元SEALDsメンバーの福田和香子さんのステイトメントについて2021年06月04日 00:37

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 集団安保法制に反対した元SEALDsメンバーの福田和香子さんが、twitter上、匿名で中傷された事件です。相手方を特定した上で名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、地裁において勝訴しました。

 2021年6月1日東京地裁判決についての、webニュースです。
 https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&g=soc


 福田さんのステイトメントとが公表されています。

 https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home

 
 自身が受けた侮辱的な言葉の一個一個を明らかにしながら、その言葉により傷つけられた者が声を上げることは、生まれながらにして持っている権利だとしています。インターネット上、度々生じる誹謗中傷に対して、恐れずに立ち向かうことは。よほど困難なことに違いありません。

 一人の被告に対する裁判という以上に、女性が政治的発言をすること、政治的な行動を起こすことに対して、よってたかって誹謗中傷を行う匿名の人たち、もっと言えば、このことを許容する社会に対して起こした代表訴訟だと思います。

 記者会見で、次世代に伝えたいメッセージを聞かれ、次の様に答えたそうです。

 「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」。

 生きている間に変わることないかもしれないと、社会に対する絶望的な見方を述べながら、しかし、「変化の一部になろうとしている事実」こそ大切だとしています。 若い女性が、戦って強くなってしまった。強くならなくても生きてゆける社会にしたい。生きている間に実現しないとしても、次の世代のために戦い続けるという彼女に強い感銘を受けました。

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 この世の中は、プラスとマイナスの抗争によって成り立っているなどというと、まるでゾロアスター教の教義のようですが、キリスト教文明にも深く刻まれた思想です。聖邪、善悪の対立がこの社会の構成要素であって、どちらが欠けてもいけない。いずれかが完全に負けてしまうと、社会そのものが瓦解する。むしろ「抗争」こそがこの社会の実体なのだとするのでしょう。

 私が、善悪という言葉にしないで、プラスとマイナスと呼ぶのは、善し悪しの評価をすることができない両極という意味を表したかったからです。単純な勧善懲悪ではなく、いわゆる「悪」とされるものであっても、実は、この社会を成立させるために、なくてはならないものである可能性があります。

 例えば、世界を股にかける武器商人は、明らかに「悪」なのでしょう。しかし、それでは武器商人が完全に無くなれば良いかというと、国際社会はもっと複雑です。この社会に人々が生きていくために必須の役割をも担っています。単純に善悪に決めつけることは不可能なのです。もっとも、これと戦い続ける努力を無くすることは有り得ません。一方が完全に支配するなら、人間の社会が消失してしまうからです。

 プラスとマイナスが存在し、お互いに力を及ぼし合うことでこの社会が成り立つので、未来永劫、いずれかが完全に勝利することは有りません。 しかし、この闘いは、決して諦めることが許されません。プラスの方向に向かう変化の一部になろうとする「事実」が是非とも必要なのです。完全にマイナスに支配されることは社会の滅亡を意味します。

 この闘いには、希望がなく、絶望も許されない。その人が変化の一部になろうとする、その事実が存在するだけなのです。

 冒頭の記事の福田さんは、「声を上げる」ことを諦めません。この抗争を止める訳にはいきません。法廷闘争は、現代社会の重要な闘いの場です。

 資本主義や天皇制に対する考え方は、私とは異なります。しかし、「変化」の一部になろうとするその態度に感動を覚えたのです。若者が、女性が、民主主義のために発言し、行動すること。

 生きている間に実現しないという希望のなさに耐える強さを、闘いの中で身につけ、強さを持たない人への優しいまなざしを失わない。この若い女性の態度にです。

50男と14女の関係?2021年06月18日 04:57

  「50才が14才と性交しても、真の恋愛であれば犯罪とするべきではない」と、立憲民主党の本多議員が党内WTにおいて発言しました。ポリタスTVにおいて、当事者の一方である大阪大学の島岡教授が詳細を述べています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ
(「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言|ゲスト:島岡まなさん(6/16) #ポリタスTV)

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 性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも16才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした50男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、14才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の18才とされました(2022年4月施行)。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。

 性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。

 立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、50才の女性と14才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。

 もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。

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 冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。50の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。

 日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。

 マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル=マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。

 かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。

 イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。

 日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。(私も免れませんが)高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。

 再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。



 それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、TPOに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。