高等教育の行政改革2021年05月18日 10:41

 もう梅雨入り。朝から曇天で、しかし風はひんやりとして心地良い。コロナ禍はまだまだ収まらず、小生は、今日も大部の洋書と取っ組み合う予定です。これはこれで楽しいのですが、そよぐカーテン越しに、窓の外を眺めながら、難儀な世の中・・・。
C= (-。- ) フゥー

1、行政改革の意味すること

 行政改革が公務員削減を意味するなら、公共団体のある部門の人員を削減して、民間委託することになります。その部門の労働者は、多くが社会に必須のエッセンシャルワーカーです。例えば、地方自治体では、廃棄物処理、運送、水道の検針業務、清掃等の各種関連業務などです。最近話題の保健衛生も含まれます。公務員であれば、身分保障があり、相当高待遇の労働条件で定年までほぼ間違いなく働けます。

 その結果、確かに、モラルハザードを生じました。市民、利用者に対して態度が悪く、労働時間管理が疎かになりがちであるなど、非効率で人件費ばかり嵩むのです。これらの部門を切り離し、民間委託すると、民間の事業者は採算が合わないと倒産するので、効率化されます。それで従来と変わらないか、それ以上のサービスを低コストで受けられるなら、万々歳でしょう。

 しかし、効率化とは、可能な限り少ない人員で同じだけの仕事量を遂行させることを意味します。低賃金、長時間労働を招き、賃金の単価が切り下げられます。また、事業者から見て不要なサービスも切り捨てられることになります。採算が取れない一切のサービスが公的部門に最小限を残し、社会から無くなることにもなります。コロナ禍が明らかにしたように、有事の際に、全く融通の効かない事態を招くことにもなります。

 かくて、行政改革が特定部門の民間委託により、社会に必須の業務について、サービスの低下を招くとしたら、その改革は失敗であるとの誹りを免れないことになります。公務員が担うことによる非効率と、民間事業者による場合の全般的なサービス低下や社会のセーフティネットとしての役割の減退との、均衡の取れた施策こそ求められます。

2、大学の場合

 ここで、視点を変えて、国立大学の教育という公的部門の一つの事業について考えてみます。大学の提供する高等教育がエッセンシャルであるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、これが社会にとって必要あるいは極めて重要であることは疑いのないところです。

 少子高齢化により、大学の入学者が、長期的に減少していくことが予想されます。また、国家財政が全体として切迫していることから、大学にもリストラ圧力がかかっています。定年不補充の方法により、徐々に職員数を減らしてゆくのです。その結果、全国の国立大学の事務職員数が劇的に減らされました。いきおい、事務業務の教員への移管が進められることにもなります。大学の先生は、教育研究に専念していれば良いというのは今は昔のことです。

 これが一巡すると、今度は、教員に対するリストラが始まりました。教員に対するリストラとは、教育科目のリストラを意味します。何とか、非常勤によって講義科目を維持できたとしても、研究分野を失い、何より学生にとってのゼミナールを無くすることになります。例えば、法学部系であれば、憲法や民法のゼミが無くなるのです。

 旧聞に属しますが、国立大学には文系学部は不要であるとする政治家の発言が話題になりました。国公立、私立の垣根を越えた、大学、学部の統合が文科省の目下の目標ですが、あまり進展していません。先ほど、ディシプリンの枠組みに全くとらわれないミッションの再定義という大号令の下で、全国の大学の改革が遂行されましたが、その美名の下、実は、文系を中心とした大学内の学部併合に遂しました。一層、リストラがやり易くなったのです。

 この先はどうなるのでしょう。文科省は長期的な視野に欠ける施策を良くするので、どのような目的を持っているのかは分かりませんが、財務省が大学の学生及び教員定員の削減を狙っているのは明かです。

 国立大学・学部を潰すとしたら、少なくともその地方において、その教育分野の高等教育について「民間委託」することになるでしょう。ある地方の国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部などが無くなり、地方私立大学に委託されます。学生に対しては、おそらくは国が一定の金銭的補助をしてくれるでしょが、その結果どうなるか。

 国立大学は、学生定員に対して教員数が多く、従って、私立大学に比して圧倒的に少人数教育に有利なのです。知人の私立大学教員に聞くと、人気の科目であると、期末試験の採点枚数が800枚から1000枚に及ぶこともあると言います。出席管理などどうするのでしょうね。授業を受けなくても、あんちょこで試験にさえ受かればの、ちゃっかり単位、ちゃっかり卒業ということになり易いでしょう。(もっとも、これは国公立にも共通の、大学としての課題ですが・・・。) ゼミナールも常時、数十人の規模となり、学生がゼミ報告をするとしても、年間、数回がせいぜいです。教員の目が学生一人一人に行き届くということは望めないでしょう。他方、奉職先大学の学部では、ゼミ定員の上限を6〜7人に設定しており、また、講義科目でも、可能な限り双方向の授業を実施しています。よりきめ細かな学生指導が可能であるのは目に見えています。大学事業の民間委託の結果がお分かりになるでしょう。

 決して、私立大学の教育を否定する趣旨ではありません。しかし、この「非効率の」少人数教育を低負担で地方の若者に提供してきた国立大学の役割を失うことになります。

 このブログでは教育に焦点を当てましたが、国立大学は、多くの研究者を雇用し、各学問分野に研究者を供給しています。伝統分野のみならず、先端的、あるいは融合的な、新しい学問分野の創造と発展に極めて重要な役割を担ってきました。これも効率化と引き換えに失うことになりかねません。日本に今求められているイノベーションを引き起こすものであるのにです。

 ここでも、モラルハザードを防止しつつ、非効率を改善することと、安価で上質な高等教育の提供との、均衡点を見つける必要があるようです。

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