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    <title>寡黙な人のブログ－丁酉夜話</title>
    <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/</link>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Mon, 12 May 2025 21:04:18 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>木蓮のつぼみ（再掲）</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2022/05/24/9493568</link>
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      <pubDate>Tue, 24 May 2022 10:30:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2022-05-24T10:38:20+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2022-05-24T10:34:15+09:00</dcterms:created>
      <description>14才だった少年Ａもそろそろ40才になります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「神戸連続児童殺傷事件から25年　少年Aまもなく40歳に　途絶えた手紙　遺族が願う贖罪は果たさず」&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://www.ktv.jp/news/feature/220523/?id=a6944645b413a4e2c8150f6db2f0d5c4b"&gt;https://www.ktv.jp/news/feature/220523/?id=a6944645b413a4e2c8150f6db2f0d5c4b&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
2018年02月03日に掲載したブログ記事を再掲します。以下、そのときのブログ、ほぼそのままです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ココから。↓&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
以前のブログで「相田みつを美術館」のことを述べました。ちょうど2月頃の木蓮をうたった詩があります。美術館で、この書を展示していました。次の様な詩です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「裸の木蓮」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「いま庭の木蓮は裸です&#13;&lt;br&gt;
　枯葉一枚枝に残しておりません&#13;&lt;br&gt;
　余分なものはみんな落として&#13;&lt;br&gt;
　完全な裸です&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　しかしよく見ると&#13;&lt;br&gt;
　　　それぞれの枝の先に&#13;&lt;br&gt;
　　　固い蕾（つぼみ）を一ツづつ&#13;&lt;br&gt;
　　　持っています&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　つまり木蓮にとって&#13;&lt;br&gt;
　一番大事なもの&#13;&lt;br&gt;
　ただ一ツをしっかり　と&#13;&lt;br&gt;
　守りながら&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
冬の天を仰いで&#13;&lt;br&gt;
キゼンと立っています&#13;&lt;br&gt;
　キゼンということばを&#13;&lt;br&gt;
　独占したかのように&#13;&lt;br&gt;
　　　裸の木蓮は&#13;&lt;br&gt;
　寒風の中に&#13;&lt;br&gt;
　ただ黙って立っています&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　みつを　　」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　書では、一つ一つの段落がつぼみの形にみえます。墨の濃淡と造形で詩を表現しています。皆さんも、機会があれば見に行って下さい。東京駅の直ぐそばです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私は木蓮が好きです。淡い黄みどり色の中心から、やわらかな厚紙のような白い花弁が、「もくれん」という言葉にふさわしい花です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　暖かな風を連れて来る冷たい雨の後の晴れ間に、沈丁花が香ります。歩いていると、不意に良い香。どこにあるのか思わず周囲を見回して、花の在処を探します。沈丁花が香ると、いよいよ暖かな春の到来です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　間もなく、木蓮が咲きます。待ちに待った木蓮です。白色の、濃い紫の。&#13;&lt;br&gt;
　ほんとうに木蓮が待ち遠しい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１、酒鬼薔薇聖斗&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここから、本題です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　神戸連続児童殺傷事件を覚えていますか？&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　酒鬼薔薇聖斗（さかきばらせいと）と名乗る犯人が、小学生を通り魔的に殺傷したあの事件です。特に、特殊学級に通う小学6年生の子供の命を奪い、頭部を切り落として、中学校の正門前に置いていたことで、社会を震撼させました。その犯人は、少年Aと呼ばれた14才の中学生でした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　被害者加害者双方の当事者からの手記が公表されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　被害者の父親の書いた手記です。&#13;&lt;br&gt;
　『淳』 (新潮文庫) ・土師 守 (著)&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　あどけない少年の様子が表紙に載っています。残忍な犯行に対して憎悪を掻き立てます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その日、いつもと変わらない様子で家を出た子は知的障害のある子でした。家族がどんなに大切にして、愛おしんでいたか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　元少年Aは少年院を退院した後、『絶歌』（太田出版）という手記を発表しています（2015年）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　加害少年の父母の手記も刊行されました。『少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記』 (文春文庫)&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　少年院で、加害少年の矯正に取り組んだ元法務教官の記録も公刊されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　事件直後に、加害少年は実名や写真のほか、刑事事件における供述調書の内容を雑誌に公開されました。今現在に至るまで、居住地や最近の雑誌社の取材の様子など多くの情報が、虚偽のものを含めてネット上に掲載されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　成人した加害者が日本の社会でどのように暮らしていけるのでしょうか。名前を変えたり、もしかすると整形しないといけないかもしれませんね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２，刑罰の目的と国家による社会の管理&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　犯罪を犯すと、刑罰や処分が下されます。犯罪者(非行少年）の矯正や更生がその目的であると考えるのが、わが国の刑法学上の多数説です。教育刑という考え方です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もっとも被害者側の報復感情に答えるという側面や、そのような犯罪に対しては罰を与えるべきであるという因果応報に対する社会心理も関係するように思えます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　犯罪加害者に対する人権の尊重と、これにより現代的な刑罰観が確立される前は、社会には残虐な刑罰が存在しました。公衆の面前での斬首はフランス革命の史実として有名です。江戸時代の日本では磔獄門（晒し首）が通常の刑罰の方法でした。被害者が犯罪者の最期を見ることでその報復感情に答えることができるし、公衆がこれを見物することは、社会一般の犯罪抑止のための見せしめとなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、何をすれば、どうなるかの過程を知ることができ、応報の観念に即することになり、社会的ルールを確認することができます。結果として社会的安心に通じるかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　公衆が死刑を「見物」できることは、古来より一般的でした。残虐な暴力が死を招く瞬間を見ることが、多くの人々の、感興の的であったのではないでしょうか。そのようないわば行事が定期的に催されることで、その社会の暴力を総体的に抑制できると考えられたのでしょう。その意味では、祭りが、その地域社会すなわち共同体の結束の証しであり、許された「けんか」として、暴力の発露が一定のルールの下に認められるのと似ています。&#13;&lt;br&gt;
　　&#13;&lt;br&gt;
　現在でも、例えばアメリカの州の中には、死刑を公開しているところが多いです。電気椅子や薬殺の場面が、近隣地域の住民に一般公開されます。被害者や住民の前で、死刑が執行されるのですが、これがその地域社会の伝統なのです。その目的はやはり、被害感情への応答や悪者の最期を見届ける住民の意思が考えられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　人類は、動物として、その遺伝情報に暴力的因子を持っているのです。この発動を適度に押さえない限り、人類社会の存立が危機に曝されます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　弱肉強食の動物としての群れが、類人猿の集落を経て、一定の規範を備えた人類社会へと「進化」するとして、その共同体におけるルールは、動物としての自働的な規則性から、集落の慣習や宗教的（神事としての）規範が生まれ、やがて法としての規範に至ります。どの段階から「法」と呼び得るかには議論がありますが、書かれた法か不文の法かは別として、ある段階からは原初的な法的ルールとなることに疑いがありません。そのルールは、社会経済的には、その共同体において、最大多数の個体を維持できるために考案されたと言えるでしょう。規範の存在が社会的安心に通じる仕組みが我々の社会の深層に存在するのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　『時計じかけのオレンジ』（スタンリー・キューブリック監督）という1972年公開の米国映画があります。近未来を描くSF映画です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　残虐な暴力行為を繰り返す非行集団のリーダーが、刑務所で矯正措置を受けます。映像による暗示と生理的拒絶という「最新の科学的方法」により、暴力行為に対して拒否反応を引を起こすように改造されるのです。その過程は、身体的な手術を伴わないけれど、まるでロボトミー手術のようにも見えます。この方法で全ての犯罪者を矯正することができれば、犯罪を防止し、社会を安全にするというわけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　他方、キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』という映画があります。前半は、ベトナム戦争のために徴兵された若者が、米国軍隊のキャンプで殺人兵器に改造される様子を描いています。米国内の駐留地で改造が施された兵士達が、ベトナムに送り込まれるのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　キューブリック監督の映画では、いずれの改造もある意味では失敗に終わります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　何を犯罪にするのか、どんな刑罰を与えるのが相応か。教育刑としても、報復感情や因果応報の理に訴えるとしても、いずれにしても国家が社会を統制したり、管理することに関係します。キューブリックの映画は、このような社会統制や社会管理に国家制度が関わることを如実に描き出しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３，日本人のランク付け&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　最近よく「東大生の・・・」というテレビ番組や書籍を見かけるようになりました。その出身者である研究者が研究の粋を公表するというものではなくて、現役東大生である若者が出てくるものです。東大生は「頭が良い」から、そのような若者の凄いところを見るのが、大衆の感興の的なんでしょうかね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以前、東京大出身のある学者に聞いたことなんですが、東大入学式で、法学部出身の総長が次の様な祝辞を述べたそうです。君たちは、日本を引っ張ることになっているのだから、しっかり頑張って、日本のために働きなさい、という趣旨の祝辞です。東大以外にほぼ人が居ないというほどの強いエリート意識を持ったその集団は、実際に、勤勉であり、人によると血を吐くほどの努力家でもあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もっとも東大以外にも、京都大学にも多かれ少なかれそのような側面があるのでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一部の能力のある者が大衆を先導し、社会運営に当たり、社会の発展に寄与するべきだというのが、エリート主義です。われわれは、これに慣れてしまっているのでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本人は偏差値によるランク付けをほとんど大前提にしているようです。思春期の大部分を偏差値と格闘して、漸く大学に入学すると、多くの学生が勉学を放棄するというのが、大学教員としての日常的経験です。多くの場合に、高校入試で偏差値の洗礼を受け、そのランク付けを当然視しながら、それ以降は、このランクの枠を意識して、具体的には偏差値の５ポイント単位の変動を目指しながら勉強をします。公立学校の教育には飽き足らず、終業後に塾通いするのが通常でしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ランク付けは勉学だけではなく、スポーツでは一層当たり前です。全国的な運動テストにる能力比較がなされます。例えば、市域の大会から始まって、各都道府県大会、更に大きな地域大会から全国大会へと、子供達の中から選抜されて行きます。このような組織的なスポーツ大会も、国の政策の下で遂行されます。スポーツの振興に伴い、国民の世界大会での活躍がその国の国力を示すかのような、国威発揚の宣伝にも用いられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　小学生や中学生の大会で優秀な成績を上げると、中学あるいは高校のスポーツ推薦入学、その後は大学へと続きます。入学金や学費は免除、全寮制で生活費の心配も無く、スポーツの鍛練に集中することができます。そのスポーツ部を退部しない限り、一銭もかからないのです。その後、プロ選手になる一部の者を除くと、大卒資格を得て社会人となります。スポーツ・エリートです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　話を元に戻すと、勉学にしても、スポーツにしても、人の能力の数値化がここでのキーワードです。全国的な試験に基づく偏差値による全日本人のランク付け、速度や採点による数値化によるランク付けが、人の「階級」を決めます。その若者の将来を決定するものが、それらの数字です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　幼い知的、精神的能力のままに、このシステムに気づいてしまった者が、そびえ立つ岸壁の前に唖然として立ち止まってしまうことは無いでしょうか。幸いにして、多くの人がシステムの中にあって、このランク付けのシステムを内面化しているので、辛うじて正気を保つことができます。無意識裡に、自覚的理解の能力もなく、これに気づき、その岸壁をよじ登るなんてとても不可能だと、全ての希望を失ってしまうかもしれません。実際は、知らず知らず登らされて行くので、そんなに心配はいらないとしてもです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４，再び、少年A&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　驚くような非行に陥る未成年者が、家庭や学校では大人しい良い子であったということが間々あります。親や教師の面前では、気に入られるような態度を身につけているけれど、内面的には病的な問題を抱えていることが有り得ます。少年Aも、その両親には、後に非行に繋がるような精神的な問題点を感じさせなかったのかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　当時の新聞記事を今でも覚えています。少年Aが、登校した振りをして自宅を出た後、児童公園のいつものベンチに腰掛けて、誰も居ない広場や遊具を見て過ごしていたというものです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　１３，４才の少年が学校の集団生活から逃避して、たった１人で、公園にたたずんでいるのです。誰も居ない砂場、座る者のないブランコが微かに揺れ、湿ったグランドに陽が当たり、そこに雀ぐらいは遊んでいるかもしれません。何時間も、ぼんやりとそのような風景を見ていたのでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　なんという孤独でしょうか！その切なさが胸に迫りました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そんな事件を起こしてしまうなんて。大切な人の命を奪うなんて。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同時に、淳君のお父さんの慟哭が！&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私たちは、どちらの子供も救うことができないのですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　２月の寒風にさらされている木蓮の堅いつぼみを。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>信条に反するから同性愛カップルのウェディング・ケーキは作らない？？？</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/09/25/9426845</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/09/25/9426845</guid>
      <pubDate>Sat, 25 Sep 2021 09:28:26 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-09-27T10:36:44+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-09-25T09:49:24+09:00</dcterms:created>
      <description>　今日は気持ちの良い秋晴れ。先日、近くの道後温泉に行きました。コロナ感染警戒のため、外湯として有名な道後温泉本館や飛鳥の湯が休館中です。そのため、椿の湯という地元の人が好む銭湯形式の温泉があるのですが、観光客による入館待ちの行列ができています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　やや高級な温泉宿もたくさんあって、日帰り入浴ができるところがあります。きれいな展望露天風呂があったり、絶品です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「言論プラットフォーム アゴラ」に、拙稿を掲載して頂きました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「信条に反するから同性愛カップルのケーキは作らない？」&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&lt;a href="https://agora-web.jp/archives/2053193.html"&gt;https://agora-web.jp/archives/2053193.html&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　本年6月、LGBT法案の国会提出が断念されました。与野党の合意にもとづき、性的指向、性自認に関する「理解増進」を図る法律案です。自治体レベルでは、明確な差別禁止規定を有する条例を持つところもありますが、この法案には差別禁止規定がありません。前文にその趣旨説明が挿入されたことに、自民党保守派が猛反発し、廃案に追い込まれました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この小論では、国会上程前に廃案になったLGBT理解増進法について、差別禁止条項があったとしても、乱訴を生じるとは言えない。日本社会の一層の法化こそ急務とする内容です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　福井県立大学教授の島田洋一氏のコラム「LGBT濫訴の危惧、米の例から」（産経新聞）に全面的に反論しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　興味のある方は、是非、上のリンクから、ご一読ください。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>続・５０男と１４女の関係？</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/07/20/9400066</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/07/20/9400066</guid>
      <pubDate>Tue, 20 Jul 2021 22:40:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-07-30T00:52:12+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-07-20T22:41:35+09:00</dcterms:created>
      <description>　前回のブログでは、同じ論題で、リベラルに蔓延る非犯罪化の教条主義とフェミニズムの教条主義のいずれも誤りであることを指摘しました。今回はその続編として、本多議員の発言の問題を具体的に検討します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私は刑法の専門家ではありません。必ずしも刑法学者と同じ視覚からの議論ではないので、一般の方に分かりやすく、面白いかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「５０代の私が、１４才の女性と恋愛に落ちることを、犯罪として良いか」という趣旨の発言を巡り、立憲民主党の執行部が、議員本人の趣旨説明と陳謝を受け入れず、党の懲戒委員会に懲戒処分の諮問を行いました。本多議員は、中年男性から未成年の女性に向けられる視線といった類いの問題ではなく、刑法改正の議論において、実感を持って非犯罪化の方向で議論したかったとしています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　次回総選挙における党の公認内定取消し、更に、１年間の党員資格停止の処分を下すということです。本年秋に予定される次回選挙での当選が見通せない限り、議員生命を断つというほどの重い処分です。新聞記事によると、幹部らが本人に「出処進退を明らかにする」ことを迫ったにも関わらず、本人が受け入れなかったため、処分に踏み切ったようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
衆議院議員本多平直氏の公式サイト　（&lt;a href="https://www.hiranao.com/"&gt;https://www.hiranao.com/&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
朝日新聞の記事「立憲、本多氏の公認内定取り消しへ　性交同意巡る発言で」（&lt;a href="https://www.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html"&gt;https://www.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html&lt;/a&gt;）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　弁護士を含む第三者を委員とする「ハラスメント防止対策委員会」というのは、党内および党周辺におけるハラスメント案件について、告発を含めて対策を行うための、党から独立した常設の委員会であるとされています。同委員会から、この問題についての調査報告書が発出されました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　調査報告書をまとめた委員会の委員長が労働ジャーナリストの金子雅臣氏（一般社団法人職場のハラスメント研究所所長）です。調査報告書は長文であり、独特の専門的用語を用いた難解なものですが、簡単には、次の毎日新聞の記事で概要を知ることができます。また、立憲民主党幹事長の記者会見で、調査報告書の内容がやや詳細に紹介されており、これを受けた処分について説明されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
毎日新聞の記事「本多平直氏「同意性交」発言　立憲、調査報告書で言動を強く批判」（&lt;a href="https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/010/009000c"&gt;https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/010/009000c&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
立憲民主党「福山哲郎幹事長記者会見２０２１年７月１３日（火）」（&lt;a href="https://cdp-japan.jp/news/20210713_1800"&gt;https://cdp-japan.jp/news/20210713_1800&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
なお、立憲民主党プレスリリース「「誠心誠意、実現をしていきたい」ハラスメント防止対策委員会「調査報告書」を受けて、福山幹事長」　（&lt;a href="https://cdp-japan.jp/news/20210713_1792"&gt;https://cdp-japan.jp/news/20210713_1792&lt;/a&gt;）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１，認知の歪みとされるものと、本多議員の失言の関係&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　まず、日本の文化の中には、男性支配の構造が今なお厳然として存在しています。「男が外で働き、女が家を守るという分業の発想」が、多くの仕事の場において、職員数や権限の質的な差を生んでいます。女子差別撤廃条約への加入を受けて、男女雇用機会均等法が制定されても、もちろん社会的発展の胎動が基底として存在したには違いないとしても、法の制定だけでは、文化というものはそう簡単に変わるものではありません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高等教育を受ける機会を提供することについて、送り出す家庭にしても、受け入れる教育機関にしても（奉職先は国立大学なのでないが、）今なお男女の扱いに相違があり得ます。折角入った大学にしても、卒業時には、多くの企業が採用上、男女の差を設けているのは周知の事実です。必然的に、数と権限において圧倒的に強い男性集団に囲まれた女性労働者という構図を生じるのです。増えつつあると言っても、まだまだ女性管理職の数は限られます。職場の上司たる男性と部下である女性の間の権力関係を利用した性的搾取が行われやすい環境があるわけです。学校という教育の場において、教師と院生・学生・生徒、あるいは体育部監督・コーチと部員の、絶対的な権力関係が利用されることがあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このようなとき、権力関係の中での少なくとも半強制的な状況における性被害が、曖昧な意味合いを持ってしまうことがあります。そして男性集団の中で、被害者たるべき女性をむしろ非難の対象として貶めることもまま見受けられるところです。一般に、年齢差に基づく経済力や経験の差を含めて、これら全てが「力」による弱者の性的搾取を生む可能性を孕むのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本におけるこの男性優位の社会構造に気付かぬ事を当該男性の「認知の歪み」と言うようです。ジェンダー論には疎いので、調査報告書を読むまで知らなかったのですが、憲法を学ぶと明確に自己および他者の人権意識が確立されます。ここでの記述は、他者の感じ方を思いやる感受性が法の解決をこころざすための前提となるといった観点からのものです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　人は生い育った文化に規定されます。家庭、学校、地域社会、書物や雑誌、それに映画などの映像作品の全てから影響されます。社会に差別意識があれば、その社会に生まれ育った者はその差別意識を空気のように身に纏い、なかなかその存在に気づきません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　技術者である下級公務員をしていた父がそうでした。「男はどういうもので、女はどういうもので、父は、子は・・・」。被差別者に対する侮蔑の表現を、少なくともプライベートな場では、厭うこともしません。戦中、戦後に幼年期から思春期を過ごした父の時代の風潮に規定されていたのです。私はそのような言動を否定しますが、だからといって父を軽蔑しません。どこにでもいる普通の男性です。しかし、その視点がおかしいと言っても全く理解されません。それが「常識」だからです。むしろ、お前が間違っていると怒鳴られるだけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　時代は進展しました。社会や文化もその当時よりは発展したことでしょう。上述した法が立法されて、政府により女性の社会参画が叫ばれ、実際、社会のあらゆる分野に女性が進出しています。しかし、ご承知のように日本のジェンダー指数は先進国とは言えないような体たらくです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　女性管理職を増やすためには、社会意識に働きかけ、ともすれば女性の高等教育に消極的になりがちな家庭に対して、経済的支援を充実させることで、女性に対する高等教育の機会を充分提供することと、就職差別をなくすことが重要です。企業の門戸を広げさせ、その上で、管理職の数値目標を設定するアファーマティブな人権政策が必要だと思います。議員候補者のクォーター制などの試みも是非、実現してもらいたいものです。いずれは議員定数の一定割合を女性とする公選法改正もあるかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　話を元に戻しましょう。時代が変わり、文化も変わりつつあるとしても、また、上述の男性による「権力」の構造を意識しようとしていても、言葉の端に従前の文化に引きずられた表現が現れてしまうことがあります。それほど、自分の受けた学校、家庭の教育や基底的な文化の影響は大きいはずです。その言の端を捉えて押し並べて、そのいう「認知の歪み」に気付かず、伝統文化を押し付ける高齢男性集団と、これもまた類で捉えて差別されても堪りません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　立憲民主党の対応やその誘引となったフェミニズム論者が、「あっ、しまった」と、本多議員が表現の稚拙さを詫びているのに、一方的に本質的「歪み」の輩だと決めつけ、議員生命を絶つべきだとしている点に違和感があります。その「歪み」が本当になかったかについてはよく考えてもらうべきだけれど、余りに性急ではないでしょうか。私は余り詳しくはありませんが、本多議員がこれまで国政で果たしてきた実績にも目を向けてみる必要がありそうです。党幹部として、立憲民主党の基本的な政策の策定に関わり、その実現に奔走していたのではないでしょうか。そうすると、例えば、議員クォーター制なども入ります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　性交同意年齢を巡る、党の公約策定段階における党内議論の場で失言があったというのですが、先の調査報告書によると、その真意において「認知の歪み」があることが疑われるとしているだけで、これが処分理由にはなっていません。刑法改正を巡る党内議論の場において、多くの場合に威圧的で、外部からの講師に対しても、恫喝まがいの態度を感じさせた。これが通常の法的な定義とは異なるが、いわばパワハラに相当する。そして真意はどうであれ、あの不用意な発言が党の信頼を損ねる危険がある。以上が処分理由の全てです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　上述のハラスメント防止委員会の目的からして、その調査内容に限界があるのは当然でしょう。私は、この言動から、直ちに議員としての死刑宣告まで行ってしまうのは、処分の相当性を欠くように思えてなりません。実際に何らかの性犯罪を遂行したとか、不貞行為があったというのではないのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これでは、ジェンダー平等を掲げる政党が支持者を失わないために、選挙向けの宣伝のため、拙速に処分をしたという印象を与えるでしょう。実際、福山幹事長が厳重注意という軽い処分を下した後、フラワーデモの関係者から鋭い批判を浴び、一転して厳格な処分を行ったという迷走が、このことを示します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２，法制度の弊害と優先すべき利益&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　法は、対立する多様の利益の衡量を行い、最も上手い均衡点を探求するものです。各々の利益の観点から、異なる結論に至る対立する主張を付き合わせて、調和点を求めようとします。本多議員は激しやすいようですが、このような複数の利益の内の一方の主張を行っただけでは無いでしょうか。この点、性交同意年齢の論点に則して私見を述べます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　結論的には、上に述べた権力構造を前提に、弱者保護を図る一環として、性交同意年齢の引き上げに賛成です。理由を以下に説明してみます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　法制度には弊害が付き物で、何の利益を優先するかの選択が必要となります。最近の例では、児童相談所を巡る問題がありました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　児童虐待が疑われると、緊急的に一時預かりの処分を下し、その親から子を引き剥がさなければなりません。児童虐待か否かの判断が困難な事例がままありますが、慎重になりすぎると、子供の命の危険にかかわります。他方で、虐待ではなかった場合、子は、その発達の重要な時期に、家庭環境から引き離され、親の養育を失い、親もその権利を侵害されます。子のＳＯＳを看過し、傷ましい虐待死を招いた重大事件の後、児相が一層、保護処分相当の判断に傾く傾向があるようです。この場合、子の命への危険を一層、重視するなら、良き親から子を奪う結果となるときに、子の福祉の観点から問題を生じます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子供の長い髪の毛が首に巻き付いた跡を、虐待による傷跡と間違ったために、実際、このような弊害を生じた事件があったのです。幼い子の養育のための、かけがえのない時間をその子と親から奪ってしまう結果となりました。子の命の危険を避けるべきは一刻の猶予もありません。しかし、家庭養育による子の福祉の増進を失う可能性もあります。どちらを優先するべきでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、性交同意年齢の問題です。真の恋愛は通常、刑事事件化しません。愛し合っている相手を犯罪者にしたいとは誰も思わないでしょう？　刑事事件となるのは、ア)最初から犯罪で良い援助交際や強制性を伴う性交の場合か、イ)第三者が問題視した場合、そして ウ)最初は恋愛感情によるものであったのに、後になって若年者の方が翻意したような場合でしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　刑法典に書き込まれたときに、その年齢に至らない若年者とは性交が許されないという規範が成立します。ア）の事例は当然だが、イ)や、ウ）の事例ではどうでしょうか。イ）の場合、当人同士が恋愛関係にあり、愛情の発露としての関係であったとしても、当事者の保護者やあるいはその他の第三者が通報すれば、成人の方が犯罪に問われることになります。法定レイプです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　個人の自由意思の範疇に国家が介入し、不当であるようにも思えます。しかし、立法が成立するなら、成年者の方が、相手がその年齢になるまでは、抑制するべきだという規範が確立することになります。真の恋愛であればこそ、例えば１６才という、その年齢まで待てないのはおかしいでしょう。また、実際には、警察の捜査裁量、検察の起訴裁量にかかる範囲も相当あるので、示談で解決される場合もあると考えられます。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　法制度には弊害がつきものであり、この場合に何が優先されるべきかと言うと、ア）の場合の若年者保護という事になります。この限りで、特にイ）やウ）のときに、国家が個人の自由意思の範囲に介入する余地は増すが、若年者側に訴追の決定権という権力を与え、権力構造の偏りを少し解消するのです。権力関係から半強制的に、あるいは判断能力の劣る者の同意を強いる状況で性交に至る若年者を一層、保護するわけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一般的には、若年女性の保護が念頭に置かれているので、１に述べた男性集団と女性の権力関係を是正するという意味でフェミニズムに関係し、ジェンダーの議論となります。しかし、性交同意年齢の引き上げに関する刑法の改正論議は、男女の関係は必ずしも固定されず、成人女性と若年男性の関係や同性間の関係も規律するものです。いずれにせよ、若年者という意味で、権力のある者と弱者との関係において、定型的な弱者を保護する議論なのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
＊ ７月２８日に、本多議員が自ら離党し、比例区候補の筋を通すとして、衆院議員も辞職しました。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>５０男と１４女の関係？</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/06/18/9389051</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/06/18/9389051</guid>
      <pubDate>Fri, 18 Jun 2021 04:57:37 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-07-16T08:46:56+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-06-18T04:58:30+09:00</dcterms:created>
      <description>　　「５０才が１４才と性交しても、真の恋愛であれば犯罪とするべきではない」と、立憲民主党の本多議員が党内ＷＴにおいて発言しました。ポリタスTVにおいて、当事者の一方である大阪大学の島岡教授が詳細を述べています。&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ"&gt;https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
（「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言｜ゲスト：島岡まなさん（6/16） #ポリタスTV）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１，&#13;&lt;br&gt;
　性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも１６才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした５０男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、１４才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の１８才とされました（2022年4月施行）。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、５０才の女性と１４才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２，&#13;&lt;br&gt;
　冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。５０の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル＝マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。（私も免れませんが）高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、ＴＰＯに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>元SEALDsメンバーの福田和香子さんのステイトメントについて</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/06/04/9384348</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/06/04/9384348</guid>
      <pubDate>Fri, 04 Jun 2021 00:37:39 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-06-04T00:37:30+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-06-04T00:37:30+09:00</dcterms:created>
      <description>　１&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　集団安保法制に反対した元SEALDsメンバーの福田和香子さんが、twitter上、匿名で中傷された事件です。相手方を特定した上で名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、地裁において勝訴しました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　２０２１年６月１日東京地裁判決についての、ｗｅｂニュースです。&#13;&lt;br&gt;
　&lt;a href="https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&amp;amp;g=soc"&gt;https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&amp;amp;g=soc&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　福田さんのステイトメントとが公表されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&lt;a href="https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home"&gt;https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　自身が受けた侮辱的な言葉の一個一個を明らかにしながら、その言葉により傷つけられた者が声を上げることは、生まれながらにして持っている権利だとしています。インターネット上、度々生じる誹謗中傷に対して、恐れずに立ち向かうことは。よほど困難なことに違いありません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　一人の被告に対する裁判という以上に、女性が政治的発言をすること、政治的な行動を起こすことに対して、よってたかって誹謗中傷を行う匿名の人たち、もっと言えば、このことを許容する社会に対して起こした代表訴訟だと思います。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　記者会見で、次世代に伝えたいメッセージを聞かれ、次の様に答えたそうです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　生きている間に変わることないかもしれないと、社会に対する絶望的な見方を述べながら、しかし、「変化の一部になろうとしている事実」こそ大切だとしています。　若い女性が、戦って強くなってしまった。強くならなくても生きてゆける社会にしたい。生きている間に実現しないとしても、次の世代のために戦い続けるという彼女に強い感銘を受けました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　２&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この世の中は、プラスとマイナスの抗争によって成り立っているなどというと、まるでゾロアスター教の教義のようですが、キリスト教文明にも深く刻まれた思想です。聖邪、善悪の対立がこの社会の構成要素であって、どちらが欠けてもいけない。いずれかが完全に負けてしまうと、社会そのものが瓦解する。むしろ「抗争」こそがこの社会の実体なのだとするのでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私が、善悪という言葉にしないで、プラスとマイナスと呼ぶのは、善し悪しの評価をすることができない両極という意味を表したかったからです。単純な勧善懲悪ではなく、いわゆる「悪」とされるものであっても、実は、この社会を成立させるために、なくてはならないものである可能性があります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　例えば、世界を股にかける武器商人は、明らかに「悪」なのでしょう。しかし、それでは武器商人が完全に無くなれば良いかというと、国際社会はもっと複雑です。この社会に人々が生きていくために必須の役割をも担っています。単純に善悪に決めつけることは不可能なのです。もっとも、これと戦い続ける努力を無くすることは有り得ません。一方が完全に支配するなら、人間の社会が消失してしまうからです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　プラスとマイナスが存在し、お互いに力を及ぼし合うことでこの社会が成り立つので、未来永劫、いずれかが完全に勝利することは有りません。　しかし、この闘いは、決して諦めることが許されません。プラスの方向に向かう変化の一部になろうとする「事実」が是非とも必要なのです。完全にマイナスに支配されることは社会の滅亡を意味します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この闘いには、希望がなく、絶望も許されない。その人が変化の一部になろうとする、その事実が存在するだけなのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　冒頭の記事の福田さんは、「声を上げる」ことを諦めません。この抗争を止める訳にはいきません。法廷闘争は、現代社会の重要な闘いの場です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　資本主義や天皇制に対する考え方は、私とは異なります。しかし、「変化」の一部になろうとするその態度に感動を覚えたのです。若者が、女性が、民主主義のために発言し、行動すること。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　生きている間に実現しないという希望のなさに耐える強さを、闘いの中で身につけ、強さを持たない人への優しいまなざしを失わない。この若い女性の態度にです。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>入管法改正と、経済難民、移民政策。</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/05/29/9382609</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/05/29/9382609</guid>
      <pubDate>Sat, 29 May 2021 22:55:24 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-05-12T21:04:18+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-05-29T22:57:24+09:00</dcterms:created>
      <description>　スリランカ人であるウィシュマさんが、入管施設に収容中亡くなったことを契機として、入管法改正法案が廃案になりました。ウィシュマさんは、在留資格が無くなったため、不法滞在の状態にありました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　外国人の収容施設には、不法滞在で法務大臣の特別在留許可を申請している人のほか、難民申請を繰り返しながら、認定を受けられず、長期的に収容されている人など、本国への送還を拒む長期収容者が多くいます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ウィシュマさんの死は、主として、外国人収容施設における外国人に対する待遇改善の問題を提起しました。ここでは、別の角度から、すなわち、日本の難民受入れが極端に少ないこと、日本が移民を受け入れるべきか否かという観点から、少しお話をしようと思います。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　結論的には、移民政策と難民政策の両面からのアプローチが必要だということになります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　１　&#13;&lt;br&gt;
　難民条約上「人種や宗教、国籍、政治的な意見のため母国で迫害を受けるおそれ」がある場合を「難民」として定義しています。日本の入管法上、この立証を難民申請している者に求めており、難民認定が入管庁の裁量に委ねられており、極めてハードルが高いことが知られています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　例えば、内戦などの母国の状況から難民化した人は、必ずしも政治的意見を表明したために迫害のおそれがあるではありません。経済的理由から母国ではとても生活ができない、あるいは命の危険があるとしても、経済難民として扱われます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　かつて、ベトナムのボート・ピープルが大量に生じました。社会主義化を心配して資本主義政権の支配地域から逃れてきた人達が、手作りの筏に乗って、東シナ海にこぎ出したのです。大海の中を漂流する人達を人道上の理由から複数の国々が「難民」として受け入れました。日本は、上の定義に当てはまらないとして、当初、受入れを拒絶したのですが、国際的な批判の高まりもあって、一定数を受け入れることにしました。しかし、インドシナ難民として特別の枠組みを作り、受け入れることにしたのです。条約上受入を義務づけられる難民を条約難民と読んで、これと区別しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　それも極めて限定的です。法務省の説明によると、ボート・ピープルの側が、文化的な理由等から、日本を受け入れ先に希望しなかったとされます。これに対して、例えば、シリア内の戦闘激化による難民が、トルコを経由して大量に欧州に押し寄せたとき、EU加盟各国が割当制により受け入れたことは記憶に新しいですね。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　確かに、難民条約上の難民の定義には、経済難民を明示的には含んでいないようです。条約上、これを受け入れる義務があるかについては議論があるでしょう。条約の目的や、起草過程など、国際社会における多くの国々の国家実行がどうであるかなど、慎重な国際法解釈が必要になります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、仮に、他国が経済難民も受け入れるとしても、移民政策の相違がその前提としてあることには注意が必要です。アメリカや欧州先進国が、従来より、寛容な移民政策を取ってきたのです。新天地を求める移民の中に、母国の政治情勢などの理由で経済的に困窮している人達が含まれていると予想できます。従って、欧米では、経済難民を受け入れる素地が元々あるわけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　２&#13;&lt;br&gt;
　これに対して、わが国は、少なくとも法制上、移民を全く受け入れないという政策を取っているのです。高度人材となる専門的技能・知識を有するような外国人と異なる単純労働者については、第二次世界大戦後、日本の高度経済成長期を通じて全く門戸を閉じていました。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　しかし、少子高齢化が進行しているわが国の労働市場において、単純労働こそ需要が旺盛なのです。バブル期より、足りなくなった人手をどうして補っているかというと、表向き国際貢献目的である技能実習を通じて、その外国人の一生に一度だけ、３年ないし5年の年限を区切って受入れることで何とか急場を凌いでいるのです。定住、永住の途は一応ありません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　もっとも近年、細かい業種毎に受入れ人数を管理しながら、特定技能や介護（これが単純労働とは言えないかもしれませんが）の新たな資格を設けて、受入れを拡張しています。これについては、一部、永住化の方法も有り得るので、既に、移民政策と言っても良いでしょう。そもそも高度人材については、以前より、積極的な受入れ、永住化の政策をとっているのですから、「移民」ではなく「外国人材」と言い換えても、ほんの言葉の問題に過ぎないでしょう。国際的な移民の定義からはかけ離れています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そこで、単純労働分野における移民の受入れを認め、もとより、そのためには多様な要素に基づくコスト・ベネフィットの計算と、日本人労働者の労働条件の切り下げを防ぐための最適な受入れ方法についての、国民的な議論を前提としますし、相当の準備も必要です。しかし、その上で、真正面から、移民政策をとっていると認め、労働者保護と機会均等に向けた内国の外国人保護政策を行うべきであると、このブログでも以前より主張しています。定住化および同化、統合のための施策も必要になります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　３&#13;&lt;br&gt;
　このことが、経済難民受入れの前提となるでしょう。単純労働の受入れを一定程度拡大し、定住化を容認するとすれば、母国が紛争下にあり、生命の危険にさらされているような人達を受け入れることは政治的か、あるいは経済的理由であるかの線引きが、そこまで厳密である必要が無くなるからです。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、経済難民の受入れについては、国民的合意が必須となりますが、これがあるとは考えられません。従って、単純労働については、産業分野別に事業団体等の意見を聴取しながら、毎年の必要数を決定し、その範囲内において、送出し国において募集し、受入れ国である日本で労働力を配分するという、現在の受入れ方法に限定することになります。母国における貧困ゆえに、出稼ぎ労働に応募するという人達を、途上国に対する経済的貢献の一環という意味合いにおいても、受け入れて行くのです。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>世間</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>高等教育の行政改革</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/05/18/9378786</link>
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      <pubDate>Tue, 18 May 2021 10:41:34 +0900</pubDate>
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      <description>　もう梅雨入り。朝から曇天で、しかし風はひんやりとして心地良い。コロナ禍はまだまだ収まらず、小生は、今日も大部の洋書と取っ組み合う予定です。これはこれで楽しいのですが、そよぐカーテン越しに、窓の外を眺めながら、難儀な世の中・・・。&#13;&lt;br&gt;
C= (-。- ) ﾌｩｰ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
1、行政改革の意味すること&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　行政改革が公務員削減を意味するなら、公共団体のある部門の人員を削減して、民間委託することになります。その部門の労働者は、多くが社会に必須のエッセンシャルワーカーです。例えば、地方自治体では、廃棄物処理、運送、水道の検針業務、清掃等の各種関連業務などです。最近話題の保健衛生も含まれます。公務員であれば、身分保障があり、相当高待遇の労働条件で定年までほぼ間違いなく働けます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その結果、確かに、モラルハザードを生じました。市民、利用者に対して態度が悪く、労働時間管理が疎かになりがちであるなど、非効率で人件費ばかり嵩むのです。これらの部門を切り離し、民間委託すると、民間の事業者は採算が合わないと倒産するので、効率化されます。それで従来と変わらないか、それ以上のサービスを低コストで受けられるなら、万々歳でしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、効率化とは、可能な限り少ない人員で同じだけの仕事量を遂行させることを意味します。低賃金、長時間労働を招き、賃金の単価が切り下げられます。また、事業者から見て不要なサービスも切り捨てられることになります。採算が取れない一切のサービスが公的部門に最小限を残し、社会から無くなることにもなります。コロナ禍が明らかにしたように、有事の際に、全く融通の効かない事態を招くことにもなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　かくて、行政改革が特定部門の民間委託により、社会に必須の業務について、サービスの低下を招くとしたら、その改革は失敗であるとの誹りを免れないことになります。公務員が担うことによる非効率と、民間事業者による場合の全般的なサービス低下や社会のセーフティネットとしての役割の減退との、均衡の取れた施策こそ求められます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
2、大学の場合&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここで、視点を変えて、国立大学の教育という公的部門の一つの事業について考えてみます。大学の提供する高等教育がエッセンシャルであるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、これが社会にとって必要あるいは極めて重要であることは疑いのないところです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　少子高齢化により、大学の入学者が、長期的に減少していくことが予想されます。また、国家財政が全体として切迫していることから、大学にもリストラ圧力がかかっています。定年不補充の方法により、徐々に職員数を減らしてゆくのです。その結果、全国の国立大学の事務職員数が劇的に減らされました。いきおい、事務業務の教員への移管が進められることにもなります。大学の先生は、教育研究に専念していれば良いというのは今は昔のことです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これが一巡すると、今度は、教員に対するリストラが始まりました。教員に対するリストラとは、教育科目のリストラを意味します。何とか、非常勤によって講義科目を維持できたとしても、研究分野を失い、何より学生にとってのゼミナールを無くすることになります。例えば、法学部系であれば、憲法や民法のゼミが無くなるのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　旧聞に属しますが、国立大学には文系学部は不要であるとする政治家の発言が話題になりました。国公立、私立の垣根を越えた、大学、学部の統合が文科省の目下の目標ですが、あまり進展していません。先ほど、ディシプリンの枠組みに全くとらわれないミッションの再定義という大号令の下で、全国の大学の改革が遂行されましたが、その美名の下、実は、文系を中心とした大学内の学部併合に遂しました。一層、リストラがやり易くなったのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この先はどうなるのでしょう。文科省は長期的な視野に欠ける施策を良くするので、どのような目的を持っているのかは分かりませんが、財務省が大学の学生及び教員定員の削減を狙っているのは明かです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　国立大学・学部を潰すとしたら、少なくともその地方において、その教育分野の高等教育について「民間委託」することになるでしょう。ある地方の国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部などが無くなり、地方私立大学に委託されます。学生に対しては、おそらくは国が一定の金銭的補助をしてくれるでしょが、その結果どうなるか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　国立大学は、学生定員に対して教員数が多く、従って、私立大学に比して圧倒的に少人数教育に有利なのです。知人の私立大学教員に聞くと、人気の科目であると、期末試験の採点枚数が800枚から1000枚に及ぶこともあると言います。出席管理などどうするのでしょうね。授業を受けなくても、あんちょこで試験にさえ受かればの、ちゃっかり単位、ちゃっかり卒業ということになり易いでしょう。（もっとも、これは国公立にも共通の、大学としての課題ですが・・・。）　ゼミナールも常時、数十人の規模となり、学生がゼミ報告をするとしても、年間、数回がせいぜいです。教員の目が学生一人一人に行き届くということは望めないでしょう。他方、奉職先大学の学部では、ゼミ定員の上限を6〜7人に設定しており、また、講義科目でも、可能な限り双方向の授業を実施しています。よりきめ細かな学生指導が可能であるのは目に見えています。大学事業の民間委託の結果がお分かりになるでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　決して、私立大学の教育を否定する趣旨ではありません。しかし、この「非効率の」少人数教育を低負担で地方の若者に提供してきた国立大学の役割を失うことになります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このブログでは教育に焦点を当てましたが、国立大学は、多くの研究者を雇用し、各学問分野に研究者を供給しています。伝統分野のみならず、先端的、あるいは融合的な、新しい学問分野の創造と発展に極めて重要な役割を担ってきました。これも効率化と引き換えに失うことになりかねません。日本に今求められているイノベーションを引き起こすものであるのにです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここでも、モラルハザードを防止しつつ、非効率を改善することと、安価で上質な高等教育の提供との、均衡点を見つける必要があるようです。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>保守とリベラル？</title>
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      <pubDate>Fri, 12 Feb 2021 19:11:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-02-14T12:08:31+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　私は木蓮の花が好きです。寒い冬が終わり、いよいよ暖かくなる一番最初に、木綿色の、柔らかな紫の、大きな花が一斉に咲きます。もうすぐ春です。木蓮の蕾も膨らんできました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　リベラルと保守について、私の考えをまとめてみます。最近、この区別がよくわからないように思えます。冷戦が終結したことを理由にして、リベラル不要論さえあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　高福祉高負担の現在の福祉国家路線は、戦後の高度経済成長に支えられて自民党保守本流が作ったものです。55年体制の下で旧社会党もこれに与りました。政治学の厳密な定義ではないですが、ヨーロッパの社会民主主義とも見まがうほどです。アメリカであれば、国民皆保険制度を社会主義と呼ぶ保守政治家が普通にいます。これを日本の保守的リベラリズムと呼んでおきましょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　少子高齢化と国家財政破綻の危機に瀕して、新自由主義の流れを生じました。小さな政府を目指すネオ・リベラリズムと言うこともあります。これに抵抗するのが、保守的リベラル。立憲民主党の枝野代表の立場です。アベノミクスに代表される、新自由主義に向かって一歩を踏み出そうとするかのような政府・自民党の中心的な主張がこれに対峙しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ヨーロッパ諸国の中には、ドイツのように、ネオ・コンの主張を体現する政党と、共産主義を目指す極左政党が伸長したために、従来交互に政権を担ってきた福祉重視の保守政党と社会民主主義を標榜する穏健左派政党が中道化し、間に挟まれた正に真ん中に押し込められて弱体化している国が散見されます。しかし、これは戦前、ナチズムを産んだドイツの政治状況にも似ていて、心配でもあります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このようなヨーロッパの国と比べると、極めて幅広い政治的立場を含む政治家の集合である自民党のおかげで、日本の政治情勢はぬるま湯の中につかっているようです。保守的リベラリズムと、その中心的主張は温存しながら、多少なりともその方向性に踏み出そうとするかのような新自由主義の対立だからです。後者さえ、アメリカのティー・パーティのような極端な自由競争信奉者ではありません。日本の保守的リベラリズムを核として、幾分かの幅を持ったいくつかの同心円の中に、根本的な経済政策および社会政策については、多くの日本の政党が収まってしまいます。細かな政策的相違を除くと、その相違さえも選挙前には良く似てくるのだけれど、そもそもその大綱は余り見分けがつきません。私は、各党の選挙公約が似通ってくることを、時代とコースの定理と呼んでいます。今の中学生は知りませんが、私の学生時代には、『〇〇時代』と『〇〇コース』という名前の月刊誌をクラスメイトのほぼ全員が買っていて、二つの学習雑誌が、特におまけの内容と量を競っていたのです。その結果、どちらの雑誌の付録も毎号ほとんど異ならなくなりました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このことが問題であるというのではありません。幾分か一層、保守的リベラル、幾分か、新自由主義の相違を強調しつつ、経済政策においては穏健な政治的対立があれば良いと考えています。これを反映した経済的安定が国民の信頼獲得のためには是が非とも必要です。外交安全保障の相当程度の継続性も国民の安心感に通じます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　大きな相違は、多様性を尊重しマイノリティーの声を最大限反映する態度と、一層の環境保護および生物多様性の維持に向かう政策であるべきです。現代日本社会の最大の焦点の一つが女性というマイノリティーのより深化した社会進出の促進です。以上が「文化闘争」です。これに加えて国際主義の立場に依拠するのが、私の考えるリベラリズムです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　まとめると、経済における一層、保守的リベラルと、幾分か新自由主義の抗争と、文化闘争、そして国際協調主義と自国中心主義の相違に従い、政権交代が適宜に行われること。これこそが日本の民主主義の発展をもたらし、欧米に比べて、日本社会においてとてつもなく遅れている文化的価値の実現、換言すると、人権と多様性に開かれた寛容の価値を前進させるでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上は、このブログでも再三触れてきた持論です。最近、下記の論考に接したので、改めて論じることにしました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
大賀 祐樹 &#13;&lt;br&gt;
2021年の論点100 ー「左」でも「反日」でもない……素朴な疑問「リベラル」とは何を意味するのか？&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1"&gt;https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>書評が出ました。</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/02/05/9344249</link>
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      <pubDate>Fri, 05 Feb 2021 09:17:36 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-02-05T09:20:56+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-02-05T09:20:56+09:00</dcterms:created>
      <description>先にお知らせしましたように、私も小論を執筆しています。書評が出ました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
＜書評＞山岡俊介「表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景」（寄川条路編、社会評論社）（『アクセスジャーナル』2021年2月3日）&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://access-journal.jp/56659"&gt;https://access-journal.jp/56659&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>出版のお知らせ</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341193</link>
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      <pubDate>Tue, 26 Jan 2021 16:35:09 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-01-26T17:13:49+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2021-01-26T16:58:54+09:00</dcterms:created>
      <description>このほど、&#13;&lt;br&gt;
寄川条路編『表現の自由と学問の自由－日本学術会議問題の背景－』（社会評論社）が出版されました。小生も、第三章「大学はパワハラ・アカハラの巣窟」を執筆させていただきました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
寄川条路／編稲正樹／榎本文雄／島崎隆／末木文美士／ &#13;&lt;br&gt;
不破茂／山田省三／渡辺恒夫／著 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
A5判並製128頁 &#13;&lt;br&gt;
本体1,000円＋税 &#13;&lt;br&gt;
ISBN 978-4-7845-1589-9 C0030 社会評論社 &#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
寄川氏は、著名な明治学院大学事件の原告です。&#13;&lt;br&gt;
この事件については、次のウェブサイトを参照して下さい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken/"&gt;https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken/&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
&lt;a href="http://university.main.jp/blog8/archives/cat120/"&gt;http://university.main.jp/blog8/archives/cat120/&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
（いずれも、2021/1/26確認）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
株式会社 社会評論社 &#13;&lt;br&gt;
〒113-0033 東京都文京区本郷2-3-10 &#13;&lt;br&gt;
TEL: 03-3814-3861 &#13;&lt;br&gt;
FAX: 03-3818-2808 E-mail: book@shahyo.com &lt;a href="http://www.shahyo.com"&gt;http://www.shahyo.com&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
</description>
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    </item>
    <item>
      <title>オレンジ特急</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/11/28/9321126</link>
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      <pubDate>Sat, 28 Nov 2020 01:17:45 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-12-29T02:40:50+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-11-28T01:20:17+09:00</dcterms:created>
      <description>私の個人的な思いでを書きます。分析的な文章を期待しておられる方には申し訳ありません。今日はここでお帰りください。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
座間猟奇殺人事件の死刑求刑がありました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
相模原市の障害者施設殺傷事件を思い出しました。障害者は生きる価値がないという「思想」を犯人は持っています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
そのような思想を持つ人に何も言うことはありません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
そうではない人がこの拙い文章を読んでください。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
1 オレンジ特急&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
近鉄特急のオレンジ色に紺色のストライプの、おしゃれな車体の、小さな窓の中、何度もうなずいて、発車のベルが鳴り、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。&#13;&lt;br&gt;
母の目に涙が浮かんでいた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
「会いたさ見たさに怖さを忘れ〜」。子供に会いたいから、病院を逃げ出して、どうにもちぐはぐな陽気な歌を何度も歌いながら、いつものようにいる母。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それでもどうしようもないから、また病院に逃げ込む。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
昨日の夜も、夫婦喧嘩だった。猛烈ないがみ合い、がなり合い、幼い僕はいたたまれない。ぎゃーっと叫んで、泣きながら、毛布をストーブの前に投げつけると、父が僕の頬を叩いた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
母が悲しそうに僕を見つめる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どうしようもないから、この子のためだと思って、自分がいるといけないから、そう思って、&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
また病院に逃げ込む。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
中学になった僕が、母親に付き添ってゆく。堺市駅から、陸上クラブの遠征でいつも利用している国鉄で、天王寺。近鉄に乗り換える。バスの中も、電車の中も、僕は真っ暗な窓の外を見ている。母も僕も一言も口を聞かない。僕があげたショールを肩にかけて、大きな荷物を持って母が電車に乗り込む。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
発車のベルが鳴り、小さな窓の中、何度もうなずいて、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。&#13;&lt;br&gt;
母の目に涙が浮かんでいた。涙を浮かべて、僕を見つめながら、すまなそうに何度もうなづいていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
2、貯金箱&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
小学生のころの僕は、たくさんのお年玉をもらった。祖父の家に行くと、決まり文句の「あけましておめでとうございます」をいうと、祖父や親戚一同がお年玉をくれる。大人ばかりの宴席に、僕がお年玉を独り占めできる。宴席のはじっこに座って、つまらなそうにしていると、周りの大人がかまってくれるけど、それが煩わしい。ただ一人の子供のお勤めだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
母も父からお金をもらって、僕にくれる。そのお金を全部ためて、小さな金庫の貯金箱に入れていた。そのお金を母が盗む。ダイヤル式の鍵を、おもちゃだから単純で、一つ一つダイヤルを回してゆくと開けられる。ダイヤルの番号を変えても、また無くなる。お金が無くなっているのを見つけて、僕が叫んで母を責めても、もう遣ってしまっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
あるとき、母がダイヤルを回して貯金箱を開けると、びっくり箱のように、バネのおもちゃが飛び出した。驚いている母を、かげで見ていた僕がお腹を抱えて笑った。母が、「何でこんなことをするんや〜」と顔をくしゃくしゃにして面白そうに笑った。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
3、おねしょ&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どうしても寝られなくて、苦しいから、薬がなくては生きていけない。数ヶ月分の薬袋が大きく膨らんだ中に、小分けされた粉薬の1日分を、ベロを出して舐めて確認すると、睡眠薬だけ取り出して、毎日、夕方に倍量か3倍量にして飲んでいた。眠剤のせいで昼間でもほうけた顔つきで、それでもそんな状態で出歩いていた。自分の調合したアッパーを飲んだせいで、双極性躁うつ病のようになった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
夕方、ご飯を食べさせると、薬を飲んで、夜８時までには正体不明になって、眠りこける。決まって、明け方５時ごろにおねしょをする。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
階下から、「しげる〜、しげる〜」と呼ぶ声で起こされる。階段を駆け下りると、母がほおけた顔で僕を見る。下着を渡すと、自分で替えた。濡れた母のパンツを洗濯機に入れて、べたべたになったシーツを換えて、おねしょの布団を干し、乾いた布団を押し入れから出して、母を寝かしつける。毎日のこと、何の苦にもならなかった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
4、ケーキ屋&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
母が、ケーキを買うという。一緒に行ってやるというと、うれしそうにしている。いつものケーキ屋に行くと、若い女の店員が、また来たというように二人で顔を見合わせて、ニヤニヤ笑いながらぞんざいにしている。母は眠剤のせいで、昼間からほうけたような顔つきで知的障害のように見えた。ろれつも回らない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
いつもこうやってばかにされて、怒っていたんだ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
大学生の僕が、その店員をきつく睨みつけながら、叱りつけるような口調で注文すると、かしこまったように、ケーキを渡した。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
帰り道。ベージュのアラン織のセーターに、母が編んだマフラーをして、網目のそろわないやたらと長いマフラーをして、並んで歩いていると、母がほうけた顔のまま、僕の腕に自分の腕を絡めた。そのまま寄り添って、腕を組んで帰った。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
5、もう一度、オレンジ特急&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
その母が亡くなった。突然だった。僕が大学院生のとき。死因は睡眠薬の誤飲とされた。もう無理だった。病院に戻らないと無理だった。そう言っても、母は、「病院に行って欲しいの？」と言って、悲しそうに見つめた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
亡くなった後、母のタンスの中に、ハンカチを見つけた。色とりどりの安物のハンカチを、大切に取っていたのだ。僕があげたハンカチだった。それをみて、泣いた。泣いた。泣いた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どんな命も愛おしい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
母は、若いころ、洋裁の達人だった。僕の小学校の入学式。まだ貧しかったから、母のワンピースと、僕のブレザーと半ズボンを上下お揃いの生地で仕立てた。編み物も得意で、テーブルクロスも、自分の藤色の上着も、小さなパターンをつなげて作っていた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
僕が幼かったころ、母に連れられて道頓堀のお茶漬け屋に行った。母が僕の分しか注文しない。僕は母の口元に箸をつけて、要らないの、食べないと？と何度も聞いた。おいしいよ。&#13;&lt;br&gt;
母が怒り出した。外に出ると、足早に、僕を置いていくほどの勢いで歩いた。「恥ずかしい」、何度も、母が言った。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
どんな命も愛おしい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
障害者でも。&#13;&lt;br&gt;
一個の命が、どんなに大切か。どんなに。どんなに愛おしいか。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
      <dc:subject>詩</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>学術会議の任命拒否問題</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/10/18/9307224</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/10/18/9307224</guid>
      <pubDate>Sun, 18 Oct 2020 20:58:13 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-11-07T13:10:18+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-10-18T20:58:02+09:00</dcterms:created>
      <description>　最近、学会発表および学会誌投稿や、遠隔授業の準備に忙殺されています。遠隔授業に慣れないせいか、兎に角、準備に時間がかかります。ブログ更新を怠っていました。&#13;&lt;br&gt;
(_ _)&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　当面、不定期に更新します。気がついたら、読んでみて下さい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本学術会議法は昭和二十三年に公布された法律です。戦後間もなく、戦中、科学が軍事目的に利用されたことの反省に立ち、政治部門とは独立した科学者の機関として設立されました。昭和５８年に大きな法改正があり、それまでの、会員公選制から推薦制に改められました。このとき、学術会議の推薦に基づき内閣が任命するとしても、形式的任命であり、実質的な意味合いを含まないという趣旨の政府答弁が繰り返されていました。&#13;&lt;br&gt;
（&lt;a href="https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html"&gt;https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
NHK・News Web 　2020年10月8日 12時48分）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　政府は、憲法１５条を根拠にしつつ、首相に、推薦通りに任命する義務はないとの立場です。かつ、昭和５８年法改正時の政府答弁から、必ずしも解釈変更はないとしています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　憲法１５条は公務員の選定・罷免権が国民に存することを規定しています。ここで、公務員とは国民の代表者たる議会の議員のことであり、普通選挙によることが規定されています。この規定を根拠として、その他の公務員についても、国民主権原理の下で、国民の代表者である国会・地方議会がその勤務条件等を決定する権限を有するべきであると解されています。民主主義的コントロールが公務員全般に及ぼされるという趣旨です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここから、学術会議の会員も公務員であるので、一定の民主的コントロールが及ぼされるべきであるとすることは理解できます。しかし、その民主的コントロールとは、国会が学術会議法という法律により、その選任の方法を決めているならば、それで足りると解することもできます。直ちに、首相の任命拒否権の根拠となるとは言い難いのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議会員は公務員といっても、特別公務員であると加藤官房長官が説明しています。特別職公務員とは、一般職公務員と異なり、「政治的な国家公務員（内閣総理大臣、国務大臣など）や、三権分立の観点や職務の性質から国家公務員法を適用することが適当ではない国家公務員（裁判官、裁判所職員、国会職員、防衛省の職員など）を指します（人事院のHP「おしえて人事院－国家公務員や人事院に関するＱ＆Ａです」より）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　公務員と言っても多様であり、職務の性質に応じて、民主的コントロールの在り方も様々です。例えば、国立大学の役員や一般の教職員・事務職員は、法人化以前は文部省・文科省の一般職国家公務員でした。法人化後も国家公務員法の適用は受けませんが、準公務員として、学長は文科大臣が任命します。運営費交付金など巨額の税金が投入される教育・研究機関です。法人職員の勤務条件は人事院勧告に従い決定されます。仮に、文科大臣が、特定の国立大学において選考された学長の任命を、政治的理由に基づき拒否するなら、直ちに学問の自由に関わる問題となるでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、特別職の代表格である裁判官ですが、その非民主的性格は法学を行う者の常識です。裁判所は司法を行う国家機関として税金により運営されています。しかし、日本の裁判官は、国民の選挙により選ばれません。たかだか最高裁判所裁判官について、国民審査があるだけです。但し、憲法および裁判所法に基づき、最高裁判所裁判官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、下級審裁判官は最高裁の指名に基づき、内閣が任命します。一旦、判事として任命されると、国会の弾劾裁判によるほかは罷免されません。民主的コントロールからはほど遠い存在ですが、この程度にはコントロールが及んでいるとも言えます。もっとも、下級審裁判官について、最高裁が指名した判事を、政治的理由に基づき、内閣が任命を拒否できるとすれば、政治部門が司法に対して介入したとして、三権分立の観点から直ちに憲法違反の疑いを生じます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議は内閣総理大臣の所轄であり（法１条２項）、その会員については、学術会議が内閣総理大臣に推薦し（法１７条）、総理大臣がその推薦に基づき任命する（法７条２項）と規定されています。これまで、学術会議の推薦に対して任命拒否を行った例がなかったのに、今年の推薦に限って首相が６名について拒否したのです。いずれも人文および社会科学の分野の学者であり、自然科学分野を含んでいません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　新聞報道等によると、この６名の学者は、集団安保法ないし共謀罪の創設に係る組織犯罪処罰法改正に反対の立場を表明したことのある人物です。政府は、総合的な見地からの任命権の行使であり、人事の案件であるから詳細を述べないとして、具体的な理由を明らかにしていません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議会員となるべき資格は、「優れた研究又は業績がある科学者」（１７条）としか規定されていません（１１条も参照。昭和５８年改正時の両院の付帯決議によると、推薦に際して、女性や年齢構成に対する配慮が求められている）。政治家や官僚が、学問的業績を評価して、わが国における各分野の最も優秀な専門家達の推薦を拒否することは不可能と言えるでしょう。後でも触れますが、集団安保法反対等の理由であるとしか考えられません。そうであれば政治的理由に基づき、学術会議会員の任命を拒否したことになります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このことが憲法の規定する学問の自由に抵触するかが問われます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以降の記述の前提として、特定の政治的立場から述べているのではないことを明らかにしておく必要があるでしょう。まず、集団安保法について、憲法違反の疑いは晴れません。憲法改正が必要です。拡張的個別自衛権と、片務性のある集団自衛権というのは、どれほどの相違があるのでしょうか。具体的に、何ができて、何ができないのかの精密な議論こそ必要です。例えば、自衛隊が敵地攻撃能力を保有するべきだというのは、個別自衛権の範囲内で可能な議論です。原理的な、もっと言えば、言葉の争いをいつまでもしていては仕方がないのではないでしょうか。拡張的個別自衛権のラインに戻すとしても、日本の片務性に関するアメリカとの再交渉を含めて、外交・安全保障の現実的対応をとらざるを得ません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　次に、組織犯罪処罰法の改正についてです。現在の国際社会共通の最大の関心事項の一つがテロとの闘いであり、また経済的犯罪組織を含めグローバルな手法を用いた資金洗浄の防止です。そのために「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」が平成１２年に国連総会において採択され、わが国が同年に署名し、平成１５年には、条約として発効し、わが国の国会が承認しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　わが国における条約の実施法が組織犯罪処罰法の改正法であり、共謀罪の新設ですが、この実施法の成立に随分時間を要しました。実施法の成立後、同条約を締結し、ようやく同条約がわが国内において発効しました。外務省のホームページによると、2018年6月18日現在の締約国は，189の国・地域となっている非常に成功した多国間条約です。この条約の趣旨について反対する人は少ないでしょう（&lt;a href="https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/soshiki/boshi.html"&gt;https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/soshiki/boshi.html&lt;/a&gt;　参照）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　条約を締結すると、国際法としてわが国を拘束します。その内容に抵触する国内法の改廃を行わない限り、国際法違反ということになるから、実施法の成立を待たなければなりませんでした。実施法との関係でいうと、共謀罪を新設して、準備段階に犯罪の構成要件を拡張することが、条約上の義務と言えるかが焦点となります。もし条約上の義務であるならば、必要な立法を行わない不作為の国際法違反となるので、国会が条約の承認を行い、これに加入すると決定しておきながら、実施法の立法を怠るのは矛盾します。もっとも犯罪化拡張の範囲について、どのような法改正が有り得たか、条約および国内法の解釈が必須とはなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議法の問題に戻ります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　同会議の目的が法の前文に規定されています。すなわち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」。戦後間もなく、焦土と化した国土を前に、政治家も科学者も、その戦禍を被ったことを悔い、二度と、科学の軍事利用がなされないように決意したことが伺えます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　この目的のための職務を遂行する上で、学術会議の独立性が規定されています（３条）。昭和５８年改正時の両院の付帯決議にも、特に、会議の独立性に配慮するべきことが述べられています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その職務として、政府は学術会議に対して、「科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分」や、「政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針」について諮問することができ、諮問を受けた学術会議は答申を行います。また、学術会議は、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策。科学研究者の養成に関する方策、科学を行政に反映させる方策、科学を産業及び国民生活に浸透させる方策」に関して政府に勧告を行うことができます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議が行政改革の対象たり得るとして、その在り方について見直しが検討されるという報道がありました。近時、学術会議が「提言」は行っているが、「答申」「勧告」は余り利用されていないとされています。しかし、最近はあまり諮問がないので、「答申」がないというのが本当のところのようですし、求められてもいないのに、学術会議が政府に対して「勧告」を行うほどの必然がないとも言えそうです。「勧告」というよりも「提言」する方が、当たりが柔らかいので、日本社会では受け入れられやすいでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　学術会議は政府の言う通りに答申、提言を行っておれば良いというのであれば、その会議は単なる御用学者集団であり、独立性を損ない、その目的を無にします。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
見　直し議論の背景として、学術会議が軍事目的研究を禁止していることが考えられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　「井上信治科学技術政策担当相は１３日、日本学術会議が軍事目的の研究を禁止していることについて「戦後７０年以上たち、社会のあり方、時代の変化もある。軍事と民生のデュアルユース（両用）はどの科学技術の研究分野でもあり得る。そうした変化も考えた上で考えていただければと思う」と述べ、禁止の見解を見直すよう促した」。（&lt;a href="https://www.sankei.com/politics/news/201013/plt2010130021-n1.html"&gt;https://www.sankei.com/politics/news/201013/plt2010130021-n1.html&lt;/a&gt;&#13;&lt;br&gt;
産経新聞2020.10.13 16:39）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　戦後復興を遂げ、既に経済大国となって久しい日本です。時代の進展とともに、日本周辺の情勢および国際社会の考え方が変わり、科学技術の発展もあるので、これに併せて学術会議の在り方が見直されるということは、すなわち軍事目的の研究を解禁するべきであるという圧力であるようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
５&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上の一切が今回の任命拒否の理由でしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　まず、先に述べたように、集団安保法や共謀罪について、研究者として、その学問的知見からどのような意見を持ち、主張するかはその研究者の自由であり、これが理由で政府が学術会議に任命しないとすると、まさに学問の自由に関わる問題となります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　次に、廃止を含めた行政改革を振りかざして、どうしても政府の見解を踏襲するべきだと専門家集団に強要することもまた、学問の自由に抵触する可能性があります。助成金、交付金、補助金などの配分、政府所管研究所等における予算編成について、政府の諮問を受けたときに、軍事目的研究に肯定的に言及する答申をさせるということでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　時代や社会の進展とともに、法の改正や法解釈の変更が必要となることが有り得ることは当然です。少なくとも、学術会議会員の任命拒否は法の運用の変更に当たります。軍事目的研究の解禁を促すために、会議の構成員を代えようとするのではないかと少々穿ったみかたをしたくなります。しかし、当初の学術会議の目的が上述の通りである以上、軍事目的研究の解禁を認めることは背理となります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　確かに重要な問題でしょう。学術会議でも議論を尽くす必要があります。むしろ学術会議だけでは済まない、大いに国民的議論を巻き起こしてゆくことが必要な問題です。繰り返しておきますが、仮に集団安保法や共謀罪に賛成であり、軍事目的の線引きが困難であるからその研究も有り得るとする立場をとるとしても、思想良心の自由、言論の自由、学問の自由に抵触する方法をとることは許されません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　憲法を含めた「法」の解釈には客観的な、取り得る範囲があるとする見方を私は取っています。法と政治を明確に区別するべきです。法は社会統制の道具です。法の支配が社会の安定に通じます。そのときの政治的風潮に左右されない厳然とした範囲のあることが重要です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　法の明文および改正時点での両院付帯決議における独立性の強調、推薦規定を含む法の構造、学術会議創設の当初目的と推薦制の当初運用を勘案して、学術会議法の解釈として、首相による任命拒否を可能とする解釈変更が可能かについては相当疑問があります。これを可能とするためには、行政府が暗黙裏に解釈変更を行うという姑息なやり方ではなく、真正面から、学術会議会員の任命方法についての法改正を行うべきであったでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　行政庁所管の法律について、当該行政庁の解釈が先行し、まずは優先されることには疑いがありません。しかし、解釈の可能な範囲を超えると違法となります。学術会議法の解釈に憲法問題が関係します。法解釈についての有権的最終的な決定権限は裁判所にあります。任命拒否問題は継続しています。いずれ憲法訴訟に発展するかもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
2020／11／07　誤解を招かないために、3の部分的な修正。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>子の連れ去りと親権者の決定</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/08/24/9281849</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/08/24/9281849</guid>
      <pubDate>Mon, 24 Aug 2020 19:05:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-08-25T15:28:13+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-08-24T19:10:02+09:00</dcterms:created>
      <description>　両親が離婚するのは大人の勝手かもしれません。婚姻は法律上の制度です。配偶者の双方に法的な権利及び義務を生じます。むしろ、不幸な婚姻関係を早期に解消して、そのような足かせから解放され、自由な立場に戻りたいと願うこともあります。そのような場合でも最も深刻な問題が子供の処遇です。子供の親権争いは、自分の子の両手を父と母が双方から引っ張り合う、親にとっては半ば命がけの、子供にとって残酷この上ない争いとなることが多いでしょう。このような場合に、子供を手放したくない親が、子供を相手方に無断で勝手に連れ去る、「子の連れ去り」の問題を取り上げます。&#13;&lt;br&gt;
「親による「子の連れ去り」が集団訴訟に発展　海外からは“虐待”と非難される実態とは」（&lt;a href="https://dot.asahi.com/dot/2020082000083.html?page=1"&gt;https://dot.asahi.com/dot/2020082000083.html?page=1&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
AERAdot. 8月22日の記事です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子の一方的な連れ去りについての法の未整備が、憲法13条に違反し、連れ去られた子の人権も侵害しているとして、別居中の親を中心に、他方の親から引き離された子供も含まれる原告団14人が、国を相手取って集団訴訟を提起したという内容です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　欧米諸国には共同親権の制度によっている国があります。通常子の監護、養育を行う親を決めつつ、他方の親の面会交流権も保証されることが多いのです。欧米の映画やドラマを見ていると、毎週末の数日や、一月に一度1週間程度、あるいは学校の長期休暇中の一定期間、通常一緒に暮らしていない親の住居に行くという場面が出てきますね。監護・養育権を持つ親は、相手方が子との面会交流を行わせる法律上の義務を負うので、その同意なくして遠方に転居して、面会交流を困難にすることも禁じられます。仮に、監護権のある親が従来の住居から子を連れ去ったり、逆に、そのない方の親が面会交流中に子を連れて遠方に逃げたりすると、誘拐罪に問われることもあるのです。父母の共同親権の下で、通常養育する親を決め、他方との面会交流を親及び子の双方に厳密に保証していることが分かります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　これと異なり、わが国は単独親権の制度をとっています。現行民法上、夫婦の離婚の際に、財産分与や慰謝料の支払いが決められ、そして子供がいる場合、親権者が決定されます。当事者の協議に基づき、最終的には裁判所が、両親の経済状況や社会的立場、子供の置かれる環境などの諸事情を総合的に勘案して、子の幸福の観点から、子の親権者がいずれの親となるか、養育費の支払いや親権のない親との離婚後の面会交流の方法を含めて、当該の子に最も適切な方法を考案することになっています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　従って、一方の親の単独親権といっても、通常養育する親を決め、親権のない方の親も養育費を分担しつつ、適当な方法で面会交流を行うことを取り決めることもできるのです。しかし、実際上、親権者とされた親が離婚した他方配偶者に対して、子との面会交流を拒むことや、再婚などの事情により、子との面会が困難になることが多いのです。また、養育費の支払い不履行が横行しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　上記のweb記事によると、「約90名の議員が所属する超党派の議連「共同養育支援議員連盟」が、森雅子法務相らに対し、養育費不払い解消に関する提言書を提出」したとされています。養育費の支払いと、面会交流を含む共同養育の取り決めを離婚成立の要件とする、法の改正を求めているようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　離婚の成立要件として合意したとしても、その約束が反故にされないための仕組みが必要でしょう。提言の内容を知らないのですが、養育費の支払いと面会交流の権利・義務を組み合わせるうまい方法があると良いようには思われます。子の連れ去りとの関係で言えば、結婚が破綻した夫婦の一方が、離婚前に、他方配偶者に無断で子を連れて家を出て行く場合、離婚の際の親権者指定において、裁判所が、現在、養育している親と子の環境を重視するので、結局、連れ去った方が勝つ場合があるのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　欧州連合（EU）欧州議会が8月8日、EU加盟国の国籍者との関係で、日本人の親が日本国内で子どもを一方的に連れ去さることを禁止する措置を講じるよう日本政府に要請する決議案を採択しました。（共同通信）（&lt;a href="https://this.kiji.is/653694244372382817"&gt;https://this.kiji.is/653694244372382817&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　欧州議会というのは、EUの行政および立法を主として司る欧州理事会および欧州委員会の、諮問機関ないし立法の参与機関というほどの位置付けを有するものです。EU各国における直接選挙により選ばれるEU市民の代表たる議員が構成員です。対日決議といっても法的拘束力はなく、欧州委員会や各国政府に対して日本政府に働きかけることを要請したものです。子供に対する重大な虐待であると非難しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　国際的な子の連れ去りについては、ハーグ条約（国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約）があります。国際結婚をした夫婦の間の子が、従来居住していた国から、無断で一方の親の国籍国に連れ去られたという場合、連れ去りから一年以内であれば、締約国は、子が元居住していた国に送還しなければならないと規定されています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　1980年に採択された条約なのですが、わが国が締約国となって上の義務を負ったのは、2014年になってからです。外務省のHPによると「1970年には年間5,000件程度だった日本人と外国人の国際結婚は，1980年代の後半から急増し，2005年には年間4万件を超えた」とされています（&lt;a href="https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html#section1"&gt;https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html#section1&lt;/a&gt;）が、この間、外国で結婚した日本人が離婚をする際に、子供を無断で連れ出し、日本に帰国するという事例が頻発したのです。欧米諸国を始めとして、ハーグ条約締約国が増加する中、日本のみがいつまでも加入していませんでした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　外国に居住する日本人が、その国の国籍を有する配偶者と離婚すると、居住資格を失う場合もあるし、言語の問題があり、容易に良い収入を得られる仕事を見つけられない場合もあります。国際結婚であれば、経済的にも、親権争いに敗れて帰国を余儀なくされると、二度と子供に会えなくなることを懸念して、離婚裁判の前に、あるいは裁判中に隙を見つけて、相手方に無断で子供を連れて帰国してしまうのです。日本の裁判所は、日本法の下で、子が現在日本にいる生育環境を重視して、養育中の親の経済状況に問題がないならば、子の利益の観点から、養育中の親の親権を認め、子の連れ戻しを認めません。ハーグ条約の締約国であれば、１年以内であれば、理由のいかんを問わず、よほどの事が無い限り、連れ戻しが決定されなければならないので、日本の裁判所の実務が国際問題に発展しました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子から引き剥がされた外国にいる親は、その国で、離婚裁判や親権者指定の裁定を裁判所に求めるでしょう。子の一方的な連れ去りを違法とする国であれば、尚更、置いてきぼりにされた親の親権、監護権を認めます。アメリカ人の父親が、日本人の母親が子供を連れ去った場合に、その母親と子供の住所をつきとめて、母親やその家族の前で、暴力的に子を連れ戻そうとした事件が起こりました。日本では、アメリカ人の父親が警察に拘束されたのですが、アメリカでは父親が親権・監護権を認められていたので、この母親がアメリカに行けば、誘拐罪で逮捕されていたのです。この事件を契機として、日本の態度を非難する世論がアメリカ国内で巻き起こり、アメリカ政府が日本政府にたいして、一定の措置をとることを要請する事態にまで発展しました。このような事例はアメリカに止まりません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そこで、日本が重い腰を上げて、ハーグ条約の締結に向けて検討を開始し、上に述べたように、2014年に至って漸く、締約国となったのです。これ以降は、条約の要件に従い、日本は子を元の国に送還する義務を負うこととなりました。現在の住所が判明していると、裁判所を通じて子を保護し、元の居住国に連れ戻すことができます。EU議会の対日決議は、日本国内において、居住地を変えて、子を連れ去ることを問題視するのだと思われます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本に住む日本人夫婦の離婚に関する国内事件でも、先に述べたように居住地からの子の連れ去りを防止するのに有効な法が存在しないからです。共同親権か、単独親権か、いずれの法制度が適切なのか、面会交流権の確保の方法など、日本法として、その運用を含めた検討が必要なようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここで、少し、視点を変えてみます。日本は、国際社会の一員です。多くの国において妥当するルールがあるとき、日本だけがこれを無視するなら、日本国内の法としては問題がないと、その時には考えられるとしても、国際的には非難を免れないということです。日本では常識であっても、国際社会では、非常識だとして批判されることが往々にしてあるようです。国際的な、「隣近所の決まり事」があるときには、それに従うという価値観があっても良いでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　子の奪取をめぐる問題は、元々、子が親と居住していた国の、司法的解決がなされるべき問題です。すなわち離婚裁判や調停などの司法手続きに委ねるということが、法治国家としての重要な前提となるはずです。勝手な子の連れ去りを認め、無断で子を奪った方が、既得権により優先されるということを認めることが、多くの国で違法視されているのです。それでは、子の両手を、両親が実力を行使して引っ張りあう、文字通りの奪い合いにもなります。子の利益には全く適わないでしょう。ハーグ条約が、原則として子の親権の法的内容や具体的な監護のあり方については述べず、ただ、一方的に子を奪う行為を問題にして、子を、元居た国に返した上で、その国の司法的解決に委ねることのみを義務付けているのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ハーグ条約が適切にわが国で実施されるためにも、離婚の際の親権者指定をめぐるわが国国内法上の問題を、もう一度考え直す必要があります。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
      <dc:subject>法</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>コロナ大恐慌と９月入学－ソフトな公共投資</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/07/21/9270197</link>
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      <pubDate>Tue, 21 Jul 2020 04:01:49 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-07-22T03:43:46+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-07-21T04:04:16+09:00</dcterms:created>
      <description>１　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
広田 照幸「コロナ危機でわかった、日本の学校に教職員が「23万人以上足りない」現実 「令和の学校教育」に向けて必要なこと」現代ビジネス（&lt;a href="https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74032"&gt;https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74032&lt;/a&gt;）&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
日本大学教授である広田氏のｗｅｂ記事です。5月、政府が9月入学の導入について検討を始めたときに、反対を表明した教育学会の会長です（参照、日本教育学会声明。（&lt;a href="http://www.jera.jp/20200511-1/"&gt;http://www.jera.jp/20200511-1/&lt;/a&gt;））。小池知事や吉村知事ら複数の政治家が賛成を表明したことに対して、文科省で記者会見を開いた広田氏が、「教育制度の実態をあまり知らない方が、メリットだけ注目して議論している。財政的にも制度的にも大きな問題を生む」と述べていました（共同通信。&lt;a href="https://news.yahoo.co.jp/articles/0100cc1c43ed6001876bbbfd8da5f4216865ce15"&gt;https://news.yahoo.co.jp/articles/0100cc1c43ed6001876bbbfd8da5f4216865ce15&lt;/a&gt;）。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
現代ビジネスの広田氏の記事によると、コロナ前の段階で、学校は既に手一杯だったとされます。1980年代以降、個性重視の教育原理に変わり、「子供達に考えさせ表現させるような教育が推奨される」ようになった、2020年の新指導要領では、「主体的・対話的で深い学びへの転換が求められている」そうです。文科省の発出する学習指導要領が時代とともに変わって行くのです。指導要領が変わる度にその対応に追われ、それに従ったカリキュラムを進め、全国で画一的な学校行事を遂行して行くだけでも大変そうですが、それに加え、日々の雑務に追われ、超過勤務を強いられて、教職員が疲弊しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
個性を重視し、自分で考え、発表するということがいかに大切なことか、大学教員のはしくれである者にとってこそ、痛いほどよく分かります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
日本の大学生は自分の考えを発表することが本当に嫌いです。むしろ、考えるということ自体が苦手なのではないかと思えます。大学で行う学問は、通常、答えがありません。正解がないということに、学生らが慣れていないのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
その先生がどう考えているのか？それが学期末試験の正解なのだから、それだけ丸暗記しておけば良い。考える筋道はいらないから、手っ取り早く正解を教えてくれ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
それまでの学校教育では、恐らく、教師が板書する内容を、児童・生徒達がノートに丸写しし、教師も、ここが大事だ、ここが試験に出るから「覚えておきなさい」と強調します。この一方通行の、指導要領に従ったカリキュラムの内容を詰め込み式に丸暗記させる教育が、個性を重視した、考えるための授業であるとは思えません。私が、小学生だったころ、かれこれ50年以上も前ですが（笑）、上述の80年代における教育原理の転換を経て、どれ程変わっているのでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
一口に大学生と言っても、千差万別、人により異なるのですが、一般的、標準的な大学生は、上に述べたように「正解」ばかり求め、自分で考えようとはしない傾向が強いようです。新入生に対して、大学教員がまず教えないと行けないのは、今までの勉強とは違って、大学の学問というのは「答えが無い」ということを学ぶことなのだということです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
今までの勉強とは違う？&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
高校までの学習と、大学での学問とは、勉学の在り方が質的に異なっているということは確かです。大学以前には、日本における各学問領域における水準を標準的な内容として、理解し、記憶することが重要なのでしょう。大学になって始めて、真の学問とは正解がないものであり、真理を追究し、考え抜くことであることを知ってもらわないといけないのですが・・・。それまで叩き込まれてきた勉学の態度を、容易には改めることができないようです。そのような学生達と日々格闘している者として、大学以前に、自分自身で考える態度と、その考えを発表する姿勢を、何としても身につけて欲しいものだと、常々考えていたのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
高校までの勉強を変えて欲しい。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ところが、広田氏の記事を読んで、それが無理難題であるあることがよく分かりました。個性や対話を重視し、考えること、発表することを、充分教育するためには、適切な少人数教育と新たな工夫が必須となるでしょう。ところが小、中、高校の教員数が圧倒的に不足しているのです。教育学会は、この5月にまとめた提言で、教員10万人、学習指導員などの職員を13万人増員することを求めています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
政府の教育再生実行会議が、本年7月20日の会合において、新型コロナウイルス感染症を踏まえた「ポストコロナ期における新たな学び」と題して、情報通信技術（ＩＣＴ）を活用したオンライン学習の推進や、将来的な９月入学の導入について議論を始めました。小中学校及び高校の教育と、高等教育とに分けて検討するとされています。&#13;&lt;br&gt;
（「コロナ後の「新たな学び」議論　ＩＣＴ推進、９月入学―教育再生会議」（時事通信。&lt;a href="https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072000811&amp;amp;g=pol"&gt;https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072000811&amp;amp;g=pol&lt;/a&gt;））&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
私自身は、教育学会の立場と異なり、本年度新入学生および在校生についての、半年ほどの卒業延期と、来年度新入学生からの9月入学を支持していました。今のところ、既に政府が断念したので仕方がありません。今後、今のようなコロナ蔓延の状況を前提にしながら、多くの重症者・死者を生じるような事態に陥らない限りは、以前のような一斉休校はしないという政府・自治体の強い意思を感じます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
地域によっても異なるのですが、その場合、今後も、感染防止のための分散登校や遠隔授業を織り交ぜる必要に迫られています。学校におけるソーシャル・ディスタンスの確保のために、一教室の少人数化を図るためです。長期休暇を縮小して、平日授業の延長と土曜日授業を実施しながら、学校行事を省き、カリキュラムも一部省略しつつ、在校生については複数年に渉り実施することで対応します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
小中、高の教員、学校関係者はさぞかし大変でしょう。子供達は、ただでさえの詰め込みカリキュラムを、ことさらに、まさに詰め込まれるのです。そして、教育の一環である、大切な学校行事を奪われ、かけがえのない青春の閃光を輝かせる機会を失ったのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
高等教育については、全国の多くの大学が遠隔授業を早くから実施していますし、元々、教育内容は各教員の裁量に任されているので、その面では余り問題がありません。しかし、新入生は入学式もなく、未だに大学の門をくぐったことが無いのです。以前からの在学生にしても、大学施設を利用することも、課外活動を行うこともできません。友人らとの会話も無く、学生全般に意欲の低下がみられます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
今年の生徒、学生をこそ、救済してあげて欲しい。そのために、万難を排してでも、卒業や進級を延ばしてあげるべきでは無かったでしょうか。大学の卒業時期については、柔軟に対応が可能であったかもしれません。もっとも、就職先となるべき企業等、幅広い社会的合意が不可欠とはなります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
最初の広田氏の記事に戻ります。元々、コロナ以前においても、教員職員等の増員が必要であるのなら、今こそ、そのことを実現する良い機会だったのではないでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
教育再生会議が、文字通り教育の再生を企図するべく、むしろコロナを契機として、コロナ後の平常時からの一学級の少人数化と、小、中、高校における個性を重視するための、「考え、表現する」教育を目標としなければならないでしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
幼児教育を義務教育化し、小学校のカリキュラム内容を一部取り込みつつ、同時に、子供の理解力に応じて、小、中学校からの留年や飛び級が有り得るようにすることは考え得ないことではないように思えます。日本の公的教育制度は、子供の個性を殺し、おしなべて凡人を育てる教育です。科学の天才、文芸の天才、商売の天才、スポーツや芸術、そのほか諸々の実技の天才。いろいろ有って良いでしょう。その才能の芽を摘むことがないようにするべきです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３　&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
大学についても、現在ある文科省の施策には大いに問題があります。文科省は、国立大学に対する交付金の削減という兵糧攻めにより、教職員のリストラを進めています。日本の少子高齢化を踏まえ、国立大学の学生定員が多すぎるので、遅遅として進まない国立大学の統廃合を推進したいという背景事情があります。これも行政改革の一環とも言えます。そして、国立大学の学生について、極めて厳しい定員管理を要求しているのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
すなわち、受験に合格する入学者が、予め決められた大学としての定員を大きく上回らないように、そして留年率が高くならないようにすることです。民業圧迫になるという理由ですが、要するに、定員通りに学生を入学させ、そのまま４年間で卒業させなさいということになります。同時に、単位の実質化とは、学生にちゃんと勉強させ、適正な成績評価を行えというのですが、至難の業です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
高等教育において、学生が本当に勉強を行うようにするためには、余裕を持った定員管理を行わなければなりません。定員より多く入学させた学生が、勉強をしなければ留年し、最終的にも卒業できないことがあるということが普通だという、アメリカ型の方法です。単位の実質化を行うためには、毎日の授業の予習、復習のための宿題を課し、厳密に評価しなければなりません。現在の日本の大学教員が研究と教育を両立させるために、多人数の学生の宿題に目を通している暇がありません。チューターなどの補助業務を行う職員が必要になります。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
小中高の教職員数の増員を行わないこと、従って一学級の少人数化をなし得ず、子供の個性を伸ばすことができない教育、交付金を削り、大学の教職員数を減らすこと、従って勉強しない学生を放置せざるを得ず、高等教育の破綻を黙認すること、都道府県毎に少なくとも一つの国立大学を確保しないこと、これら全てが行政サービスの削減ないし低下です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
コロナによる世界的な大不況は、もはや大恐慌と比較されるようになっています。第二次世界大戦以前の大恐慌のとき、これを乗り越えるために必要な公共投資はダムの建設や鉄道の敷設として行われました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
今、目の前にある恐慌に対して、１００年後の日本のために現在必要な公共投資は、人を育てるための投資でしょう。ここでは、学校教育への投資を取り上げましたが、社会人の再教育とやり直しの機会を確保することや、外国人材を受け入れるための様々な投資など、人を育てる投資は多様です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
かつてのハードな公共投資から、現代のソフトな公共投資へ、考え方の根本的な転換が必要です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ソフトな公共投資は、人を育てる投資のみならず、巨視的には、更に多様で有り得ます。コロナ禍に対処するために現在政府が実行し、批判にも曝されている、国民の賃金の下支えを行う給付や中小企業や個人事業の持続のための給付、観光や人の移動を促すための給付などです。現下の困難の克服のために、戦前のニューディール政策と並ぶような、大胆な公共投資が、それもソフトなそれが求められています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
警察署、児童相談所、労基署、国税局、税関など、人手不足が深刻な公的部門は保健所に留まりません。もっとも政府の財政規律も重要な要素に違いないので、民間の人材派遣事業を活性化する何か上手いアイデアはないでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
イノベーションを促す企業創生のための投資も現状を超える大胆さが必要でしょう。そのために、古い時代の考え方に捕らわれ、既得権益にがんじがらめにされた法規制の、過不足をなくす変革が、日本社会の現在と将来を前提として実行されなければなりません。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>世間</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>グローバル化と法の支配</title>
      <link>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/06/16/9258023</link>
      <guid>http://shosuke.asablo.jp/blog/2020/06/16/9258023</guid>
      <pubDate>Tue, 16 Jun 2020 01:04:44 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-06-21T01:46:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-06-16T01:06:33+09:00</dcterms:created>
      <description>　コロナの災厄が、特にヒトの国境を越えた移動の自由を極端に制限しました。ウイルス蔓延を防止するために、国が工場における出勤制限を行い、あるいは物流が滞ることによって、複数の国に跨がるサプライチェーンが分断され、多くの国の経済活動に支障を来しました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、わが国などのマスク不足から、「国際分業」が問題視されています。国の防疫に関わり、人の健康に影響する製品の国産化のためには、安価な外国製品の輸入制限が必要であるとする趣旨でしょう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　保健所職員の削減など公務員の削減が、新自由主義の産物として、揶揄されることもあるようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　新自由主義ー国際分業ーグローバル化というキーワードによって繋げられるるのですが、私は、コロナによって、グローバル化が押しとどめられるとは思いません。グローバル化という言葉に対する正確な理解が必要であるようです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その何が悪であり、何を問題とするべきか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　コロナ禍の遺す教訓は、むしろ「更に一層の法の支配を、この国際社会にも！」ということではないでしょうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１，レーガノミクスと新自由主義&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　レーガノミクスは、減税と政府支出の抑制を組合せ、小さな政府を志向し、財政出動によるよりは、自由競争の下、市場の手に委ねる方が国の経済がより一層発展するとした。新自由主義に基づくとされます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　レーガノミクスは現実の政策であり、思想としての新自由主義そのものではありません。それは経済学および社会理論であり、新自由主義に属するとされる個々の経済学者や思想家の主張が完全に一致するわけではありません。中でも、著名なノーベル経済学賞を受賞したハイエクは、法の支配の下での自由を主張しました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　第二次世界大戦後の世界経済がグローバル化の一途を辿ったとされています。もっとも、世界経済のグローバル化が、いつから始まったのか、自明とは言えないでしょう。世界的な交易は、例えば有名なところで、古代ローマ帝国の時代に盛んであった地中海貿易や、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの交易があり、近代以降は、欧米列強の重商主義と結びつく、宗主国と植民地間の貿易があります。特に、後者は現代の世界経済の原型かもしれません。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ここでは、第二次世界大戦後の世界経済の発展と国際経済社会の法発展の関係を、手短に説明します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２，ブレトンウッズ体制の成立と世界貿易の南北問題&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　第二次世界大戦は甚大な戦禍を国際社会にもたらし、夫や妻、子供、兄弟姉妹、親友、多大な人命が失われました。アメリカを除く先進国を含め、まさに焼け野原となった国土に立って、二度とこのような戦争が起こらない世界を築くことを強く祈ったです。そのための法的枠組みが、戦後間もなく成立したブレトンウッズ体制でした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ブレトンウッズ体制はGATTおよびIMF協定を基礎とします。その目的は、大戦を招いた主因の一つであるブロック経済化を防止するために、各国ごとの関税や貿易制限を可能な限り抑制し、同時に、通貨の切り下げ競争を回避しつつ、送金の自由を確保することです。かくて、自由貿易主義に基づき、地球上の全ての国にとって、持続可能な経済発展と富の最大化がもたらされるという根本理念を有します。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　戦後、１９７０年代になると、ようやく旧植民地諸国が世界の表舞台に独立国家として勢揃いしました。このころ、国際法に関する南北問題も生じるようになりました。１８世紀以来、欧州列強が作り上げてきた国際法の枠組み自体が、そのころには国際法的に国家として存在しなかった植民地諸国に不利であるとして、開発途上国が共同して国際法の改正を要求するようになったのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　GATTの下で、自由貿易主義の恩恵を被り、奇跡的な経済発展を遂げたのが日本でした。他方で、植民地時代のプランテーションの遺物である社会経済的限界によって、多くの開発途上国が貧困のままに、世界経済の発展から取り残されました。発展途上国にとっては、先進国企業の投資が、経済的に一定の潤いと雇用をもたらし、工業化を図る唯一の方途でした。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　しかし、結局、先進国企業が低賃金の下で得た利潤を母国に送金するばかりで、投資先国での再投資と技術移転が一向に進まない時期がありました。途上国側は、投資企業の母国への送金を制限したり、一方的に先進国企業の権益となる施設等を接収しました。これに対して、OECDが資本移動自由の原則を打ち出し、また、企業と途上国との間の国際投資紛争に介入することで対抗しました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３，アメリカ通商法の不公正貿易の観念とGATT＝WTO&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　貿易の自由の側面からみると、GATTが継承されて、１９９５年にWTOが成立しました。もともと資本主義の最先端を行くアメリカが、世界で最も強力な独占禁止法と証券規制に関する法を有し、市場における規律ある自由競争を確保するための規制を有していたのですが、通商法としても、自由競争による市場を歪曲する不公正な行為を規制する強力な法を成立させていたのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　戦後、世界経済の覇権を握ったアメリカが、あるいはアメリカ企業が、追随する国々の企業に対して、自国のこれらの国内法に基づき規制を及ぼそうとしました。他国の企業がその国の緩い法規制の下で、アメリカ法の立場からは不公正な行為により大きな利益を上げていると、自国企業が世界市場において競争上不利な立場に置かれることに我慢ならなかったのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　悪名高いアメリカ通商法スーパー３０１条を用いた貿易制限による恫喝によって、他国産業界に輸出自主規制を呑ませるという、GATTの観点からは灰色措置と呼ばれる脱法行為をしばしば行いました。アメリカ通商法の手続を真似て作ったWTOの紛争処理手続は、アメリカ法における幅の広い不公正貿易の観念を、国際法としてGATT＝WTOの中に取り込む代わりに、アメリカによる灰色措置を禁止したものです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４，世界の相互依存性の進展と行き過ぎたグローバル化&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　GATT＝WTOの下、累次の貿易交渉の成果として、世界の関税が劇的に引き下げられ、農産物を含む輸出入の数量制限が撤廃されると、加速度的に世界経済が相互依存性を強めてゆきました。インターネットやジャンボ・ジェット機の就航など、技術的革新もあいまって、交易の観点からは、どんどん国境の壁が低くなり、ヒト、モノ、カネが国境を越えて自由に移動するようになりました。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　行き過ぎたグローバル化として糾弾されるような事態も生じます。巨大な投資ファンドが一国の通貨を売り浴びせて、その国を国家破産させたことがあり、国際的通貨危機の引き金になりました。最近のリーマン・ショックもそうでしょう。製造業のサプライ・チェーンが途上国を含めて構築されると、製造業の国際的分業が確立しました。このことが、従来、経済発展から取り残されていた国の経済開発に通じ、極端な貧困から脱却する国、および新興国と呼ばれる更に発展した国を生じ、途上国間の格差を生みました。他方、先進国における産業の空洞化が進んだのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
５，行き過ぎたグローバル化とWTO&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　よく、経済は生き物だと言われます。世界経済は国境を越えて一体的なものです。企業は単純に利潤を求めて貪欲に、利己的に行為します。いずれかの国が、一国の法規制によってその流れを押しとどめようとしても、経済活動は容易に法規制をすり抜け、一国の努力もその奔流に押し流されるだけです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　上述のような国際分業の確立と、それに伴う先進国における産業の空洞化、他方、貧困を免れる国を生じることは、むしろGATT＝WTOの根本的理念の中に織り込み済みであるとも言えます。WTO体制による貿易自由の原則の下で、各国が構造転換を繰り返してゆくこと、そうして、世界全体の持続的な経済発展に繋げることが予定されているからです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　例えば、インドは、筆者が中学、高校で使った頃の地理の教科書には、かつてのプランテーションのせいで、その他の産物の生産が不可能であり、工業化もできず、貧困に喘ぐ国であるされていました。それが、現在は新興国として更に発展することが約束されています。東南アジア諸国には、日本、韓国、中国の企業のサプライチェーンが互いに組み合わされており、確かに、近時、経済発展がめざましい国があります。そうして、他方、日本のような先進国の製造業はその国でしかできないことに特化し、また新たな産業を生み出し、構造転換を果たしてゆくべきなのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　その点で、反グローバリズムを信奉する人々から、WTOがグローバリズムの権化としてやり玉に挙げられることがあります。実は、WTOにも南北問題があります。自由貿易の恩恵が一部の国に留まり、多くの開発途上国が更なる発展の段階を迎えていないという不満を背景とし、最近は、むしろ、先進国、新興国、途上国の三つ巴の抗争という様相を呈しています。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ドーハ・アジェンダと呼ばれるラウンド交渉が頓挫した直接の原因は、新興国であるインドが、自国産業を保護するための特別セーフガードの発動基準を緩和することを強行に主張し、中国がこれに賛同したのですが、アメリカ、欧州等の先進国が反対したことでした。まさに、加盟国が大幅に関税を引き下げる交渉が大筋合意されており、最終的に妥結する前夜のことです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　WTO上、途上国に対してWTOの様々な義務を猶予する条項が用意されています。また、実際の運用上も、途上国には甘いというダブルスタンダードがあるとされます。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
６，グローバル経済と法の支配&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　WTOが自由貿易主義一辺倒かというと、決してそうではありません。原則規定と例外規定が組み合わされており、その国に不可欠の資源、その国の人々の生命、健康に関わるもの、安全保障に関するものについての貿易制限が可能です。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　また、地球環境保護や生物多様性の保護、あるいは労働者保護などの、自由貿易以外の価値が、自由貿易主義との関係でWTOの解釈問題として争われています。これらの価値と自由貿易主義との抵触については、それらの価値を扱う専門的な諸条約と、WTOという、レジームを形成するような多国間条約間の関係という新たな問題領域を生み出しています。自由貿易主義と、国際社会において実現すべきこれらの価値の、衡量の場として、WTOが機能しているのです。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　金融取引の規制についても、一言のみしておきましょう。自国通貨以外の通貨を取引することをユーロ取引といいます。欧州の単一通貨であるユーロのことではありません。オフショア市場で取引される、日本円をユーロ円、ドルをユーロ・ドルと呼び、欧州通貨のユーロであれば、ユーロ・ユーロとなります。&#13;&lt;br&gt;
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　イギリスがもともと法規制の外に置くことで、ロンドンのシティで発達したものであり、今では、世界中で取引されています。基本的に法規制の及ばない自由な取引市場です。その法規制を、いくら一国で懸命に行おうとしても、カネはどの国の国境をも自由に超えて行くものなので、その国の手の中からいとも簡単にすり抜けて行ってしまいます。国際的金融取引の規制は、諸国が協働して行わなければ無意味なのです。&#13;&lt;br&gt;
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　要するに、経済グローバル化に対抗し得るものは、決して、一国中心主義や偏狭な経済ナショナリズムではなく、国際社会における法の支配の確立こそが必要なことであり、更に言えば、EUのような多様な価値を共有する単一市場であるところの、国際的な地域共同体の成立に向けて努力することです。この点からは、更なるグローバル化こそが、その弊害に対処できる唯一の方法であるということになります。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>政治</dc:subject>
      <dc:subject>国際経済法</dc:subject>
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