大学はハラスメントの巣窟2020年04月19日 19:53

コロナウイルスのために、日本中、大変な状況となっていますね。私の所属する学会も、今年の研究大会が軒並み中止か延期になってしまいました。実は、父が施設に入所しているのですが、コロナウイルスに対する予防策として、家族の面会も制限されています。日本全国の認知症のお年寄りが、事情をよく飲み込めないまま、長い間、家族にも逢えず、悲しんでいるかと思うと、慨嘆に堪えません。

さて、

日本中の大学で、様々なハラスメント事件が裁判になっています。全国国公私立大学事件情報 http://university.main.jp/blog/ 参照。このページについては、明治学院事件の原告である寄川条路教授からの情報提供に基づいています。明治学院事件については、https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken 参照。多数の著作も公にされています。
今日は、大学の自治とハラスメンの問題を取り上げます。ついでに、国立大学で生じている改革という名のリストラについてもお話ししておきます。


1、学校教育法の改正と大学ガバナンスの改革
2015年学校教育法の改正により、国立大学においても大学ガバナンス改革の名目により、法文上は学長権限が強化されました。もっとも、大学にもよるでしょうが、現在の実務も、学長単独で決定し、上意下達によって大学が運営されるというには程遠いものです。相変わらず、大学本部が大まかな指針を各部局に伝え、その下での各部局ごとの具体的な決定を、本部が尊重するという方法によっており、各部局の決定こそが重要です。しかし、大きく変わったとも思われるのは、教授会権限が縮小したと感じられることです。

学校教育法が改正されたことは旧聞に属しますがが、少々説明をしておきます。学校教育法(法律第二十六号)は昭和22年に成立した古い法律です。2015年改正に際して、文科省の担当課長(里見大学振興課長)が平成26年9月2日に行った「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関する実務説明会」というのがあります。文科省のHPに掲載されていたその記録によると、教授会が、教育研究に関する審議機関であり、大学の経営に関わるものではないこと、また審議機関であり決定機関ではないこと、あくまでも学長が決定機関であることを強調する法改正でした。もともと教授会権限について、教育公務員特例法という法律に規定されており、これに基づき、各国立大学において、重要事項を教授会が決定する運用がなされていたのです。しかし、国立大学が独立行政法人となった結果、大学の教職員が公務員ではなくなったので(もっとも身分保障のある準公務員として扱うという説明がなされています)、教育公務員特例法の適用がなくなりました。教育公務員特例法が適用されないのに、多くの大学における教授会運用の実務は、慣例的に従前のままとされていたので、この学校教育法の改正により、教授会権限が限定されることを、明確化したのです。特に教員の人事に関する決定権が学長に帰属することを明確にしました。

教育研究に関する事項について、学長が重要事項を決定する場合に、教授会には審議を行う義務があり、その意見を学長に伝えることになります。通常は、これを学長が尊重するのですが、あくまでも決定権は学長にあるというのが法律の建前になっています。そもそも経営に関する事項については、教授会の審議事項ではなく、教育研究に関する問題も法律に規定された重要事項以外は、学長が特に教授会の意見を徴するというときに、教授会が審議することができるのみです。全体として、教授会は単なる諮問機関であるということになります。特に、教員の採用、昇任等の人事に関することも学長に決定権があることになったので、法人化に伴い、国立大学におけるリストラも可能となるという触れ込みでした。しかし、先に述べたように、法人化しても、準公務員としての位置づけから身分保障が残されたので、いわゆる生首を切るようなリストラはできません。後に述べるように、各国立大学、横並びで、定年不補充の方法による、事務職員及び教員定員の削減が現在進行しています。教員の新規採用及び昇任については、学長と言っても、専門分野が異なるので、よほどのことが無い限り、各学部の専門性による人事の決定を尊重するということにならざるを得ません。


2、大学の自治は学部の自治―大学はハラスメントの巣窟

大学の運営は蛸足型の意思決定メカニズムに従って行われます。従来、教授会の決定を積み上げて、漸く大学全体の意思決定に至る下位上達式であったのです。かつて教授会の決定には、大学本部が口出しすることがあまりなく、一個の大学といっても、いわば学部という中小企業の集合体に過ぎないとも思われた時代が続きました。多少言い過ぎのきらいがあるかもしれませんが、大学という機関が各学部の親睦組織と言っても過言では無いときがありました。従って、学部の最高の意思決定機関である教授会の決定こそ至高の存在であり、大学の自治は結局、学部の自治すなわち教授会の自治でした。

このことにはメリットとデメリットの双面があります。教授会の構成メンバーは、大学や学部により相違がありますが、その学部に所属する教授、准教授、講師等の大学教員です。理系か文系かといった学問分野の性質や、やはり大学毎、学部毎に違いがありますが、国立大学文系学部では、教授と言っても平(平社員の平)の教授には大した権限もなく、准教授以下と全く変わりがありません。給料もそこまでの違いがないので、ほぼ名誉職と言って良いのです。もっとも、学部長などの管理職になるための前提ではあるので、上昇志向のある場合には、教授に昇任するすることが極めて重要となります。私の所属する大学においては、准教授、講師など、まさに一兵卒であっても、教授会において自由に発言を許され、一人一票の重みも変わらない。その意味で教授会自治は、民主的な意思決定システムでありました。これがメリットです。

多面、特に文系学部では、教授、准教授が各々の個人研究室を構えて、単独で教育研究を行う。各人が言わば一国一城の主人として、教授会の都度、長時間にわたり喧々諤々の議論を重ねるという場合、往々にして「会議は踊る」のであり、容易に結論に至りません。下手をすると、新しいことは何も決められないということにも成りかねません。このことが、大学の変革に対する障害となっていたことは否めません。

私の奉職する大学においては、これが先の教育基本法の改正により、様変わりしたのです。教授会の変貌について述べる前に、数年前に吹き荒れた大学改革の嵐に触れておきましょう。学部ミッションの「再定義」が文科省により厳しく求められ、否応無しに大学改革・改組を迫られたのです。朝日新聞のキャンペーンから始まったとされるのですが、少子高齢化を受けて、大学進学希望者に比して大学の学生定員が多すぎる事態に至るという、大学の危機に対応することがその目的です。財務省が大学を国家財政の金食い虫扱いして、その統廃合を強く要求したのに対して、文科省がこれに抵抗するために大学改革を求めたとされていました。文科省からすれば大学を守ることが省益に適うのです。これは結局、大学の学生定員を守るということに尽きます。学生定員がすなわち、大学が抱えることのできる教員定員を決定し、その雇用を守るということに通じ、また交付金の重要な算定根拠だからです。しかし、財務省の予算削減圧力は強く、本格的な人口減少社会であってみれば、大都会の都心部にある大学が未だに拡張を続ける中、ことに地方大学は斜陽産業たらざるを得ません。ミッションの再定義などという、上からの強引な、訳の分からない改組圧力は、やはりこの後の大学統廃合による定員削減の前提であり、その激変を若干緩和するものに他ならないのでしょう。

実際、全国の地方国立大学で、教員人事のポイント制の下、教員の削減が始まっています。以前に、新聞報道等ありましたので、ご存知の方もおられるでしょう。(「国立33大学で定年退職者の補充を凍結 新潟大は人事凍結でゼミ解散」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000003-wordleaf-soci
2016/10/8(土) 11:05配信参照。)教員の職位毎の人数に従い各学部毎に割り当てられている総ポイント数を、毎年、数%づつ削減しているのです。更に、定年不補充と呼ばれる方法があります。定年退職者が出ると、その教員の分のポイントを、学部の総ポイント数から差し引き、ポイントが充当されません。その学部は、総ポイントを超える人事を行えないので、新規採用を見送らざるを得なくなります。その教員の担当する科目を教えられる教員が居ないとしても、新規採用ができないのです。結果的に、その学部で開講する科目数が減って行くことになります。各大学の特に文系学部の人員が十分減ることを待っているのです。その後に、大学間の統廃合を予定しているとしか考えられません。

大学改革の名の下、全国の国立大学がこぞって学部再編による新学部を創設しました。私の所属する大学もご多分に漏れず、文理融合型の新学部を作りました。その新学部では、そもそも教授会が開催されることが余りないそうです。大学本部に直結した新たな学部の運営主体が重要事項を決定し、所属教員はそれに従うしかありません。既存学部でも、教授会は存続しているが、従来とは様変わりしています。学長権限の強化は、むしろ学部執行部の権限強化に通じたようです。従前であれば、教授会決定事項として、事前の情報開示と議論がなされていたような問題について、学部長及び周辺の有力者間で決めてしまい、教授会では事後的な報告に留めることが極めて多くなりました。教授会は単なる諮問機関として、重要事項の決定に対して蚊帳の外となります。大学全体としての意思決定は、学長の下、理事、副学長らによる役員会等(大学により名称が若干異なる)が行うのですが、理事・副学長、評議員などの大学執行部にしても各学部から公平に選出されます。各学部選出の大学役員及び学部長等の執行部は、当該学部の複数の有力教授間での話し合いで、ほぼ順送りで決まります。従って、大学執行部は各学部執行部と密接に連携しており、大学執行部の根回しとして、各学部の有力教授らを含めた話し合いで決まったことがすなわち全学の決定となり、教授会はただそれを淡々と承認する仕組みができたのです。

もっとも、教授会自治においては、学部長が教授会の顔色を伺うという側面があったものの、それは教授会が教員らの派閥抗争の場として修羅場化する場合であって、学部長がよく教員らを掌握する派閥均衡と派閥の長たる有力教授のボス支配とが組み合わされることも多く、この場合にも、有力教授間の決定を平穏理に教授会決定とすることは可能であったのです。現行の実務が、基本的にこの仕組みを継続させたまま、学長直下型の端的に分かり易いシステムになっただけであるとも言えます。

要約すると、従来型の教授会の自治は民主的な大学の意思決定に通じたのですが、弊害もありました。既得権を守ることに汲々とする学部教授会には、大きな変革は望み得ないのです。教授会権限の大幅な縮小に伴い、形式的には学長の権限行使であっても、形を変えた学部自治が温存されています。

そして、学部の自治は、各学部における悪弊を覆い隠すものでもあったということです。学部における重大な問題点が、他学部からも気付くほどであっても、学部自治の壁に阻まれて、全学の立場からの矯正が望み得ないのです。教授会の自治にしても、教員個々の学問の自由を確保する役割を持つ側面を有したのですが、反対に、学部がパワーハラスメント、アカデミックハラスメントの温床となるとき、対象となる教員の人権を横暴にも侵害するものともなりました。この点は、学長権限を強化した大学におけるガバナンス改革の結果、前者の利点を減殺してしまい、教授会自治が、有力教授のグループによる強権発動にすり替えられ、後者のような欠点はそのまま据え置かれたのです。大学は学問の府とされますが、構造的にパワハラ、アカハラの巣窟なのです。


3、ハラスメントの巣窟を守る法的裏付け??

このことの法的な“裏付け“?ともなるのが、憲法に保障された学問の自由(憲法23条)なのです。戦前の滝川事件や天皇機関説事件をみれば判るように、その歴史的経緯に照らしても、極めて重要な規定です。これを不当視するものでは決してありません。しかし、学問の自由の制度的保障として大学の自治があるのです。

著名なポポロ事件(最高裁昭和38年5月22日判決)という事件があります。これによれば、大学の自治の内容として、教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治が認められます。大学の教授等の人事について、司法審査の対象とはなされるものの、大学における裁量の範囲が広範です。ある下級審判決によると、私立大学の事件でしたが、対象者が理系教員である場合に、ノーベル賞を取ったというのでも無い限り、教授昇任をさせないことが大学側の裁量範囲を超えることはないとまで言っているのです。

施設管理について言えば、重大な犯罪行為が現在、行われているというときに現行犯逮捕するために、警察が大学構内に入構することは認められるものの、その前段階において、調査ないし捜査することは、大学側の要請ないし同意なしには原則として許されません。そうすると、例えば殺傷事件など人の生命に関わる犯罪であれば別論ですが、犯罪の性質によれば、現に犯罪が遂行されているという情報が警察に伝えられたとしても、その情報が余程確実なものでない限り、大学側に通知して同意を促している間に、犯行を終えて、犯人が証拠を隠滅するなら、警察としては誤認捜査をしたという誹りを免れないことにもなります。大学の自治が、犯罪捜査の抑制的効果を有してしまいます。

また、最近漸く、殊に学生に対するものとしては、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントに関する大学一般の意識が高まり、教員同士の相互監視による抑止や、大学としてのハラスメント調査の手段が整えられつつあります。しかし、これが職員同士の問題としては、やがては卒業していなくなる学生と異なり、たとえ調査の申し立てをしたとしても、通常、お座なり、あるいは有力教授が加害者とされる事件では、お手盛りの調査となるのです。有力者間の仲良しグループの一角であったとすれば、尚更、上に述べた学部自治の壁に阻まれてしまいます。仮に、調査の不当を裁判で訴えたとしても、やはり大学の自治とも関係して、調査に関する大学の裁量範囲が広範であり、ある裁判によると、調査が社会通念上、極めて不公平であるなど特段の事情を、訴える側が立証しなければならないとされるのです。そのような証拠を原告が提出できなければ負けてしまう、極めてハードルが高い基準と言わざるを得ません。仮に、大学がスキャンダル隠しに走ったとすると、被害者は全く救われません。

現行の大学の自治に関する判例法は、大学教員の性善説に基づくようです。実は、大学教員とは、一般の社会とは切り離されたところで、人により、人格的にも幼稚な人間なのです。学問の自由を保障するための大学の自治が、極めて重要な原則であることは認めつつ、そこで学ぶ学生、働く教職員らが陰湿なハラスメントから守られるために、単に、大学の良識に期待するだけでは足りません。そのためには、事件類型に基づいた詳細な審査基準の呈示と、審査自体の精密化が求められるように思われます。ハラスメント被害者保護のために積極的に介入することも必要でしょう。

三島由紀夫と全共闘ー右翼と左翼2020年03月22日 21:04

新型コロナの感染者が多く報告される大阪に来ています。愛媛県知事が愛媛県は未だ感染地域とは言えないと言っていたので、非感染地域から感染地域?へと移動したので、少々神経質になっています。外に出ると、何かに触る度に手を洗いたくなるし、レストランでも出されたウェット・ティシューでテーブルを拭きます。近くの人がマスクをせずに、くしゃみや咳をしていると逃げ出したくなりますね。しかし、どうしようも無い用件があるから仕方がありません。そもそもこの地で生活をしている人々は、平気でいるのですから。戦争をしている国の市民がそれでも普段通りに生活はしなければならないのを、戦争していない国から見ると、さぞかし大変だなぁと思うようなものかもしれません。

1、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』と学生運動

映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が公開中です。

1969年、学生運動に参加する学生らと、作家・三島由紀夫との討論会が東大のキャンパスで行われました。全共闘に参加する学生らが企画したものです。その記録映画です。

「右と左。思想の異なる両者がぶつかりあう言葉たち。時に怒号飛び、時に笑いが起きながら、会場を圧倒的な熱が包み込む」。(竹内明「“右と左”の直接対決 三島由紀夫vs東大全共闘「伝説の討論会」、いったい何が語られたのか?」 より。文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/36746

日米安全保障条約締結時の60年安保闘争、10年後の同条約延長をめぐる70年安保闘争と言っても、若者たちには良く分からないでしょう。学生の政治運動が「バリケードと角棒」を用いた暴力による大学封鎖に発展しました。学生活動家が機動隊と対峙していたのです。

昨年激化した香港の民主化運動(逃亡犯引渡条例の改正への反対運動)を思い出すと、ちょうどそのようなものなので、イメージしやすいでしょう。

前述の三島由紀夫との討論会があったのは、学生の立てこもる東大安田講堂に機動隊が突入して、強制的に大学封鎖を解除した後、4ヶ月という時点です。上の記事によると、会場には1000人の学生が詰めかけていたそうで、学生運動の熱気が感じられます。

それから10年後、私の学生時代、学生運動はもはや下火ではありましたが、その残り火が身近に感じられもしました。大学の構内を、ヘルメットにマスク姿の10人程度の集団が、角棒を持って練り歩くのを、時折、見かけたものです。1回生のとき、あるサークルに所属していた同級生が、「搾取」、「搾取」という言葉をやたら連発しながら、ほとんど親しくもない私に向かって、「誰も分かっていないんだ」と熱っぽく語っていたのを思い出します。サークルの先輩が背後に居て、資本論の研究会に参加を呼びかけていました。私自身を含め、多くの学生が「搾取」という聴き慣れない術語を聞いて、怪訝な感を抱き、そのような活動に無縁であったようです。ヘルメット集団とこのサークルとは関係がないのですが、何となく連想してしまうので、この同級生を避けていたように思います。この頃には、既に、ノンポリという言葉が一般化していました。

現在、大学教員となって、学生らを見ていると、国際経済法や国際取引法という法分野を学ぶ学生であるからかもしれませんが、政治的活動に対して、消極的に無関心であるというより、むしろ積極的に「政治活動」から距離を置こうとしている態度を感じます。何やら、得体のしれない危なっかしいものという風に感じているようです。

このことは私の属する大学だけではなく、相当程度に、一般的なのではないでしょうか。一斉を風靡し、ファッションにもなった、左翼思想が若者の間で最近はあまり流行らないのです。全共闘? 全学連? 革マル派? 内ゲバとか、怖そうだし。但し、私は、政治思想の専門家ではありませんので、学生運動を正確に区別してお話をしているのではありません。現在まだ活動する学生運動の大部分が、暴力主義的な運動とは一線を画するものであるとされます。


2、三島由紀夫のこと

文学や政治思想の専門的知見というより、私の個人的な思い出を書いておきます。高校生のとき、純文学にしか価値を見出せなかったので、純文学の小説を乱読していました。無数の詩作など、たわいもないものですが、そういった生活を送っていた典型的な文学少年でした。そのころ、強烈な印象をもったのが、三島の小説です。『金閣寺』に衝撃を受けて、三島の政治思想なんか全く知らずに、幾つかの小説を憑かれたように読み耽っていたことがあります。

その後、大学に入ってから、彼が右翼の思想家であり、自衛隊員の前で演説をした後、割腹自殺したこと、筋骨隆々の褌姿の写真、それにゲイであったことを知ったのです。小説からは窺い知れず、それはもう驚いたものでした。

全共闘学生らとの討論会は、三島が自殺する直前の時期に開かれたものです。前述の記事によると、三島と学生らが理知的に、笑いを交えながら、長時間の討論を行ったのです。

右翼の政治思想にも疎いので、三島由紀夫の思想的系譜や、反米主義とも親米主義とも結びつく「正統」右翼の諸団体との関係を分析することはできません。しかし、この討論会が、よく考え、練られた政治思想としての、左翼と右翼の実に興味深い議論であったことは想像に難くありません。

決して妥協することのない、従って、結論的に根本的な同意を予定しない議論が、しかし、互いの理解を深め、あるいは影響を及ぼし得る、民主主義の基底をなすものであることは指摘しておきます。このような議論は相手を打ち負かすことのみを目的とするディベートとは異なります。法廷で実務家たちが繰り広げる議論や、選挙に際して行われる政治家の討論は、多くの場合にディベートです。これも目的にかなった必要悪ではありますが、区別する必要があります。


3、「右」と「左」

政治的な意味で、左翼とか右翼という場合、上のような学生運動が盛んであったような時代、冷戦期において、社会主義・共産主義と反共主義を指す場合が多かったのです。特に、ソビエト連邦の崩壊は、マルクス・レーニンの、ユートピアである社会主義の理想が、現実の国家としては存在し得なかったことを明らかにしました。そこで、冷戦終結とともに、リベラルという政治思想が不要となったという主張があります。そこでいうリベラルというのが、社会主義あるいは社会主義に多分に好意的な政治的立場ということになります。特に、冷戦下、社会主義国家の建設と、ソビエト連邦を頂点とする社会主義陣営に与することを目指す立場です。

アメリカにも保守対リベラルの対立があるのはご存知でしょう。アメリカは共産主義を非合法としています。そこでリベラル派とは大要、民主党の政治家を指します。オバマ元大統領が国民皆保険制度を創設した政策を、保守主義者は社会主義と呼んだりしますが、上の意味のマルクス・レーニン主義と異なることは自明です。今年の秋に行われる大統領選挙に向けて民主党候補者を選ぶ選挙が行われています。バイデン議員が中道であるのに対して、サンダース議員は自らを社会民主主義者であると呼びます。

アメリカの健康保険制度は、高齢者と生活困窮者向けの社会保険的な給付が元々あったのですが、それ以外の国民は、民間の保険会社から保険を買う必要がありました。民間企業である保険会社が健康保険の適用範囲を狭く認定しがちで、著名なクラスアクション(集団訴訟)に発展したことがあります。それでも、これが、税金に頼らない自由競争を信奉するアメリカ社会の伝統であるとして、皆保険制度に対してはテイーパーティー運動などの極めて激しい反対運動が巻き起こりました。このオバマ・ケアを維持ないし発展させるとすることや、大学の無償化、学生に対する多額の借金となっている奨学金の減免などを、公約とするサンダース候補が、これに反対するトランプ大統領から「社会主義」と呼ばれるのです。しかし、それでは現在の日本の健康保険制度や大学無償化への流れが、社会主義であることになってしまいます。

ここで、分配的正義による市民相互の平等に一層価値を置く立場と、自由競争に基づく社会全体の富の蓄積に重きを置く立場とは、今でも有効な対立軸です。日本の野党のいう格差是正と平等の実現か自民党の自由競争を重視する政策かという対立によく即しています。もっとも、現実の政策は、いずれの方向性も絶対ではなく、その対立軸の中のどの辺りに線を引くかという、相対的なものです。そして、どちらかというと社会の底辺にある生活困窮者の救済に力点を置くのが、野党であるとは言えるでしょう。日本の与野党の政策対立は、アメリカの保守とリベラルの相違ほど歴然としてはいませんが、確かに、これに対応するようです。

また、個人の尊重と自由主義と、国家公共の利益とのいずれを優先するかの対立もあります。もっとも、これもいずれも絶対の価値ではなく、個々の問題ごとに、その価値対立の座標軸上に均衡点を穿つ必要があるので、その均衡点を幾分右にずらすか、左にずらすかの相違でしかありません。憲法自体に、個人の人権保障と公共の福祉との対立と調和が公理として組み込まれています。個人の国家からの自由を重視し、国家が介入することを嫌う傾向と、むしろ国家公共の価値を重視する傾向の対立であり、前者は、一層、多様性と自己決定の尊重に結びつきます。前者がリベラルであり、後者が保守であると、一般的には言えるでしょう。

全共闘対三島由紀夫の時代の、左右の対立など、それ自体はもう影も形もありません。そのような過去の亡霊のような価値体系と結びつく左や右という言い方は、誤解の元となり、今や全く不要です。何故か、日本の各野党がリベラルを名乗りたがりません。リベラルの名を捨てたような感さえあります。しかし、保守と対立する軸としての、政治思想を上手く名付けてもらわなければなりません。保守が従来からそう変わらないものであり得るとすれば、「伝統ある」リベラルの名を生かしてもらった方が分かり易いです。しかし、これを誰もが分かる様に再定義する必要があるでしょう。

もっとも、保守主義にも、次の様な用法があることに注意しなければなりません。第二次世界大戦前の戦間期の各国において、上述の意味における左右の対立が激化しました。ことにドイツは多額の戦争賠償に喘いでいた時期があり、また大恐慌後の不況をなかなか乗り切れないなか、生活に窮した市民が、革命思想に導かれた全体主義としての左右の両極端の政治的主張のいずれかを支持したのです。その結果、ドイツ国民は、ナチスの台頭を許し、未曾有の惨禍をもたらした世界大戦とホロコーストを招きました。この戦間期において、保守主義の次の効用が説かれたのです。

革新的思想に対して、保守主義が漸進主義によることで、社会の振り子を極限まで振り上げることなく、中庸を行くことによりその振り幅を適正に制御できるとします。

私は、社会の中の限られた知識人に社会運営を任せておけば上手く行くというエリート主義が行き過ぎることを好みません。良き大衆主義(ポピュリズム)は、一部の者が大衆を扇動するということではなく、適切な情報提供と徹底的な議論により、大衆の賢慮を引き出すことであると考えます。その上で、その結論に従うという姿勢です。少数者・弱者の保護は、現行憲法の重要な原則であり、大衆の賢慮の一部であり得ます。

現代の学生が、政治に無関心であるという主張は私の学生の頃より多数説でした。しかし、集団的自衛権をめぐる学生団体「SEALDs」の活動は比較的最近のことです。この活動が、上述のような学生運動とは全く異なる新しい若者の政治参加の方法でした。合法的なデモと、報道機関への明確な自己主張、意見の一致する政治家との協調行動です。マスコミや政治家をも巻き込んだ非暴力主義的なものです。ヘルメットに角棒ではなく、カッコ良い黒シャツをユニフォームとして、ラップを用いた分かり易い政治的宣伝など、斬新なスタイルも際立ちました。

憲法を守るために、集団的自衛権へ向かう法改正を阻止しようとして、選挙での多数を獲得するという一個の政治目的のためにのみ、それが組織され、目的達成か否かに関わらず、選挙後、間も無く解散したのです。私自身は、この問題も大衆の賢慮に委ねるべきであると考えます。具体的には、憲法改正国民投票によるということです。しかし、若者の政治活動のあり方として、ブレークスルーとなったことは間違いなさそうです。

最初に掲げた映画を是非観てみようと思っています。

パラサイトと移民の受入れ2020年02月18日 19:39

 来月は東京で学会報告があります。政府は、不要不急の外出を控えろというのですが、行かないといけません。コロナウイルスに少々不安もありますね。

 先日、微熱が数日続き、高熱のときのようなひどい倦だるさを感じました。初めて経験する症状なので、近くの医院に行ったのですが、インフルエンザのA型でもB型でもないという検査結果でした。風邪薬を飲んで、直りました。

 たまに行く大阪梅田や道後の町は、有数の観光地なので、道行く人の中国語をよく聞きます。先日の風邪が、コロナであったら良いな(*⌒▽⌒*) 免疫があるので、心配いらないことになりますよね。


1,日本の出生率向上のためには、価値観の大転換が必要

 少子高齢化が社会保障の財源不足の原因となり、潜在成長率の低迷にも繋がる恐れがあります。日本経済の中心的な構造問題が人口減少・高齢化であるとされます。(翁邦雄・法政大学客員教授(経済教室)「移民問題を考える(中)-包摂体制の整備が急務」2020年2月17日・日経電子版)

 人手不足と人口減を放置したまま、日本の、社会的、経済的収縮を容認するという考え方も有り得ます。少なくとも江戸時代の日本ぐらいまで人口や経済規模が小さくなれば、その辺りで均衡点が訪れて、人口減少にも何とか歯止めがかかって落ち着くだろうという楽観論です。それはそれで構わないという選択を積極的に行うという立場です。習慣や価値観が同一で、他人が何を考えているか誰でも大体想像がつくという、これまでの日本のような住みやすい社会にわれわれ日本人が住み続けられることこそ重要であるというように、発想の転換をするのです。

 あるいはAIとロボット技術の革新により、人口減少を補い、生産性の逓減を抑制できるという考え方もあります。この観点も重要であり、不可欠です。人手不足によって現在正に直面している困難を乗り切る窮余の一策でもあります。無人コンビニや、自動運転乗用車の試験走行を行うスマートシティーの実験など、確かに、AIとロボット技術の急速な発展が日本の社会の構造転換を進めているようにも見えます。しかし、これでは、仮に経済規模の収縮がある程度、止まったとしても、特殊出生率が2.0を下回る限り、人口の自然減は免れません。これを回復する手立てが出生率の減少に追いついていないのです。

 定年延長等による高齢者の活用や、女性の社会進出の促進は、日本の労働力不足を補っています。女性が働きながら子育てをする環境を整備するために、配偶者双方が子供の養育に参加すること、育休を採ることが推奨され、保育園が増設されています。女性は「家」を守り、家事と子育てに専念すれば足りるとする、古い価値観に戻ることが許されません。むしろ、かつては男性の労働現場であったところに女性が働くようになり、政治家や管理職などの女性比率の向上が叫ばれています。国際社会からの批判に答えるためでも、単に憲法に書いてあるからではありません。人の個性や人格の相違もありますが、一個一個の生命への優しいまなざしや、寛容の精神が、女性一般には、男性よりも一層感じられます。人口の半分を占める女性の感性や考え方が社会制度や社会的価値観にもっと直接的に反映される必要があるためです。そうすれば日本の社会は随分違ったものとなるでしょう。

 職場に赤ちゃんを連れてくることは今でもタブーでしょうか。女性がそう主張すると白眼視され、「どうせ女なんて、男の仕事を理解しない」、「生半可な心根で仕事をしやがって」と罵詈雑言を浴びせられることも有り得るでしょう。女性が働くことへの理解は漸くあっても、外の仕事と家の内の仕事を厳密に区別する発想が未だに存在するようです。そして、家の内のことは女性の仕事であるとするのです。家の外と内の仕事を、男も女も、当たり前のように両立させる工夫が求められるようです。

 子供の居る家族の意味を見直すことも必要かもしれません。生き難いかもしれない人間社会の中で、二人の人間が寄り添い、子供のいる家庭が、人の一生の中で重要な場所と時間を提供するものとしての価値観が若い人達の中にあるでしょうか。夫と妻が家を作り、あるいは名前を継ぐべきであるという社会規範や制度があるからそうするのではなく、家庭があれば、世の中をたった一人で生き抜くよりも一層、喜びや、温もりを与えてくれるからこそ、男も女も家庭を持つのです。仕事や遊び以上のものがあり、家庭という重要な存在を維持するための時間や労力を惜しまない。男性が家事従業員としての女性を養うのではなく、同等のパートナーとして婚姻という契約を結ぶのです。

 もっとも、若者の生活に対する何らかの経済的支援も必要です。貧乏子だくさんを応援できる、社会保障制度でなければならないでしょう。

 保育所の建設のような物理的整備と、育休のような法制度の調整も進めて、更に、新しい家族の形や婚姻観の創造に向けて、価値観の大転換なり醸成が可能であるとしても、まだまだ相当の時間を要するでしょう。そうだとすれば、出生率の向上は直ちには見込まれません。


2,移民政策

 現在の日本の社会的な構造転換のために、出生率向上のための施策を着実に実行して行くとともに、同時に外国人労働者の活用が必須となっています。

 先日、韓国映画「パラサイト」がアメリカのアカデミー作品賞を受賞しました。英語以外の言語による映画が受賞したのはアカデミー史上初めてです。BTS(防弾少年団)がアメリカのビルボード200で1位を獲得するなど、英米のヒットチャートを賑わす常連となっています。韓国は、わが国以上の少子高齢化による人口減少社会です。ある報道によると、韓国国内に滞在する外国人は252万人を超え、2019年12月末現在、総人口の4.9%に当たるそうです。その割合が年々増加しています。(ソウル聯合ニュース) 総人口の5%が外国人であるとすると、その国に暮らす20人に一人が外国人であることになります。

 以前の韓国が日本文化を拒みつつ、他方で、ある種憧憬の念を抱いていた時代があったことを知らない若者達が増えています。韓国の歌謡や映画が、アジア圏でも、日本のそれよりもよく流行し、良い興行成績を上げているようです。韓国で、外国人移民の受入が、韓国の伝統文化を壊すので、抑制すべきであるという議論があるのか、筆者はよく知りません。

 一方、厚労省によると、わが国の2019年10月末時点の外国人労働者が前年同期比13.6%増の165万8804人でした。他方で、日本人の「国内出生数は86万4千人であり、前年比5.92%減と急減し、1899年の統計開始以来初めて90万人を下回わり、出生数が死亡数を下回る人口の「自然減」も初めて50万人を超えました。(日本経済新聞2019年12月25日朝刊)少子化・人口減が加速しています。法務省の出入国管理(白書)によると、2018年末現在における在留外国人数の割合は、総人口1億2,644万人(2018年10月1日現在)に対し2.16%です。

 中長期間、わが国に居住する外国人を、政府は移民と呼びません。外国人材の活用と言っています。単純労働を含めて、受入国において就ける職業の制限のない、いわゆる移民と異なり、詳細な在留資格毎の就労制限と在留期間の定めのあるのがわが国の入国管理制度です。しかし、単純労働への就労を予定する資格以外については、在留期間は更新が可能であり、永住申請や帰化も有り得ます。ここでは、永住者および更新可能で永住資格への転換も可能であるか、相当長期の在留も可能な資格の保有者を「移民」としておきます。

 上記の解説記事(「経済教室」)でも述べられているように、移民を受け入れることの「社会的影響と経済的影響(企業へのメリットだけでなく国内労働者への跳ね返りなどもある)を総合的に比較するのは」容易ではありません。メリットのみではなくデメリットもあります。

 経済学ないし統計学的な社会経済的数値の比較は、そのような議論が必要ではあっても、それだけで決定的な判断が下せるということにはなりません。結果に有利にも不利にも説明が可能だからです。ここでは、ほぼほぼ単一民族である(であった)わが国社会が異なる文化的背景を有する他民族・人種を受け入れることへの、一般的な危惧について考えます。ヨーロッパ諸国やアメリカのように社会が分断され、犯罪率が増加するという社会的な懸念です。

 まず、現状を確認しておきましょう。既に、単純労働を含めて就ける職種の限定のない長期生活者としての外国人移民が多数存在します。法務省白書によると、2018年度において、永住者771,568人、日本人の配偶者142,381人、永住者の配偶者37,998人、定住者192,014人(日系人)、特別永住者321,416人です。

 次に、わが国の法制上、外国人移民の中で、単純労働者と高度な知識経験の必要な業務に従事する者の区別が重要です。厳密な法令上の定義ではなく、便宜的に後者を高度人材と呼ぶことにします。

 単純労働については、基本的に、その外国人の一生に一度きり、一定期間の居住の後に必ず帰国させることを前提とした受入れを行っています。一定期間わが国で働いた後、別の外国人がやってくるので、出稼ぎローテーション方式と言って良いでしょう。技能実習制度がこれです。しかし、一部業種については特定技能という資格を新設し、わが国において更に長期間、働くことができるようにしました。特定技能については、極めて限定的ですが、一定の業種について更新可能とし、家族の呼び寄せも可能としたので、出稼ぎローテンション方式が部分的に崩れています。単純労働の担い手としては、留学生も重要ですが、彼らはその後、高度人材になり、わが国に居住することも期待されています。

 わが国で暮らす外国人である166万人の内、残りが更新可能であり、永住資格に転換することもできる、高度人材としての在留資格を有することになります。しかも、高度人材については、もう相当以前から、わが国は積極的な受入政策に転じているのです。従って、政府の言う移民政策は取らないというのは、字義通りに受け取らない方が良いでしょう。就労制限のない長期滞在者を含めて、それだけの数の外国人移民の受入政策を既にわが国が取っているのです。

 ちなみに、技能実習および特定技能として、介護分野が含まれています。これは出稼ぎローテーション方式によるものです。日本における介護職の恒常的人出不足が、今後さらに悪化していくことが予想されています。そのため、別途、更新可能な介護という在留資格が創設されました。留学の資格で日本の介護職養成学校で学び、卒業後に介護福祉士の資格を取得すると、更新可能で家族帯同の出来る在留資格を得るのです。

 社会的分断や犯罪の増加という社会的懸念の問題に戻ります。

 まず、犯罪の増加ですが、同じ生活水準である層を比べると、日本に暮らす日本人と外国人の間で犯罪率の顕著な相違が存在しないという統計があります。従って、外国人の受入によって犯罪が増加するとすれば、日本人よりも貧困層が多いからということになります。貧困が犯罪を引き起こす原因となるのは日本人も外国人も変わりがありません。そこで、社会的分断の問題です。

 仮に、移民割合が10%になったからといって、実際に日本文化が崩壊の危機に瀕するということがあるでしょうか。日本は、古来より中国や朝鮮半島からの帰化人を活用し、その固有の文化発展の基礎を築いてきたという伝統を有する国です。多様な文化や価値を融合して、独自性のある文化を創造することが日本のお家芸であるとも言えるでしょう。芥川龍之介ではありませんが、何物もその中に溶かし入れてしまう触媒としての日本文化が、多様な異文化を受け入れることで、全ての伝統を失い、全く外国のそれに転換してしまうことなど考えられません。むしろ世界に発信できる新たな価値を生み出すことをこそ期待できるでしょう。

 重要なのは、社会的分断の苦悩を経験したヨーロッパ諸国に学ぶことです。単純労働について、出稼ぎローテーション方式で大量の外国人を受け入れたとして、その人達はいずれ「帰る」人達です。日本の社会の構成員として、文化的同化を受け入れながら、その社会の発展を真剣に考えることがあり得ないでしょう。そのような人達が日本社会の相当部分を占めることは大変危険なことです。日本の法制度では、最長8年から10年を、家族の帯同を許されず、単身、つらい労働に従事しながら生活し、やがて帰国するのです。

 単純労働についても、更新可能な特定技能のような資格に比較的短期間で転換可能とし、永住に道を開くことと、同化政策を実施することが重要です。同化強制に陥らない、同化のための適切な施策を遂行する必要があります。移民社会が社会的に閉じられた、隔離された集団とならないために、子弟の教育と機会均等の保障を行うことが大切です。その出自の故に、決して抜け出すことの出来ないような差別対象とされない工夫です。日本には、かつてニューヨークにあったハーレムを作りだしてはいけないのです。移民1世に対しては、日本語と日本の習慣の研修と共に、民主主義の教育が必要となるでしょう。日本人には当たり前のことが、その人達には当然とは言えないかもしれません。

 以上は、現在、就労制限のない長期在留者についても同様です。

 社会的分断を、取り巻く日本人社会が、分断を恐れる余りに誘発することになりかねません。異なる文化を有する、価値観の異なり得る移民を、そのようなものとして真正面から受入れ、その価値観を否定するのではなく、日本の社会に同化することを可能とする寛容を、日本人社会が持つ必要があるでしょう。

 日本の国籍法は、先進国の中で、帰化が相当難しい方に属します。以前のブログで触れたように帰化を容易にすること、そうして日本人となることを促進することも、移民の同化政策の一環です。共により良い社会を構築する構成員となることがその目的です。