じられていたはずです。国連憲章の基本的なアイデアは、国連軍が国に代わって戦うというものです。そのために国連軍を派遣する手続きが規定されています。しかし実際に国連加盟国による国連軍が組成され被侵略国を救済するために訪れるまで、相当の期間が経過してしまう可能性があります。そこで、国連軍が来るまで、自衛のための武力を行使し、また、同盟国との集団的自衛権を行使することを認めるのです。

以上が国連憲章の考え方です。しかし、以前にも述べたように、国際法と国内法は、国際的な場と国内的な場において各々、至高の存在です。どこかの国が客観的には違法な戦争を起こしたとしても、その国の観点からは全く正当であり、また国際法上正当化されると主張しているとすると、国連軍の派遣がなかなか困難である場合があり得るでしょう。国際社会を一個の共同体として理解し、その理想を述べるとしても、現実の国際政治とは上手くそぐわないこともあるのです。

この国連憲章が1945年に成立し、日本国憲法が1946年に公布されています。

そして、日本国憲法9条が次の規定です。

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

日本の憲法がパリ不戦条約の思想を受け継ぎ、国連憲章と踵を一にするものであることが分かります。しかし、2項が特異な存在であることが同時に了解できるでしょう。その崇高な理想を一歩進めて、その方法を戦力の不保持、交戦権の放棄として、現実の国家において確定しているのです。世界に誇るべき理念の実現でも有り得ます。

第二次世界大戦後、アメリカによる占領、サンフランシスコ平和条約締結後のアメリカ軍基地の存続、日米安保条約と、自衛権を行使するための最小限の実力行使を行う部隊の創設により、現実の国際社会の中で、むしろ憲法9条を担保する仕組みが作られてきました。日本の領域侵害に対しては、アメリカ軍が武力を行使して、日本を守ってくれるし、日本の実力部隊も共同して戦うとしているのです。そのお陰で、日本が自衛権行使に必要である以上の戦力を持たないで済むし、他国に侵入するような事態には決して陥らない。そうしてようやく、憲法9条自体は改廃しなくても良かったのです。

しかし、日本には自衛隊が存在します。それは次第に大きな軍事力を保持するようになり、まさに軍隊となっています。

憲法と自衛隊の関係については、裁判所が解釈を示すことを放棄しているので、専ら政治部門に憲法解釈が委ねられてきました。要するに、政府と単純多数の国会の意思です。

主権国家が独立併存し、必ずしも一個の共同体とは言えない現在の国際社会にあって、各国の領土的、経済的野心に晒されながら、日本の国民が自衛隊の存続を認めるようではあります。国民が自衛隊を受け入れているなら、崇高な国際主義の理念と、国際政治の現実とのバランスを考えて、もう一度整理し直す必要があります。国際の平和と安全に寄与するべく、日本の、国際社会における任務を再定義する試みがなされねばならないと思います。もとより、これが軍事的拡張主義による、武力による国際紛争処理を意味するのではありません。

国民的議論を巻き起こし、憲法制定権力の発動をみるべきです。それが政治の責任ではないでしょうか。


国際主義と国家主義

一国が、自国の利益のみを追求する国家主義が国際主義の対概念です。しかし、国家とはそもそも利己的なものです。国は、真に他国のためにのみ行動はしません。国際主義も自国の利益に通じるからこそ成立するに違いありません。国の利益と言っても、短期的利益と長期的利益の区別ができます。長期的にはその国の利益になると考えられるから、他国との交渉に応じ、たとえ短期的にはその利益を犠牲にしても、一定の合意に至ることが可能となります。利己的な国家が集まって、それぞれの国の少なくとも長期的な利益に適うなら、そのような集団を形成することもあるでしょう。

経済的な利益の観点からは、関税同盟や自由貿易地域があり、政治的、軍事的な意味において、集団安全保障の枠組みが考えられます。EU(欧州連合)は単なる関税同盟を超えて、一国の財政問題を除き、幅広い経済活動について同一の規律に服するし、政治的にも一層結びつきを強めつつあるようです。EU全体での法の統一への指向性も顕著です。EUの中で、集合と離散の二つの方向性が常に対峙しているとされていますが、現在ある、国家間の極めて密接な関係をもった国際共同体です。欧州各国は安全保障については、アメリカとNATOを結成しています。

そのような明確な国際共同体でなくとも、WTOという国際経済のルールに服する加盟国が、国際経済社会の共同体を構成しているという言い方もできるでしょう。法共同体です。同じ法的ルールを共有する国の集合です。

他方、国際連合がどの程度に共同体=communityであり得るか、現実の国際政治の世界では疑問もあります。利己的な国家の単なる集合体に過ぎず、重要なことは何も決められない烏合の衆なのかもしれません。WTOという自由貿易を守るためのルールが、アメリカから吹き荒れる保護貿易主義の嵐に揺らいでいることはご存知でしょう。

日本が、かつて国際連盟とパリ不戦条約より成る国際秩序を侵害した国でした。日本を含めて世界中の国が利己的な存在です。国家主義が大前提となります。長期的な利益のために短期的利益を犠牲にして他国の利益を慮ることが国際主義です。国際主義に基づく、国際法的共同体に属する国々は、そのお陰で、国民の命を守り、互恵的な経済的発展に預かることができるはずです。その共同体に属する構成員の全てが恩恵に預かることができるとき、その共同体が成功します。恩恵と言っても複線的で多様であり、ある意味においては不利益を被るとしても、長い目で見て利益に適うという慎重な判断が必要となります。一国至上主義、殊に軍事的拡張と覇権主義、そして大恐慌から始まった経済ナショナリズムが、かつての世界をいかに導いたかを思い起こさなければなりません。

先進各国は第三次産業革命から第四次産業革命へと向かっているともされます。目まぐるしいほどの科学技術の新規な展開と社会の変化に伴い、新しい形の一国主義が平和な世界に侵攻してきているように見えます。米中の貿易戦争は決着が見通せず、長期戦となる様相を呈し始めました。それは経済のみならす、むしろそのための科学的、技術的覇権争いです。IT技術の革新とIT産業の発展を通じてアメリカが世界を支配したように、中国が次の覇権を握ることを虎視眈々と狙い、アメリカが形振り構わずこれを阻止しようとしています。各国の為政者が自国利益優先に陥り、その確保に汲々としているようです。

各国の為政者がまず充分に国際主義の意義を認識すべきでしょう。民族主義というときも、自民族の伝統や文化を大切にすることは当然のことですが、決して他民族の排斥やその文化・伝統の排除を意味しません。多様性の尊重と文化的融合こそが全ての人々の文化や科学の新たな発展の礎となるはずです。各国の為政者が、偏狭なナショナリズムと民族主義を国民の間に鼓舞し、自己の政治的立場を擁護することのもたらす危険をこそ、国民一人一人が知るべきです。

年金と少子高齢化-金融庁報告書は正しい2019年06月25日 15:17

学会出張と重なっていたので、予告よりも少々遅くなってしまいました。
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いよいよ暑くなってきました。こちらの地方はまだ梅雨入りしていません。


国連によると、日本の人口が2058年に1億人を下回り、2100年には7500万人になるとしています。。良く耳にしますが、世界の国々の中で、少子高齢化が際立っている国なのです。65歳以上1人あたりの25~64歳の「現役世代」は、現在1・8人で50年には1・1人に減るというのです。現役世代一人が、その稼ぎで、おおよそ一人のお年寄りを支えることになるということです。ただし、国の人口推計は、より一層人口減少が進むとしていて2100年が6千万人としているので、もっと深刻です。(朝日新聞デジタル6月18日の記事より)

国会における先日の党首討論は、金融庁の報告書が一つの中心的争点となっていました。マスコミにしても、年金100年安心が神話だったとする論調が多かったようです。老後、年金だけでは暮らしてゆけず、亡くなるまでに、夫婦二人の世帯で2000万円不足するというものでした。しかし、これが報告書の前文のような部分に記載された、いわば枕詞のようなものであり、その全体の趣旨は、ことに若い世代が、老後の生活を考えて早くから準備するべきであると、国民を啓蒙するものであったようです。

年金制度の「安心」を巡る議論のために、二つの視点が重要だと考えます。一つは、高度経済成長期と現在の日本の社会や経済の在り方が異なるという点であり、他の一つは、人それぞれの条件の相違を踏まえた人生設計は自己決定の産物であるという点です。在り来たりではあっても、この間の与野党の議論や情報番組を見聞きしていると、もう一度確認しておく必要があるように思えます。

先に、後者について、簡単に言及しておきます。現役世代の収入に即して、年金資金としての払込額が異なり、これに応じて年金額が人それぞれに異なるのです。金融庁の問題視された報告書が、平均なり、標準なりを示すとしても、万人に適したものでないことは当然でしょう。年金額がもっと少ない人たちも多いのです。現役時代の生活水準を目途に、どの程度これを維持できるか、あるいは切り詰めるべきかは、各世帯ごとに違います。将来の年金額の予測に基づき、自ら準備するべき額も、その家庭毎に計算せざるを得ず、しかも、いくらを将来の貯蓄に回し、あるいは現在の生活を楽しみながら、老後はむしろ切り詰めるなど、一に掛かって各個人の自己決定に委ねられている問題であるはずです。

そこで、一つ目の問題です。

一昔前には、60歳で定年を迎え退職金をもらえば、相当の年金を得ることができました。ある程度の生活を維持しながら、70歳から80歳ぐらいの平均寿命に到達して死ぬまで、安楽に暮らしていけると、一般的には考えられたのかもしれません。これから年金をもらい老後を迎えようとする世代は、親や祖父母の世代が悠々自適に生活している様子が原体験としてあるので、年金とはそうあるべきものであると思い込んでいるのでしょう。しかし、少子高齢化の進展による本格的な人口減少社会となることを「国難」とまで言って、政府が喧伝しているのです。

現在の60歳は、親の世代ほどの年金額を期待できません。老後を支えてくれる現役世代の人口が減ったのだから。しかも、平均寿命は年々昂進しつつあり、今60歳の人が10年後、70歳になったとき一体、平均寿命が何歳になっていることやら。再生医療の進歩、遺伝子解析による先進医療の開発など、その10年の医学の発展を考えると、全く予測もできないように思えます。更に、その先の10年後はどうなるのでしょう。まさに人生100年時代の到来です。少子化と高齢化のダブルパンチです。親の世代に影響されて、のほほんと生きてきた者にとって、この現実は余りに残酷です。住宅ローンに、教育ローン、それでも生活を切り詰めて、無いに等しい利息でも、何とか貯蓄してきたのにと、嘆いていても始まりません。退職金でローンの返済を終えて、幾ばくかの貯蓄が残されるとしても、2000万円には足りないという人も多いのではないでしょうか。政府は70歳まで働けという。私個人は大歓迎です。一刻も早く、全ての国民が、働きたいなら、少なくとも70歳までは働ける環境を整えて貰わなければなりません。

日本人は貯蓄好きであるのに対して、アメリカ人は消費性向が強く、貯蓄より投資を好むと良く言われます。アメリカの年金基金は株式等による資金運用を行っています。日本の公的な年金基金は、貯蓄に相当するような安全な運用のみを行っていたのを、一部改めています。また、個人型確定拠出年金(iDeCo)という制度が創設されましたね。個人でも、将来の年金のために資金を積み立てて、運用会社と運用方法を選択できるというものです。個人の資産が投資に向かうために、NISAのような税制上の優遇措置を用意しています。私は、FPではありませんし、素人の立場でこのような資産運用をお勧めしようとしているのではありません。ここで言いたいことは、年金の不足を補うためには貯蓄では足りず、投資による運用も必要であるとする、警告めいた情報提供が、ようやく今、国民に提示されたということです。ああ、もっと早く気づけばよかった。無知な自分を恥じよということでしょうか。少なくとも、若い世代が、老後を含めたより良い青写真を描くことができるようにすることは、政治の責任でしょう。

この意味で、政府は先の報告書を引っ込めるべきではなかったのではないでしょうか。

「ゆり籠から墓場まで」の社会保障制度は高度経済成長期に、自民党が主導し、55年体制の下、野党も共同して作り出したものです。アメリカのような自由競争を信奉する国からは、日本がまるで社会主義国家に見えるでしょう。その大前提となっていた日本の社会・経済が根本的に異なるものになったのです。国家財政が累積赤字により破綻の危機にあり、このままでは年金制度が瓦解する恐れがあるとして、早くから警鐘を鳴らしたのは、ほかならぬ日本の政府です。そのときから年金不安が社会不安を惹起したようです。国民は冬眠前のクマのように、働いて得られた給料を消費に回さず、一層、貯蓄に走りました。これが個人消費の回復を遅らせ、不況を招いた要因の一つでもあるように思えてなりません。年金不安が払しょくされるまで、大多数の国民にとって、個人消費の本格的回復は見込めないのではないのでしょうか。

高度経済成長期の成功体験が社会の固定観念となってしまっていた日本において、この固定観念を打破するべく、新たな社会経済の情勢を前提にした年金制度の見通しを、真っ正直に晒す必要があります。どうすればどの程度の年金制度を維持できるかという確実な予測を示すことができれば、国民の疑念を払しょくすることに通じるでしょう。これこそが経済対策ではありませんか。どうしても生じる年金の不足には自助努力により備えるしか方法がないのです。しかし、どの程度備えれば足りるかの、明確な指針が必要です。

例えば、こうです。行政改革による財政支出の1%減と消費税の引き上げ1%を、何年間にわたり継続すれば、最終的に、消費税が何%となり、財政赤字が解消され、どの程度の年金給付額を維持できるかを、政府が宣言するのです。1%という数字は必ずしも根拠があるわけではありませんが、そのような明確性と、実行の確実性が必要です。もとより現在実施されつつある少子高齢化対策としての諸政策を、不断に遂行することが肝要です。女性の社会進出の促進、高齢者の労働力の活用、AIやロボット技術の汎用化による生産性の向上等の政策を更に深化させていく必要があるでしょう。

これらはいずれも、箱ものではない、民間の活力を引き出すような経済政策、人への公共投資を前提とします。女性、高齢者への投資、多様な高等教育の機会の提供、イノベーションを引き起こす発明、起業の環境整備です。その一環として、外国人労働力の活用も考えられるでしょう。

同時に、外国人の移民化政策を押しすすめるべきであると思います。既に、地方からは、特定技能制度を拡充することが求められています。外国人が熟練の技術・技能を身に着け、折角、日本の生活・文化に馴染んできたのに、その時点で帰国させる必要があるでしょうか。その人たちは、自分自身で余裕をもって生計を営むことができ、税金を納めているのです。

技能、教育について選別をせず、入国した当初から、単純労働を含めた一切の職種に就くことができるものとして外国人を大量に受け入れることを移民政策というとすると、日本はこの政策を採っていません。細かく職種を限定して在留資格を設け、在留資格ごとに、必要な要件と在留期間が決まっており、法務大臣の許可決定が必要な制度となっています。そして、高等教育を受けており、相当程度の知識、経験、技能を有する高度人材外国人については、排斥ではなく、従来より受け入れ政策に転じているのです。在留資格は期間を過ぎても、何度でも更新可能であり、5年ないし10年の定住により、永住資格に転換も可能ですので、もうこれは移民受け入れ政策であるとしか言えないでしょう。政府の弁明は強弁ないし言葉の遊戯でしかありません。

しかし、単純労働については、戦後一貫して移民政策を採用していません。日本が高度経済成長を遂げたアジアで唯一の富める国であった時代には、まだまだ生活水準の低い開発途上国に周囲を囲まれていたので、移民の受け入れをすると、一気に多くの移民が押し寄せ、日本の社会が大混乱に陥ると心配されたからです。しかし、特にバブル期には、3Kと呼ばれるような職種を日本人が敬遠したため、単純労働力が不足し、在外日系人に、就職できる職種の限定のない特別の在留資格を与えて急場を凌ぎました。しかし、労働力不足が常態となったのです。技能実習や留学生ではもはや足りないので、名実ともに外国人単純労働者の受け入れを認めたのが、先般の出入国管理法改正でした。

これについても、日本の産業界において労働力不足が顕著な業種を選び、業種毎に不足数の予測をはるかに下回る外国人を、能力試験を経て入国させるというものです。技能実習制度により受け入れた外国人が、在日中、偶然に身に付けた技術・技能を基に、在留期間を過ぎても特定技能資格者として滞在を延長することが考えられます。これが一つの典型例です。その長い在日期間中、家族の呼び寄せも適わず、これを経過すると特定技能1号については必ず母国に帰国させるのです。極めて限定的な2号については、在留期間が10年を超えれば、永住資格に転換が可能ではあります。もっとも、1号資格者でも、技能を身に付けた結果、そのほかの高度人材としての在留資格に転換することができればやはり永住も夢ではありません。そこで、私の提案は、2号資格を与える職種を拡大してゆくことと、1号資格者が他の在留資格に転換可能だとする実務を積み重ね、このルートを一層拡張し、確実なものとすることです。

還暦と呼ばれる、昔なら老後を迎えていた年齢に至り、自分の青年期とは激変した日本を目の当たりにし、根底から社会の制度設計が変わらざるを得ない現実に、途方に暮れる。
親の年金で、親の介護を賄える幸せ。でもね。
ε=( ̄。 ̄;)フゥ
・・・・・あぁ

次回更新は7月6日ごろを予定してます。
・・・・・あぁ