covid-19のPCR検査と救える命2020年05月18日 01:50

 先日、やむを得ない事情があって大阪に行ったので、大学に届け、現在、二週間の自宅待機中です。しかし、大学の授業は遠隔授業で行っているので、時間割通りに継続しますから、生活は以前と変わりません。元々、全学的に出勤停止である上に、特定感染地域に旅行した結果、就業禁止二週間ということで、制裁ではないのですが、何か悪いことをしたような(>_<)。会議もインターネット経由の遠隔会議ですし、欠席する理由がありません。結局、在宅の業務は全く変わりなく遂行せざるを得ません。


 PCR検査と救える命

 PCR検査を行うための、「発熱、症状、高齢、妊娠、基礎疾患や透析」という厚生労働省のガイドラインが変更され、このことについて加藤厚労相が「誤解」であったと発言したことに批判が集中しました。ガイドラインは、厳密な基準とは異なります。厚労省は、これが当初より一定の目安でしかなく、厳密な基準ではなかったとしています。確かに、基礎疾患がなく、65才以上でない人は、37.5度以上の発熱が4日以上続くときにPGR検査が妥当とする「基準」が、一般の人々にとってあたかも厳密な基準であるかのように受け止められました。その部分のみが新聞やテレビの情報番組など各種メディアによって盛んに喧伝された結果でしょう。大臣の発言からは、厚労省から、地域の実情に応じて柔軟に対応するという方針が、実施機関に対して伝えられていたとされます。

 実際に、「基準」の運用が保健所により相当の幅があったようです。「現代ビジネスプレミアムの記事「中原一歩「保健所職員の告白「検査も人員も何もかも足りない」あまりに過酷な現場-「公衆衛生」を軽んじてきたツケ」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72125?page=2」この記事によると、むしろ、厚労省の基準を最低基準として、地域によっては更に厳格な基準によっていました。東京都のある保健所では、38.5°以上の発熱がなければPCR検査の可能な外来に繋ぐことがなかったそうです。

 このブログを書いているのが5月17日なので、上の記事はもっと早い段階のことであり、しかも東京都の事例です。日本はPCR検査が他国の検査数に比べて余りに少ない。このことがよく報道されているし、国会でも政府が追及されています。なぜでしょう。安倍首相も、検査数の少なさを認め、目詰まりを起こしているとしていました。筆者は、公衆衛生の専門家ではありませんが、報道されているところをまとめてみます。

 PCR検査により陽性の結果が出る場合の手順から考えます。まず、①保健所を中心として設けられた帰国者接触者相談センターを窓口として、PCR検査が妥当であるかを判断し、②指定された検査機関においてPCR検査が実施されます。次に、陽性という結果であると、③感染症法上の指定感染症に指定された後は、感染症治療のための指定された医療機関・施設に入院することになります。いわゆる隔離されるのです。

 この手順の内、②のPCR検査について、指定されたPCR検査機関が限られていて、検査能力が足りないとされています。そして、③のコロナ陽性の患者を受け入れる医療機関・施設における病床数が、少なくとも当初、圧倒的に不足しているとされていました。保健所というのは、原則として都道府県が設置し運営している機関です。政令指定都市など、市町村がこれを行う場合もあります。そこで、①のPCR検査の適合性については、保健所等、地方自治体の機関が判断を行っているので、その地域毎の実情、すなわち上の、②検査能力と③病床数に応じて、物理的な可能性を加味した判断とならざるを得ないはずです。重症者が出た場合、救急搬送の可能な病院の手配までしなければならない。ここで、東京や大阪などの大都市および周辺地域と、地方との区別が必要でしょう。検査能力および受入病床数の逼迫という状況が、地方にはまだないとも考えられるからです。従って、東京等大都市圏の保健所では、検査数を限定するような判断基準を用いる必然があったと言えます。まさに、「無い袖は振れない」です。

 更に、①の保健所についての、人的資源が不足していたことも明らかになっています。皆さんも保健所に行かれた事があるでしょう。典型的な保健所は、ワンフロアーのカウンターの中に、三つほどの机の島が並んでいます。庶務業務、保健業務、環境・食品衛生業務を行う各部署です。保健業務は医師および保健師が行い、予防接種、健康診断・相談、精神的疾患に関する業務があり、母子手帳の交付や、原爆医療など各種給付事業もあります。その他、公害防止等の環境関係や、野犬処理、犬猫の引き取り、狂犬病予防接種、飲食店等の営業許可、看護師免許交付、病院・医院等の監督業務など多様の日常的業務を行っています。これを大都市圏の保健所であれば、30~40人ほどの職員が分担しているのです。PGR検査適合性の判断は、当然、保健師が行うと考えられます。保健師は、看護師の上位免許を持つ専門職です。ところが、単純に、保健師が保健所職員の総人数の3分の1に相当するとしても、現在のPCR検査相談業務を行うのに、その人数だけでは足りません。しかも、保健師と言ってもcovid-19の専門家でもないので、ごく単純な基準に従い、機械的に決めることしかできないでしょう。あるいは、健康相談の専門でもない保健所職員も含めるしかないということになっていないでしょうか。実際にどうしているかを聞いた訳でもないのですが、PCR検査適合性の判断を健康相談の経験を持たない、ずぶの素人が行うことになります。しかも、その他の保健所の業務も、市民の生活に欠かせない重要な業務であり、休むわけにもいきませんね。一日中、電話が鳴り続けて、てんてこ舞いしている様子が目に浮かびます。

 PCR検査ができないボトルネックが、①~③の全てに存在していたことになります。最近は、PGR適合性の相談窓口が拡充されたり、かかりつけ医の判断で可能とされるようになりました(①)。また、検査能力(②)については、行政検査に頼らず、民間の検査機関を十分活用しない理由が分からないという見解もありましたが、これも一部、拡充されつつあるようです。保険適用とした上で、かかりつけ医の判断で、検体を採取し、民間の検査機関に回せるというのであれば、通常のインフルエンザ等と同等であり、簡便、迅速にできたでしょうに。医師の側の感染防御対策を講じることが可能であることが前提となります。大病院では自前のPCR検査に踏み切るところもあります。山梨大学の学長の辛辣な批判が話題になっています。何故、大学等の研究機関の余剰の検査能力を活用しないかというものです。地域によれば、研究機関等の同意の下、これを可能としています。PCR検査陽性者の病床(③)については、都道府県知事の要請に従い、無症状ないし軽症者について、民間宿泊業者の協力が得られたところもあります。むしろ、その場合の医療従事者の確保が難しいようです。徐々に克服されているようですが、国民の不満の多くは、ボトルネックの解消に政府が強力なリーダーシップをとっていないように見えると言う点にあります。

 感染症法の指定感染症となると、陽性者は必ず、入院・隔離が必要になるので、そのとき以降は、必要病床を確保できていることを前提としてのみ、検査するのでなければ必然的に医療崩壊を生じたでしょう。十分な病床確保が見込めない限り、PCR検査の増加は、それでも医療崩壊を生じないという賭けになります。政府の方針が、当初、PCR検査数を抑制することであったようにも考えられます。いくら何でも国民の命を犠牲にして、東京五輪を延期ないし中止させないことが理由であるとは思えません。

 「救えるはずの命を救う」。

 国境なき医師団における海外派遣の経験のある医師の言葉です。Covid-19が日本で蔓延した初期において、この医師が今後は救える命を救うというアプローチこそが必要となると、テレビのインタビューで答えていたことを覚えています。医療崩壊を防ぎつつ、重症に至る人を必ず捕捉して、現在の日本において可能な医療水準を提供する。政府や地方自治体の首長が、刻々と移り変わる情勢の下で、上のような賭けを強いられてきたと言えるでしょう。この点で、covid-19による死亡者数が他国に比べても圧倒的に少ないことは評価して良いと思います。

 何人の犠牲の上に、何人の命を救うかという、功利主義的正義論を私は好みません。たとえたった一人の命であってもかけがえのないものに違いないからです。PCR検査を待ちながら、一気に重症化し、亡くなるという痛ましい事件がありました。遺族の気持ちを思うと、胸が塞がります。しかし、為政者が上のような崖っぷちの判断を繰り返さざるを得ないという非常時であることは忘れないようにしたい。PCR検査数の増加と隔離体制の確立が、両翼として、今後は、加速度的にこれが達成されることを望みます。これに加え、新薬の承認やワクチンの開発があれば、covid-19の蔓延が収束します。日本が、他国、特に開発途上国に対して、新薬の供与や検査体制の構築に協力することにより、世界おける蔓延の収束に貢献できれば、全世界に東京五輪の祝祭の鐘が鳴り響くでしょう。

 ここで、視点を変えてみます。

 行政は法の下にのみ行われます。中央政府にせよ、地方自治体にせよ、行政を行うためには必ず法の根拠が必要であり、法の根拠の無いかぎり何もできません。このことは極めて重要な原則です。法は国会が作るものです。三権分立の一翼を担う、国会と行政府ですが、国会が法を制定し、政府はそれに従うという仕組みは、直接的に選挙で選ばれた国民の代表である国会が優位にあることを意味し、特に強大な権力機関である政府の手を縛り、国民主権の原理を実現するために重要なのです。民主主義の根本原理の一です。

 憲法に緊急事態条項を設けるべきであるという憲法改正論が関わります。大規模災害や、新たな感染症の蔓延という事態に対処するために、総理大臣に、広範な裁量権を与えるという立法を可能とするものです。このことについては、様々な議論があり、最後にごく簡単に触れるに留めますが、少なくとも現在はそのような法がありません。感染症に対処するためには、検疫法と感染症法が重要です。以下には、感染症法をみてみます。

 Covid-19が感染症法の指定感染症に指定されました。感染症法の目的が前文に規定されています。
「人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。
医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。
・・・・(省略)感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。
ここに、このような視点に立って、・・・(略)感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。」

 感染症法によると、国すなわち厚労大臣は、基本指針を決定することができるだけであり、基本指針に即して、具体的な予防計画を策定実施するのは都道府県知事です。法第9条によると、国が、例えば、「感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」や「病原体等の検査の実施体制及び検査能力の向上に関する事項」について、基本指針を策定すると、法第10条に従い、都道府県知事が、「地域の実情に即した感染症の発生の予防及びまん延の防止のための施策に関する事項」や、「地域における感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」などについて、予防計画を策定することとされています。

 関係する政省令も重要であり、このあたりが、PCR検査のボトルネックに関係する可能性がありますが、筆者は詳らかではありません。無症状、軽症、重症を含めた医療体制の構築や検査態勢の拡充については、地域の実情に応じた具体策を講じる都道府県知事の役割が極めて大きいとは言えそうです。東京の小池知事や大阪の吉村知事が、連日、メディアを賑わしています。国と地方が、相互に、責任転嫁を行っている暇がありません。国の策定した基本指針の下で、地方が、具体的な施策を実行するのです。国と地方がしっかりとした協力関係を築き、一体となった行動が是非とも必要です。

 全てを、要請と合意を基にして遂行して行くしかないないのです。感染症法によっても、法の強制力に基づき、大学に検査実施を義務付けることはできず、空き地を借用するのではなく、いきなり国がいずれかのホテルを収用することは困難です。憲法上の営業の自由の侵害であり、それが可能としても十分の補償が必然となります。合意ベースにして、時間がかかるのもある程度うなずけるでしょう。

 これだけの非常時にそのようなことができない! 日本は民主主義の国であり、憲法の基本的人権を守る国だからに違いありません。一般市民の外出自粛や民間事業の休業要請も、法の強制力、罰則もなく遂行されました。そのような法が無いからです。もっとも、今後、一定程度これを可能とする立法が議論される余地はあるでしょう。韓国において、感染拡大の第二波を心配するべき事態が生じました。感染者のクラスターが同性愛者の集まるナイトクラブで発生しのです。文化的には封建的な伝統が色濃く残る韓国ですから、ゲイであることのカムアウトは相当に勇気のいることでしょう。性的指向がウイルス感染者の行動追跡を通じて明らかにされ、実名が公表されているという報道がありました。行動の追跡と公表を政府が行っているので、日本であれば、プライバシー権の侵害であり憲法違反であるとされるでしょう。感染症法にも感染者の人権保障がうたわれています。日本が、戦後、戦前の反省に立って、現行憲法の下、人権をよく保障する国となった証左です。追跡アプリの実装が日本でも議論されていますが、このような結果を来すことは有り得ません。

 日本という国は、繰り返しますが、法の強力な強制力もなく、市民が政府の要請に従い、ウイルスの蔓延を抑制してきました。ひとまずは相当程度に成功したようです。世界にもまれな国民性です。公共性として美徳でもありますが、悪く言えば附和雷同、他の人達の様子をみながら、それに合わせることを極端に好む文化の賜です。仮に、声の大きな勢力に扇動される世論の流れが生じたときに、これを押しとどめる個性の尊重が危ぶまれます。日本という国でこそ、徹底した議論と対話の結果としての選択であることを常に確実なものとして行く努力を積み重ねる必要があります。ナチスドイツは、ワイマール憲法下、成立しました。戦前の日本が歩んだ軍国主義は願い下げです。政府に大幅な裁量権を与えることの危険性を十分理解しながら、しかし、どのような形で、新たな感染症に立ち向かって行くのか、阪神淡路大震災や東日本大震災と福島原発事故などの大災害を克服するのか、徹底的な議論が必要です。緊急事態条項をめぐる憲法改正も、この議論の結果としての国民の選択としてのみ有り得ます。

大学はハラスメントの巣窟2020年04月19日 19:53

コロナウイルスのために、日本中、大変な状況となっていますね。私の所属する学会も、今年の研究大会が軒並み中止か延期になってしまいました。実は、父が施設に入所しているのですが、コロナウイルスに対する予防策として、家族の面会も制限されています。日本全国の認知症のお年寄りが、事情をよく飲み込めないまま、長い間、家族にも逢えず、悲しんでいるかと思うと、慨嘆に堪えません。

さて、

日本中の大学で、様々なハラスメント事件が裁判になっています。全国国公私立大学事件情報 http://university.main.jp/blog/ 参照。このページについては、明治学院事件の原告である寄川条路教授からの情報提供に基づいています。明治学院事件については、https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken 参照。多数の著作も公にされています。
今日は、大学の自治とハラスメンの問題を取り上げます。ついでに、国立大学で生じている改革という名のリストラについてもお話ししておきます。


1、学校教育法の改正と大学ガバナンスの改革
2015年学校教育法の改正により、国立大学においても大学ガバナンス改革の名目により、法文上は学長権限が強化されました。もっとも、大学にもよるでしょうが、現在の実務も、学長単独で決定し、上意下達によって大学が運営されるというには程遠いものです。相変わらず、大学本部が大まかな指針を各部局に伝え、その下での各部局ごとの具体的な決定を、本部が尊重するという方法によっており、各部局の決定こそが重要です。しかし、大きく変わったとも思われるのは、教授会権限が縮小したと感じられることです。

学校教育法が改正されたことは旧聞に属しますがが、少々説明をしておきます。学校教育法(法律第二十六号)は昭和22年に成立した古い法律です。2015年改正に際して、文科省の担当課長(里見大学振興課長)が平成26年9月2日に行った「学校教育法及び国立大学法人法等の改正に関する実務説明会」というのがあります。文科省のHPに掲載されていたその記録によると、教授会が、教育研究に関する審議機関であり、大学の経営に関わるものではないこと、また審議機関であり決定機関ではないこと、あくまでも学長が決定機関であることを強調する法改正でした。もともと教授会権限について、教育公務員特例法という法律に規定されており、これに基づき、各国立大学において、重要事項を教授会が決定する運用がなされていたのです。しかし、国立大学が独立行政法人となった結果、大学の教職員が公務員ではなくなったので(もっとも身分保障のある準公務員として扱うという説明がなされています)、教育公務員特例法の適用がなくなりました。教育公務員特例法が適用されないのに、多くの大学における教授会運用の実務は、慣例的に従前のままとされていたので、この学校教育法の改正により、教授会権限が限定されることを、明確化したのです。特に教員の人事に関する決定権が学長に帰属することを明確にしました。

教育研究に関する事項について、学長が重要事項を決定する場合に、教授会には審議を行う義務があり、その意見を学長に伝えることになります。通常は、これを学長が尊重するのですが、あくまでも決定権は学長にあるというのが法律の建前になっています。そもそも経営に関する事項については、教授会の審議事項ではなく、教育研究に関する問題も法律に規定された重要事項以外は、学長が特に教授会の意見を徴するというときに、教授会が審議することができるのみです。全体として、教授会は単なる諮問機関であるということになります。特に、教員の採用、昇任等の人事に関することも学長に決定権があることになったので、法人化に伴い、国立大学におけるリストラも可能となるという触れ込みでした。しかし、先に述べたように、法人化しても、準公務員としての位置づけから身分保障が残されたので、いわゆる生首を切るようなリストラはできません。後に述べるように、各国立大学、横並びで、定年不補充の方法による、事務職員及び教員定員の削減が現在進行しています。教員の新規採用及び昇任については、学長と言っても、専門分野が異なるので、よほどのことが無い限り、各学部の専門性による人事の決定を尊重するということにならざるを得ません。


2、大学の自治は学部の自治―大学はハラスメントの巣窟

大学の運営は蛸足型の意思決定メカニズムに従って行われます。従来、教授会の決定を積み上げて、漸く大学全体の意思決定に至る下位上達式であったのです。かつて教授会の決定には、大学本部が口出しすることがあまりなく、一個の大学といっても、いわば学部という中小企業の集合体に過ぎないとも思われた時代が続きました。多少言い過ぎのきらいがあるかもしれませんが、大学という機関が各学部の親睦組織と言っても過言では無いときがありました。従って、学部の最高の意思決定機関である教授会の決定こそ至高の存在であり、大学の自治は結局、学部の自治すなわち教授会の自治でした。

このことにはメリットとデメリットの双面があります。教授会の構成メンバーは、大学や学部により相違がありますが、その学部に所属する教授、准教授、講師等の大学教員です。理系か文系かといった学問分野の性質や、やはり大学毎、学部毎に違いがありますが、国立大学文系学部では、教授と言っても平(平社員の平)の教授には大した権限もなく、准教授以下と全く変わりがありません。給料もそこまでの違いがないので、ほぼ名誉職と言って良いのです。もっとも、学部長などの管理職になるための前提ではあるので、上昇志向のある場合には、教授に昇任するすることが極めて重要となります。私の所属する大学においては、准教授、講師など、まさに一兵卒であっても、教授会において自由に発言を許され、一人一票の重みも変わらない。その意味で教授会自治は、民主的な意思決定システムでありました。これがメリットです。

多面、特に文系学部では、教授、准教授が各々の個人研究室を構えて、単独で教育研究を行う。各人が言わば一国一城の主人として、教授会の都度、長時間にわたり喧々諤々の議論を重ねるという場合、往々にして「会議は踊る」のであり、容易に結論に至りません。下手をすると、新しいことは何も決められないということにも成りかねません。このことが、大学の変革に対する障害となっていたことは否めません。

私の奉職する大学においては、これが先の教育基本法の改正により、様変わりしたのです。教授会の変貌について述べる前に、数年前に吹き荒れた大学改革の嵐に触れておきましょう。学部ミッションの「再定義」が文科省により厳しく求められ、否応無しに大学改革・改組を迫られたのです。朝日新聞のキャンペーンから始まったとされるのですが、少子高齢化を受けて、大学進学希望者に比して大学の学生定員が多すぎる事態に至るという、大学の危機に対応することがその目的です。財務省が大学を国家財政の金食い虫扱いして、その統廃合を強く要求したのに対して、文科省がこれに抵抗するために大学改革を求めたとされていました。文科省からすれば大学を守ることが省益に適うのです。これは結局、大学の学生定員を守るということに尽きます。学生定員がすなわち、大学が抱えることのできる教員定員を決定し、その雇用を守るということに通じ、また交付金の重要な算定根拠だからです。しかし、財務省の予算削減圧力は強く、本格的な人口減少社会であってみれば、大都会の都心部にある大学が未だに拡張を続ける中、ことに地方大学は斜陽産業たらざるを得ません。ミッションの再定義などという、上からの強引な、訳の分からない改組圧力は、やはりこの後の大学統廃合による定員削減の前提であり、その激変を若干緩和するものに他ならないのでしょう。

実際、全国の地方国立大学で、教員人事のポイント制の下、教員の削減が始まっています。以前に、新聞報道等ありましたので、ご存知の方もおられるでしょう。(「国立33大学で定年退職者の補充を凍結 新潟大は人事凍結でゼミ解散」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161007-00000003-wordleaf-soci
2016/10/8(土) 11:05配信参照。)教員の職位毎の人数に従い各学部毎に割り当てられている総ポイント数を、毎年、数%づつ削減しているのです。更に、定年不補充と呼ばれる方法があります。定年退職者が出ると、その教員の分のポイントを、学部の総ポイント数から差し引き、ポイントが充当されません。その学部は、総ポイントを超える人事を行えないので、新規採用を見送らざるを得なくなります。その教員の担当する科目を教えられる教員が居ないとしても、新規採用ができないのです。結果的に、その学部で開講する科目数が減って行くことになります。各大学の特に文系学部の人員が十分減ることを待っているのです。その後に、大学間の統廃合を予定しているとしか考えられません。

大学改革の名の下、全国の国立大学がこぞって学部再編による新学部を創設しました。私の所属する大学もご多分に漏れず、文理融合型の新学部を作りました。その新学部では、そもそも教授会が開催されることが余りないそうです。大学本部に直結した新たな学部の運営主体が重要事項を決定し、所属教員はそれに従うしかありません。既存学部でも、教授会は存続しているが、従来とは様変わりしています。学長権限の強化は、むしろ学部執行部の権限強化に通じたようです。従前であれば、教授会決定事項として、事前の情報開示と議論がなされていたような問題について、学部長及び周辺の有力者間で決めてしまい、教授会では事後的な報告に留めることが極めて多くなりました。教授会は単なる諮問機関として、重要事項の決定に対して蚊帳の外となります。大学全体としての意思決定は、学長の下、理事、副学長らによる役員会等(大学により名称が若干異なる)が行うのですが、理事・副学長、評議員などの大学執行部にしても各学部から公平に選出されます。各学部選出の大学役員及び学部長等の執行部は、当該学部の複数の有力教授間での話し合いで、ほぼ順送りで決まります。従って、大学執行部は各学部執行部と密接に連携しており、大学執行部の根回しとして、各学部の有力教授らを含めた話し合いで決まったことがすなわち全学の決定となり、教授会はただそれを淡々と承認する仕組みができたのです。

もっとも、教授会自治においては、学部長が教授会の顔色を伺うという側面があったものの、それは教授会が教員らの派閥抗争の場として修羅場化する場合であって、学部長がよく教員らを掌握する派閥均衡と派閥の長たる有力教授のボス支配とが組み合わされることも多く、この場合にも、有力教授間の決定を平穏理に教授会決定とすることは可能であったのです。現行の実務が、基本的にこの仕組みを継続させたまま、学長直下型の端的に分かり易いシステムになっただけであるとも言えます。

要約すると、従来型の教授会の自治は民主的な大学の意思決定に通じたのですが、弊害もありました。既得権を守ることに汲々とする学部教授会には、大きな変革は望み得ないのです。教授会権限の大幅な縮小に伴い、形式的には学長の権限行使であっても、形を変えた学部自治が温存されています。

そして、学部の自治は、各学部における悪弊を覆い隠すものでもあったということです。学部における重大な問題点が、他学部からも気付くほどであっても、学部自治の壁に阻まれて、全学の立場からの矯正が望み得ないのです。教授会の自治にしても、教員個々の学問の自由を確保する役割を持つ側面を有したのですが、反対に、学部がパワーハラスメント、アカデミックハラスメントの温床となるとき、対象となる教員の人権を横暴にも侵害するものともなりました。この点は、学長権限を強化した大学におけるガバナンス改革の結果、前者の利点を減殺してしまい、教授会自治が、有力教授のグループによる強権発動にすり替えられ、後者のような欠点はそのまま据え置かれたのです。大学は学問の府とされますが、構造的にパワハラ、アカハラの巣窟なのです。


3、ハラスメントの巣窟を守る法的裏付け??

このことの法的な“裏付け“?ともなるのが、憲法に保障された学問の自由(憲法23条)なのです。戦前の滝川事件や天皇機関説事件をみれば判るように、その歴史的経緯に照らしても、極めて重要な規定です。これを不当視するものでは決してありません。しかし、学問の自由の制度的保障として大学の自治があるのです。

著名なポポロ事件(最高裁昭和38年5月22日判決)という事件があります。これによれば、大学の自治の内容として、教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治が認められます。大学の教授等の人事について、司法審査の対象とはなされるものの、大学における裁量の範囲が広範です。ある下級審判決によると、私立大学の事件でしたが、対象者が理系教員である場合に、ノーベル賞を取ったというのでも無い限り、教授昇任をさせないことが大学側の裁量範囲を超えることはないとまで言っているのです。

施設管理について言えば、重大な犯罪行為が現在、行われているというときに現行犯逮捕するために、警察が大学構内に入構することは認められるものの、その前段階において、調査ないし捜査することは、大学側の要請ないし同意なしには原則として許されません。そうすると、例えば殺傷事件など人の生命に関わる犯罪であれば別論ですが、犯罪の性質によれば、現に犯罪が遂行されているという情報が警察に伝えられたとしても、その情報が余程確実なものでない限り、大学側に通知して同意を促している間に、犯行を終えて、犯人が証拠を隠滅するなら、警察としては誤認捜査をしたという誹りを免れないことにもなります。大学の自治が、犯罪捜査の抑制的効果を有してしまいます。

また、最近漸く、殊に学生に対するものとしては、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントに関する大学一般の意識が高まり、教員同士の相互監視による抑止や、大学としてのハラスメント調査の手段が整えられつつあります。しかし、これが職員同士の問題としては、やがては卒業していなくなる学生と異なり、たとえ調査の申し立てをしたとしても、通常、お座なり、あるいは有力教授が加害者とされる事件では、お手盛りの調査となるのです。有力者間の仲良しグループの一角であったとすれば、尚更、上に述べた学部自治の壁に阻まれてしまいます。仮に、調査の不当を裁判で訴えたとしても、やはり大学の自治とも関係して、調査に関する大学の裁量範囲が広範であり、ある裁判によると、調査が社会通念上、極めて不公平であるなど特段の事情を、訴える側が立証しなければならないとされるのです。そのような証拠を原告が提出できなければ負けてしまう、極めてハードルが高い基準と言わざるを得ません。仮に、大学がスキャンダル隠しに走ったとすると、被害者は全く救われません。

現行の大学の自治に関する判例法は、大学教員の性善説に基づくようです。実は、大学教員とは、一般の社会とは切り離されたところで、人により、人格的にも幼稚な人間なのです。学問の自由を保障するための大学の自治が、極めて重要な原則であることは認めつつ、そこで学ぶ学生、働く教職員らが陰湿なハラスメントから守られるために、単に、大学の良識に期待するだけでは足りません。そのためには、事件類型に基づいた詳細な審査基準の呈示と、審査自体の精密化が求められるように思われます。ハラスメント被害者保護のために積極的に介入することも必要でしょう。

強制労働と国際法2020年01月20日 04:13

何故だか、今日は、白ワインを一本開けてしまい、ずいぶん酔ってしまいました。(´∀`=)

日韓請求権協定が、日本及び韓国の互いにいかなる主張もなし得ないとする意義について、日本と韓国の解釈が異なります。日本及び韓国の最高裁判所の解釈と、国際法と国内法の関係について、幻冬舎ルネッサンス・アカデミーの連載に掲載しています。先日、最終稿(第4回)を発行元に送ったので、その内掲載されるでしょう。今日のブログの内容は、その補足です。


1、強制労働の禁止と国際法

1930年の強制労働条約(ILO第29号条約)には、日本も1932年に加入している。その2条において強制労働が定義されている。すなわち、処罰の脅威の下に強要せられ、かつ、自ら任意に申し出でたものではない一切の労務である。同条2項に強制労働に該当しない例外が規定されている。「純然たる軍事的性質の作業に対し強制兵役法に依り強要される労務」、「完全な自治国の国民の通常の公民義務を構成する労務」、および「戦争等の場合、及び一般に住民の全部又は一部の生存又は幸福を危険にする一切の事情において強要される労務」が強制労働に当たらないとされている。

強制労働条約に関する2014年の議定書が成立し、発効している。1930年条約が植民地における労働形態を念頭に置くものであったので、人身取引などの現代的問題に対処するため、同条約を補足する議定書である。(https://www.ilo.org/tokyo/standards/list-of-conventions/WCMS_239150/lang--ja/index.htm)この議定書において、強制労働被害者に対する民事的な救済を与えるべきことが規定されているが、日本は未加入である。強制労働被害者が「適当かつ効果的な救済(補償等)を利用することができることを確保する」と規定されている。

もっとも、1930年条約の時点で、強制労働が違法であるとされるので、韓国元徴用工の事件では、日本及び企業がこの条約の違反行為を行ったとする余地がある。例外条項を解釈するために、日本の植民地支配が合法であるか否かが一個の要素される可能性もある。仮に、日本及び徴用工裁判の被告とされた日本企業が、強制労働を行わせたとすると、強制労働条約に違反し、日本が国家責任を負うということになる。

ある国が国際法違反を行った場合の、国家責任の内容については、2001年の国連総会決議により採択された国際法委員会の報告に基づく国家責任条文が重要である。

ここでは、民事的な効果について見ておく。国際法違反の行為を行った国は、損害の完全な賠償義務を負うとされ、この損害には、いかなる損害も含まれる(31条)。損害の賠償の方法としては、原状回復を原則としつつ、金銭賠償及び陳謝があると規定されている(34条ないし38条)。もっとも、これは被害国が加害国に対して、国家責任としての義務履行を請求し得る、基本的に国家間の問題である。被害国による請求の放棄も認められる(45条)。

国家責任条文は、一般国際法であり、特別国際法が存在する場合には、特別法の適用される範囲において適用されない(55条)。従って、争われる問題に関する特別国際法が存在するときには、適用範囲に関する限界を画する問題を生じ得る。国際経済関係を一般的に規律するWTOがこの意味で特別国際法であるので、以前のブログに述べたように、WTOとの関係において、WTO違反に対する対抗措置に係る問題は専らWTOにより規律されるとも考えられるが、微妙な問題が残される。

強制労働については、前述の強制労働条約が存在するので、損害の賠償の問題については、同条約および前述の議定書が規律する。また、日韓請求権協定のような二国間条約が存在する場合には、一般国際法の強行規範に反しない限り、優先すると解されよう。その意味で、日韓請求権協定と強制労働条約の関係には一応触れるべきかもしれない。


2、慣習国際法の成立と不遡及の原則

17世紀の法学者グロティウスが国際法の父とされ、1648年のウェストファリア条約が、30年戦争を終結させた世界で最初の近代的条約である。近代的国際法がこの時期に成立したとすると、現代に至るまで、その内実は益々、具体化、精緻化され、明文規定を含む多くの国際文書が生み出されてきた。このことをどのように理解するか、大きく分けて、次の二つの考え方があり得る。一つがこれである。国際法が自然法であるとすると、未だ見出されていない規範を含めて既に存在するはずである。これが人類の歴史の発展と共に次第に明らかにされて来たと考える。喩えて言えば、天界に漂う法の雲海は、地上からは有るのは分かるのであるが良くは見えない。その規範の一個一個を、地上にある判定者が、見出だし、人々に分かるように取り出して見せる。このとき初めて、誰にも確かに見えるようになるのであるが、その「条文」はその以前に既に存在はしていたのである。今一つが、次である。国際法も実定法である。漸次的法発展があるのであり、常に変転する。17世紀に近代的国際法が誕生して以来、継続的に新たな法が生み出され、現在の複雑で多層的な国際法規範の体系にまで至ったのである。新たな法規範は、その以前には存在せず、既存の法体系に付け加えられる。

自然法と言うと、現在の法学説では余り流行らない。しかし、慣習国際法とされるものが、その双方の性質を一定程度帯びるようである。一般に慣習法の成立を言うとき、法の主体たる者の行為を観察して、一定の長期間に渡り、行動傾向が一様にあり、大半の者が法として遵守している(国際法の場合、これを法的確信と呼ぶ。)場合を指す。慣習国際法の場合、その主体は第一義的には国家である。その援用を行う者が、その成立について実定的な証拠を示す必要がある。一定期間継続的で、斉一的な個々の国の国家実行としての行動や、一つの国際機関の宣明などである。多数の国の加盟する多国間条約や、これらを研究する多くの国際法学者の議論を経た文書が国際機関の承認を得たものが、最も分かり易い。条約は、署名と承認により、加盟国間のまさに明文の法となるのであるが、これをしていない場合にも、その内容が多くの国によって慣習国際法として認められる場合がある。

現在の国際社会において、特定の法規範の内容が、慣習国際法であると多くの国によって認められていると仮定する。ある行為者の行為がこの規範に違反すると主張する者は、その行為の当時に既にその慣習法規範が成立していたと言うであろう。これを否定する者は、その当時、未だ、多くの国が法としては認めていなかったと主張する。慣習国際法の成立時期を認定する作業はときに困難を極めるであろう。特に、その行為者の行為を刑事的な意味で犯罪に該当するとか、国際法違反の責任として賠償の効果が認められるとする場合、前者については、国際的な意味においても罪刑法定主義は当てはまると考える余地があるし、後者についても、法の一般原則として、法の適用についての不遡及原則が妥当すると考えられる。要するに、行為当時に違法ではない行為によって、行為者は裁かれるべきではないという原則である。


3、強制労働の禁止と日韓請求権協定

以上を、元徴用工の裁判に当てはめてみよう。

第二次世界大戦当時、明文の条約として、1930年の強制労働条約が成立していた。批准していたので、わが国内においてもまさに法としての効力を有する。元徴用工の労働態様が強制労働に該当するかは、国際法上はまずこの条約を適用しなければならない。次に、それが強制労働に当たるという場合に、被害者に補償が与えられるべきであるかも同条約、及びその他の国際法の観点から決定される。強制労働の禁止は1930年条約のときに既に、国際的な強行法規範であると思われる。しかし、被害救済の方法として、民事的賠償の機会や金銭的補償の提供が現在の国際法上の要請であるとしても、これが強制労働の文脈において明文規定とされたのが2014年議定書であった。わが国は議定書に加入していないので、この意味でわが国の法ではない。その内容の慣習国際法が成立しているとしても、成立時点が、第二次世界大戦のときまで遡れるかは多分に疑問である。

次に、2014年議定書にあるように、強制労働の被害に対して金銭的補償の提供が国家に義務付けらるとしても、日韓請求権協定の締結の経緯からは、第一次的に責任を負うべきは韓国であると解する。韓国大法院判決多数意見が言うように、元徴用工の補償について、韓国において、社会保障的な、国による一定の給付が存在する。新日鉄事件は、韓国の元徴用工の被った損害の完全賠償のために、韓国法に基づく給付額が不十分であるとして、徴用工を用いた企業にその不足分の賠償を求めているのである。強制労働条約の議定書が、被害者に補償を与えることを国に義務付けるとしても、必ず、民事訴訟の形で加害者に対して賠償を求め得るとする義務まであるかは不明である。日本は日韓請求権協定に基づき、多額の経済援助を行った。しかも、元徴用工に対して韓国法に基づく補償はあるのである。それ以上に、元徴用工が個人として金銭的賠償を請求し得るとする国際法上の義務が、いずれかの国家にあるかは疑問である。


上の記述だけ見ると、誤解を生じるかもしれません。幻冬舎ルネッサンスのサイトを是非見てください。

2月11日注記
上記において、国際的な強行法規範という語を用いています。特に、国際人権法上の要請として、重大な人権侵害など国家間の合意によってもこれを免責することが許されないような国際法規範をそう呼びます。国際的強行法の範囲や効果について、国際法上いまだ決着のついていない問題の一つです。ここでは、単に、抽象的に強制労働の違反をいう場合、そのように解されるという趣旨です。