オレンジ特急2020年11月28日 01:17

私の個人的な思いでを書きます。分析的な文章を期待しておられる方には申し訳ありません。今日はここでお帰りください。

座間猟奇殺人事件の死刑求刑がありました。

相模原市の障害者施設殺傷事件を思い出しました。障害者は生きる価値がないという「思想」を犯人は持っています。

そのような思想を持つ人に何も言うことはありません。

そうではない人がこの拙い文章を読んでください。

1 オレンジ特急

近鉄特急のオレンジ色に紺色のストライプの、おしゃれな車体の、小さな窓の中、何度もうなずいて、発車のベルが鳴り、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。
母の目に涙が浮かんでいた。

「会いたさ見たさに怖さを忘れ〜」。子供に会いたいから、病院を逃げ出して、どうにもちぐはぐな陽気な歌を何度も歌いながら、いつものようにいる母。

それでもどうしようもないから、また病院に逃げ込む。

昨日の夜も、夫婦喧嘩だった。猛烈ないがみ合い、がなり合い、幼い僕はいたたまれない。ぎゃーっと叫んで、泣きながら、毛布をストーブの前に投げつけると、父が僕の頬を叩いた。

母が悲しそうに僕を見つめる。

どうしようもないから、この子のためだと思って、自分がいるといけないから、そう思って、

また病院に逃げ込む。

中学になった僕が、母親に付き添ってゆく。堺市駅から、陸上クラブの遠征でいつも利用している国鉄で、天王寺。近鉄に乗り換える。バスの中も、電車の中も、僕は真っ暗な窓の外を見ている。母も僕も一言も口を聞かない。僕があげたショールを肩にかけて、大きな荷物を持って母が電車に乗り込む。

発車のベルが鳴り、小さな窓の中、何度もうなずいて、動き出す電車の窓を目で追いながら僕もうなずき返して。
母の目に涙が浮かんでいた。涙を浮かべて、僕を見つめながら、すまなそうに何度もうなづいていた。

2、貯金箱

小学生のころの僕は、たくさんのお年玉をもらった。祖父の家に行くと、決まり文句の「あけましておめでとうございます」をいうと、祖父や親戚一同がお年玉をくれる。大人ばかりの宴席に、僕がお年玉を独り占めできる。宴席のはじっこに座って、つまらなそうにしていると、周りの大人がかまってくれるけど、それが煩わしい。ただ一人の子供のお勤めだ。

母も父からお金をもらって、僕にくれる。そのお金を全部ためて、小さな金庫の貯金箱に入れていた。そのお金を母が盗む。ダイヤル式の鍵を、おもちゃだから単純で、一つ一つダイヤルを回してゆくと開けられる。ダイヤルの番号を変えても、また無くなる。お金が無くなっているのを見つけて、僕が叫んで母を責めても、もう遣ってしまっている。

あるとき、母がダイヤルを回して貯金箱を開けると、びっくり箱のように、バネのおもちゃが飛び出した。驚いている母を、かげで見ていた僕がお腹を抱えて笑った。母が、「何でこんなことをするんや〜」と顔をくしゃくしゃにして面白そうに笑った。

3、おねしょ

どうしても寝られなくて、苦しいから、薬がなくては生きていけない。数ヶ月分の薬袋が大きく膨らんだ中に、小分けされた粉薬の1日分を、ベロを出して舐めて確認すると、睡眠薬だけ取り出して、毎日、夕方に倍量か3倍量にして飲んでいた。眠剤のせいで昼間でもほうけた顔つきで、それでもそんな状態で出歩いていた。自分の調合したアッパーを飲んだせいで、双極性躁うつ病のようになった。

夕方、ご飯を食べさせると、薬を飲んで、夜8時までには正体不明になって、眠りこける。決まって、明け方5時ごろにおねしょをする。

階下から、「しげる〜、しげる〜」と呼ぶ声で起こされる。階段を駆け下りると、母がほおけた顔で僕を見る。下着を渡すと、自分で替えた。濡れた母のパンツを洗濯機に入れて、べたべたになったシーツを換えて、おねしょの布団を干し、乾いた布団を押し入れから出して、母を寝かしつける。毎日のこと、何の苦にもならなかった。

4、ケーキ屋

母が、ケーキを買うという。一緒に行ってやるというと、うれしそうにしている。いつものケーキ屋に行くと、若い女の店員が、また来たというように二人で顔を見合わせて、ニヤニヤ笑いながらぞんざいにしている。母は眠剤のせいで、昼間からほうけたような顔つきで知的障害のように見えた。ろれつも回らない。

いつもこうやってばかにされて、怒っていたんだ。

大学生の僕が、その店員をきつく睨みつけながら、叱りつけるような口調で注文すると、かしこまったように、ケーキを渡した。

帰り道。ベージュのアラン織のセーターに、母が編んだマフラーをして、網目のそろわないやたらと長いマフラーをして、並んで歩いていると、母がほうけた顔のまま、僕の腕に自分の腕を絡めた。そのまま寄り添って、腕を組んで帰った。

5、もう一度、オレンジ特急

その母が亡くなった。突然だった。僕が大学院生のとき。死因は睡眠薬の誤飲とされた。もう無理だった。病院に戻らないと無理だった。そう言っても、母は、「病院に行って欲しいの?」と言って、悲しそうに見つめた。

亡くなった後、母のタンスの中に、ハンカチを見つけた。色とりどりの安物のハンカチを、大切に取っていたのだ。僕があげたハンカチだった。それをみて、泣いた。泣いた。泣いた。

どんな命も愛おしい。

母は、若いころ、洋裁の達人だった。僕の小学校の入学式。まだ貧しかったから、母のワンピースと、僕のブレザーと半ズボンを上下お揃いの生地で仕立てた。編み物も得意で、テーブルクロスも、自分の藤色の上着も、小さなパターンをつなげて作っていた。

僕が幼かったころ、母に連れられて道頓堀のお茶漬け屋に行った。母が僕の分しか注文しない。僕は母の口元に箸をつけて、要らないの、食べないと?と何度も聞いた。おいしいよ。
母が怒り出した。外に出ると、足早に、僕を置いていくほどの勢いで歩いた。「恥ずかしい」、何度も、母が言った。

どんな命も愛おしい。

障害者でも。
一個の命が、どんなに大切か。どんなに。どんなに愛おしいか。

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