50男と14女の関係?2021年06月18日 04:57

  「50才が14才と性交しても、真の恋愛であれば犯罪とするべきではない」と、立憲民主党の本多議員が党内WTにおいて発言しました。ポリタスTVにおいて、当事者の一方である大阪大学の島岡教授が詳細を述べています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ
(「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言|ゲスト:島岡まなさん(6/16) #ポリタスTV)

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 性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも16才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした50男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、14才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の18才とされました(2022年4月施行)。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。

 性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。

 立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、50才の女性と14才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。

 もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。

2,
 冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。50の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。

 日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。

 マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル=マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。

 かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。

 イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。

 日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。(私も免れませんが)高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。

 再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。



 それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、TPOに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。

元SEALDsメンバーの福田和香子さんのステイトメントについて2021年06月04日 00:37

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 集団安保法制に反対した元SEALDsメンバーの福田和香子さんが、twitter上、匿名で中傷された事件です。相手方を特定した上で名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、地裁において勝訴しました。

 2021年6月1日東京地裁判決についての、webニュースです。
 https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&g=soc


 福田さんのステイトメントとが公表されています。

 https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home

 
 自身が受けた侮辱的な言葉の一個一個を明らかにしながら、その言葉により傷つけられた者が声を上げることは、生まれながらにして持っている権利だとしています。インターネット上、度々生じる誹謗中傷に対して、恐れずに立ち向かうことは。よほど困難なことに違いありません。

 一人の被告に対する裁判という以上に、女性が政治的発言をすること、政治的な行動を起こすことに対して、よってたかって誹謗中傷を行う匿名の人たち、もっと言えば、このことを許容する社会に対して起こした代表訴訟だと思います。

 記者会見で、次世代に伝えたいメッセージを聞かれ、次の様に答えたそうです。

 「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」。

 生きている間に変わることないかもしれないと、社会に対する絶望的な見方を述べながら、しかし、「変化の一部になろうとしている事実」こそ大切だとしています。 若い女性が、戦って強くなってしまった。強くならなくても生きてゆける社会にしたい。生きている間に実現しないとしても、次の世代のために戦い続けるという彼女に強い感銘を受けました。

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 この世の中は、プラスとマイナスの抗争によって成り立っているなどというと、まるでゾロアスター教の教義のようですが、キリスト教文明にも深く刻まれた思想です。聖邪、善悪の対立がこの社会の構成要素であって、どちらが欠けてもいけない。いずれかが完全に負けてしまうと、社会そのものが瓦解する。むしろ「抗争」こそがこの社会の実体なのだとするのでしょう。

 私が、善悪という言葉にしないで、プラスとマイナスと呼ぶのは、善し悪しの評価をすることができない両極という意味を表したかったからです。単純な勧善懲悪ではなく、いわゆる「悪」とされるものであっても、実は、この社会を成立させるために、なくてはならないものである可能性があります。

 例えば、世界を股にかける武器商人は、明らかに「悪」なのでしょう。しかし、それでは武器商人が完全に無くなれば良いかというと、国際社会はもっと複雑です。この社会に人々が生きていくために必須の役割をも担っています。単純に善悪に決めつけることは不可能なのです。もっとも、これと戦い続ける努力を無くすることは有り得ません。一方が完全に支配するなら、人間の社会が消失してしまうからです。

 プラスとマイナスが存在し、お互いに力を及ぼし合うことでこの社会が成り立つので、未来永劫、いずれかが完全に勝利することは有りません。 しかし、この闘いは、決して諦めることが許されません。プラスの方向に向かう変化の一部になろうとする「事実」が是非とも必要なのです。完全にマイナスに支配されることは社会の滅亡を意味します。

 この闘いには、希望がなく、絶望も許されない。その人が変化の一部になろうとする、その事実が存在するだけなのです。

 冒頭の記事の福田さんは、「声を上げる」ことを諦めません。この抗争を止める訳にはいきません。法廷闘争は、現代社会の重要な闘いの場です。

 資本主義や天皇制に対する考え方は、私とは異なります。しかし、「変化」の一部になろうとするその態度に感動を覚えたのです。若者が、女性が、民主主義のために発言し、行動すること。

 生きている間に実現しないという希望のなさに耐える強さを、闘いの中で身につけ、強さを持たない人への優しいまなざしを失わない。この若い女性の態度にです。

入管法改正と、経済難民、移民政策。2021年05月29日 22:55

 スリランカ人であるウィシュマさんが、入管施設に収容中亡くなったことを契機として、入管法改正法案が廃案になりました。ウィシュマさんは、在留資格が無くなったため、不法滞在の状態にありました。

 外国人の収容施設には、不法滞在で法務大臣の特別在留許可を申請している人のほか、難民申請を繰り返しながら、認定を受けられず、長期的に収容されている人など、本国への送還を拒む長期収容者が多くいます。

 ウィシュマさんの死は、主として、外国人収容施設における外国人に対する待遇改善の問題を提起しました。ここでは、別の角度から、すなわち、日本の難民受入れが極端に少ないこと、日本が移民を受け入れるべきか否かという観点から、少しお話をしようと思います。

 結論的には、移民政策と難民政策の両面からのアプローチが必要だということになります。


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 難民条約上「人種や宗教、国籍、政治的な意見のため母国で迫害を受けるおそれ」がある場合を「難民」として定義しています。日本の入管法上、この立証を難民申請している者に求めており、難民認定が入管庁の裁量に委ねられており、極めてハードルが高いことが知られています。

 例えば、内戦などの母国の状況から難民化した人は、必ずしも政治的意見を表明したために迫害のおそれがあるではありません。経済的理由から母国ではとても生活ができない、あるいは命の危険があるとしても、経済難民として扱われます。

 かつて、ベトナムのボート・ピープルが大量に生じました。社会主義化を心配して資本主義政権の支配地域から逃れてきた人達が、手作りの筏に乗って、東シナ海にこぎ出したのです。大海の中を漂流する人達を人道上の理由から複数の国々が「難民」として受け入れました。日本は、上の定義に当てはまらないとして、当初、受入れを拒絶したのですが、国際的な批判の高まりもあって、一定数を受け入れることにしました。しかし、インドシナ難民として特別の枠組みを作り、受け入れることにしたのです。条約上受入を義務づけられる難民を条約難民と読んで、これと区別しています。

 それも極めて限定的です。法務省の説明によると、ボート・ピープルの側が、文化的な理由等から、日本を受け入れ先に希望しなかったとされます。これに対して、例えば、シリア内の戦闘激化による難民が、トルコを経由して大量に欧州に押し寄せたとき、EU加盟各国が割当制により受け入れたことは記憶に新しいですね。

 確かに、難民条約上の難民の定義には、経済難民を明示的には含んでいないようです。条約上、これを受け入れる義務があるかについては議論があるでしょう。条約の目的や、起草過程など、国際社会における多くの国々の国家実行がどうであるかなど、慎重な国際法解釈が必要になります。

 また、仮に、他国が経済難民も受け入れるとしても、移民政策の相違がその前提としてあることには注意が必要です。アメリカや欧州先進国が、従来より、寛容な移民政策を取ってきたのです。新天地を求める移民の中に、母国の政治情勢などの理由で経済的に困窮している人達が含まれていると予想できます。従って、欧米では、経済難民を受け入れる素地が元々あるわけです。

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 これに対して、わが国は、少なくとも法制上、移民を全く受け入れないという政策を取っているのです。高度人材となる専門的技能・知識を有するような外国人と異なる単純労働者については、第二次世界大戦後、日本の高度経済成長期を通じて全く門戸を閉じていました。
 
 しかし、少子高齢化が進行しているわが国の労働市場において、単純労働こそ需要が旺盛なのです。バブル期より、足りなくなった人手をどうして補っているかというと、表向き国際貢献目的である技能実習を通じて、その外国人の一生に一度だけ、3年ないし5年の年限を区切って受入れることで何とか急場を凌いでいるのです。定住、永住の途は一応ありません。

 もっとも近年、細かい業種毎に受入れ人数を管理しながら、特定技能や介護(これが単純労働とは言えないかもしれませんが)の新たな資格を設けて、受入れを拡張しています。これについては、一部、永住化の方法も有り得るので、既に、移民政策と言っても良いでしょう。そもそも高度人材については、以前より、積極的な受入れ、永住化の政策をとっているのですから、「移民」ではなく「外国人材」と言い換えても、ほんの言葉の問題に過ぎないでしょう。国際的な移民の定義からはかけ離れています。

 そこで、単純労働分野における移民の受入れを認め、もとより、そのためには多様な要素に基づくコスト・ベネフィットの計算と、日本人労働者の労働条件の切り下げを防ぐための最適な受入れ方法についての、国民的な議論を前提としますし、相当の準備も必要です。しかし、その上で、真正面から、移民政策をとっていると認め、労働者保護と機会均等に向けた内国の外国人保護政策を行うべきであると、このブログでも以前より主張しています。定住化および同化、統合のための施策も必要になります。

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 このことが、経済難民受入れの前提となるでしょう。なぜなら、少なくとも建前としての単純労働者の移民絶対拒絶政策が、経済難民受入れと、実際的な結果として、全く相容れないからです。これを併せて改革するのでなければ上手くいきません。単純労働の受入れを一定程度拡大し、定住化を容認するとすれば、母国が紛争下にあり、生命の危険にさらされているような人達を受け入れることは政治的か、あるいは経済的理由であるかの線引きが、そこまで厳密である必要が無くなるからです。

 併せて、不法滞在者の処遇問題についても、改善が期待できるのではないでしょうか。個々人の、わが国で送ってきた生活態度や素行などを勘案しつつ、柔軟に、特定技能やその他の資格転換のための猶予を与えることができるかもしれません。

高等教育の行政改革2021年05月18日 10:41

 もう梅雨入り。朝から曇天で、しかし風はひんやりとして心地良い。コロナ禍はまだまだ収まらず、小生は、今日も大部の洋書と取っ組み合う予定です。これはこれで楽しいのですが、そよぐカーテン越しに、窓の外を眺めながら、難儀な世の中・・・。
C= (-。- ) フゥー

1、行政改革の意味すること

 行政改革が公務員削減を意味するなら、公共団体のある部門の人員を削減して、民間委託することになります。その部門の労働者は、多くが社会に必須のエッセンシャルワーカーです。例えば、地方自治体では、廃棄物処理、運送、水道の検針業務、清掃等の各種関連業務などです。最近話題の保健衛生も含まれます。公務員であれば、身分保障があり、相当高待遇の労働条件で定年までほぼ間違いなく働けます。

 その結果、確かに、モラルハザードを生じました。市民、利用者に対して態度が悪く、労働時間管理が疎かになりがちであるなど、非効率で人件費ばかり嵩むのです。これらの部門を切り離し、民間委託すると、民間の事業者は採算が合わないと倒産するので、効率化されます。それで従来と変わらないか、それ以上のサービスを低コストで受けられるなら、万々歳でしょう。

 しかし、効率化とは、可能な限り少ない人員で同じだけの仕事量を遂行させることを意味します。低賃金、長時間労働を招き、賃金の単価が切り下げられます。また、事業者から見て不要なサービスも切り捨てられることになります。採算が取れない一切のサービスが公的部門に最小限を残し、社会から無くなることにもなります。コロナ禍が明らかにしたように、有事の際に、全く融通の効かない事態を招くことにもなります。

 かくて、行政改革が特定部門の民間委託により、社会に必須の業務について、サービスの低下を招くとしたら、その改革は失敗であるとの誹りを免れないことになります。公務員が担うことによる非効率と、民間事業者による場合の全般的なサービス低下や社会のセーフティネットとしての役割の減退との、均衡の取れた施策こそ求められます。

2、大学の場合

 ここで、視点を変えて、国立大学の教育という公的部門の一つの事業について考えてみます。大学の提供する高等教育がエッセンシャルであるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、これが社会にとって必要あるいは極めて重要であることは疑いのないところです。

 少子高齢化により、大学の入学者が、長期的に減少していくことが予想されます。また、国家財政が全体として切迫していることから、大学にもリストラ圧力がかかっています。定年不補充の方法により、徐々に職員数を減らしてゆくのです。その結果、全国の国立大学の事務職員数が劇的に減らされました。いきおい、事務業務の教員への移管が進められることにもなります。大学の先生は、教育研究に専念していれば良いというのは今は昔のことです。

 これが一巡すると、今度は、教員に対するリストラが始まりました。教員に対するリストラとは、教育科目のリストラを意味します。何とか、非常勤によって講義科目を維持できたとしても、研究分野を失い、何より学生にとってのゼミナールを無くすることになります。例えば、法学部系であれば、憲法や民法のゼミが無くなるのです。

 旧聞に属しますが、国立大学には文系学部は不要であるとする政治家の発言が話題になりました。国公立、私立の垣根を越えた、大学、学部の統合が文科省の目下の目標ですが、あまり進展していません。先ほど、ディシプリンの枠組みに全くとらわれないミッションの再定義という大号令の下で、全国の大学の改革が遂行されましたが、その美名の下、実は、文系を中心とした大学内の学部併合に遂しました。一層、リストラがやり易くなったのです。

 この先はどうなるのでしょう。文科省は長期的な視野に欠ける施策を良くするので、どのような目的を持っているのかは分かりませんが、財務省が大学の学生及び教員定員の削減を狙っているのは明かです。

 国立大学・学部を潰すとしたら、少なくともその地方において、その教育分野の高等教育について「民間委託」することになるでしょう。ある地方の国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部などが無くなり、地方私立大学に委託されます。学生に対しては、おそらくは国が一定の金銭的補助をしてくれるでしょが、その結果どうなるか。

 国立大学は、学生定員に対して教員数が多く、従って、私立大学に比して圧倒的に少人数教育に有利なのです。知人の私立大学教員に聞くと、人気の科目であると、期末試験の採点枚数が800枚から1000枚に及ぶこともあると言います。出席管理などどうするのでしょうね。授業を受けなくても、あんちょこで試験にさえ受かればの、ちゃっかり単位、ちゃっかり卒業ということになり易いでしょう。(もっとも、これは国公立にも共通の、大学としての課題ですが・・・。) ゼミナールも常時、数十人の規模となり、学生がゼミ報告をするとしても、年間、数回がせいぜいです。教員の目が学生一人一人に行き届くということは望めないでしょう。他方、奉職先大学の学部では、ゼミ定員の上限を6〜7人に設定しており、また、講義科目でも、可能な限り双方向の授業を実施しています。よりきめ細かな学生指導が可能であるのは目に見えています。大学事業の民間委託の結果がお分かりになるでしょう。

 決して、私立大学の教育を否定する趣旨ではありません。しかし、この「非効率の」少人数教育を低負担で地方の若者に提供してきた国立大学の役割を失うことになります。

 このブログでは教育に焦点を当てましたが、国立大学は、多くの研究者を雇用し、各学問分野に研究者を供給しています。伝統分野のみならず、先端的、あるいは融合的な、新しい学問分野の創造と発展に極めて重要な役割を担ってきました。これも効率化と引き換えに失うことになりかねません。日本に今求められているイノベーションを引き起こすものであるのにです。

 ここでも、モラルハザードを防止しつつ、非効率を改善することと、安価で上質な高等教育の提供との、均衡点を見つける必要があるようです。

保守とリベラル?2021年02月12日 19:11

 私は木蓮の花が好きです。寒い冬が終わり、いよいよ暖かくなる一番最初に、木綿色の、柔らかな紫の、大きな花が一斉に咲きます。もうすぐ春です。木蓮の蕾も膨らんできました。

 リベラルと保守について、私の考えをまとめてみます。最近、この区別がよくわからないように思えます。冷戦が終結したことを理由にして、リベラル不要論さえあります。

 高福祉高負担の現在の福祉国家路線は、戦後の高度経済成長に支えられて自民党保守本流が作ったものです。55年体制の下で旧社会党もこれに与りました。政治学の厳密な定義ではないですが、ヨーロッパの社会民主主義とも見まがうほどです。アメリカであれば、国民皆保険制度を社会主義と呼ぶ保守政治家が普通にいます。これを日本の保守的リベラリズムと呼んでおきましょう。

 少子高齢化と国家財政破綻の危機に瀕して、新自由主義の流れを生じました。小さな政府を目指すネオ・リベラリズムと言うこともあります。これに抵抗するのが、保守的リベラル。立憲民主党の枝野代表の立場です。アベノミクスに代表される、新自由主義に向かって一歩を踏み出そうとするかのような政府・自民党の中心的な主張がこれに対峙しています。

 ヨーロッパ諸国の中には、ドイツのように、ネオ・コンの主張を体現する政党と、共産主義を目指す極左政党が伸長したために、従来交互に政権を担ってきた福祉重視の保守政党と社会民主主義を標榜する穏健左派政党が中道化し、間に挟まれた正に真ん中に押し込められて弱体化している国が散見されます。しかし、これは戦前、ナチズムを産んだドイツの政治状況にも似ていて、心配でもあります。

 このようなヨーロッパの国と比べると、極めて幅広い政治的立場を含む政治家の集合である自民党のおかげで、日本の政治情勢はぬるま湯の中につかっているようです。保守的リベラリズムと、その中心的主張は温存しながら、多少なりともその方向性に踏み出そうとするかのような新自由主義の対立だからです。後者さえ、アメリカのティー・パーティのような極端な自由競争信奉者ではありません。日本の保守的リベラリズムを核として、幾分かの幅を持ったいくつかの同心円の中に、根本的な経済政策および社会政策については、多くの日本の政党が収まってしまいます。細かな政策的相違を除くと、その相違さえも選挙前には良く似てくるのだけれど、そもそもその大綱は余り見分けがつきません。私は、各党の選挙公約が似通ってくることを、時代とコースの定理と呼んでいます。今の中学生は知りませんが、私の学生時代には、『〇〇時代』と『〇〇コース』という名前の月刊誌をクラスメイトのほぼ全員が買っていて、二つの学習雑誌が、特におまけの内容と量を競っていたのです。その結果、どちらの雑誌の付録も毎号ほとんど異ならなくなりました。

 このことが問題であるというのではありません。幾分か一層、保守的リベラル、幾分か、新自由主義の相違を強調しつつ、経済政策においては穏健な政治的対立があれば良いと考えています。これを反映した経済的安定が国民の信頼獲得のためには是が非とも必要です。外交安全保障の相当程度の継続性も国民の安心感に通じます。

 大きな相違は、多様性を尊重しマイノリティーの声を最大限反映する態度と、一層の環境保護および生物多様性の維持に向かう政策であるべきです。現代日本社会の最大の焦点の一つが女性というマイノリティーのより深化した社会進出の促進です。以上が「文化闘争」です。これに加えて国際主義の立場に依拠するのが、私の考えるリベラリズムです。

 まとめると、経済における一層、保守的リベラルと、幾分か新自由主義の抗争と、文化闘争、そして国際協調主義と自国中心主義の相違に従い、政権交代が適宜に行われること。これこそが日本の民主主義の発展をもたらし、欧米に比べて、日本社会においてとてつもなく遅れている文化的価値の実現、換言すると、人権と多様性に開かれた寛容の価値を前進させるでしょう。

 以上は、このブログでも再三触れてきた持論です。最近、下記の論考に接したので、改めて論じることにしました。

大賀 祐樹
2021年の論点100 ー「左」でも「反日」でもない……素朴な疑問「リベラル」とは何を意味するのか?
https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1

書評が出ました。2021年02月05日 09:17

先にお知らせしましたように、私も小論を執筆しています。書評が出ました。

<書評>山岡俊介「表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景」(寄川条路編、社会評論社)(『アクセスジャーナル』2021年2月3日)
https://access-journal.jp/56659

出版のお知らせ2021年01月26日 16:35

このほど、
寄川条路編『表現の自由と学問の自由-日本学術会議問題の背景-』(社会評論社)が出版されました。小生も、第三章「大学はパワハラ・アカハラの巣窟」を執筆させていただきました。


寄川条路/編稲正樹/榎本文雄/島崎隆/末木文美士/
不破茂/山田省三/渡辺恒夫/著

A5判並製128頁
本体1,000円+税
ISBN 978-4-7845-1589-9 C0030 社会評論社


寄川氏は、著名な明治学院大学事件の原告です。
この事件については、次のウェブサイトを参照して下さい。

https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken/
http://university.main.jp/blog8/archives/cat120/
(いずれも、2021/1/26確認)


株式会社 社会評論社
〒113-0033 東京都文京区本郷2-3-10
TEL: 03-3814-3861
FAX: 03-3818-2808 E-mail: book@shahyo.com http://www.shahyo.com

オレンジ特急2020年11月28日 01:17

私の個人的な思いでを書きます。分析的な文章を期待しておられる方には申し訳ありません。今日はここでお帰りください。

座間猟奇殺人事件の死刑求刑がありました。

相模原市の障害者施設殺傷事件を思い出しました。障害者は生きる価値がないという「思想」を犯人は持っています。

そのような思想を持つ人に何も言うことはありません。

そうではない人がこの拙い文章を読んでください。

1 オレンジ特急

近鉄特急のオレンジ色に紺色のストライプの、おしゃれな車体の、小さな窓の中、何度もうなずいて、発車のベルが鳴り、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。
母の目に涙が浮かんでいた。

「会いたさ見たさに怖さを忘れ〜」。子供に会いたいから、病院を逃げ出して、どうにもちぐはぐな陽気な歌を何度も歌いながら、いつものようにいる母。

それでもどうしようもないから、また病院に逃げ込む。

昨日の夜も、夫婦喧嘩だった。猛烈ないがみ合い、がなり合い、幼い僕はいたたまれない。ぎゃーっと叫んで、泣きながら、毛布をストーブの前に投げつけると、父が僕の頬を叩いた。

母が悲しそうに僕を見つめる。

どうしようもないから、この子のためだと思って、自分がいるといけないから、そう思って、

また病院に逃げ込む。

中学になった僕が、母親に付き添ってゆく。堺市駅から、陸上クラブの遠征でいつも利用している国鉄で、天王寺。近鉄に乗り換える。バスの中も、電車の中も、僕は真っ暗な窓の外を見ている。母も僕も一言も口を聞かない。僕があげたショールを肩にかけて、大きな荷物を持って母が電車に乗り込む。

発車のベルが鳴り、小さな窓の中、何度もうなずいて、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。
母の目に涙が浮かんでいた。涙を浮かべて、僕を見つめながら、すまなそうに何度もうなづいていた。

2、貯金箱

小学生のころの僕は、たくさんのお年玉をもらった。祖父の家に行くと、決まり文句の「あけましておめでとうございます」をいうと、祖父や親戚一同がお年玉をくれる。大人ばかりの宴席に、僕がお年玉を独り占めできる。宴席のはじっこに座って、つまらなそうにしていると、周りの大人がかまってくれるけど、それが煩わしい。ただ一人の子供のお勤めだ。

母も父からお金をもらって、僕にくれる。そのお金を全部ためて、小さな金庫の貯金箱に入れていた。そのお金を母が盗む。ダイヤル式の鍵を、おもちゃだから単純で、一つ一つダイヤルを回してゆくと開けられる。ダイヤルの番号を変えても、また無くなる。お金が無くなっているのを見つけて、僕が叫んで母を責めても、もう遣ってしまっている。

あるとき、母がダイヤルを回して貯金箱を開けると、びっくり箱のように、バネのおもちゃが飛び出した。驚いている母を、かげで見ていた僕がお腹を抱えて笑った。母が、「何でこんなことをするんや〜」と顔をくしゃくしゃにして面白そうに笑った。

3、おねしょ

どうしても寝られなくて、苦しいから、薬がなくては生きていけない。数ヶ月分の薬袋が大きく膨らんだ中に、小分けされた粉薬の1日分を、ベロを出して舐めて確認すると、睡眠薬だけ取り出して、毎日、夕方に倍量か3倍量にして飲んでいた。眠剤のせいで昼間でもほうけた顔つきで、それでもそんな状態で出歩いていた。自分の調合したアッパーを飲んだせいで、双極性躁うつ病のようになった。

夕方、ご飯を食べさせると、薬を飲んで、夜8時までには正体不明になって、眠りこける。決まって、明け方5時ごろにおねしょをする。

階下から、「しげる〜、しげる〜」と呼ぶ声で起こされる。階段を駆け下りると、母がほおけた顔で僕を見る。下着を渡すと、自分で替えた。濡れた母のパンツを洗濯機に入れて、べたべたになったシーツを換えて、おねしょの布団を干し、乾いた布団を押し入れから出して、母を寝かしつける。毎日のこと、何の苦にもならなかった。

4、ケーキ屋

母が、ケーキを買うという。一緒に行ってやるというと、うれしそうにしている。いつものケーキ屋に行くと、若い女の店員が、また来たというように二人で顔を見合わせて、ニヤニヤ笑いながらぞんざいにしている。母は眠剤のせいで、昼間からほうけたような顔つきで知的障害のように見えた。ろれつも回らない。

いつもこうやってばかにされて、怒っていたんだ。

大学生の僕が、その店員をきつく睨みつけながら、叱りつけるような口調で注文すると、かしこまったように、ケーキを渡した。

帰り道。ベージュのアラン織のセーターに、母が編んだマフラーをして、網目のそろわないやたらと長いマフラーをして、並んで歩いていると、母がほうけた顔のまま、僕の腕に自分の腕を絡めた。そのまま寄り添って、腕を組んで帰った。

5、もう一度、オレンジ特急

その母が亡くなった。突然だった。僕が大学院生のとき。死因は睡眠薬の誤飲とされた。もう無理だった。病院に戻らないと無理だった。そう言っても、母は、「病院に行って欲しいの?」と言って、悲しそうに見つめた。

亡くなった後、母のタンスの中に、ハンカチを見つけた。色とりどりの安物のハンカチを、大切に取っていたのだ。僕があげたハンカチだった。それをみて、泣いた。泣いた。泣いた。

どんな命も愛おしい。

母は、若いころ、洋裁の達人だった。僕の小学校の入学式。まだ貧しかったから、母のワンピースと、僕のブレザーと半ズボンを上下お揃いの生地で仕立てた。編み物も得意で、テーブルクロスも、自分の藤色の上着も、小さなパターンをつなげて作っていた。

僕が幼かったころ、母に連れられて道頓堀のお茶漬け屋に行った。母が僕の分しか注文しない。僕は母の口元に箸をつけて、要らないの、食べないと?と何度も聞いた。おいしいよ。
母が怒り出した。外に出ると、足早に、僕を置いていくほどの勢いで歩いた。「恥ずかしい」、何度も、母が言った。

どんな命も愛おしい。

障害者でも。
一個の命が、どんなに大切か。どんなに。どんなに愛おしいか。

学術会議の任命拒否問題2020年10月18日 20:58

 最近、学会発表および学会誌投稿や、遠隔授業の準備に忙殺されています。遠隔授業に慣れないせいか、兎に角、準備に時間がかかります。ブログ更新を怠っていました。
(_ _)

 当面、不定期に更新します。気がついたら、読んでみて下さい。




 日本学術会議法は昭和二十三年に公布された法律です。戦後間もなく、戦中、科学が軍事目的に利用されたことの反省に立ち、政治部門とは独立した科学者の機関として設立されました。昭和58年に大きな法改正があり、それまでの、会員公選制から推薦制に改められました。このとき、学術会議の推薦に基づき内閣が任命するとしても、形式的任命であり、実質的な意味合いを含まないという趣旨の政府答弁が繰り返されていました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html
NHK・News Web  2020年10月8日 12時48分)

 政府は、憲法15条を根拠にしつつ、首相に、推薦通りに任命する義務はないとの立場です。かつ、昭和58年法改正時の政府答弁から、必ずしも解釈変更はないとしています。

 憲法15条は公務員の選定・罷免権が国民に存することを規定しています。ここで、公務員とは国民の代表者たる議会の議員のことであり、普通選挙によることが規定されています。この規定を根拠として、その他の公務員についても、国民主権原理の下で、国民の代表者である国会・地方議会がその勤務条件等を決定する権限を有するべきであると解されています。民主主義的コントロールが公務員全般に及ぼされるという趣旨です。

 ここから、学術会議の会員も公務員であるので、一定の民主的コントロールが及ぼされるべきであるとすることは理解できます。しかし、その民主的コントロールとは、国会が学術会議法という法律により、その選任の方法を決めているならば、それで足りると解することもできます。直ちに、首相の任命拒否権の根拠となるとは言い難いのです。

 学術会議会員は公務員といっても、特別公務員であると加藤官房長官が説明しています。特別職公務員とは、一般職公務員と異なり、「政治的な国家公務員(内閣総理大臣、国務大臣など)や、三権分立の観点や職務の性質から国家公務員法を適用することが適当ではない国家公務員(裁判官、裁判所職員、国会職員、防衛省の職員など)を指します(人事院のHP「おしえて人事院-国家公務員や人事院に関するQ&Aです」より)。

 公務員と言っても多様であり、職務の性質に応じて、民主的コントロールの在り方も様々です。例えば、国立大学の役員や一般の教職員・事務職員は、法人化以前は文部省・文科省の一般職国家公務員でした。法人化後も国家公務員法の適用は受けませんが、準公務員として、学長は文科大臣が任命します。運営費交付金など巨額の税金が投入される教育・研究機関です。法人職員の勤務条件は人事院勧告に従い決定されます。仮に、文科大臣が、特定の国立大学において選考された学長の任命を、政治的理由に基づき拒否するなら、直ちに学問の自由に関わる問題となるでしょう。

 また、特別職の代表格である裁判官ですが、その非民主的性格は法学を行う者の常識です。裁判所は司法を行う国家機関として税金により運営されています。しかし、日本の裁判官は、国民の選挙により選ばれません。たかだか最高裁判所裁判官について、国民審査があるだけです。但し、憲法および裁判所法に基づき、最高裁判所裁判官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、下級審裁判官は最高裁の指名に基づき、内閣が任命します。一旦、判事として任命されると、国会の弾劾裁判によるほかは罷免されません。民主的コントロールからはほど遠い存在ですが、この程度にはコントロールが及んでいるとも言えます。もっとも、下級審裁判官について、最高裁が指名した判事を、政治的理由に基づき、内閣が任命を拒否できるとすれば、政治部門が司法に対して介入したとして、三権分立の観点から直ちに憲法違反の疑いを生じます。




 学術会議は内閣総理大臣の所轄であり(法1条2項)、その会員については、学術会議が内閣総理大臣に推薦し(法17条)、総理大臣がその推薦に基づき任命する(法7条2項)と規定されています。これまで、学術会議の推薦に対して任命拒否を行った例がなかったのに、今年の推薦に限って首相が6名について拒否したのです。いずれも人文および社会科学の分野の学者であり、自然科学分野を含んでいません。

 新聞報道等によると、この6名の学者は、集団安保法ないし共謀罪の創設に係る組織犯罪処罰法改正に反対の立場を表明したことのある人物です。政府は、総合的な見地からの任命権の行使であり、人事の案件であるから詳細を述べないとして、具体的な理由を明らかにしていません。

 学術会議会員となるべき資格は、「優れた研究又は業績がある科学者」(17条)としか規定されていません(11条も参照。昭和58年改正時の両院の付帯決議によると、推薦に際して、女性や年齢構成に対する配慮が求められている)。政治家や官僚が、学問的業績を評価して、わが国における各分野の最も優秀な専門家達の推薦を拒否することは不可能と言えるでしょう。後でも触れますが、集団安保法反対等の理由であるとしか考えられません。そうであれば政治的理由に基づき、学術会議会員の任命を拒否したことになります。

 このことが憲法の規定する学問の自由に抵触するかが問われます。




 以降の記述の前提として、特定の政治的立場から述べているのではないことを明らかにしておく必要があるでしょう。まず、集団安保法について、憲法違反の疑いは晴れません。憲法改正が必要です。拡張的個別自衛権と、片務性のある集団自衛権というのは、どれほどの相違があるのでしょうか。具体的に、何ができて、何ができないのかの精密な議論こそ必要です。例えば、自衛隊が敵地攻撃能力を保有するべきだというのは、個別自衛権の範囲内で可能な議論です。原理的な、もっと言えば、言葉の争いをいつまでもしていては仕方がないのではないでしょうか。拡張的個別自衛権のラインに戻すとしても、日本の片務性に関するアメリカとの再交渉を含めて、外交・安全保障の現実的対応をとらざるを得ません。

 次に、組織犯罪処罰法の改正についてです。現在の国際社会共通の最大の関心事項の一つがテロとの闘いであり、また経済的犯罪組織を含めグローバルな手法を用いた資金洗浄の防止です。そのために「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」が平成12年に国連総会において採択され、わが国が同年に署名し、平成15年には、条約として発効し、わが国の国会が承認しています。

 わが国における条約の実施法が組織犯罪処罰法の改正法であり、共謀罪の新設ですが、この実施法の成立に随分時間を要しました。実施法の成立後、同条約を締結し、ようやく同条約がわが国内において発効しました。外務省のホームページによると、2018年6月18日現在の締約国は,189の国・地域となっている非常に成功した多国間条約です。この条約の趣旨について反対する人は少ないでしょう(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/soshiki/boshi.html 参照)。

 条約を締結すると、国際法としてわが国を拘束します。その内容に抵触する国内法の改廃を行わない限り、国際法違反ということになるから、実施法の成立を待たなければなりませんでした。実施法との関係でいうと、共謀罪を新設して、準備段階に犯罪の構成要件を拡張することが、条約上の義務と言えるかが焦点となります。もし条約上の義務であるならば、必要な立法を行わない不作為の国際法違反となるので、国会が条約の承認を行い、これに加入すると決定しておきながら、実施法の立法を怠るのは矛盾します。もっとも犯罪化拡張の範囲について、どのような法改正が有り得たか、条約および国内法の解釈が必須とはなります。




 学術会議法の問題に戻ります。

 同会議の目的が法の前文に規定されています。すなわち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」。戦後間もなく、焦土と化した国土を前に、政治家も科学者も、その戦禍を被ったことを悔い、二度と、科学の軍事利用がなされないように決意したことが伺えます。

 この目的のための職務を遂行する上で、学術会議の独立性が規定されています(3条)。昭和58年改正時の両院の付帯決議にも、特に、会議の独立性に配慮するべきことが述べられています。

 その職務として、政府は学術会議に対して、「科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分」や、「政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針」について諮問することができ、諮問を受けた学術会議は答申を行います。また、学術会議は、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策。科学研究者の養成に関する方策、科学を行政に反映させる方策、科学を産業及び国民生活に浸透させる方策」に関して政府に勧告を行うことができます。

 学術会議が行政改革の対象たり得るとして、その在り方について見直しが検討されるという報道がありました。近時、学術会議が「提言」は行っているが、「答申」「勧告」は余り利用されていないとされています。しかし、最近はあまり諮問がないので、「答申」がないというのが本当のところのようですし、求められてもいないのに、学術会議が政府に対して「勧告」を行うほどの必然がないとも言えそうです。「勧告」というよりも「提言」する方が、当たりが柔らかいので、日本社会では受け入れられやすいでしょう。

 学術会議は政府の言う通りに答申、提言を行っておれば良いというのであれば、その会議は単なる御用学者集団であり、独立性を損ない、その目的を無にします。

見 直し議論の背景として、学術会議が軍事目的研究を禁止していることが考えられます。

 「井上信治科学技術政策担当相は13日、日本学術会議が軍事目的の研究を禁止していることについて「戦後70年以上たち、社会のあり方、時代の変化もある。軍事と民生のデュアルユース(両用)はどの科学技術の研究分野でもあり得る。そうした変化も考えた上で考えていただければと思う」と述べ、禁止の見解を見直すよう促した」。(https://www.sankei.com/politics/news/201013/plt2010130021-n1.html
産経新聞2020.10.13 16:39)

 戦後復興を遂げ、既に経済大国となって久しい日本です。時代の進展とともに、日本周辺の情勢および国際社会の考え方が変わり、科学技術の発展もあるので、これに併せて学術会議の在り方が見直されるということは、すなわち軍事目的の研究を解禁するべきであるという圧力であるようです。




 以上の一切が今回の任命拒否の理由でしょう。

 まず、先に述べたように、集団安保法や共謀罪について、研究者として、その学問的知見からどのような意見を持ち、主張するかはその研究者の自由であり、これが理由で政府が学術会議に任命しないとすると、まさに学問の自由に関わる問題となります。

 次に、廃止を含めた行政改革を振りかざして、どうしても政府の見解を踏襲するべきだと専門家集団に強要することもまた、学問の自由に抵触する可能性があります。助成金、交付金、補助金などの配分、政府所管研究所等における予算編成について、政府の諮問を受けたときに、軍事目的研究に肯定的に言及する答申をさせるということでしょうか。

 時代や社会の進展とともに、法の改正や法解釈の変更が必要となることが有り得ることは当然です。少なくとも、学術会議会員の任命拒否は法の運用の変更に当たります。軍事目的研究の解禁を促すために、会議の構成員を代えようとするのではないかと少々穿ったみかたをしたくなります。しかし、当初の学術会議の目的が上述の通りである以上、軍事目的研究の解禁を認めることは背理となります。

 確かに重要な問題でしょう。学術会議でも議論を尽くす必要があります。むしろ学術会議だけでは済まない、大いに国民的議論を巻き起こしてゆくことが必要な問題です。繰り返しておきますが、仮に集団安保法や共謀罪に賛成であり、軍事目的の線引きが困難であるからその研究も有り得るとする立場をとるとしても、思想良心の自由、言論の自由、学問の自由に抵触する方法をとることは許されません。

 憲法を含めた「法」の解釈には客観的な、取り得る範囲があるとする見方を私は取っています。法と政治を明確に区別するべきです。法は社会統制の道具です。法の支配が社会の安定に通じます。そのときの政治的風潮に左右されない厳然とした範囲のあることが重要です。

 法の明文および改正時点での両院付帯決議における独立性の強調、推薦規定を含む法の構造、学術会議創設の当初目的と推薦制の当初運用を勘案して、学術会議法の解釈として、首相による任命拒否を可能とする解釈変更が可能かについては相当疑問があります。これを可能とするためには、行政府が暗黙裏に解釈変更を行うという姑息なやり方ではなく、真正面から、学術会議会員の任命方法についての法改正を行うべきであったでしょう。

 行政庁所管の法律について、当該行政庁の解釈が先行し、まずは優先されることには疑いがありません。しかし、解釈の可能な範囲を超えると違法となります。学術会議法の解釈に憲法問題が関係します。法解釈についての有権的最終的な決定権限は裁判所にあります。任命拒否問題は継続しています。いずれ憲法訴訟に発展するかもしれません。


2020/11/07 誤解を招かないために、3の部分的な修正。

子の連れ去りと親権者の決定2020年08月24日 19:05

 両親が離婚するのは大人の勝手かもしれません。婚姻は法律上の制度です。配偶者の双方に法的な権利及び義務を生じます。むしろ、不幸な婚姻関係を早期に解消して、そのような足かせから解放され、自由な立場に戻りたいと願うこともあります。そのような場合でも最も深刻な問題が子供の処遇です。子供の親権争いは、自分の子の両手を父と母が双方から引っ張り合う、親にとっては半ば命がけの、子供にとって残酷この上ない争いとなることが多いでしょう。このような場合に、子供を手放したくない親が、子供を相手方に無断で勝手に連れ去る、「子の連れ去り」の問題を取り上げます。
「親による「子の連れ去り」が集団訴訟に発展 海外からは“虐待”と非難される実態とは」(https://dot.asahi.com/dot/2020082000083.html?page=1
AERAdot. 8月22日の記事です。

 子の一方的な連れ去りについての法の未整備が、憲法13条に違反し、連れ去られた子の人権も侵害しているとして、別居中の親を中心に、他方の親から引き離された子供も含まれる原告団14人が、国を相手取って集団訴訟を提起したという内容です。

 欧米諸国には共同親権の制度によっている国があります。通常子の監護、養育を行う親を決めつつ、他方の親の面会交流権も保証されることが多いのです。欧米の映画やドラマを見ていると、毎週末の数日や、一月に一度1週間程度、あるいは学校の長期休暇中の一定期間、通常一緒に暮らしていない親の住居に行くという場面が出てきますね。監護・養育権を持つ親は、相手方が子との面会交流を行わせる法律上の義務を負うので、その同意なくして遠方に転居して、面会交流を困難にすることも禁じられます。仮に、監護権のある親が従来の住居から子を連れ去ったり、逆に、そのない方の親が面会交流中に子を連れて遠方に逃げたりすると、誘拐罪に問われることもあるのです。父母の共同親権の下で、通常養育する親を決め、他方との面会交流を親及び子の双方に厳密に保証していることが分かります。

 これと異なり、わが国は単独親権の制度をとっています。現行民法上、夫婦の離婚の際に、財産分与や慰謝料の支払いが決められ、そして子供がいる場合、親権者が決定されます。当事者の協議に基づき、最終的には裁判所が、両親の経済状況や社会的立場、子供の置かれる環境などの諸事情を総合的に勘案して、子の幸福の観点から、子の親権者がいずれの親となるか、養育費の支払いや親権のない親との離婚後の面会交流の方法を含めて、当該の子に最も適切な方法を考案することになっています。

 従って、一方の親の単独親権といっても、通常養育する親を決め、親権のない方の親も養育費を分担しつつ、適当な方法で面会交流を行うことを取り決めることもできるのです。しかし、実際上、親権者とされた親が離婚した他方配偶者に対して、子との面会交流を拒むことや、再婚などの事情により、子との面会が困難になることが多いのです。また、養育費の支払い不履行が横行しています。

 上記のweb記事によると、「約90名の議員が所属する超党派の議連「共同養育支援議員連盟」が、森雅子法務相らに対し、養育費不払い解消に関する提言書を提出」したとされています。養育費の支払いと、面会交流を含む共同養育の取り決めを離婚成立の要件とする、法の改正を求めているようです。

 離婚の成立要件として合意したとしても、その約束が反故にされないための仕組みが必要でしょう。提言の内容を知らないのですが、養育費の支払いと面会交流の権利・義務を組み合わせるうまい方法があると良いようには思われます。子の連れ去りとの関係で言えば、結婚が破綻した夫婦の一方が、離婚前に、他方配偶者に無断で子を連れて家を出て行く場合、離婚の際の親権者指定において、裁判所が、現在、養育している親と子の環境を重視するので、結局、連れ去った方が勝つ場合があるのです。

 欧州連合(EU)欧州議会が8月8日、EU加盟国の国籍者との関係で、日本人の親が日本国内で子どもを一方的に連れ去さることを禁止する措置を講じるよう日本政府に要請する決議案を採択しました。(共同通信)(https://this.kiji.is/653694244372382817

 欧州議会というのは、EUの行政および立法を主として司る欧州理事会および欧州委員会の、諮問機関ないし立法の参与機関というほどの位置付けを有するものです。EU各国における直接選挙により選ばれるEU市民の代表たる議員が構成員です。対日決議といっても法的拘束力はなく、欧州委員会や各国政府に対して日本政府に働きかけることを要請したものです。子供に対する重大な虐待であると非難しています。

 国際的な子の連れ去りについては、ハーグ条約(国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)があります。国際結婚をした夫婦の間の子が、従来居住していた国から、無断で一方の親の国籍国に連れ去られたという場合、連れ去りから一年以内であれば、締約国は、子が元居住していた国に送還しなければならないと規定されています。

 1980年に採択された条約なのですが、わが国が締約国となって上の義務を負ったのは、2014年になってからです。外務省のHPによると「1970年には年間5,000件程度だった日本人と外国人の国際結婚は,1980年代の後半から急増し,2005年には年間4万件を超えた」とされています(https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html#section1)が、この間、外国で結婚した日本人が離婚をする際に、子供を無断で連れ出し、日本に帰国するという事例が頻発したのです。欧米諸国を始めとして、ハーグ条約締約国が増加する中、日本のみがいつまでも加入していませんでした。

 外国に居住する日本人が、その国の国籍を有する配偶者と離婚すると、居住資格を失う場合もあるし、言語の問題があり、容易に良い収入を得られる仕事を見つけられない場合もあります。国際結婚であれば、経済的にも、親権争いに敗れて帰国を余儀なくされると、二度と子供に会えなくなることを懸念して、離婚裁判の前に、あるいは裁判中に隙を見つけて、相手方に無断で子供を連れて帰国してしまうのです。日本の裁判所は、日本法の下で、子が現在日本にいる生育環境を重視して、養育中の親の経済状況に問題がないならば、子の利益の観点から、養育中の親の親権を認め、子の連れ戻しを認めません。ハーグ条約の締約国であれば、1年以内であれば、理由のいかんを問わず、よほどの事が無い限り、連れ戻しが決定されなければならないので、日本の裁判所の実務が国際問題に発展しました。

 子から引き剥がされた外国にいる親は、その国で、離婚裁判や親権者指定の裁定を裁判所に求めるでしょう。子の一方的な連れ去りを違法とする国であれば、尚更、置いてきぼりにされた親の親権、監護権を認めます。アメリカ人の父親が、日本人の母親が子供を連れ去った場合に、その母親と子供の住所をつきとめて、母親やその家族の前で、暴力的に子を連れ戻そうとした事件が起こりました。日本では、アメリカ人の父親が警察に拘束されたのですが、アメリカでは父親が親権・監護権を認められていたので、この母親がアメリカに行けば、誘拐罪で逮捕されていたのです。この事件を契機として、日本の態度を非難する世論がアメリカ国内で巻き起こり、アメリカ政府が日本政府にたいして、一定の措置をとることを要請する事態にまで発展しました。このような事例はアメリカに止まりません。

 そこで、日本が重い腰を上げて、ハーグ条約の締結に向けて検討を開始し、上に述べたように、2014年に至って漸く、締約国となったのです。これ以降は、条約の要件に従い、日本は子を元の国に送還する義務を負うこととなりました。現在の住所が判明していると、裁判所を通じて子を保護し、元の居住国に連れ戻すことができます。EU議会の対日決議は、日本国内において、居住地を変えて、子を連れ去ることを問題視するのだと思われます。

 日本に住む日本人夫婦の離婚に関する国内事件でも、先に述べたように居住地からの子の連れ去りを防止するのに有効な法が存在しないからです。共同親権か、単独親権か、いずれの法制度が適切なのか、面会交流権の確保の方法など、日本法として、その運用を含めた検討が必要なようです。

 ここで、少し、視点を変えてみます。日本は、国際社会の一員です。多くの国において妥当するルールがあるとき、日本だけがこれを無視するなら、日本国内の法としては問題がないと、その時には考えられるとしても、国際的には非難を免れないということです。日本では常識であっても、国際社会では、非常識だとして批判されることが往々にしてあるようです。国際的な、「隣近所の決まり事」があるときには、それに従うという価値観があっても良いでしょう。

 子の奪取をめぐる問題は、元々、子が親と居住していた国の、司法的解決がなされるべき問題です。すなわち離婚裁判や調停などの司法手続きに委ねるということが、法治国家としての重要な前提となるはずです。勝手な子の連れ去りを認め、無断で子を奪った方が、既得権により優先されるということを認めることが、多くの国で違法視されているのです。それでは、子の両手を、両親が実力を行使して引っ張りあう、文字通りの奪い合いにもなります。子の利益には全く適わないでしょう。ハーグ条約が、原則として子の親権の法的内容や具体的な監護のあり方については述べず、ただ、一方的に子を奪う行為を問題にして、子を、元居た国に返した上で、その国の司法的解決に委ねることのみを義務付けているのです。

 ハーグ条約が適切にわが国で実施されるためにも、離婚の際の親権者指定をめぐるわが国国内法上の問題を、もう一度考え直す必要があります。