大学はハラスメントの巣窟2020年04月19日 19:53

コロナウイルスのために、日本中、大変な状況となっていますね。私の所属する学会も、今年の研究大会が軒並み中止か延期になってしまいました。実は、父が施設に入所しているのですが、コロナウイルスに対する予防策として、家族の面会も制限されています。日本全国の認知症のお年寄りが、事情をよく飲み込めないまま、長い間、家族にも逢えず、悲しんでいるかと思うと、慨嘆に堪えません。

さて、

日本中の大学で、様々なハラスメント事件が裁判になっています。全国国公私立大学事件情報 http://university.main.jp/blog/ 参照。このページについては、明治学院事件の原告である寄川条路教授からの情報提供に基づいています。明治学院事件については、https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken 参照。多数の著作も公にされています。
今日は、大学の自治とハラスメンの問題を取り上げます。ついでに、国立大学で生じている改革という名のリストラについてもお話ししておきます。


1、学校教育法の改正と大学ガバナンスの改革
2015年学校教育法の改正により、国立大学においても大学ガバナンス改革の名目により、法文上は学長権限が強化されました。もっとも、大学にもよるでしょうが、現在の実務も、学長単独で決定し、上意下達によって大学が運営されるというには程遠いものです。相変わらず、大学本部が大まかな指針を各部局に伝え、その下での各部局ごとの具体的な決定を、本部が尊重するという方法によっており、各部局の決定こそが重要です。しかし、大きく変わったとも思われるのは、教授会権限が縮小したと感じられることです。

学校教育法が改正されたことは旧聞に属しますがが、少々説明をしておきます。学校教育法(法律第二十六号)は昭和22年に成立した古い法律です。2015年改正に際して、文科省の担当課長(里見大学振興課長)が平成26年9月2日に行った「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関する実務説明会」というのがあります。文科省のHPに掲載されていたその記録によると、教授会が、教育研究に関する審議機関であり、大学の経営に関わるものではないこと、また審議機関であり決定機関ではないこと、あくまでも学長が決定機関であることを強調する法改正でした。もともと教授会権限について、教育公務員特例法という法律に規定されており、これに基づき、各国立大学において、重要事項を教授会が決定する運用がなされていたのです。しかし、国立大学が独立行政法人となった結果、大学の教職員が公務員ではなくなったので(もっとも身分保障のある準公務員として扱うという説明がなされています)、教育公務員特例法の適用がなくなりました。教育公務員特例法が適用されないのに、多くの大学における教授会運用の実務は、慣例的に従前のままとされていたので、この学校教育法の改正により、教授会権限が限定されることを、明確化したのです。特に教員の人事に関する決定権が学長に帰属することを明確にしました。

教育研究に関する事項について、学長が重要事項を決定する場合に、教授会には審議を行う義務があり、その意見を学長に伝えることになります。通常は、これを学長が尊重するのですが、あくまでも決定権は学長にあるというのが法律の建前になっています。そもそも経営に関する事項については、教授会の審議事項ではなく、教育研究に関する問題も法律に規定された重要事項以外は、学長が特に教授会の意見を徴するというときに、教授会が審議することができるのみです。全体として、教授会は単なる諮問機関であるということになります。特に、教員の採用、昇任等の人事に関することも学長に決定権があることになったので、法人化に伴い、国立大学におけるリストラも可能となるという触れ込みでした。しかし、先に述べたように、法人化しても、準公務員としての位置づけから身分保障が残されたので、いわゆる生首を切るようなリストラはできません。後に述べるように、各国立大学、横並びで、定年不補充の方法による、事務職員及び教員定員の削減が現在進行しています。教員の新規採用及び昇任については、学長と言っても、専門分野が異なるので、よほどのことが無い限り、各学部の専門性による人事の決定を尊重するということにならざるを得ません。


2、大学の自治は学部の自治―大学はハラスメントの巣窟

大学の運営は蛸足型の意思決定メカニズムに従って行われます。従来、教授会の決定を積み上げて、漸く大学全体の意思決定に至る下位上達式であったのです。かつて教授会の決定には、大学本部が口出しすることがあまりなく、一個の大学といっても、いわば学部という中小企業の集合体に過ぎないとも思われた時代が続きました。多少言い過ぎのきらいがあるかもしれませんが、大学という機関が各学部の親睦組織と言っても過言では無いときがありました。従って、学部の最高の意思決定機関である教授会の決定こそ至高の存在であり、大学の自治は結局、学部の自治すなわち教授会の自治でした。

このことにはメリットとデメリットの双面があります。教授会の構成メンバーは、大学や学部により相違がありますが、その学部に所属する教授、准教授、講師等の大学教員です。理系か文系かといった学問分野の性質や、やはり大学毎、学部毎に違いがありますが、国立大学文系学部では、教授と言っても平(平社員の平)の教授には大した権限もなく、准教授以下と全く変わりがありません。給料もそこまでの違いがないので、ほぼ名誉職と言って良いのです。もっとも、学部長などの管理職になるための前提ではあるので、上昇志向のある場合には、教授に昇任するすることが極めて重要となります。私の所属する大学においては、准教授、講師など、まさに一兵卒であっても、教授会において自由に発言を許され、一人一票の重みも変わらない。その意味で教授会自治は、民主的な意思決定システムでありました。これがメリットです。

多面、特に文系学部では、教授、准教授が各々の個人研究室を構えて、単独で教育研究を行う。各人が言わば一国一城の主人として、教授会の都度、長時間にわたり喧々諤々の議論を重ねるという場合、往々にして「会議は踊る」のであり、容易に結論に至りません。下手をすると、新しいことは何も決められないということにも成りかねません。このことが、大学の変革に対する障害となっていたことは否めません。

私の奉職する大学においては、これが先の教育基本法の改正により、様変わりしたのです。教授会の変貌について述べる前に、数年前に吹き荒れた大学改革の嵐に触れておきましょう。学部ミッションの「再定義」が文科省により厳しく求められ、否応無しに大学改革・改組を迫られたのです。朝日新聞のキャンペーンから始まったとされるのですが、少子高齢化を受けて、大学進学希望者に比して大学の学生定員が多すぎる事態に至るという、大学の危機に対応することがその目的です。財務省が大学を国家財政の金食い虫扱いして、その統廃合を強く要求したのに対して、文科省がこれに抵抗するために大学改革を求めたとされていました。文科省からすれば大学を守ることが省益に適うのです。これは結局、大学の学生定員を守るということに尽きます。学生定員がすなわち、大学が抱えることのできる教員定員を決定し、その雇用を守るということに通じ、また交付金の重要な算定根拠だからです。しかし、財務省の予算削減圧力は強く、本格的な人口減少社会であってみれば、大都会の都心部にある大学が未だに拡張を続ける中、ことに地方大学は斜陽産業たらざるを得ません。ミッションの再定義などという、上からの強引な、訳の分からない改組圧力は、やはりこの後の大学統廃合による定員削減の前提であり、その激変を若干緩和するものに他ならないのでしょう。

実際、全国の地方国立大学で、教員人事のポイント制の下、教員の削減が始まっています。以前に、新聞報道等ありましたので、ご存知の方もおられるでしょう。(「国立33大学で定年退職者の補充を凍結 新潟大は人事凍結でゼミ解散」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000003-wordleaf-soci
2016/10/8(土) 11:05配信参照。)教員の職位毎の人数に従い各学部毎に割り当てられている総ポイント数を、毎年、数%づつ削減しているのです。更に、定年不補充と呼ばれる方法があります。定年退職者が出ると、その教員の分のポイントを、学部の総ポイント数から差し引き、ポイントが充当されません。その学部は、総ポイントを超える人事を行えないので、新規採用を見送らざるを得なくなります。その教員の担当する科目を教えられる教員が居ないとしても、新規採用ができないのです。結果的に、その学部で開講する科目数が減って行くことになります。各大学の特に文系学部の人員が十分減ることを待っているのです。その後に、大学間の統廃合を予定しているとしか考えられません。

大学改革の名の下、全国の国立大学がこぞって学部再編による新学部を創設しました。私の所属する大学もご多分に漏れず、文理融合型の新学部を作りました。その新学部では、そもそも教授会が開催されることが余りないそうです。大学本部に直結した新たな学部の運営主体が重要事項を決定し、所属教員はそれに従うしかありません。既存学部でも、教授会は存続しているが、従来とは様変わりしています。学長権限の強化は、むしろ学部執行部の権限強化に通じたようです。従前であれば、教授会決定事項として、事前の情報開示と議論がなされていたような問題について、学部長及び周辺の有力者間で決めてしまい、教授会では事後的な報告に留めることが極めて多くなりました。教授会は単なる諮問機関として、重要事項の決定に対して蚊帳の外となります。大学全体としての意思決定は、学長の下、理事、副学長らによる役員会等(大学により名称が若干異なる)が行うのですが、理事・副学長、評議員などの大学執行部にしても各学部から公平に選出されます。各学部選出の大学役員及び学部長等の執行部は、当該学部の複数の有力教授間での話し合いで、ほぼ順送りで決まります。従って、大学執行部は各学部執行部と密接に連携しており、大学執行部の根回しとして、各学部の有力教授らを含めた話し合いで決まったことがすなわち全学の決定となり、教授会はただそれを淡々と承認する仕組みができたのです。

もっとも、教授会自治においては、学部長が教授会の顔色を伺うという側面があったものの、それは教授会が教員らの派閥抗争の場として修羅場化する場合であって、学部長がよく教員らを掌握する派閥均衡と派閥の長たる有力教授のボス支配とが組み合わされることも多く、この場合にも、有力教授間の決定を平穏理に教授会決定とすることは可能であったのです。現行の実務が、基本的にこの仕組みを継続させたまま、学長直下型の端的に分かり易いシステムになっただけであるとも言えます。

要約すると、従来型の教授会の自治は民主的な大学の意思決定に通じたのですが、弊害もありました。既得権を守ることに汲々とする学部教授会には、大きな変革は望み得ないのです。教授会権限の大幅な縮小に伴い、形式的には学長の権限行使であっても、形を変えた学部自治が温存されています。

そして、学部の自治は、各学部における悪弊を覆い隠すものでもあったということです。学部における重大な問題点が、他学部からも気付くほどであっても、学部自治の壁に阻まれて、全学の立場からの矯正が望み得ないのです。教授会の自治にしても、教員個々の学問の自由を確保する役割を持つ側面を有したのですが、反対に、学部がパワーハラスメント、アカデミックハラスメントの温床となるとき、対象となる教員の人権を横暴にも侵害するものともなりました。この点は、学長権限を強化した大学におけるガバナンス改革の結果、前者の利点を減殺してしまい、教授会自治が、有力教授のグループによる強権発動にすり替えられ、後者のような欠点はそのまま据え置かれたのです。大学は学問の府とされますが、構造的にパワハラ、アカハラの巣窟なのです。


3、ハラスメントの巣窟を守る法的裏付け??

このことの法的な“裏付け“?ともなるのが、憲法に保障された学問の自由(憲法23条)なのです。戦前の滝川事件や天皇機関説事件をみれば判るように、その歴史的経緯に照らしても、極めて重要な規定です。これを不当視するものでは決してありません。しかし、学問の自由の制度的保障として大学の自治があるのです。

著名なポポロ事件(最高裁昭和38年5月22日判決)という事件があります。これによれば、大学の自治の内容として、教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治が認められます。大学の教授等の人事について、司法審査の対象とはなされるものの、大学における裁量の範囲が広範です。ある下級審判決によると、私立大学の事件でしたが、対象者が理系教員である場合に、ノーベル賞を取ったというのでも無い限り、教授昇任をさせないことが大学側の裁量範囲を超えることはないとまで言っているのです。

施設管理について言えば、重大な犯罪行為が現在、行われているというときに現行犯逮捕するために、警察が大学構内に入構することは認められるものの、その前段階において、調査ないし捜査することは、大学側の要請ないし同意なしには原則として許されません。そうすると、例えば殺傷事件など人の生命に関わる犯罪であれば別論ですが、犯罪の性質によれば、現に犯罪が遂行されているという情報が警察に伝えられたとしても、その情報が余程確実なものでない限り、大学側に通知して同意を促している間に、犯行を終えて、犯人が証拠を隠滅するなら、警察としては誤認捜査をしたという誹りを免れないことにもなります。大学の自治が、犯罪捜査の抑制的効果を有してしまいます。

また、最近漸く、殊に学生に対するものとしては、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントに関する大学一般の意識が高まり、教員同士の相互監視による抑止や、大学としてのハラスメント調査の手段が整えられつつあります。しかし、これが職員同士の問題としては、やがては卒業していなくなる学生と異なり、たとえ調査の申し立てをしたとしても、通常、お座なり、あるいは有力教授が加害者とされる事件では、お手盛りの調査となるのです。有力者間の仲良しグループの一角であったとすれば、尚更、上に述べた学部自治の壁に阻まれてしまいます。仮に、調査の不当を裁判で訴えたとしても、やはり大学の自治とも関係して、調査に関する大学の裁量範囲が広範であり、ある裁判によると、調査が社会通念上、極めて不公平であるなど特段の事情を、訴える側が立証しなければならないとされるのです。そのような証拠を原告が提出できなければ負けてしまう、極めてハードルが高い基準と言わざるを得ません。仮に、大学がスキャンダル隠しに走ったとすると、被害者は全く救われません。

現行の大学の自治に関する判例法は、大学教員の性善説に基づくようです。実は、大学教員とは、一般の社会とは切り離されたところで、人により、人格的にも幼稚な人間なのです。学問の自由を保障するための大学の自治が、極めて重要な原則であることは認めつつ、そこで学ぶ学生、働く教職員らが陰湿なハラスメントから守られるために、単に、大学の良識に期待するだけでは足りません。そのためには、事件類型に基づいた詳細な審査基準の呈示と、審査自体の精密化が求められるように思われます。ハラスメント被害者保護のために積極的に介入することも必要でしょう。