書評が出ました。 ― 2021年02月05日 09:17
<書評>山岡俊介「表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景」(寄川条路編、社会評論社)(『アクセスジャーナル』2021年2月3日)
https://access-journal.jp/56659
保守とリベラル? ― 2021年02月12日 19:11
リベラルと保守について、私の考えをまとめてみます。最近、この区別がよくわからないように思えます。冷戦が終結したことを理由にして、リベラル不要論さえあります。
高福祉高負担の現在の福祉国家路線は、戦後の高度経済成長に支えられて自民党保守本流が作ったものです。55年体制の下で旧社会党もこれに与りました。政治学の厳密な定義ではないですが、ヨーロッパの社会民主主義とも見まがうほどです。アメリカであれば、国民皆保険制度を社会主義と呼ぶ保守政治家が普通にいます。これを日本の保守的リベラリズムと呼んでおきましょう。
少子高齢化と国家財政破綻の危機に瀕して、新自由主義の流れを生じました。小さな政府を目指すネオ・リベラリズムと言うこともあります。これに抵抗するのが、保守的リベラル。立憲民主党の枝野代表の立場です。アベノミクスに代表される、新自由主義に向かって一歩を踏み出そうとするかのような政府・自民党の中心的な主張がこれに対峙しています。
ヨーロッパ諸国の中には、ドイツのように、ネオ・コンの主張を体現する政党と、共産主義を目指す極左政党が伸長したために、従来交互に政権を担ってきた福祉重視の保守政党と社会民主主義を標榜する穏健左派政党が中道化し、間に挟まれた正に真ん中に押し込められて弱体化している国が散見されます。しかし、これは戦前、ナチズムを産んだドイツの政治状況にも似ていて、心配でもあります。
このようなヨーロッパの国と比べると、極めて幅広い政治的立場を含む政治家の集合である自民党のおかげで、日本の政治情勢はぬるま湯の中につかっているようです。保守的リベラリズムと、その中心的主張は温存しながら、多少なりともその方向性に踏み出そうとするかのような新自由主義の対立だからです。後者さえ、アメリカのティー・パーティのような極端な自由競争信奉者ではありません。日本の保守的リベラリズムを核として、幾分かの幅を持ったいくつかの同心円の中に、根本的な経済政策および社会政策については、多くの日本の政党が収まってしまいます。細かな政策的相違を除くと、その相違さえも選挙前には良く似てくるのだけれど、そもそもその大綱は余り見分けがつきません。私は、各党の選挙公約が似通ってくることを、時代とコースの定理と呼んでいます。今の中学生は知りませんが、私の学生時代には、『〇〇時代』と『〇〇コース』という名前の月刊誌をクラスメイトのほぼ全員が買っていて、二つの学習雑誌が、特におまけの内容と量を競っていたのです。その結果、どちらの雑誌の付録も毎号ほとんど異ならなくなりました。
このことが問題であるというのではありません。幾分か一層、保守的リベラル、幾分か、新自由主義の相違を強調しつつ、経済政策においては穏健な政治的対立があれば良いと考えています。これを反映した経済的安定が国民の信頼獲得のためには是が非とも必要です。外交安全保障の相当程度の継続性も国民の安心感に通じます。
大きな相違は、多様性を尊重しマイノリティーの声を最大限反映する態度と、一層の環境保護および生物多様性の維持に向かう政策であるべきです。現代日本社会の最大の焦点の一つが女性というマイノリティーのより深化した社会進出の促進です。以上が「文化闘争」です。これに加えて国際主義の立場に依拠するのが、私の考えるリベラリズムです。
まとめると、経済における一層、保守的リベラルと、幾分か新自由主義の抗争と、文化闘争、そして国際協調主義と自国中心主義の相違に従い、政権交代が適宜に行われること。これこそが日本の民主主義の発展をもたらし、欧米に比べて、日本社会においてとてつもなく遅れている文化的価値の実現、換言すると、人権と多様性に開かれた寛容の価値を前進させるでしょう。
以上は、このブログでも再三触れてきた持論です。最近、下記の論考に接したので、改めて論じることにしました。
大賀 祐樹
2021年の論点100 ー「左」でも「反日」でもない……素朴な疑問「リベラル」とは何を意味するのか?
https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1