木蓮のつぼみ(再掲) ― 2022年05月24日 10:30
「神戸連続児童殺傷事件から25年 少年Aまもなく40歳に 途絶えた手紙 遺族が願う贖罪は果たさず」
https://www.ktv.jp/news/feature/220523/?id=a6944645b413a4e2c8150f6db2f0d5c4b
2018年02月03日に掲載したブログ記事を再掲します。以下、そのときのブログ、ほぼそのままです。
ココから。↓
以前のブログで「相田みつを美術館」のことを述べました。ちょうど2月頃の木蓮をうたった詩があります。美術館で、この書を展示していました。次の様な詩です。
「裸の木蓮」
「いま庭の木蓮は裸です
枯葉一枚枝に残しておりません
余分なものはみんな落として
完全な裸です
しかしよく見ると
それぞれの枝の先に
固い蕾(つぼみ)を一ツづつ
持っています
つまり木蓮にとって
一番大事なもの
ただ一ツをしっかり と
守りながら
冬の天を仰いで
キゼンと立っています
キゼンということばを
独占したかのように
裸の木蓮は
寒風の中に
ただ黙って立っています
みつを 」
書では、一つ一つの段落がつぼみの形にみえます。墨の濃淡と造形で詩を表現しています。皆さんも、機会があれば見に行って下さい。東京駅の直ぐそばです。
私は木蓮が好きです。淡い黄みどり色の中心から、やわらかな厚紙のような白い花弁が、「もくれん」という言葉にふさわしい花です。
暖かな風を連れて来る冷たい雨の後の晴れ間に、沈丁花が香ります。歩いていると、不意に良い香。どこにあるのか思わず周囲を見回して、花の在処を探します。沈丁花が香ると、いよいよ暖かな春の到来です。
間もなく、木蓮が咲きます。待ちに待った木蓮です。白色の、濃い紫の。
ほんとうに木蓮が待ち遠しい。
1、酒鬼薔薇聖斗
ここから、本題です。
神戸連続児童殺傷事件を覚えていますか?
酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る犯人が、小学生を通り魔的に殺傷したあの事件です。特に、特殊学級に通う小学6年生の子供の命を奪い、頭部を切り落として、中学校の正門前に置いていたことで、社会を震撼させました。その犯人は、少年Aと呼ばれた14才の中学生でした。
被害者加害者双方の当事者からの手記が公表されています。
被害者の父親の書いた手記です。
『淳』 (新潮文庫) ・土師 守 (著)
あどけない少年の様子が表紙に載っています。残忍な犯行に対して憎悪を掻き立てます。
その日、いつもと変わらない様子で家を出た子は知的障害のある子でした。家族がどんなに大切にして、愛おしんでいたか。
元少年Aは少年院を退院した後、『絶歌』(太田出版)という手記を発表しています(2015年)。
加害少年の父母の手記も刊行されました。『少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記』 (文春文庫)
少年院で、加害少年の矯正に取り組んだ元法務教官の記録も公刊されています。
事件直後に、加害少年は実名や写真のほか、刑事事件における供述調書の内容を雑誌に公開されました。今現在に至るまで、居住地や最近の雑誌社の取材の様子など多くの情報が、虚偽のものを含めてネット上に掲載されています。
成人した加害者が日本の社会でどのように暮らしていけるのでしょうか。名前を変えたり、もしかすると整形しないといけないかもしれませんね。
2,刑罰の目的と国家による社会の管理
犯罪を犯すと、刑罰や処分が下されます。犯罪者(非行少年)の矯正や更生がその目的であると考えるのが、わが国の刑法学上の多数説です。教育刑という考え方です。
もっとも被害者側の報復感情に答えるという側面や、そのような犯罪に対しては罰を与えるべきであるという因果応報に対する社会心理も関係するように思えます。
犯罪加害者に対する人権の尊重と、これにより現代的な刑罰観が確立される前は、社会には残虐な刑罰が存在しました。公衆の面前での斬首はフランス革命の史実として有名です。江戸時代の日本では磔獄門(晒し首)が通常の刑罰の方法でした。被害者が犯罪者の最期を見ることでその報復感情に答えることができるし、公衆がこれを見物することは、社会一般の犯罪抑止のための見せしめとなります。
また、何をすれば、どうなるかの過程を知ることができ、応報の観念に即することになり、社会的ルールを確認することができます。結果として社会的安心に通じるかもしれません。
公衆が死刑を「見物」できることは、古来より一般的でした。残虐な暴力が死を招く瞬間を見ることが、多くの人々の、感興の的であったのではないでしょうか。そのようないわば行事が定期的に催されることで、その社会の暴力を総体的に抑制できると考えられたのでしょう。その意味では、祭りが、その地域社会すなわち共同体の結束の証しであり、許された「けんか」として、暴力の発露が一定のルールの下に認められるのと似ています。
現在でも、例えばアメリカの州の中には、死刑を公開しているところが多いです。電気椅子や薬殺の場面が、近隣地域の住民に一般公開されます。被害者や住民の前で、死刑が執行されるのですが、これがその地域社会の伝統なのです。その目的はやはり、被害感情への応答や悪者の最期を見届ける住民の意思が考えられます。
人類は、動物として、その遺伝情報に暴力的因子を持っているのです。この発動を適度に押さえない限り、人類社会の存立が危機に曝されます。
弱肉強食の動物としての群れが、類人猿の集落を経て、一定の規範を備えた人類社会へと「進化」するとして、その共同体におけるルールは、動物としての自働的な規則性から、集落の慣習や宗教的(神事としての)規範が生まれ、やがて法としての規範に至ります。どの段階から「法」と呼び得るかには議論がありますが、書かれた法か不文の法かは別として、ある段階からは原初的な法的ルールとなることに疑いがありません。そのルールは、社会経済的には、その共同体において、最大多数の個体を維持できるために考案されたと言えるでしょう。規範の存在が社会的安心に通じる仕組みが我々の社会の深層に存在するのです。
『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)という1972年公開の米国映画があります。近未来を描くSF映画です。
残虐な暴力行為を繰り返す非行集団のリーダーが、刑務所で矯正措置を受けます。映像による暗示と生理的拒絶という「最新の科学的方法」により、暴力行為に対して拒否反応を引を起こすように改造されるのです。その過程は、身体的な手術を伴わないけれど、まるでロボトミー手術のようにも見えます。この方法で全ての犯罪者を矯正することができれば、犯罪を防止し、社会を安全にするというわけです。
他方、キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』という映画があります。前半は、ベトナム戦争のために徴兵された若者が、米国軍隊のキャンプで殺人兵器に改造される様子を描いています。米国内の駐留地で改造が施された兵士達が、ベトナムに送り込まれるのです。
キューブリック監督の映画では、いずれの改造もある意味では失敗に終わります。
何を犯罪にするのか、どんな刑罰を与えるのが相応か。教育刑としても、報復感情や因果応報の理に訴えるとしても、いずれにしても国家が社会を統制したり、管理することに関係します。キューブリックの映画は、このような社会統制や社会管理に国家制度が関わることを如実に描き出しています。
3,日本人のランク付け
最近よく「東大生の・・・」というテレビ番組や書籍を見かけるようになりました。その出身者である研究者が研究の粋を公表するというものではなくて、現役東大生である若者が出てくるものです。東大生は「頭が良い」から、そのような若者の凄いところを見るのが、大衆の感興の的なんでしょうかね。
以前、東京大出身のある学者に聞いたことなんですが、東大入学式で、法学部出身の総長が次の様な祝辞を述べたそうです。君たちは、日本を引っ張ることになっているのだから、しっかり頑張って、日本のために働きなさい、という趣旨の祝辞です。東大以外にほぼ人が居ないというほどの強いエリート意識を持ったその集団は、実際に、勤勉であり、人によると血を吐くほどの努力家でもあります。
もっとも東大以外にも、京都大学にも多かれ少なかれそのような側面があるのでしょう。
一部の能力のある者が大衆を先導し、社会運営に当たり、社会の発展に寄与するべきだというのが、エリート主義です。われわれは、これに慣れてしまっているのでしょうか。
日本人は偏差値によるランク付けをほとんど大前提にしているようです。思春期の大部分を偏差値と格闘して、漸く大学に入学すると、多くの学生が勉学を放棄するというのが、大学教員としての日常的経験です。多くの場合に、高校入試で偏差値の洗礼を受け、そのランク付けを当然視しながら、それ以降は、このランクの枠を意識して、具体的には偏差値の5ポイント単位の変動を目指しながら勉強をします。公立学校の教育には飽き足らず、終業後に塾通いするのが通常でしょう。
ランク付けは勉学だけではなく、スポーツでは一層当たり前です。全国的な運動テストにる能力比較がなされます。例えば、市域の大会から始まって、各都道府県大会、更に大きな地域大会から全国大会へと、子供達の中から選抜されて行きます。このような組織的なスポーツ大会も、国の政策の下で遂行されます。スポーツの振興に伴い、国民の世界大会での活躍がその国の国力を示すかのような、国威発揚の宣伝にも用いられます。
小学生や中学生の大会で優秀な成績を上げると、中学あるいは高校のスポーツ推薦入学、その後は大学へと続きます。入学金や学費は免除、全寮制で生活費の心配も無く、スポーツの鍛練に集中することができます。そのスポーツ部を退部しない限り、一銭もかからないのです。その後、プロ選手になる一部の者を除くと、大卒資格を得て社会人となります。スポーツ・エリートです。
話を元に戻すと、勉学にしても、スポーツにしても、人の能力の数値化がここでのキーワードです。全国的な試験に基づく偏差値による全日本人のランク付け、速度や採点による数値化によるランク付けが、人の「階級」を決めます。その若者の将来を決定するものが、それらの数字です。
幼い知的、精神的能力のままに、このシステムに気づいてしまった者が、そびえ立つ岸壁の前に唖然として立ち止まってしまうことは無いでしょうか。幸いにして、多くの人がシステムの中にあって、このランク付けのシステムを内面化しているので、辛うじて正気を保つことができます。無意識裡に、自覚的理解の能力もなく、これに気づき、その岸壁をよじ登るなんてとても不可能だと、全ての希望を失ってしまうかもしれません。実際は、知らず知らず登らされて行くので、そんなに心配はいらないとしてもです。
4,再び、少年A
驚くような非行に陥る未成年者が、家庭や学校では大人しい良い子であったということが間々あります。親や教師の面前では、気に入られるような態度を身につけているけれど、内面的には病的な問題を抱えていることが有り得ます。少年Aも、その両親には、後に非行に繋がるような精神的な問題点を感じさせなかったのかもしれません。
当時の新聞記事を今でも覚えています。少年Aが、登校した振りをして自宅を出た後、児童公園のいつものベンチに腰掛けて、誰も居ない広場や遊具を見て過ごしていたというものです。
13,4才の少年が学校の集団生活から逃避して、たった1人で、公園にたたずんでいるのです。誰も居ない砂場、座る者のないブランコが微かに揺れ、湿ったグランドに陽が当たり、そこに雀ぐらいは遊んでいるかもしれません。何時間も、ぼんやりとそのような風景を見ていたのでしょう。
なんという孤独でしょうか!その切なさが胸に迫りました。
そんな事件を起こしてしまうなんて。大切な人の命を奪うなんて。
同時に、淳君のお父さんの慟哭が!
私たちは、どちらの子供も救うことができないのですね。
2月の寒風にさらされている木蓮の堅いつぼみを。
続・50男と14女の関係? ― 2021年07月20日 22:40
私は刑法の専門家ではありません。必ずしも刑法学者と同じ視覚からの議論ではないので、一般の方に分かりやすく、面白いかもしれません。
「50代の私が、14才の女性と恋愛に落ちることを、犯罪として良いか」という趣旨の発言を巡り、立憲民主党の執行部が、議員本人の趣旨説明と陳謝を受け入れず、党の懲戒委員会に懲戒処分の諮問を行いました。本多議員は、中年男性から未成年の女性に向けられる視線といった類いの問題ではなく、刑法改正の議論において、実感を持って非犯罪化の方向で議論したかったとしています。
次回総選挙における党の公認内定取消し、更に、1年間の党員資格停止の処分を下すということです。本年秋に予定される次回選挙での当選が見通せない限り、議員生命を断つというほどの重い処分です。新聞記事によると、幹部らが本人に「出処進退を明らかにする」ことを迫ったにも関わらず、本人が受け入れなかったため、処分に踏み切ったようです。
衆議院議員本多平直氏の公式サイト (https://www.hiranao.com/)
朝日新聞の記事「立憲、本多氏の公認内定取り消しへ 性交同意巡る発言で」(https://www.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html)。
弁護士を含む第三者を委員とする「ハラスメント防止対策委員会」というのは、党内および党周辺におけるハラスメント案件について、告発を含めて対策を行うための、党から独立した常設の委員会であるとされています。同委員会から、この問題についての調査報告書が発出されました。
調査報告書をまとめた委員会の委員長が労働ジャーナリストの金子雅臣氏(一般社団法人職場のハラスメント研究所所長)です。調査報告書は長文であり、独特の専門的用語を用いた難解なものですが、簡単には、次の毎日新聞の記事で概要を知ることができます。また、立憲民主党幹事長の記者会見で、調査報告書の内容がやや詳細に紹介されており、これを受けた処分について説明されています。
毎日新聞の記事「本多平直氏「同意性交」発言 立憲、調査報告書で言動を強く批判」(https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/010/009000c)
立憲民主党「福山哲郎幹事長記者会見2021年7月13日(火)」(https://cdp-japan.jp/news/20210713_1800)
なお、立憲民主党プレスリリース「「誠心誠意、実現をしていきたい」ハラスメント防止対策委員会「調査報告書」を受けて、福山幹事長」 (https://cdp-japan.jp/news/20210713_1792)。
1,認知の歪みとされるものと、本多議員の失言の関係
まず、日本の文化の中には、男性支配の構造が今なお厳然として存在しています。「男が外で働き、女が家を守るという分業の発想」が、多くの仕事の場において、職員数や権限の質的な差を生んでいます。女子差別撤廃条約への加入を受けて、男女雇用機会均等法が制定されても、もちろん社会的発展の胎動が基底として存在したには違いないとしても、法の制定だけでは、文化というものはそう簡単に変わるものではありません。
高等教育を受ける機会を提供することについて、送り出す家庭にしても、受け入れる教育機関にしても(奉職先は国立大学なのでないが、)今なお男女の扱いに相違があり得ます。折角入った大学にしても、卒業時には、多くの企業が採用上、男女の差を設けているのは周知の事実です。必然的に、数と権限において圧倒的に強い男性集団に囲まれた女性労働者という構図を生じるのです。増えつつあると言っても、まだまだ女性管理職の数は限られます。職場の上司たる男性と部下である女性の間の権力関係を利用した性的搾取が行われやすい環境があるわけです。学校という教育の場において、教師と院生・学生・生徒、あるいは体育部監督・コーチと部員の、絶対的な権力関係が利用されることがあります。
このようなとき、権力関係の中での少なくとも半強制的な状況における性被害が、曖昧な意味合いを持ってしまうことがあります。そして男性集団の中で、被害者たるべき女性をむしろ非難の対象として貶めることもまま見受けられるところです。一般に、年齢差に基づく経済力や経験の差を含めて、これら全てが「力」による弱者の性的搾取を生む可能性を孕むのです。
日本におけるこの男性優位の社会構造に気付かぬ事を当該男性の「認知の歪み」と言うようです。ジェンダー論には疎いので、調査報告書を読むまで知らなかったのですが、憲法を学ぶと明確に自己および他者の人権意識が確立されます。ここでの記述は、他者の感じ方を思いやる感受性が法の解決をこころざすための前提となるといった観点からのものです。
人は生い育った文化に規定されます。家庭、学校、地域社会、書物や雑誌、それに映画などの映像作品の全てから影響されます。社会に差別意識があれば、その社会に生まれ育った者はその差別意識を空気のように身に纏い、なかなかその存在に気づきません。
技術者である下級公務員をしていた父がそうでした。「男はどういうもので、女はどういうもので、父は、子は・・・」。被差別者に対する侮蔑の表現を、少なくともプライベートな場では、厭うこともしません。戦中、戦後に幼年期から思春期を過ごした父の時代の風潮に規定されていたのです。私はそのような言動を否定しますが、だからといって父を軽蔑しません。どこにでもいる普通の男性です。しかし、その視点がおかしいと言っても全く理解されません。それが「常識」だからです。むしろ、お前が間違っていると怒鳴られるだけです。
時代は進展しました。社会や文化もその当時よりは発展したことでしょう。上述した法が立法されて、政府により女性の社会参画が叫ばれ、実際、社会のあらゆる分野に女性が進出しています。しかし、ご承知のように日本のジェンダー指数は先進国とは言えないような体たらくです。
女性管理職を増やすためには、社会意識に働きかけ、ともすれば女性の高等教育に消極的になりがちな家庭に対して、経済的支援を充実させることで、女性に対する高等教育の機会を充分提供することと、就職差別をなくすことが重要です。企業の門戸を広げさせ、その上で、管理職の数値目標を設定するアファーマティブな人権政策が必要だと思います。議員候補者のクォーター制などの試みも是非、実現してもらいたいものです。いずれは議員定数の一定割合を女性とする公選法改正もあるかもしれません。
話を元に戻しましょう。時代が変わり、文化も変わりつつあるとしても、また、上述の男性による「権力」の構造を意識しようとしていても、言葉の端に従前の文化に引きずられた表現が現れてしまうことがあります。それほど、自分の受けた学校、家庭の教育や基底的な文化の影響は大きいはずです。その言の端を捉えて押し並べて、そのいう「認知の歪み」に気付かず、伝統文化を押し付ける高齢男性集団と、これもまた類で捉えて差別されても堪りません。
立憲民主党の対応やその誘引となったフェミニズム論者が、「あっ、しまった」と、本多議員が表現の稚拙さを詫びているのに、一方的に本質的「歪み」の輩だと決めつけ、議員生命を絶つべきだとしている点に違和感があります。その「歪み」が本当になかったかについてはよく考えてもらうべきだけれど、余りに性急ではないでしょうか。私は余り詳しくはありませんが、本多議員がこれまで国政で果たしてきた実績にも目を向けてみる必要がありそうです。党幹部として、立憲民主党の基本的な政策の策定に関わり、その実現に奔走していたのではないでしょうか。そうすると、例えば、議員クォーター制なども入ります。
性交同意年齢を巡る、党の公約策定段階における党内議論の場で失言があったというのですが、先の調査報告書によると、その真意において「認知の歪み」があることが疑われるとしているだけで、これが処分理由にはなっていません。刑法改正を巡る党内議論の場において、多くの場合に威圧的で、外部からの講師に対しても、恫喝まがいの態度を感じさせた。これが通常の法的な定義とは異なるが、いわばパワハラに相当する。そして真意はどうであれ、あの不用意な発言が党の信頼を損ねる危険がある。以上が処分理由の全てです。
上述のハラスメント防止委員会の目的からして、その調査内容に限界があるのは当然でしょう。私は、この言動から、直ちに議員としての死刑宣告まで行ってしまうのは、処分の相当性を欠くように思えてなりません。実際に何らかの性犯罪を遂行したとか、不貞行為があったというのではないのです。
これでは、ジェンダー平等を掲げる政党が支持者を失わないために、選挙向けの宣伝のため、拙速に処分をしたという印象を与えるでしょう。実際、福山幹事長が厳重注意という軽い処分を下した後、フラワーデモの関係者から鋭い批判を浴び、一転して厳格な処分を行ったという迷走が、このことを示します。
2,法制度の弊害と優先すべき利益
法は、対立する多様の利益の衡量を行い、最も上手い均衡点を探求するものです。各々の利益の観点から、異なる結論に至る対立する主張を付き合わせて、調和点を求めようとします。本多議員は激しやすいようですが、このような複数の利益の内の一方の主張を行っただけでは無いでしょうか。この点、性交同意年齢の論点に則して私見を述べます。
結論的には、上に述べた権力構造を前提に、弱者保護を図る一環として、性交同意年齢の引き上げに賛成です。理由を以下に説明してみます。
法制度には弊害が付き物で、何の利益を優先するかの選択が必要となります。最近の例では、児童相談所を巡る問題がありました。
児童虐待が疑われると、緊急的に一時預かりの処分を下し、その親から子を引き剥がさなければなりません。児童虐待か否かの判断が困難な事例がままありますが、慎重になりすぎると、子供の命の危険にかかわります。他方で、虐待ではなかった場合、子は、その発達の重要な時期に、家庭環境から引き離され、親の養育を失い、親もその権利を侵害されます。子のSOSを看過し、傷ましい虐待死を招いた重大事件の後、児相が一層、保護処分相当の判断に傾く傾向があるようです。この場合、子の命への危険を一層、重視するなら、良き親から子を奪う結果となるときに、子の福祉の観点から問題を生じます。
子供の長い髪の毛が首に巻き付いた跡を、虐待による傷跡と間違ったために、実際、このような弊害を生じた事件があったのです。幼い子の養育のための、かけがえのない時間をその子と親から奪ってしまう結果となりました。子の命の危険を避けるべきは一刻の猶予もありません。しかし、家庭養育による子の福祉の増進を失う可能性もあります。どちらを優先するべきでしょう。
さて、性交同意年齢の問題です。真の恋愛は通常、刑事事件化しません。愛し合っている相手を犯罪者にしたいとは誰も思わないでしょう? 刑事事件となるのは、ア)最初から犯罪で良い援助交際や強制性を伴う性交の場合か、イ)第三者が問題視した場合、そして ウ)最初は恋愛感情によるものであったのに、後になって若年者の方が翻意したような場合でしょう。
刑法典に書き込まれたときに、その年齢に至らない若年者とは性交が許されないという規範が成立します。ア)の事例は当然だが、イ)や、ウ)の事例ではどうでしょうか。イ)の場合、当人同士が恋愛関係にあり、愛情の発露としての関係であったとしても、当事者の保護者やあるいはその他の第三者が通報すれば、成人の方が犯罪に問われることになります。法定レイプです。
個人の自由意思の範疇に国家が介入し、不当であるようにも思えます。しかし、立法が成立するなら、成年者の方が、相手がその年齢になるまでは、抑制するべきだという規範が確立することになります。真の恋愛であればこそ、例えば16才という、その年齢まで待てないのはおかしいでしょう。また、実際には、警察の捜査裁量、検察の起訴裁量にかかる範囲も相当あるので、示談で解決される場合もあると考えられます。
法制度には弊害がつきものであり、この場合に何が優先されるべきかと言うと、ア)の場合の若年者保護という事になります。この限りで、特にイ)やウ)のときに、国家が個人の自由意思の範囲に介入する余地は増すが、若年者側に訴追の決定権という権力を与え、権力構造の偏りを少し解消するのです。権力関係から半強制的に、あるいは判断能力の劣る者の同意を強いる状況で性交に至る若年者を一層、保護するわけです。
一般的には、若年女性の保護が念頭に置かれているので、1に述べた男性集団と女性の権力関係を是正するという意味でフェミニズムに関係し、ジェンダーの議論となります。しかし、性交同意年齢の引き上げに関する刑法の改正論議は、男女の関係は必ずしも固定されず、成人女性と若年男性の関係や同性間の関係も規律するものです。いずれにせよ、若年者という意味で、権力のある者と弱者との関係において、定型的な弱者を保護する議論なのです。
* 7月28日に、本多議員が自ら離党し、比例区候補の筋を通すとして、衆院議員も辞職しました。
50男と14女の関係? ― 2021年06月18日 04:57
https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ
(「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言|ゲスト:島岡まなさん(6/16) #ポリタスTV)
1,
性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも16才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした50男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、14才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の18才とされました(2022年4月施行)。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。
性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。
立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、50才の女性と14才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。
もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。
2,
冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。50の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。
日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。
マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル=マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。
かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。
イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。
日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。(私も免れませんが)高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。
再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。
それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、TPOに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。
元SEALDsメンバーの福田和香子さんのステイトメントについて ― 2021年06月04日 00:37
集団安保法制に反対した元SEALDsメンバーの福田和香子さんが、twitter上、匿名で中傷された事件です。相手方を特定した上で名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、地裁において勝訴しました。
2021年6月1日東京地裁判決についての、webニュースです。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&g=soc
福田さんのステイトメントとが公表されています。
https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home
自身が受けた侮辱的な言葉の一個一個を明らかにしながら、その言葉により傷つけられた者が声を上げることは、生まれながらにして持っている権利だとしています。インターネット上、度々生じる誹謗中傷に対して、恐れずに立ち向かうことは。よほど困難なことに違いありません。
一人の被告に対する裁判という以上に、女性が政治的発言をすること、政治的な行動を起こすことに対して、よってたかって誹謗中傷を行う匿名の人たち、もっと言えば、このことを許容する社会に対して起こした代表訴訟だと思います。
記者会見で、次世代に伝えたいメッセージを聞かれ、次の様に答えたそうです。
「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」。
生きている間に変わることないかもしれないと、社会に対する絶望的な見方を述べながら、しかし、「変化の一部になろうとしている事実」こそ大切だとしています。 若い女性が、戦って強くなってしまった。強くならなくても生きてゆける社会にしたい。生きている間に実現しないとしても、次の世代のために戦い続けるという彼女に強い感銘を受けました。
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この世の中は、プラスとマイナスの抗争によって成り立っているなどというと、まるでゾロアスター教の教義のようですが、キリスト教文明にも深く刻まれた思想です。聖邪、善悪の対立がこの社会の構成要素であって、どちらが欠けてもいけない。いずれかが完全に負けてしまうと、社会そのものが瓦解する。むしろ「抗争」こそがこの社会の実体なのだとするのでしょう。
私が、善悪という言葉にしないで、プラスとマイナスと呼ぶのは、善し悪しの評価をすることができない両極という意味を表したかったからです。単純な勧善懲悪ではなく、いわゆる「悪」とされるものであっても、実は、この社会を成立させるために、なくてはならないものである可能性があります。
例えば、世界を股にかける武器商人は、明らかに「悪」なのでしょう。しかし、それでは武器商人が完全に無くなれば良いかというと、国際社会はもっと複雑です。この社会に人々が生きていくために必須の役割をも担っています。単純に善悪に決めつけることは不可能なのです。もっとも、これと戦い続ける努力を無くすることは有り得ません。一方が完全に支配するなら、人間の社会が消失してしまうからです。
プラスとマイナスが存在し、お互いに力を及ぼし合うことでこの社会が成り立つので、未来永劫、いずれかが完全に勝利することは有りません。 しかし、この闘いは、決して諦めることが許されません。プラスの方向に向かう変化の一部になろうとする「事実」が是非とも必要なのです。完全にマイナスに支配されることは社会の滅亡を意味します。
この闘いには、希望がなく、絶望も許されない。その人が変化の一部になろうとする、その事実が存在するだけなのです。
冒頭の記事の福田さんは、「声を上げる」ことを諦めません。この抗争を止める訳にはいきません。法廷闘争は、現代社会の重要な闘いの場です。
資本主義や天皇制に対する考え方は、私とは異なります。しかし、「変化」の一部になろうとするその態度に感動を覚えたのです。若者が、女性が、民主主義のために発言し、行動すること。
生きている間に実現しないという希望のなさに耐える強さを、闘いの中で身につけ、強さを持たない人への優しいまなざしを失わない。この若い女性の態度にです。
入管法改正と、経済難民、移民政策。 ― 2021年05月29日 22:55
外国人の収容施設には、不法滞在で法務大臣の特別在留許可を申請している人のほか、難民申請を繰り返しながら、認定を受けられず、長期的に収容されている人など、本国への送還を拒む長期収容者が多くいます。
ウィシュマさんの死は、主として、外国人収容施設における外国人に対する待遇改善の問題を提起しました。ここでは、別の角度から、すなわち、日本の難民受入れが極端に少ないこと、日本が移民を受け入れるべきか否かという観点から、少しお話をしようと思います。
結論的には、移民政策と難民政策の両面からのアプローチが必要だということになります。
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難民条約上「人種や宗教、国籍、政治的な意見のため母国で迫害を受けるおそれ」がある場合を「難民」として定義しています。日本の入管法上、この立証を難民申請している者に求めており、難民認定が入管庁の裁量に委ねられており、極めてハードルが高いことが知られています。
例えば、内戦などの母国の状況から難民化した人は、必ずしも政治的意見を表明したために迫害のおそれがあるではありません。経済的理由から母国ではとても生活ができない、あるいは命の危険があるとしても、経済難民として扱われます。
かつて、ベトナムのボート・ピープルが大量に生じました。社会主義化を心配して資本主義政権の支配地域から逃れてきた人達が、手作りの筏に乗って、東シナ海にこぎ出したのです。大海の中を漂流する人達を人道上の理由から複数の国々が「難民」として受け入れました。日本は、上の定義に当てはまらないとして、当初、受入れを拒絶したのですが、国際的な批判の高まりもあって、一定数を受け入れることにしました。しかし、インドシナ難民として特別の枠組みを作り、受け入れることにしたのです。条約上受入を義務づけられる難民を条約難民と読んで、これと区別しています。
それも極めて限定的です。法務省の説明によると、ボート・ピープルの側が、文化的な理由等から、日本を受け入れ先に希望しなかったとされます。これに対して、例えば、シリア内の戦闘激化による難民が、トルコを経由して大量に欧州に押し寄せたとき、EU加盟各国が割当制により受け入れたことは記憶に新しいですね。
確かに、難民条約上の難民の定義には、経済難民を明示的には含んでいないようです。条約上、これを受け入れる義務があるかについては議論があるでしょう。条約の目的や、起草過程など、国際社会における多くの国々の国家実行がどうであるかなど、慎重な国際法解釈が必要になります。
また、仮に、他国が経済難民も受け入れるとしても、移民政策の相違がその前提としてあることには注意が必要です。アメリカや欧州先進国が、従来より、寛容な移民政策を取ってきたのです。新天地を求める移民の中に、母国の政治情勢などの理由で経済的に困窮している人達が含まれていると予想できます。従って、欧米では、経済難民を受け入れる素地が元々あるわけです。
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これに対して、わが国は、少なくとも法制上、移民を全く受け入れないという政策を取っているのです。高度人材となる専門的技能・知識を有するような外国人と異なる単純労働者については、第二次世界大戦後、日本の高度経済成長期を通じて全く門戸を閉じていました。
しかし、少子高齢化が進行しているわが国の労働市場において、単純労働こそ需要が旺盛なのです。バブル期より、足りなくなった人手をどうして補っているかというと、表向き国際貢献目的である技能実習を通じて、その外国人の一生に一度だけ、3年ないし5年の年限を区切って受入れることで何とか急場を凌いでいるのです。定住、永住の途は一応ありません。
もっとも近年、細かい業種毎に受入れ人数を管理しながら、特定技能や介護(これが単純労働とは言えないかもしれませんが)の新たな資格を設けて、受入れを拡張しています。これについては、一部、永住化の方法も有り得るので、既に、移民政策と言っても良いでしょう。そもそも高度人材については、以前より、積極的な受入れ、永住化の政策をとっているのですから、「移民」ではなく「外国人材」と言い換えても、ほんの言葉の問題に過ぎないでしょう。国際的な移民の定義からはかけ離れています。
そこで、単純労働分野における移民の受入れを認め、もとより、そのためには多様な要素に基づくコスト・ベネフィットの計算と、日本人労働者の労働条件の切り下げを防ぐための最適な受入れ方法についての、国民的な議論を前提としますし、相当の準備も必要です。しかし、その上で、真正面から、移民政策をとっていると認め、労働者保護と機会均等に向けた内国の外国人保護政策を行うべきであると、このブログでも以前より主張しています。定住化および同化、統合のための施策も必要になります。
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このことが、経済難民受入れの前提となるでしょう。単純労働の受入れを一定程度拡大し、定住化を容認するとすれば、母国が紛争下にあり、生命の危険にさらされているような人達を受け入れることは政治的か、あるいは経済的理由であるかの線引きが、そこまで厳密である必要が無くなるからです。
しかし、経済難民の受入れについては、国民的合意が必須となりますが、これがあるとは考えられません。従って、単純労働については、産業分野別に事業団体等の意見を聴取しながら、毎年の必要数を決定し、その範囲内において、送出し国において募集し、受入れ国である日本で労働力を配分するという、現在の受入れ方法に限定することになります。母国における貧困ゆえに、出稼ぎ労働に応募するという人達を、途上国に対する経済的貢献の一環という意味合いにおいても、受け入れて行くのです。
学術会議の任命拒否問題 ― 2020年10月18日 20:58
(_ _)
当面、不定期に更新します。気がついたら、読んでみて下さい。
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日本学術会議法は昭和二十三年に公布された法律です。戦後間もなく、戦中、科学が軍事目的に利用されたことの反省に立ち、政治部門とは独立した科学者の機関として設立されました。昭和58年に大きな法改正があり、それまでの、会員公選制から推薦制に改められました。このとき、学術会議の推薦に基づき内閣が任命するとしても、形式的任命であり、実質的な意味合いを含まないという趣旨の政府答弁が繰り返されていました。
(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html
NHK・News Web 2020年10月8日 12時48分)
政府は、憲法15条を根拠にしつつ、首相に、推薦通りに任命する義務はないとの立場です。かつ、昭和58年法改正時の政府答弁から、必ずしも解釈変更はないとしています。
憲法15条は公務員の選定・罷免権が国民に存することを規定しています。ここで、公務員とは国民の代表者たる議会の議員のことであり、普通選挙によることが規定されています。この規定を根拠として、その他の公務員についても、国民主権原理の下で、国民の代表者である国会・地方議会がその勤務条件等を決定する権限を有するべきであると解されています。民主主義的コントロールが公務員全般に及ぼされるという趣旨です。
ここから、学術会議の会員も公務員であるので、一定の民主的コントロールが及ぼされるべきであるとすることは理解できます。しかし、その民主的コントロールとは、国会が学術会議法という法律により、その選任の方法を決めているならば、それで足りると解することもできます。直ちに、首相の任命拒否権の根拠となるとは言い難いのです。
学術会議会員は公務員といっても、特別公務員であると加藤官房長官が説明しています。特別職公務員とは、一般職公務員と異なり、「政治的な国家公務員(内閣総理大臣、国務大臣など)や、三権分立の観点や職務の性質から国家公務員法を適用することが適当ではない国家公務員(裁判官、裁判所職員、国会職員、防衛省の職員など)を指します(人事院のHP「おしえて人事院-国家公務員や人事院に関するQ&Aです」より)。
公務員と言っても多様であり、職務の性質に応じて、民主的コントロールの在り方も様々です。例えば、国立大学の役員や一般の教職員・事務職員は、法人化以前は文部省・文科省の一般職国家公務員でした。法人化後も国家公務員法の適用は受けませんが、準公務員として、学長は文科大臣が任命します。運営費交付金など巨額の税金が投入される教育・研究機関です。法人職員の勤務条件は人事院勧告に従い決定されます。仮に、文科大臣が、特定の国立大学において選考された学長の任命を、政治的理由に基づき拒否するなら、直ちに学問の自由に関わる問題となるでしょう。
また、特別職の代表格である裁判官ですが、その非民主的性格は法学を行う者の常識です。裁判所は司法を行う国家機関として税金により運営されています。しかし、日本の裁判官は、国民の選挙により選ばれません。たかだか最高裁判所裁判官について、国民審査があるだけです。但し、憲法および裁判所法に基づき、最高裁判所裁判官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、下級審裁判官は最高裁の指名に基づき、内閣が任命します。一旦、判事として任命されると、国会の弾劾裁判によるほかは罷免されません。民主的コントロールからはほど遠い存在ですが、この程度にはコントロールが及んでいるとも言えます。もっとも、下級審裁判官について、最高裁が指名した判事を、政治的理由に基づき、内閣が任命を拒否できるとすれば、政治部門が司法に対して介入したとして、三権分立の観点から直ちに憲法違反の疑いを生じます。
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学術会議は内閣総理大臣の所轄であり(法1条2項)、その会員については、学術会議が内閣総理大臣に推薦し(法17条)、総理大臣がその推薦に基づき任命する(法7条2項)と規定されています。これまで、学術会議の推薦に対して任命拒否を行った例がなかったのに、今年の推薦に限って首相が6名について拒否したのです。いずれも人文および社会科学の分野の学者であり、自然科学分野を含んでいません。
新聞報道等によると、この6名の学者は、集団安保法ないし共謀罪の創設に係る組織犯罪処罰法改正に反対の立場を表明したことのある人物です。政府は、総合的な見地からの任命権の行使であり、人事の案件であるから詳細を述べないとして、具体的な理由を明らかにしていません。
学術会議会員となるべき資格は、「優れた研究又は業績がある科学者」(17条)としか規定されていません(11条も参照。昭和58年改正時の両院の付帯決議によると、推薦に際して、女性や年齢構成に対する配慮が求められている)。政治家や官僚が、学問的業績を評価して、わが国における各分野の最も優秀な専門家達の推薦を拒否することは不可能と言えるでしょう。後でも触れますが、集団安保法反対等の理由であるとしか考えられません。そうであれば政治的理由に基づき、学術会議会員の任命を拒否したことになります。
このことが憲法の規定する学問の自由に抵触するかが問われます。
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以降の記述の前提として、特定の政治的立場から述べているのではないことを明らかにしておく必要があるでしょう。まず、集団安保法について、憲法違反の疑いは晴れません。憲法改正が必要です。拡張的個別自衛権と、片務性のある集団自衛権というのは、どれほどの相違があるのでしょうか。具体的に、何ができて、何ができないのかの精密な議論こそ必要です。例えば、自衛隊が敵地攻撃能力を保有するべきだというのは、個別自衛権の範囲内で可能な議論です。原理的な、もっと言えば、言葉の争いをいつまでもしていては仕方がないのではないでしょうか。拡張的個別自衛権のラインに戻すとしても、日本の片務性に関するアメリカとの再交渉を含めて、外交・安全保障の現実的対応をとらざるを得ません。
次に、組織犯罪処罰法の改正についてです。現在の国際社会共通の最大の関心事項の一つがテロとの闘いであり、また経済的犯罪組織を含めグローバルな手法を用いた資金洗浄の防止です。そのために「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」が平成12年に国連総会において採択され、わが国が同年に署名し、平成15年には、条約として発効し、わが国の国会が承認しています。
わが国における条約の実施法が組織犯罪処罰法の改正法であり、共謀罪の新設ですが、この実施法の成立に随分時間を要しました。実施法の成立後、同条約を締結し、ようやく同条約がわが国内において発効しました。外務省のホームページによると、2018年6月18日現在の締約国は,189の国・地域となっている非常に成功した多国間条約です。この条約の趣旨について反対する人は少ないでしょう(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/soshiki/boshi.html 参照)。
条約を締結すると、国際法としてわが国を拘束します。その内容に抵触する国内法の改廃を行わない限り、国際法違反ということになるから、実施法の成立を待たなければなりませんでした。実施法との関係でいうと、共謀罪を新設して、準備段階に犯罪の構成要件を拡張することが、条約上の義務と言えるかが焦点となります。もし条約上の義務であるならば、必要な立法を行わない不作為の国際法違反となるので、国会が条約の承認を行い、これに加入すると決定しておきながら、実施法の立法を怠るのは矛盾します。もっとも犯罪化拡張の範囲について、どのような法改正が有り得たか、条約および国内法の解釈が必須とはなります。
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学術会議法の問題に戻ります。
同会議の目的が法の前文に規定されています。すなわち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」。戦後間もなく、焦土と化した国土を前に、政治家も科学者も、その戦禍を被ったことを悔い、二度と、科学の軍事利用がなされないように決意したことが伺えます。
この目的のための職務を遂行する上で、学術会議の独立性が規定されています(3条)。昭和58年改正時の両院の付帯決議にも、特に、会議の独立性に配慮するべきことが述べられています。
その職務として、政府は学術会議に対して、「科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分」や、「政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針」について諮問することができ、諮問を受けた学術会議は答申を行います。また、学術会議は、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策。科学研究者の養成に関する方策、科学を行政に反映させる方策、科学を産業及び国民生活に浸透させる方策」に関して政府に勧告を行うことができます。
学術会議が行政改革の対象たり得るとして、その在り方について見直しが検討されるという報道がありました。近時、学術会議が「提言」は行っているが、「答申」「勧告」は余り利用されていないとされています。しかし、最近はあまり諮問がないので、「答申」がないというのが本当のところのようですし、求められてもいないのに、学術会議が政府に対して「勧告」を行うほどの必然がないとも言えそうです。「勧告」というよりも「提言」する方が、当たりが柔らかいので、日本社会では受け入れられやすいでしょう。
学術会議は政府の言う通りに答申、提言を行っておれば良いというのであれば、その会議は単なる御用学者集団であり、独立性を損ない、その目的を無にします。
見 直し議論の背景として、学術会議が軍事目的研究を禁止していることが考えられます。
「井上信治科学技術政策担当相は13日、日本学術会議が軍事目的の研究を禁止していることについて「戦後70年以上たち、社会のあり方、時代の変化もある。軍事と民生のデュアルユース(両用)はどの科学技術の研究分野でもあり得る。そうした変化も考えた上で考えていただければと思う」と述べ、禁止の見解を見直すよう促した」。(https://www.sankei.com/politics/news/201013/plt2010130021-n1.html
産経新聞2020.10.13 16:39)
戦後復興を遂げ、既に経済大国となって久しい日本です。時代の進展とともに、日本周辺の情勢および国際社会の考え方が変わり、科学技術の発展もあるので、これに併せて学術会議の在り方が見直されるということは、すなわち軍事目的の研究を解禁するべきであるという圧力であるようです。
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以上の一切が今回の任命拒否の理由でしょう。
まず、先に述べたように、集団安保法や共謀罪について、研究者として、その学問的知見からどのような意見を持ち、主張するかはその研究者の自由であり、これが理由で政府が学術会議に任命しないとすると、まさに学問の自由に関わる問題となります。
次に、廃止を含めた行政改革を振りかざして、どうしても政府の見解を踏襲するべきだと専門家集団に強要することもまた、学問の自由に抵触する可能性があります。助成金、交付金、補助金などの配分、政府所管研究所等における予算編成について、政府の諮問を受けたときに、軍事目的研究に肯定的に言及する答申をさせるということでしょうか。
時代や社会の進展とともに、法の改正や法解釈の変更が必要となることが有り得ることは当然です。少なくとも、学術会議会員の任命拒否は法の運用の変更に当たります。軍事目的研究の解禁を促すために、会議の構成員を代えようとするのではないかと少々穿ったみかたをしたくなります。しかし、当初の学術会議の目的が上述の通りである以上、軍事目的研究の解禁を認めることは背理となります。
確かに重要な問題でしょう。学術会議でも議論を尽くす必要があります。むしろ学術会議だけでは済まない、大いに国民的議論を巻き起こしてゆくことが必要な問題です。繰り返しておきますが、仮に集団安保法や共謀罪に賛成であり、軍事目的の線引きが困難であるからその研究も有り得るとする立場をとるとしても、思想良心の自由、言論の自由、学問の自由に抵触する方法をとることは許されません。
憲法を含めた「法」の解釈には客観的な、取り得る範囲があるとする見方を私は取っています。法と政治を明確に区別するべきです。法は社会統制の道具です。法の支配が社会の安定に通じます。そのときの政治的風潮に左右されない厳然とした範囲のあることが重要です。
法の明文および改正時点での両院付帯決議における独立性の強調、推薦規定を含む法の構造、学術会議創設の当初目的と推薦制の当初運用を勘案して、学術会議法の解釈として、首相による任命拒否を可能とする解釈変更が可能かについては相当疑問があります。これを可能とするためには、行政府が暗黙裏に解釈変更を行うという姑息なやり方ではなく、真正面から、学術会議会員の任命方法についての法改正を行うべきであったでしょう。
行政庁所管の法律について、当該行政庁の解釈が先行し、まずは優先されることには疑いがありません。しかし、解釈の可能な範囲を超えると違法となります。学術会議法の解釈に憲法問題が関係します。法解釈についての有権的最終的な決定権限は裁判所にあります。任命拒否問題は継続しています。いずれ憲法訴訟に発展するかもしれません。
2020/11/07 誤解を招かないために、3の部分的な修正。
子の連れ去りと親権者の決定 ― 2020年08月24日 19:05
「親による「子の連れ去り」が集団訴訟に発展 海外からは“虐待”と非難される実態とは」(https://dot.asahi.com/dot/2020082000083.html?page=1)
AERAdot. 8月22日の記事です。
子の一方的な連れ去りについての法の未整備が、憲法13条に違反し、連れ去られた子の人権も侵害しているとして、別居中の親を中心に、他方の親から引き離された子供も含まれる原告団14人が、国を相手取って集団訴訟を提起したという内容です。
欧米諸国には共同親権の制度によっている国があります。通常子の監護、養育を行う親を決めつつ、他方の親の面会交流権も保証されることが多いのです。欧米の映画やドラマを見ていると、毎週末の数日や、一月に一度1週間程度、あるいは学校の長期休暇中の一定期間、通常一緒に暮らしていない親の住居に行くという場面が出てきますね。監護・養育権を持つ親は、相手方が子との面会交流を行わせる法律上の義務を負うので、その同意なくして遠方に転居して、面会交流を困難にすることも禁じられます。仮に、監護権のある親が従来の住居から子を連れ去ったり、逆に、そのない方の親が面会交流中に子を連れて遠方に逃げたりすると、誘拐罪に問われることもあるのです。父母の共同親権の下で、通常養育する親を決め、他方との面会交流を親及び子の双方に厳密に保証していることが分かります。
これと異なり、わが国は単独親権の制度をとっています。現行民法上、夫婦の離婚の際に、財産分与や慰謝料の支払いが決められ、そして子供がいる場合、親権者が決定されます。当事者の協議に基づき、最終的には裁判所が、両親の経済状況や社会的立場、子供の置かれる環境などの諸事情を総合的に勘案して、子の幸福の観点から、子の親権者がいずれの親となるか、養育費の支払いや親権のない親との離婚後の面会交流の方法を含めて、当該の子に最も適切な方法を考案することになっています。
従って、一方の親の単独親権といっても、通常養育する親を決め、親権のない方の親も養育費を分担しつつ、適当な方法で面会交流を行うことを取り決めることもできるのです。しかし、実際上、親権者とされた親が離婚した他方配偶者に対して、子との面会交流を拒むことや、再婚などの事情により、子との面会が困難になることが多いのです。また、養育費の支払い不履行が横行しています。
上記のweb記事によると、「約90名の議員が所属する超党派の議連「共同養育支援議員連盟」が、森雅子法務相らに対し、養育費不払い解消に関する提言書を提出」したとされています。養育費の支払いと、面会交流を含む共同養育の取り決めを離婚成立の要件とする、法の改正を求めているようです。
離婚の成立要件として合意したとしても、その約束が反故にされないための仕組みが必要でしょう。提言の内容を知らないのですが、養育費の支払いと面会交流の権利・義務を組み合わせるうまい方法があると良いようには思われます。子の連れ去りとの関係で言えば、結婚が破綻した夫婦の一方が、離婚前に、他方配偶者に無断で子を連れて家を出て行く場合、離婚の際の親権者指定において、裁判所が、現在、養育している親と子の環境を重視するので、結局、連れ去った方が勝つ場合があるのです。
欧州連合(EU)欧州議会が8月8日、EU加盟国の国籍者との関係で、日本人の親が日本国内で子どもを一方的に連れ去さることを禁止する措置を講じるよう日本政府に要請する決議案を採択しました。(共同通信)(https://this.kiji.is/653694244372382817)
欧州議会というのは、EUの行政および立法を主として司る欧州理事会および欧州委員会の、諮問機関ないし立法の参与機関というほどの位置付けを有するものです。EU各国における直接選挙により選ばれるEU市民の代表たる議員が構成員です。対日決議といっても法的拘束力はなく、欧州委員会や各国政府に対して日本政府に働きかけることを要請したものです。子供に対する重大な虐待であると非難しています。
国際的な子の連れ去りについては、ハーグ条約(国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約)があります。国際結婚をした夫婦の間の子が、従来居住していた国から、無断で一方の親の国籍国に連れ去られたという場合、連れ去りから一年以内であれば、締約国は、子が元居住していた国に送還しなければならないと規定されています。
1980年に採択された条約なのですが、わが国が締約国となって上の義務を負ったのは、2014年になってからです。外務省のHPによると「1970年には年間5,000件程度だった日本人と外国人の国際結婚は,1980年代の後半から急増し,2005年には年間4万件を超えた」とされています(https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/hr_ha/page22_000843.html#section1)が、この間、外国で結婚した日本人が離婚をする際に、子供を無断で連れ出し、日本に帰国するという事例が頻発したのです。欧米諸国を始めとして、ハーグ条約締約国が増加する中、日本のみがいつまでも加入していませんでした。
外国に居住する日本人が、その国の国籍を有する配偶者と離婚すると、居住資格を失う場合もあるし、言語の問題があり、容易に良い収入を得られる仕事を見つけられない場合もあります。国際結婚であれば、経済的にも、親権争いに敗れて帰国を余儀なくされると、二度と子供に会えなくなることを懸念して、離婚裁判の前に、あるいは裁判中に隙を見つけて、相手方に無断で子供を連れて帰国してしまうのです。日本の裁判所は、日本法の下で、子が現在日本にいる生育環境を重視して、養育中の親の経済状況に問題がないならば、子の利益の観点から、養育中の親の親権を認め、子の連れ戻しを認めません。ハーグ条約の締約国であれば、1年以内であれば、理由のいかんを問わず、よほどの事が無い限り、連れ戻しが決定されなければならないので、日本の裁判所の実務が国際問題に発展しました。
子から引き剥がされた外国にいる親は、その国で、離婚裁判や親権者指定の裁定を裁判所に求めるでしょう。子の一方的な連れ去りを違法とする国であれば、尚更、置いてきぼりにされた親の親権、監護権を認めます。アメリカ人の父親が、日本人の母親が子供を連れ去った場合に、その母親と子供の住所をつきとめて、母親やその家族の前で、暴力的に子を連れ戻そうとした事件が起こりました。日本では、アメリカ人の父親が警察に拘束されたのですが、アメリカでは父親が親権・監護権を認められていたので、この母親がアメリカに行けば、誘拐罪で逮捕されていたのです。この事件を契機として、日本の態度を非難する世論がアメリカ国内で巻き起こり、アメリカ政府が日本政府にたいして、一定の措置をとることを要請する事態にまで発展しました。このような事例はアメリカに止まりません。
そこで、日本が重い腰を上げて、ハーグ条約の締結に向けて検討を開始し、上に述べたように、2014年に至って漸く、締約国となったのです。これ以降は、条約の要件に従い、日本は子を元の国に送還する義務を負うこととなりました。現在の住所が判明していると、裁判所を通じて子を保護し、元の居住国に連れ戻すことができます。EU議会の対日決議は、日本国内において、居住地を変えて、子を連れ去ることを問題視するのだと思われます。
日本に住む日本人夫婦の離婚に関する国内事件でも、先に述べたように居住地からの子の連れ去りを防止するのに有効な法が存在しないからです。共同親権か、単独親権か、いずれの法制度が適切なのか、面会交流権の確保の方法など、日本法として、その運用を含めた検討が必要なようです。
ここで、少し、視点を変えてみます。日本は、国際社会の一員です。多くの国において妥当するルールがあるとき、日本だけがこれを無視するなら、日本国内の法としては問題がないと、その時には考えられるとしても、国際的には非難を免れないということです。日本では常識であっても、国際社会では、非常識だとして批判されることが往々にしてあるようです。国際的な、「隣近所の決まり事」があるときには、それに従うという価値観があっても良いでしょう。
子の奪取をめぐる問題は、元々、子が親と居住していた国の、司法的解決がなされるべき問題です。すなわち離婚裁判や調停などの司法手続きに委ねるということが、法治国家としての重要な前提となるはずです。勝手な子の連れ去りを認め、無断で子を奪った方が、既得権により優先されるということを認めることが、多くの国で違法視されているのです。それでは、子の両手を、両親が実力を行使して引っ張りあう、文字通りの奪い合いにもなります。子の利益には全く適わないでしょう。ハーグ条約が、原則として子の親権の法的内容や具体的な監護のあり方については述べず、ただ、一方的に子を奪う行為を問題にして、子を、元居た国に返した上で、その国の司法的解決に委ねることのみを義務付けているのです。
ハーグ条約が適切にわが国で実施されるためにも、離婚の際の親権者指定をめぐるわが国国内法上の問題を、もう一度考え直す必要があります。
covid-19のPCR検査と救える命 ― 2020年05月18日 01:50
PCR検査と救える命
PCR検査を行うための、「発熱、症状、高齢、妊娠、基礎疾患や透析」という厚生労働省のガイドラインが変更され、このことについて加藤厚労相が「誤解」であったと発言したことに批判が集中しました。ガイドラインは、厳密な基準とは異なります。厚労省は、これが当初より一定の目安でしかなく、厳密な基準ではなかったとしています。確かに、基礎疾患がなく、65才以上でない人は、37.5度以上の発熱が4日以上続くときにPGR検査が妥当とする「基準」が、一般の人々にとってあたかも厳密な基準であるかのように受け止められました。その部分のみが新聞やテレビの情報番組など各種メディアによって盛んに喧伝された結果でしょう。大臣の発言からは、厚労省から、地域の実情に応じて柔軟に対応するという方針が、実施機関に対して伝えられていたとされます。
実際に、「基準」の運用が保健所により相当の幅があったようです。「現代ビジネスプレミアムの記事「中原一歩「保健所職員の告白「検査も人員も何もかも足りない」あまりに過酷な現場-「公衆衛生」を軽んじてきたツケ」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72125?page=2」この記事によると、むしろ、厚労省の基準を最低基準として、地域によっては更に厳格な基準によっていました。東京都のある保健所では、38.5°以上の発熱がなければPCR検査の可能な外来に繋ぐことがなかったそうです。
このブログを書いているのが5月17日なので、上の記事はもっと早い段階のことであり、しかも東京都の事例です。日本はPCR検査が他国の検査数に比べて余りに少ない。このことがよく報道されているし、国会でも政府が追及されています。なぜでしょう。安倍首相も、検査数の少なさを認め、目詰まりを起こしているとしていました。筆者は、公衆衛生の専門家ではありませんが、報道されているところをまとめてみます。
PCR検査により陽性の結果が出る場合の手順から考えます。まず、①保健所を中心として設けられた帰国者接触者相談センターを窓口として、PCR検査が妥当であるかを判断し、②指定された検査機関においてPCR検査が実施されます。次に、陽性という結果であると、③感染症法上の指定感染症に指定された後は、感染症治療のための指定された医療機関・施設に入院することになります。いわゆる隔離されるのです。
この手順の内、②のPCR検査について、指定されたPCR検査機関が限られていて、検査能力が足りないとされています。そして、③のコロナ陽性の患者を受け入れる医療機関・施設における病床数が、少なくとも当初、圧倒的に不足しているとされていました。保健所というのは、原則として都道府県が設置し運営している機関です。政令指定都市など、市町村がこれを行う場合もあります。そこで、①のPCR検査の適合性については、保健所等、地方自治体の機関が判断を行っているので、その地域毎の実情、すなわち上の、②検査能力と③病床数に応じて、物理的な可能性を加味した判断とならざるを得ないはずです。重症者が出た場合、救急搬送の可能な病院の手配までしなければならない。ここで、東京や大阪などの大都市および周辺地域と、地方との区別が必要でしょう。検査能力および受入病床数の逼迫という状況が、地方にはまだないとも考えられるからです。従って、東京等大都市圏の保健所では、検査数を限定するような判断基準を用いる必然があったと言えます。まさに、「無い袖は振れない」です。
更に、①の保健所についての、人的資源が不足していたことも明らかになっています。皆さんも保健所に行かれた事があるでしょう。典型的な保健所は、ワンフロアーのカウンターの中に、三つほどの机の島が並んでいます。庶務業務、保健業務、環境・食品衛生業務を行う各部署です。保健業務は医師および保健師が行い、予防接種、健康診断・相談、精神的疾患に関する業務があり、母子手帳の交付や、原爆医療など各種給付事業もあります。その他、公害防止等の環境関係や、野犬処理、犬猫の引き取り、狂犬病予防接種、飲食店等の営業許可、看護師免許交付、病院・医院等の監督業務など多様の日常的業務を行っています。これを大都市圏の保健所であれば、30~40人ほどの職員が分担しているのです。PGR検査適合性の判断は、当然、保健師が行うと考えられます。保健師は、看護師の上位免許を持つ専門職です。ところが、単純に、保健師が保健所職員の総人数の3分の1に相当するとしても、現在のPCR検査相談業務を行うのに、その人数だけでは足りません。しかも、保健師と言ってもcovid-19の専門家でもないので、ごく単純な基準に従い、機械的に決めることしかできないでしょう。あるいは、健康相談の専門でもない保健所職員も含めるしかないということになっていないでしょうか。実際にどうしているかを聞いた訳でもないのですが、PCR検査適合性の判断を健康相談の経験を持たない、ずぶの素人が行うことになります。しかも、その他の保健所の業務も、市民の生活に欠かせない重要な業務であり、休むわけにもいきませんね。一日中、電話が鳴り続けて、てんてこ舞いしている様子が目に浮かびます。
PCR検査ができないボトルネックが、①~③の全てに存在していたことになります。最近は、PGR適合性の相談窓口が拡充されたり、かかりつけ医の判断で可能とされるようになりました(①)。また、検査能力(②)については、行政検査に頼らず、民間の検査機関を十分活用しない理由が分からないという見解もありましたが、これも一部、拡充されつつあるようです。保険適用とした上で、かかりつけ医の判断で、検体を採取し、民間の検査機関に回せるというのであれば、通常のインフルエンザ等と同等であり、簡便、迅速にできたでしょうに。医師の側の感染防御対策を講じることが可能であることが前提となります。大病院では自前のPCR検査に踏み切るところもあります。山梨大学の学長の辛辣な批判が話題になっています。何故、大学等の研究機関の余剰の検査能力を活用しないかというものです。地域によれば、研究機関等の同意の下、これを可能としています。PCR検査陽性者の病床(③)については、都道府県知事の要請に従い、無症状ないし軽症者について、民間宿泊業者の協力が得られたところもあります。むしろ、その場合の医療従事者の確保が難しいようです。徐々に克服されているようですが、国民の不満の多くは、ボトルネックの解消に政府が強力なリーダーシップをとっていないように見えると言う点にあります。
感染症法の指定感染症となると、陽性者は必ず、入院・隔離が必要になるので、そのとき以降は、必要病床を確保できていることを前提としてのみ、検査するのでなければ必然的に医療崩壊を生じたでしょう。十分な病床確保が見込めない限り、PCR検査の増加は、それでも医療崩壊を生じないという賭けになります。政府の方針が、当初、PCR検査数を抑制することであったようにも考えられます。いくら何でも国民の命を犠牲にして、東京五輪を延期ないし中止させないことが理由であるとは思えません。
「救えるはずの命を救う」。
国境なき医師団における海外派遣の経験のある医師の言葉です。Covid-19が日本で蔓延した初期において、この医師が今後は救える命を救うというアプローチこそが必要となると、テレビのインタビューで答えていたことを覚えています。医療崩壊を防ぎつつ、重症に至る人を必ず捕捉して、現在の日本において可能な医療水準を提供する。政府や地方自治体の首長が、刻々と移り変わる情勢の下で、上のような賭けを強いられてきたと言えるでしょう。この点で、covid-19による死亡者数が他国に比べても圧倒的に少ないことは評価して良いと思います。
何人の犠牲の上に、何人の命を救うかという、功利主義的正義論を私は好みません。たとえたった一人の命であってもかけがえのないものに違いないからです。PCR検査を待ちながら、一気に重症化し、亡くなるという痛ましい事件がありました。遺族の気持ちを思うと、胸が塞がります。しかし、為政者が上のような崖っぷちの判断を繰り返さざるを得ないという非常時であることは忘れないようにしたい。PCR検査数の増加と隔離体制の確立が、両翼として、今後は、加速度的にこれが達成されることを望みます。これに加え、新薬の承認やワクチンの開発があれば、covid-19の蔓延が収束します。日本が、他国、特に開発途上国に対して、新薬の供与や検査体制の構築に協力することにより、世界おける蔓延の収束に貢献できれば、全世界に東京五輪の祝祭の鐘が鳴り響くでしょう。
ここで、視点を変えてみます。
行政は法の下にのみ行われます。中央政府にせよ、地方自治体にせよ、行政を行うためには必ず法の根拠が必要であり、法の根拠の無いかぎり何もできません。このことは極めて重要な原則です。法は国会が作るものです。三権分立の一翼を担う、国会と行政府ですが、国会が法を制定し、政府はそれに従うという仕組みは、直接的に選挙で選ばれた国民の代表である国会が優位にあることを意味し、特に強大な権力機関である政府の手を縛り、国民主権の原理を実現するために重要なのです。民主主義の根本原理の一です。
憲法に緊急事態条項を設けるべきであるという憲法改正論が関わります。大規模災害や、新たな感染症の蔓延という事態に対処するために、総理大臣に、広範な裁量権を与えるという立法を可能とするものです。このことについては、様々な議論があり、最後にごく簡単に触れるに留めますが、少なくとも現在はそのような法がありません。感染症に対処するためには、検疫法と感染症法が重要です。以下には、感染症法をみてみます。
Covid-19が感染症法の指定感染症に指定されました。感染症法の目的が前文に規定されています。
「人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。
医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。
・・・・(省略)感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。
ここに、このような視点に立って、・・・(略)感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。」
感染症法によると、国すなわち厚労大臣は、基本指針を決定することができるだけであり、基本指針に即して、具体的な予防計画を策定実施するのは都道府県知事です。法第9条によると、国が、例えば、「感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」や「病原体等の検査の実施体制及び検査能力の向上に関する事項」について、基本指針を策定すると、法第10条に従い、都道府県知事が、「地域の実情に即した感染症の発生の予防及びまん延の防止のための施策に関する事項」や、「地域における感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」などについて、予防計画を策定することとされています。
関係する政省令も重要であり、このあたりが、PCR検査のボトルネックに関係する可能性がありますが、筆者は詳らかではありません。無症状、軽症、重症を含めた医療体制の構築や検査態勢の拡充については、地域の実情に応じた具体策を講じる都道府県知事の役割が極めて大きいとは言えそうです。東京の小池知事や大阪の吉村知事が、連日、メディアを賑わしています。国と地方が、相互に、責任転嫁を行っている暇がありません。国の策定した基本指針の下で、地方が、具体的な施策を実行するのです。国と地方がしっかりとした協力関係を築き、一体となった行動が是非とも必要です。
全てを、要請と合意を基にして遂行して行くしかないないのです。感染症法によっても、法の強制力に基づき、大学に検査実施を義務付けることはできず、空き地を借用するのではなく、いきなり国がいずれかのホテルを収用することは困難です。憲法上の営業の自由の侵害であり、それが可能としても十分の補償が必然となります。合意ベースにして、時間がかかるのもある程度うなずけるでしょう。
これだけの非常時にそのようなことができない! 日本は民主主義の国であり、憲法の基本的人権を守る国だからに違いありません。一般市民の外出自粛や民間事業の休業要請も、法の強制力、罰則もなく遂行されました。そのような法が無いからです。もっとも、今後、一定程度これを可能とする立法が議論される余地はあるでしょう。韓国において、感染拡大の第二波を心配するべき事態が生じました。感染者のクラスターが同性愛者の集まるナイトクラブで発生しのです。文化的には封建的な伝統が色濃く残る韓国ですから、ゲイであることのカムアウトは相当に勇気のいることでしょう。性的指向がウイルス感染者の行動追跡を通じて明らかにされ、実名が公表されているという報道がありました。行動の追跡と公表を政府が行っているので、日本であれば、プライバシー権の侵害であり憲法違反であるとされるでしょう。感染症法にも感染者の人権保障がうたわれています。日本が、戦後、戦前の反省に立って、現行憲法の下、人権をよく保障する国となった証左です。追跡アプリの実装が日本でも議論されていますが、このような結果を来すことは有り得ません。
日本という国は、繰り返しますが、法の強力な強制力もなく、市民が政府の要請に従い、ウイルスの蔓延を抑制してきました。ひとまずは相当程度に成功したようです。世界にもまれな国民性です。公共性として美徳でもありますが、悪く言えば附和雷同、他の人達の様子をみながら、それに合わせることを極端に好む文化の賜です。仮に、声の大きな勢力に扇動される世論の流れが生じたときに、これを押しとどめる個性の尊重が危ぶまれます。日本という国でこそ、徹底した議論と対話の結果としての選択であることを常に確実なものとして行く努力を積み重ねる必要があります。ナチスドイツは、ワイマール憲法下、成立しました。戦前の日本が歩んだ軍国主義は願い下げです。政府に大幅な裁量権を与えることの危険性を十分理解しながら、しかし、どのような形で、新たな感染症に立ち向かって行くのか、阪神淡路大震災や東日本大震災と福島原発事故などの大災害を克服するのか、徹底的な議論が必要です。緊急事態条項をめぐる憲法改正も、この議論の結果としての国民の選択としてのみ有り得ます。
大学はハラスメントの巣窟 ― 2020年04月19日 19:53
さて、
日本中の大学で、様々なハラスメント事件が裁判になっています。全国国公私立大学事件情報 http://university.main.jp/blog/ 参照。このページについては、明治学院事件の原告である寄川条路教授からの情報提供に基づいています。明治学院事件については、https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken 参照。多数の著作も公にされています。
今日は、大学の自治とハラスメンの問題を取り上げます。ついでに、国立大学で生じている改革という名のリストラについてもお話ししておきます。
1、学校教育法の改正と大学ガバナンスの改革
2015年学校教育法の改正により、国立大学においても大学ガバナンス改革の名目により、法文上は学長権限が強化されました。もっとも、大学にもよるでしょうが、現在の実務も、学長単独で決定し、上意下達によって大学が運営されるというには程遠いものです。相変わらず、大学本部が大まかな指針を各部局に伝え、その下での各部局ごとの具体的な決定を、本部が尊重するという方法によっており、各部局の決定こそが重要です。しかし、大きく変わったとも思われるのは、教授会権限が縮小したと感じられることです。
学校教育法が改正されたことは旧聞に属しますがが、少々説明をしておきます。学校教育法(法律第二十六号)は昭和22年に成立した古い法律です。2015年改正に際して、文科省の担当課長(里見大学振興課長)が平成26年9月2日に行った「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関する実務説明会」というのがあります。文科省のHPに掲載されていたその記録によると、教授会が、教育研究に関する審議機関であり、大学の経営に関わるものではないこと、また審議機関であり決定機関ではないこと、あくまでも学長が決定機関であることを強調する法改正でした。もともと教授会権限について、教育公務員特例法という法律に規定されており、これに基づき、各国立大学において、重要事項を教授会が決定する運用がなされていたのです。しかし、国立大学が独立行政法人となった結果、大学の教職員が公務員ではなくなったので(もっとも身分保障のある準公務員として扱うという説明がなされています)、教育公務員特例法の適用がなくなりました。教育公務員特例法が適用されないのに、多くの大学における教授会運用の実務は、慣例的に従前のままとされていたので、この学校教育法の改正により、教授会権限が限定されることを、明確化したのです。特に教員の人事に関する決定権が学長に帰属することを明確にしました。
教育研究に関する事項について、学長が重要事項を決定する場合に、教授会には審議を行う義務があり、その意見を学長に伝えることになります。通常は、これを学長が尊重するのですが、あくまでも決定権は学長にあるというのが法律の建前になっています。そもそも経営に関する事項については、教授会の審議事項ではなく、教育研究に関する問題も法律に規定された重要事項以外は、学長が特に教授会の意見を徴するというときに、教授会が審議することができるのみです。全体として、教授会は単なる諮問機関であるということになります。特に、教員の採用、昇任等の人事に関することも学長に決定権があることになったので、法人化に伴い、国立大学におけるリストラも可能となるという触れ込みでした。しかし、先に述べたように、法人化しても、準公務員としての位置づけから身分保障が残されたので、いわゆる生首を切るようなリストラはできません。後に述べるように、各国立大学、横並びで、定年不補充の方法による、事務職員及び教員定員の削減が現在進行しています。教員の新規採用及び昇任については、学長と言っても、専門分野が異なるので、よほどのことが無い限り、各学部の専門性による人事の決定を尊重するということにならざるを得ません。
2、大学の自治は学部の自治―大学はハラスメントの巣窟
大学の運営は蛸足型の意思決定メカニズムに従って行われます。従来、教授会の決定を積み上げて、漸く大学全体の意思決定に至る下位上達式であったのです。かつて教授会の決定には、大学本部が口出しすることがあまりなく、一個の大学といっても、いわば学部という中小企業の集合体に過ぎないとも思われた時代が続きました。多少言い過ぎのきらいがあるかもしれませんが、大学という機関が各学部の親睦組織と言っても過言では無いときがありました。従って、学部の最高の意思決定機関である教授会の決定こそ至高の存在であり、大学の自治は結局、学部の自治すなわち教授会の自治でした。
このことにはメリットとデメリットの双面があります。教授会の構成メンバーは、大学や学部により相違がありますが、その学部に所属する教授、准教授、講師等の大学教員です。理系か文系かといった学問分野の性質や、やはり大学毎、学部毎に違いがありますが、国立大学文系学部では、教授と言っても平(平社員の平)の教授には大した権限もなく、准教授以下と全く変わりがありません。給料もそこまでの違いがないので、ほぼ名誉職と言って良いのです。もっとも、学部長などの管理職になるための前提ではあるので、上昇志向のある場合には、教授に昇任するすることが極めて重要となります。私の所属する大学においては、准教授、講師など、まさに一兵卒であっても、教授会において自由に発言を許され、一人一票の重みも変わらない。その意味で教授会自治は、民主的な意思決定システムでありました。これがメリットです。
多面、特に文系学部では、教授、准教授が各々の個人研究室を構えて、単独で教育研究を行う。各人が言わば一国一城の主人として、教授会の都度、長時間にわたり喧々諤々の議論を重ねるという場合、往々にして「会議は踊る」のであり、容易に結論に至りません。下手をすると、新しいことは何も決められないということにも成りかねません。このことが、大学の変革に対する障害となっていたことは否めません。
私の奉職する大学においては、これが先の教育基本法の改正により、様変わりしたのです。教授会の変貌について述べる前に、数年前に吹き荒れた大学改革の嵐に触れておきましょう。学部ミッションの「再定義」が文科省により厳しく求められ、否応無しに大学改革・改組を迫られたのです。朝日新聞のキャンペーンから始まったとされるのですが、少子高齢化を受けて、大学進学希望者に比して大学の学生定員が多すぎる事態に至るという、大学の危機に対応することがその目的です。財務省が大学を国家財政の金食い虫扱いして、その統廃合を強く要求したのに対して、文科省がこれに抵抗するために大学改革を求めたとされていました。文科省からすれば大学を守ることが省益に適うのです。これは結局、大学の学生定員を守るということに尽きます。学生定員がすなわち、大学が抱えることのできる教員定員を決定し、その雇用を守るということに通じ、また交付金の重要な算定根拠だからです。しかし、財務省の予算削減圧力は強く、本格的な人口減少社会であってみれば、大都会の都心部にある大学が未だに拡張を続ける中、ことに地方大学は斜陽産業たらざるを得ません。ミッションの再定義などという、上からの強引な、訳の分からない改組圧力は、やはりこの後の大学統廃合による定員削減の前提であり、その激変を若干緩和するものに他ならないのでしょう。
実際、全国の地方国立大学で、教員人事のポイント制の下、教員の削減が始まっています。以前に、新聞報道等ありましたので、ご存知の方もおられるでしょう。(「国立33大学で定年退職者の補充を凍結 新潟大は人事凍結でゼミ解散」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000003-wordleaf-soci
2016/10/8(土) 11:05配信参照。)教員の職位毎の人数に従い各学部毎に割り当てられている総ポイント数を、毎年、数%づつ削減しているのです。更に、定年不補充と呼ばれる方法があります。定年退職者が出ると、その教員の分のポイントを、学部の総ポイント数から差し引き、ポイントが充当されません。その学部は、総ポイントを超える人事を行えないので、新規採用を見送らざるを得なくなります。その教員の担当する科目を教えられる教員が居ないとしても、新規採用ができないのです。結果的に、その学部で開講する科目数が減って行くことになります。各大学の特に文系学部の人員が十分減ることを待っているのです。その後に、大学間の統廃合を予定しているとしか考えられません。
大学改革の名の下、全国の国立大学がこぞって学部再編による新学部を創設しました。私の所属する大学もご多分に漏れず、文理融合型の新学部を作りました。その新学部では、そもそも教授会が開催されることが余りないそうです。大学本部に直結した新たな学部の運営主体が重要事項を決定し、所属教員はそれに従うしかありません。既存学部でも、教授会は存続しているが、従来とは様変わりしています。学長権限の強化は、むしろ学部執行部の権限強化に通じたようです。従前であれば、教授会決定事項として、事前の情報開示と議論がなされていたような問題について、学部長及び周辺の有力者間で決めてしまい、教授会では事後的な報告に留めることが極めて多くなりました。教授会は単なる諮問機関として、重要事項の決定に対して蚊帳の外となります。大学全体としての意思決定は、学長の下、理事、副学長らによる役員会等(大学により名称が若干異なる)が行うのですが、理事・副学長、評議員などの大学執行部にしても各学部から公平に選出されます。各学部選出の大学役員及び学部長等の執行部は、当該学部の複数の有力教授間での話し合いで、ほぼ順送りで決まります。従って、大学執行部は各学部執行部と密接に連携しており、大学執行部の根回しとして、各学部の有力教授らを含めた話し合いで決まったことがすなわち全学の決定となり、教授会はただそれを淡々と承認する仕組みができたのです。
もっとも、教授会自治においては、学部長が教授会の顔色を伺うという側面があったものの、それは教授会が教員らの派閥抗争の場として修羅場化する場合であって、学部長がよく教員らを掌握する派閥均衡と派閥の長たる有力教授のボス支配とが組み合わされることも多く、この場合にも、有力教授間の決定を平穏理に教授会決定とすることは可能であったのです。現行の実務が、基本的にこの仕組みを継続させたまま、学長直下型の端的に分かり易いシステムになっただけであるとも言えます。
要約すると、従来型の教授会の自治は民主的な大学の意思決定に通じたのですが、弊害もありました。既得権を守ることに汲々とする学部教授会には、大きな変革は望み得ないのです。教授会権限の大幅な縮小に伴い、形式的には学長の権限行使であっても、形を変えた学部自治が温存されています。
そして、学部の自治は、各学部における悪弊を覆い隠すものでもあったということです。学部における重大な問題点が、他学部からも気付くほどであっても、学部自治の壁に阻まれて、全学の立場からの矯正が望み得ないのです。教授会の自治にしても、教員個々の学問の自由を確保する役割を持つ側面を有したのですが、反対に、学部がパワーハラスメント、アカデミックハラスメントの温床となるとき、対象となる教員の人権を横暴にも侵害するものともなりました。この点は、学長権限を強化した大学におけるガバナンス改革の結果、前者の利点を減殺してしまい、教授会自治が、有力教授のグループによる強権発動にすり替えられ、後者のような欠点はそのまま据え置かれたのです。大学は学問の府とされますが、構造的にパワハラ、アカハラの巣窟なのです。
3、ハラスメントの巣窟を守る法的裏付け??
このことの法的な“裏付け“?ともなるのが、憲法に保障された学問の自由(憲法23条)なのです。戦前の滝川事件や天皇機関説事件をみれば判るように、その歴史的経緯に照らしても、極めて重要な規定です。これを不当視するものでは決してありません。しかし、学問の自由の制度的保障として大学の自治があるのです。
著名なポポロ事件(最高裁昭和38年5月22日判決)という事件があります。これによれば、大学の自治の内容として、教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治が認められます。大学の教授等の人事について、司法審査の対象とはなされるものの、大学における裁量の範囲が広範です。ある下級審判決によると、私立大学の事件でしたが、対象者が理系教員である場合に、ノーベル賞を取ったというのでも無い限り、教授昇任をさせないことが大学側の裁量範囲を超えることはないとまで言っているのです。
施設管理について言えば、重大な犯罪行為が現在、行われているというときに現行犯逮捕するために、警察が大学構内に入構することは認められるものの、その前段階において、調査ないし捜査することは、大学側の要請ないし同意なしには原則として許されません。そうすると、例えば殺傷事件など人の生命に関わる犯罪であれば別論ですが、犯罪の性質によれば、現に犯罪が遂行されているという情報が警察に伝えられたとしても、その情報が余程確実なものでない限り、大学側に通知して同意を促している間に、犯行を終えて、犯人が証拠を隠滅するなら、警察としては誤認捜査をしたという誹りを免れないことにもなります。大学の自治が、犯罪捜査の抑制的効果を有してしまいます。
また、最近漸く、殊に学生に対するものとしては、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントに関する大学一般の意識が高まり、教員同士の相互監視による抑止や、大学としてのハラスメント調査の手段が整えられつつあります。しかし、これが職員同士の問題としては、やがては卒業していなくなる学生と異なり、たとえ調査の申し立てをしたとしても、通常、お座なり、あるいは有力教授が加害者とされる事件では、お手盛りの調査となるのです。有力者間の仲良しグループの一角であったとすれば、尚更、上に述べた学部自治の壁に阻まれてしまいます。仮に、調査の不当を裁判で訴えたとしても、やはり大学の自治とも関係して、調査に関する大学の裁量範囲が広範であり、ある裁判によると、調査が社会通念上、極めて不公平であるなど特段の事情を、訴える側が立証しなければならないとされるのです。そのような証拠を原告が提出できなければ負けてしまう、極めてハードルが高い基準と言わざるを得ません。仮に、大学がスキャンダル隠しに走ったとすると、被害者は全く救われません。
現行の大学の自治に関する判例法は、大学教員の性善説に基づくようです。実は、大学教員とは、一般の社会とは切り離されたところで、人により、人格的にも幼稚な人間なのです。学問の自由を保障するための大学の自治が、極めて重要な原則であることは認めつつ、そこで学ぶ学生、働く教職員らが陰湿なハラスメントから守られるために、単に、大学の良識に期待するだけでは足りません。そのためには、事件類型に基づいた詳細な審査基準の呈示と、審査自体の精密化が求められるように思われます。ハラスメント被害者保護のために積極的に介入することも必要でしょう。
強制労働と国際法 ― 2020年01月20日 04:13
日韓請求権協定が、日本及び韓国の互いにいかなる主張もなし得ないとする意義について、日本と韓国の解釈が異なります。日本及び韓国の最高裁判所の解釈と、国際法と国内法の関係について、幻冬舎ルネッサンス・アカデミーの連載に掲載しています。先日、最終稿(第4回)を発行元に送ったので、その内掲載されるでしょう。今日のブログの内容は、その補足です。
1、強制労働の禁止と国際法
1930年の強制労働条約(ILO第29号条約)には、日本も1932年に加入している。その2条において強制労働が定義されている。すなわち、処罰の脅威の下に強要せられ、かつ、自ら任意に申し出でたものではない一切の労務である。同条2項に強制労働に該当しない例外が規定されている。「純然たる軍事的性質の作業に対し強制兵役法に依り強要される労務」、「完全な自治国の国民の通常の公民義務を構成する労務」、および「戦争等の場合、及び一般に住民の全部又は一部の生存又は幸福を危険にする一切の事情において強要される労務」が強制労働に当たらないとされている。
強制労働条約に関する2014年の議定書が成立し、発効している。1930年条約が植民地における労働形態を念頭に置くものであったので、人身取引などの現代的問題に対処するため、同条約を補足する議定書である。(https://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-conventions/WCMS_239150/lang--ja/index.htm)この議定書において、強制労働被害者に対する民事的な救済を与えるべきことが規定されているが、日本は未加入である。強制労働被害者が「適当かつ効果的な救済(補償等)を利用することができることを確保する」と規定されている。
もっとも、1930年条約の時点で、強制労働が違法であるとされるので、韓国元徴用工の事件では、日本及び企業がこの条約の違反行為を行ったとする余地がある。例外条項を解釈するために、日本の植民地支配が合法であるか否かが一個の要素される可能性もある。仮に、日本及び徴用工裁判の被告とされた日本企業が、強制労働を行わせたとすると、強制労働条約に違反し、日本が国家責任を負うということになる。
ある国が国際法違反を行った場合の、国家責任の内容については、2001年の国連総会決議により採択された国際法委員会の報告に基づく国家責任条文が重要である。
ここでは、民事的な効果について見ておく。国際法違反の行為を行った国は、損害の完全な賠償義務を負うとされ、この損害には、いかなる損害も含まれる(31条)。損害の賠償の方法としては、原状回復を原則としつつ、金銭賠償及び陳謝があると規定されている(34条ないし38条)。もっとも、これは被害国が加害国に対して、国家責任としての義務履行を請求し得る、基本的に国家間の問題である。被害国による請求の放棄も認められる(45条)。
国家責任条文は、一般国際法であり、特別国際法が存在する場合には、特別法の適用される範囲において適用されない(55条)。従って、争われる問題に関する特別国際法が存在するときには、適用範囲に関する限界を画する問題を生じ得る。国際経済関係を一般的に規律するWTOがこの意味で特別国際法であるので、以前のブログに述べたように、WTOとの関係において、WTO違反に対する対抗措置に係る問題は専らWTOにより規律されるとも考えられるが、微妙な問題が残される。
強制労働については、前述の強制労働条約が存在するので、損害の賠償の問題については、同条約および前述の議定書が規律する。また、日韓請求権協定のような二国間条約が存在する場合には、一般国際法の強行規範に反しない限り、優先すると解されよう。その意味で、日韓請求権協定と強制労働条約の関係には一応触れるべきかもしれない。
2、慣習国際法の成立と不遡及の原則
17世紀の法学者グロティウスが国際法の父とされ、1648年のウェストファリア条約が、30年戦争を終結させた世界で最初の近代的条約である。近代的国際法がこの時期に成立したとすると、現代に至るまで、その内実は益々、具体化、精緻化され、明文規定を含む多くの国際文書が生み出されてきた。このことをどのように理解するか、大きく分けて、次の二つの考え方があり得る。一つがこれである。国際法が自然法であるとすると、未だ見出されていない規範を含めて既に存在するはずである。これが人類の歴史の発展と共に次第に明らかにされて来たと考える。喩えて言えば、天界に漂う法の雲海は、地上からは有るのは分かるのであるが良くは見えない。その規範の一個一個を、地上にある判定者が、見出だし、人々に分かるように取り出して見せる。このとき初めて、誰にも確かに見えるようになるのであるが、その「条文」はその以前に既に存在はしていたのである。今一つが、次である。国際法も実定法である。漸次的法発展があるのであり、常に変転する。17世紀に近代的国際法が誕生して以来、継続的に新たな法が生み出され、現在の複雑で多層的な国際法規範の体系にまで至ったのである。新たな法規範は、その以前には存在せず、既存の法体系に付け加えられる。
自然法と言うと、現在の法学説では余り流行らない。しかし、慣習国際法とされるものが、その双方の性質を一定程度帯びるようである。一般に慣習法の成立を言うとき、法の主体たる者の行為を観察して、一定の長期間に渡り、行動傾向が一様にあり、大半の者が法として遵守している(国際法の場合、これを法的確信と呼ぶ。)場合を指す。慣習国際法の場合、その主体は第一義的には国家である。その援用を行う者が、その成立について実定的な証拠を示す必要がある。一定期間継続的で、斉一的な個々の国の国家実行としての行動や、一つの国際機関の宣明などである。多数の国の加盟する多国間条約や、これらを研究する多くの国際法学者の議論を経た文書が国際機関の承認を得たものが、最も分かり易い。条約は、署名と承認により、加盟国間のまさに明文の法となるのであるが、これをしていない場合にも、その内容が多くの国によって慣習国際法として認められる場合がある。
現在の国際社会において、特定の法規範の内容が、慣習国際法であると多くの国によって認められていると仮定する。ある行為者の行為がこの規範に違反すると主張する者は、その行為の当時に既にその慣習法規範が成立していたと言うであろう。これを否定する者は、その当時、未だ、多くの国が法としては認めていなかったと主張する。慣習国際法の成立時期を認定する作業はときに困難を極めるであろう。特に、その行為者の行為を刑事的な意味で犯罪に該当するとか、国際法違反の責任として賠償の効果が認められるとする場合、前者については、国際的な意味においても罪刑法定主義は当てはまると考える余地があるし、後者についても、法の一般原則として、法の適用についての不遡及原則が妥当すると考えられる。要するに、行為当時に違法ではない行為によって、行為者は裁かれるべきではないという原則である。
3、強制労働の禁止と日韓請求権協定
以上を、元徴用工の裁判に当てはめてみよう。
第二次世界大戦当時、明文の条約として、1930年の強制労働条約が成立していた。批准していたので、わが国内においてもまさに法としての効力を有する。元徴用工の労働態様が強制労働に該当するかは、国際法上はまずこの条約を適用しなければならない。次に、それが強制労働に当たるという場合に、被害者に補償が与えられるべきであるかも同条約、及びその他の国際法の観点から決定される。強制労働の禁止は1930年条約のときに既に、国際的な強行法規範であると思われる。しかし、被害救済の方法として、民事的賠償の機会や金銭的補償の提供が現在の国際法上の要請であるとしても、これが強制労働の文脈において明文規定とされたのが2014年議定書であった。わが国は議定書に加入していないので、この意味でわが国の法ではない。その内容の慣習国際法が成立しているとしても、成立時点が、第二次世界大戦のときまで遡れるかは多分に疑問である。
次に、2014年議定書にあるように、強制労働の被害に対して金銭的補償の提供が国家に義務付けらるとしても、日韓請求権協定の締結の経緯からは、第一次的に責任を負うべきは韓国であると解する。韓国大法院判決多数意見が言うように、元徴用工の補償について、韓国において、社会保障的な、国による一定の給付が存在する。新日鉄事件は、韓国の元徴用工の被った損害の完全賠償のために、韓国法に基づく給付額が不十分であるとして、徴用工を用いた企業にその不足分の賠償を求めているのである。強制労働条約の議定書が、被害者に補償を与えることを国に義務付けるとしても、必ず、民事訴訟の形で加害者に対して賠償を求め得るとする義務まであるかは不明である。日本は日韓請求権協定に基づき、多額の経済援助を行った。しかも、元徴用工に対して韓国法に基づく補償はあるのである。それ以上に、元徴用工が個人として金銭的賠償を請求し得るとする国際法上の義務が、いずれかの国家にあるかは疑問である。
上の記述だけ見ると、誤解を生じるかもしれません。幻冬舎ルネッサンスのサイトを是非見てください。
2月11日注記
上記において、国際的な強行法規範という語を用いています。特に、国際人権法上の要請として、重大な人権侵害など国家間の合意によってもこれを免責することが許されないような国際法規範をそう呼びます。国際的強行法の範囲や効果について、国際法上いまだ決着のついていない問題の一つです。ここでは、単に、抽象的に強制労働の違反をいう場合、そのように解されるという趣旨です。