コロナ大恐慌と9月入学-ソフトな公共投資2020年07月21日 04:01

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広田 照幸「コロナ危機でわかった、日本の学校に教職員が「23万人以上足りない」現実 「令和の学校教育」に向けて必要なこと」現代ビジネス(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74032

日本大学教授である広田氏のweb記事です。5月、政府が9月入学の導入について検討を始めたときに、反対を表明した教育学会の会長です(参照、日本教育学会声明。(http://www.jera.jp/20200511-1/))。小池知事や吉村知事ら複数の政治家が賛成を表明したことに対して、文科省で記者会見を開いた広田氏が、「教育制度の実態をあまり知らない方が、メリットだけ注目して議論している。財政的にも制度的にも大きな問題を生む」と述べていました(共同通信。https://news.yahoo.co.jp/articles/0100cc1c43ed6001876bbbfd8da5f4216865ce15)。

現代ビジネスの広田氏の記事によると、コロナ前の段階で、学校は既に手一杯だったとされます。1980年代以降、個性重視の教育原理に変わり、「子供達に考えさせ表現させるような教育が推奨される」ようになった、2020年の新指導要領では、「主体的・対話的で深い学びへの転換が求められている」そうです。文科省の発出する学習指導要領が時代とともに変わって行くのです。指導要領が変わる度にその対応に追われ、それに従ったカリキュラムを進め、全国で画一的な学校行事を遂行して行くだけでも大変そうですが、それに加え、日々の雑務に追われ、超過勤務を強いられて、教職員が疲弊しています。

個性を重視し、自分で考え、発表するということがいかに大切なことか、大学教員のはしくれである者にとってこそ、痛いほどよく分かります。

日本の大学生は自分の考えを発表することが本当に嫌いです。むしろ、考えるということ自体が苦手なのではないかと思えます。大学で行う学問は、通常、答えがありません。正解がないということに、学生らが慣れていないのです。

その先生がどう考えているのか?それが学期末試験の正解なのだから、それだけ丸暗記しておけば良い。考える筋道はいらないから、手っ取り早く正解を教えてくれ。

それまでの学校教育では、恐らく、教師が板書する内容を、児童・生徒達がノートに丸写しし、教師も、ここが大事だ、ここが試験に出るから「覚えておきなさい」と強調します。この一方通行の、指導要領に従ったカリキュラムの内容を詰め込み式に丸暗記させる教育が、個性を重視した、考えるための授業であるとは思えません。私が、小学生だったころ、かれこれ50年以上も前ですが(笑)、上述の80年代における教育原理の転換を経て、どれ程変わっているのでしょう。

一口に大学生と言っても、千差万別、人により異なるのですが、一般的、標準的な大学生は、上に述べたように「正解」ばかり求め、自分で考えようとはしない傾向が強いようです。新入生に対して、大学教員がまず教えないと行けないのは、今までの勉強とは違って、大学の学問というのは「答えが無い」ということを学ぶことなのだということです。

今までの勉強とは違う?

高校までの学習と、大学での学問とは、勉学の在り方が質的に異なっているということは確かです。大学以前には、日本における各学問領域における水準を標準的な内容として、理解し、記憶することが重要なのでしょう。大学になって始めて、真の学問とは正解がないものであり、真理を追究し、考え抜くことであることを知ってもらわないといけないのですが・・・。それまで叩き込まれてきた勉学の態度を、容易には改めることができないようです。そのような学生達と日々格闘している者として、大学以前に、自分自身で考える態度と、その考えを発表する姿勢を、何としても身につけて欲しいものだと、常々考えていたのです。

高校までの勉強を変えて欲しい。

ところが、広田氏の記事を読んで、それが無理難題であるあることがよく分かりました。個性や対話を重視し、考えること、発表することを、充分教育するためには、適切な少人数教育と新たな工夫が必須となるでしょう。ところが小、中、高校の教員数が圧倒的に不足しているのです。教育学会は、この5月にまとめた提言で、教員10万人、学習指導員などの職員を13万人増員することを求めています。


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政府の教育再生実行会議が、本年7月20日の会合において、新型コロナウイルス感染症を踏まえた「ポストコロナ期における新たな学び」と題して、情報通信技術(ICT)を活用したオンライン学習の推進や、将来的な9月入学の導入について議論を始めました。小中学校及び高校の教育と、高等教育とに分けて検討するとされています。
(「コロナ後の「新たな学び」議論 ICT推進、9月入学―教育再生会議」(時事通信。https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072000811&g=pol))

私自身は、教育学会の立場と異なり、本年度新入学生および在校生についての、半年ほどの卒業延期と、来年度新入学生からの9月入学を支持していました。今のところ、既に政府が断念したので仕方がありません。今後、今のようなコロナ蔓延の状況を前提にしながら、多くの重症者・死者を生じるような事態に陥らない限りは、以前のような一斉休校はしないという政府・自治体の強い意思を感じます。

地域によっても異なるのですが、その場合、今後も、感染防止のための分散登校や遠隔授業を織り交ぜる必要に迫られています。学校におけるソーシャル・ディスタンスの確保のために、一教室の少人数化を図るためです。長期休暇を縮小して、平日授業の延長と土曜日授業を実施しながら、学校行事を省き、カリキュラムも一部省略しつつ、在校生については複数年に渉り実施することで対応します。

小中、高の教員、学校関係者はさぞかし大変でしょう。子供達は、ただでさえの詰め込みカリキュラムを、ことさらに、まさに詰め込まれるのです。そして、教育の一環である、大切な学校行事を奪われ、かけがえのない青春の閃光を輝かせる機会を失ったのです。

高等教育については、全国の多くの大学が遠隔授業を早くから実施していますし、元々、教育内容は各教員の裁量に任されているので、その面では余り問題がありません。しかし、新入生は入学式もなく、未だに大学の門をくぐったことが無いのです。以前からの在学生にしても、大学施設を利用することも、課外活動を行うこともできません。友人らとの会話も無く、学生全般に意欲の低下がみられます。

今年の生徒、学生をこそ、救済してあげて欲しい。そのために、万難を排してでも、卒業や進級を延ばしてあげるべきでは無かったでしょうか。大学の卒業時期については、柔軟に対応が可能であったかもしれません。もっとも、就職先となるべき企業等、幅広い社会的合意が不可欠とはなります。

最初の広田氏の記事に戻ります。元々、コロナ以前においても、教員職員等の増員が必要であるのなら、今こそ、そのことを実現する良い機会だったのではないでしょうか。

教育再生会議が、文字通り教育の再生を企図するべく、むしろコロナを契機として、コロナ後の平常時からの一学級の少人数化と、小、中、高校における個性を重視するための、「考え、表現する」教育を目標としなければならないでしょう。

幼児教育を義務教育化し、小学校のカリキュラム内容を一部取り込みつつ、同時に、子供の理解力に応じて、小、中学校からの留年や飛び級が有り得るようにすることは考え得ないことではないように思えます。日本の公的教育制度は、子供の個性を殺し、おしなべて凡人を育てる教育です。科学の天才、文芸の天才、商売の天才、スポーツや芸術、そのほか諸々の実技の天才。いろいろ有って良いでしょう。その才能の芽を摘むことがないようにするべきです。


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大学についても、現在ある文科省の施策には大いに問題があります。文科省は、国立大学に対する交付金の削減という兵糧攻めにより、教職員のリストラを進めています。日本の少子高齢化を踏まえ、国立大学の学生定員が多すぎるので、遅遅として進まない国立大学の統廃合を推進したいという背景事情があります。これも行政改革の一環とも言えます。そして、国立大学の学生について、極めて厳しい定員管理を要求しているのです。

すなわち、受験に合格する入学者が、予め決められた大学としての定員を大きく上回らないように、そして留年率が高くならないようにすることです。民業圧迫になるという理由ですが、要するに、定員通りに学生を入学させ、そのまま4年間で卒業させなさいということになります。同時に、単位の実質化とは、学生にちゃんと勉強させ、適正な成績評価を行えというのですが、至難の業です。

高等教育において、学生が本当に勉強を行うようにするためには、余裕を持った定員管理を行わなければなりません。定員より多く入学させた学生が、勉強をしなければ留年し、最終的にも卒業できないことがあるということが普通だという、アメリカ型の方法です。単位の実質化を行うためには、毎日の授業の予習、復習のための宿題を課し、厳密に評価しなければなりません。現在の日本の大学教員が研究と教育を両立させるために、多人数の学生の宿題に目を通している暇がありません。チューターなどの補助業務を行う職員が必要になります。

小中高の教職員数の増員を行わないこと、従って一学級の少人数化をなし得ず、子供の個性を伸ばすことができない教育、交付金を削り、大学の教職員数を減らすこと、従って勉強しない学生を放置せざるを得ず、高等教育の破綻を黙認すること、都道府県毎に少なくとも一つの国立大学を確保しないこと、これら全てが行政サービスの削減ないし低下です。

コロナによる世界的な大不況は、もはや大恐慌と比較されるようになっています。第二次世界大戦以前の大恐慌のとき、これを乗り越えるために必要な公共投資はダムの建設や鉄道の敷設として行われました。

今、目の前にある恐慌に対して、100年後の日本のために現在必要な公共投資は、人を育てるための投資でしょう。ここでは、学校教育への投資を取り上げましたが、社会人の再教育とやり直しの機会を確保することや、外国人材を受け入れるための様々な投資など、人を育てる投資は多様です。

かつてのハードな公共投資から、現代のソフトな公共投資へ、考え方の根本的な転換が必要です。

ソフトな公共投資は、人を育てる投資のみならず、巨視的には、更に多様で有り得ます。コロナ禍に対処するために現在政府が実行し、批判にも曝されている、国民の賃金の下支えを行う給付や中小企業や個人事業の持続のための給付、観光や人の移動を促すための給付などです。現下の困難の克服のために、戦前のニューディール政策と並ぶような、大胆な公共投資が、それもソフトなそれが求められています。

警察署、児童相談所、労基署、国税局、税関など、人手不足が深刻な公的部門は保健所に留まりません。もっとも政府の財政規律も重要な要素に違いないので、民間の人材派遣事業を活性化する何か上手いアイデアはないでしょうか。

イノベーションを促す企業創生のための投資も現状を超える大胆さが必要でしょう。そのために、古い時代の考え方に捕らわれ、既得権益にがんじがらめにされた法規制の、過不足をなくす変革が、日本社会の現在と将来を前提として実行されなければなりません。

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