木蓮のつぼみ(再掲)2022年05月24日 10:30

14才だった少年Aもそろそろ40才になります。

「神戸連続児童殺傷事件から25年 少年Aまもなく40歳に 途絶えた手紙 遺族が願う贖罪は果たさず」
https://www.ktv.jp/news/feature/220523/?id=a6944645b413a4e2c8150f6db2f0d5c4b

2018年02月03日に掲載したブログ記事を再掲します。以下、そのときのブログ、ほぼそのままです。

ココから。↓

以前のブログで「相田みつを美術館」のことを述べました。ちょうど2月頃の木蓮をうたった詩があります。美術館で、この書を展示していました。次の様な詩です。


「裸の木蓮」

「いま庭の木蓮は裸です
 枯葉一枚枝に残しておりません
 余分なものはみんな落として
 完全な裸です

   しかしよく見ると
   それぞれの枝の先に
   固い蕾(つぼみ)を一ツづつ
   持っています

 つまり木蓮にとって
 一番大事なもの
 ただ一ツをしっかり と
 守りながら

冬の天を仰いで
キゼンと立っています
 キゼンということばを
 独占したかのように
   裸の木蓮は
 寒風の中に
 ただ黙って立っています

   みつを  」


 書では、一つ一つの段落がつぼみの形にみえます。墨の濃淡と造形で詩を表現しています。皆さんも、機会があれば見に行って下さい。東京駅の直ぐそばです。

 私は木蓮が好きです。淡い黄みどり色の中心から、やわらかな厚紙のような白い花弁が、「もくれん」という言葉にふさわしい花です。

 暖かな風を連れて来る冷たい雨の後の晴れ間に、沈丁花が香ります。歩いていると、不意に良い香。どこにあるのか思わず周囲を見回して、花の在処を探します。沈丁花が香ると、いよいよ暖かな春の到来です。

 間もなく、木蓮が咲きます。待ちに待った木蓮です。白色の、濃い紫の。
 ほんとうに木蓮が待ち遠しい。


1、酒鬼薔薇聖斗

 ここから、本題です。

 神戸連続児童殺傷事件を覚えていますか?

 酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)と名乗る犯人が、小学生を通り魔的に殺傷したあの事件です。特に、特殊学級に通う小学6年生の子供の命を奪い、頭部を切り落として、中学校の正門前に置いていたことで、社会を震撼させました。その犯人は、少年Aと呼ばれた14才の中学生でした。

 被害者加害者双方の当事者からの手記が公表されています。

 被害者の父親の書いた手記です。
 『淳』 (新潮文庫) ・土師 守 (著)

 あどけない少年の様子が表紙に載っています。残忍な犯行に対して憎悪を掻き立てます。

 その日、いつもと変わらない様子で家を出た子は知的障害のある子でした。家族がどんなに大切にして、愛おしんでいたか。

 元少年Aは少年院を退院した後、『絶歌』(太田出版)という手記を発表しています(2015年)。

 加害少年の父母の手記も刊行されました。『少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記』 (文春文庫)

 少年院で、加害少年の矯正に取り組んだ元法務教官の記録も公刊されています。

 事件直後に、加害少年は実名や写真のほか、刑事事件における供述調書の内容を雑誌に公開されました。今現在に至るまで、居住地や最近の雑誌社の取材の様子など多くの情報が、虚偽のものを含めてネット上に掲載されています。

 成人した加害者が日本の社会でどのように暮らしていけるのでしょうか。名前を変えたり、もしかすると整形しないといけないかもしれませんね。

2,刑罰の目的と国家による社会の管理

 犯罪を犯すと、刑罰や処分が下されます。犯罪者(非行少年)の矯正や更生がその目的であると考えるのが、わが国の刑法学上の多数説です。教育刑という考え方です。

 もっとも被害者側の報復感情に答えるという側面や、そのような犯罪に対しては罰を与えるべきであるという因果応報に対する社会心理も関係するように思えます。

 犯罪加害者に対する人権の尊重と、これにより現代的な刑罰観が確立される前は、社会には残虐な刑罰が存在しました。公衆の面前での斬首はフランス革命の史実として有名です。江戸時代の日本では磔獄門(晒し首)が通常の刑罰の方法でした。被害者が犯罪者の最期を見ることでその報復感情に答えることができるし、公衆がこれを見物することは、社会一般の犯罪抑止のための見せしめとなります。

 また、何をすれば、どうなるかの過程を知ることができ、応報の観念に即することになり、社会的ルールを確認することができます。結果として社会的安心に通じるかもしれません。

 公衆が死刑を「見物」できることは、古来より一般的でした。残虐な暴力が死を招く瞬間を見ることが、多くの人々の、感興の的であったのではないでしょうか。そのようないわば行事が定期的に催されることで、その社会の暴力を総体的に抑制できると考えられたのでしょう。その意味では、祭りが、その地域社会すなわち共同体の結束の証しであり、許された「けんか」として、暴力の発露が一定のルールの下に認められるのと似ています。
  
 現在でも、例えばアメリカの州の中には、死刑を公開しているところが多いです。電気椅子や薬殺の場面が、近隣地域の住民に一般公開されます。被害者や住民の前で、死刑が執行されるのですが、これがその地域社会の伝統なのです。その目的はやはり、被害感情への応答や悪者の最期を見届ける住民の意思が考えられます。

 人類は、動物として、その遺伝情報に暴力的因子を持っているのです。この発動を適度に押さえない限り、人類社会の存立が危機に曝されます。

 弱肉強食の動物としての群れが、類人猿の集落を経て、一定の規範を備えた人類社会へと「進化」するとして、その共同体におけるルールは、動物としての自働的な規則性から、集落の慣習や宗教的(神事としての)規範が生まれ、やがて法としての規範に至ります。どの段階から「法」と呼び得るかには議論がありますが、書かれた法か不文の法かは別として、ある段階からは原初的な法的ルールとなることに疑いがありません。そのルールは、社会経済的には、その共同体において、最大多数の個体を維持できるために考案されたと言えるでしょう。規範の存在が社会的安心に通じる仕組みが我々の社会の深層に存在するのです。


 『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督)という1972年公開の米国映画があります。近未来を描くSF映画です。

 残虐な暴力行為を繰り返す非行集団のリーダーが、刑務所で矯正措置を受けます。映像による暗示と生理的拒絶という「最新の科学的方法」により、暴力行為に対して拒否反応を引を起こすように改造されるのです。その過程は、身体的な手術を伴わないけれど、まるでロボトミー手術のようにも見えます。この方法で全ての犯罪者を矯正することができれば、犯罪を防止し、社会を安全にするというわけです。

 他方、キューブリック監督の『フルメタル・ジャケット』という映画があります。前半は、ベトナム戦争のために徴兵された若者が、米国軍隊のキャンプで殺人兵器に改造される様子を描いています。米国内の駐留地で改造が施された兵士達が、ベトナムに送り込まれるのです。

 キューブリック監督の映画では、いずれの改造もある意味では失敗に終わります。

 何を犯罪にするのか、どんな刑罰を与えるのが相応か。教育刑としても、報復感情や因果応報の理に訴えるとしても、いずれにしても国家が社会を統制したり、管理することに関係します。キューブリックの映画は、このような社会統制や社会管理に国家制度が関わることを如実に描き出しています。

3,日本人のランク付け

 最近よく「東大生の・・・」というテレビ番組や書籍を見かけるようになりました。その出身者である研究者が研究の粋を公表するというものではなくて、現役東大生である若者が出てくるものです。東大生は「頭が良い」から、そのような若者の凄いところを見るのが、大衆の感興の的なんでしょうかね。

 以前、東京大出身のある学者に聞いたことなんですが、東大入学式で、法学部出身の総長が次の様な祝辞を述べたそうです。君たちは、日本を引っ張ることになっているのだから、しっかり頑張って、日本のために働きなさい、という趣旨の祝辞です。東大以外にほぼ人が居ないというほどの強いエリート意識を持ったその集団は、実際に、勤勉であり、人によると血を吐くほどの努力家でもあります。

 もっとも東大以外にも、京都大学にも多かれ少なかれそのような側面があるのでしょう。

 一部の能力のある者が大衆を先導し、社会運営に当たり、社会の発展に寄与するべきだというのが、エリート主義です。われわれは、これに慣れてしまっているのでしょうか。

 日本人は偏差値によるランク付けをほとんど大前提にしているようです。思春期の大部分を偏差値と格闘して、漸く大学に入学すると、多くの学生が勉学を放棄するというのが、大学教員としての日常的経験です。多くの場合に、高校入試で偏差値の洗礼を受け、そのランク付けを当然視しながら、それ以降は、このランクの枠を意識して、具体的には偏差値の5ポイント単位の変動を目指しながら勉強をします。公立学校の教育には飽き足らず、終業後に塾通いするのが通常でしょう。

 ランク付けは勉学だけではなく、スポーツでは一層当たり前です。全国的な運動テストにる能力比較がなされます。例えば、市域の大会から始まって、各都道府県大会、更に大きな地域大会から全国大会へと、子供達の中から選抜されて行きます。このような組織的なスポーツ大会も、国の政策の下で遂行されます。スポーツの振興に伴い、国民の世界大会での活躍がその国の国力を示すかのような、国威発揚の宣伝にも用いられます。

 小学生や中学生の大会で優秀な成績を上げると、中学あるいは高校のスポーツ推薦入学、その後は大学へと続きます。入学金や学費は免除、全寮制で生活費の心配も無く、スポーツの鍛練に集中することができます。そのスポーツ部を退部しない限り、一銭もかからないのです。その後、プロ選手になる一部の者を除くと、大卒資格を得て社会人となります。スポーツ・エリートです。

 話を元に戻すと、勉学にしても、スポーツにしても、人の能力の数値化がここでのキーワードです。全国的な試験に基づく偏差値による全日本人のランク付け、速度や採点による数値化によるランク付けが、人の「階級」を決めます。その若者の将来を決定するものが、それらの数字です。

 幼い知的、精神的能力のままに、このシステムに気づいてしまった者が、そびえ立つ岸壁の前に唖然として立ち止まってしまうことは無いでしょうか。幸いにして、多くの人がシステムの中にあって、このランク付けのシステムを内面化しているので、辛うじて正気を保つことができます。無意識裡に、自覚的理解の能力もなく、これに気づき、その岸壁をよじ登るなんてとても不可能だと、全ての希望を失ってしまうかもしれません。実際は、知らず知らず登らされて行くので、そんなに心配はいらないとしてもです。

4,再び、少年A

 驚くような非行に陥る未成年者が、家庭や学校では大人しい良い子であったということが間々あります。親や教師の面前では、気に入られるような態度を身につけているけれど、内面的には病的な問題を抱えていることが有り得ます。少年Aも、その両親には、後に非行に繋がるような精神的な問題点を感じさせなかったのかもしれません。

 当時の新聞記事を今でも覚えています。少年Aが、登校した振りをして自宅を出た後、児童公園のいつものベンチに腰掛けて、誰も居ない広場や遊具を見て過ごしていたというものです。

 13,4才の少年が学校の集団生活から逃避して、たった1人で、公園にたたずんでいるのです。誰も居ない砂場、座る者のないブランコが微かに揺れ、湿ったグランドに陽が当たり、そこに雀ぐらいは遊んでいるかもしれません。何時間も、ぼんやりとそのような風景を見ていたのでしょう。

 なんという孤独でしょうか!その切なさが胸に迫りました。

 そんな事件を起こしてしまうなんて。大切な人の命を奪うなんて。

 同時に、淳君のお父さんの慟哭が!

 私たちは、どちらの子供も救うことができないのですね。

 2月の寒風にさらされている木蓮の堅いつぼみを。

信条に反するから同性愛カップルのウェディング・ケーキは作らない???2021年09月25日 09:28

 今日は気持ちの良い秋晴れ。先日、近くの道後温泉に行きました。コロナ感染警戒のため、外湯として有名な道後温泉本館や飛鳥の湯が休館中です。そのため、椿の湯という地元の人が好む銭湯形式の温泉があるのですが、観光客による入館待ちの行列ができています。

 やや高級な温泉宿もたくさんあって、日帰り入浴ができるところがあります。きれいな展望露天風呂があったり、絶品です。

 さて、

 「言論プラットフォーム アゴラ」に、拙稿を掲載して頂きました。

「信条に反するから同性愛カップルのケーキは作らない?」

 https://agora-web.jp/archives/2053193.html


 本年6月、LGBT法案の国会提出が断念されました。与野党の合意にもとづき、性的指向、性自認に関する「理解増進」を図る法律案です。自治体レベルでは、明確な差別禁止規定を有する条例を持つところもありますが、この法案には差別禁止規定がありません。前文にその趣旨説明が挿入されたことに、自民党保守派が猛反発し、廃案に追い込まれました。

 この小論では、国会上程前に廃案になったLGBT理解増進法について、差別禁止条項があったとしても、乱訴を生じるとは言えない。日本社会の一層の法化こそ急務とする内容です。

 福井県立大学教授の島田洋一氏のコラム「LGBT濫訴の危惧、米の例から」(産経新聞)に全面的に反論しています。

 興味のある方は、是非、上のリンクから、ご一読ください。

続・50男と14女の関係?2021年07月20日 22:40

 前回のブログでは、同じ論題で、リベラルに蔓延る非犯罪化の教条主義とフェミニズムの教条主義のいずれも誤りであることを指摘しました。今回はその続編として、本多議員の発言の問題を具体的に検討します。

 私は刑法の専門家ではありません。必ずしも刑法学者と同じ視覚からの議論ではないので、一般の方に分かりやすく、面白いかもしれません。

 「50代の私が、14才の女性と恋愛に落ちることを、犯罪として良いか」という趣旨の発言を巡り、立憲民主党の執行部が、議員本人の趣旨説明と陳謝を受け入れず、党の懲戒委員会に懲戒処分の諮問を行いました。本多議員は、中年男性から未成年の女性に向けられる視線といった類いの問題ではなく、刑法改正の議論において、実感を持って非犯罪化の方向で議論したかったとしています。

 次回総選挙における党の公認内定取消し、更に、1年間の党員資格停止の処分を下すということです。本年秋に予定される次回選挙での当選が見通せない限り、議員生命を断つというほどの重い処分です。新聞記事によると、幹部らが本人に「出処進退を明らかにする」ことを迫ったにも関わらず、本人が受け入れなかったため、処分に踏み切ったようです。

衆議院議員本多平直氏の公式サイト (https://www.hiranao.com/
朝日新聞の記事「立憲、本多氏の公認内定取り消しへ 性交同意巡る発言で」(https://www.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html)。

 弁護士を含む第三者を委員とする「ハラスメント防止対策委員会」というのは、党内および党周辺におけるハラスメント案件について、告発を含めて対策を行うための、党から独立した常設の委員会であるとされています。同委員会から、この問題についての調査報告書が発出されました。

 調査報告書をまとめた委員会の委員長が労働ジャーナリストの金子雅臣氏(一般社団法人職場のハラスメント研究所所長)です。調査報告書は長文であり、独特の専門的用語を用いた難解なものですが、簡単には、次の毎日新聞の記事で概要を知ることができます。また、立憲民主党幹事長の記者会見で、調査報告書の内容がやや詳細に紹介されており、これを受けた処分について説明されています。

毎日新聞の記事「本多平直氏「同意性交」発言 立憲、調査報告書で言動を強く批判」(https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/010/009000c
立憲民主党「福山哲郎幹事長記者会見2021年7月13日(火)」(https://cdp-japan.jp/news/20210713_1800
なお、立憲民主党プレスリリース「「誠心誠意、実現をしていきたい」ハラスメント防止対策委員会「調査報告書」を受けて、福山幹事長」 (https://cdp-japan.jp/news/20210713_1792)。

1,認知の歪みとされるものと、本多議員の失言の関係

 まず、日本の文化の中には、男性支配の構造が今なお厳然として存在しています。「男が外で働き、女が家を守るという分業の発想」が、多くの仕事の場において、職員数や権限の質的な差を生んでいます。女子差別撤廃条約への加入を受けて、男女雇用機会均等法が制定されても、もちろん社会的発展の胎動が基底として存在したには違いないとしても、法の制定だけでは、文化というものはそう簡単に変わるものではありません。

 高等教育を受ける機会を提供することについて、送り出す家庭にしても、受け入れる教育機関にしても(奉職先は国立大学なのでないが、)今なお男女の扱いに相違があり得ます。折角入った大学にしても、卒業時には、多くの企業が採用上、男女の差を設けているのは周知の事実です。必然的に、数と権限において圧倒的に強い男性集団に囲まれた女性労働者という構図を生じるのです。増えつつあると言っても、まだまだ女性管理職の数は限られます。職場の上司たる男性と部下である女性の間の権力関係を利用した性的搾取が行われやすい環境があるわけです。学校という教育の場において、教師と院生・学生・生徒、あるいは体育部監督・コーチと部員の、絶対的な権力関係が利用されることがあります。

 このようなとき、権力関係の中での少なくとも半強制的な状況における性被害が、曖昧な意味合いを持ってしまうことがあります。そして男性集団の中で、被害者たるべき女性をむしろ非難の対象として貶めることもまま見受けられるところです。一般に、年齢差に基づく経済力や経験の差を含めて、これら全てが「力」による弱者の性的搾取を生む可能性を孕むのです。

 日本におけるこの男性優位の社会構造に気付かぬ事を当該男性の「認知の歪み」と言うようです。ジェンダー論には疎いので、調査報告書を読むまで知らなかったのですが、憲法を学ぶと明確に自己および他者の人権意識が確立されます。ここでの記述は、他者の感じ方を思いやる感受性が法の解決をこころざすための前提となるといった観点からのものです。

 人は生い育った文化に規定されます。家庭、学校、地域社会、書物や雑誌、それに映画などの映像作品の全てから影響されます。社会に差別意識があれば、その社会に生まれ育った者はその差別意識を空気のように身に纏い、なかなかその存在に気づきません。

 技術者である下級公務員をしていた父がそうでした。「男はどういうもので、女はどういうもので、父は、子は・・・」。被差別者に対する侮蔑の表現を、少なくともプライベートな場では、厭うこともしません。戦中、戦後に幼年期から思春期を過ごした父の時代の風潮に規定されていたのです。私はそのような言動を否定しますが、だからといって父を軽蔑しません。どこにでもいる普通の男性です。しかし、その視点がおかしいと言っても全く理解されません。それが「常識」だからです。むしろ、お前が間違っていると怒鳴られるだけです。

 時代は進展しました。社会や文化もその当時よりは発展したことでしょう。上述した法が立法されて、政府により女性の社会参画が叫ばれ、実際、社会のあらゆる分野に女性が進出しています。しかし、ご承知のように日本のジェンダー指数は先進国とは言えないような体たらくです。

 女性管理職を増やすためには、社会意識に働きかけ、ともすれば女性の高等教育に消極的になりがちな家庭に対して、経済的支援を充実させることで、女性に対する高等教育の機会を充分提供することと、就職差別をなくすことが重要です。企業の門戸を広げさせ、その上で、管理職の数値目標を設定するアファーマティブな人権政策が必要だと思います。議員候補者のクォーター制などの試みも是非、実現してもらいたいものです。いずれは議員定数の一定割合を女性とする公選法改正もあるかもしれません。

 話を元に戻しましょう。時代が変わり、文化も変わりつつあるとしても、また、上述の男性による「権力」の構造を意識しようとしていても、言葉の端に従前の文化に引きずられた表現が現れてしまうことがあります。それほど、自分の受けた学校、家庭の教育や基底的な文化の影響は大きいはずです。その言の端を捉えて押し並べて、そのいう「認知の歪み」に気付かず、伝統文化を押し付ける高齢男性集団と、これもまた類で捉えて差別されても堪りません。

 立憲民主党の対応やその誘引となったフェミニズム論者が、「あっ、しまった」と、本多議員が表現の稚拙さを詫びているのに、一方的に本質的「歪み」の輩だと決めつけ、議員生命を絶つべきだとしている点に違和感があります。その「歪み」が本当になかったかについてはよく考えてもらうべきだけれど、余りに性急ではないでしょうか。私は余り詳しくはありませんが、本多議員がこれまで国政で果たしてきた実績にも目を向けてみる必要がありそうです。党幹部として、立憲民主党の基本的な政策の策定に関わり、その実現に奔走していたのではないでしょうか。そうすると、例えば、議員クォーター制なども入ります。

 性交同意年齢を巡る、党の公約策定段階における党内議論の場で失言があったというのですが、先の調査報告書によると、その真意において「認知の歪み」があることが疑われるとしているだけで、これが処分理由にはなっていません。刑法改正を巡る党内議論の場において、多くの場合に威圧的で、外部からの講師に対しても、恫喝まがいの態度を感じさせた。これが通常の法的な定義とは異なるが、いわばパワハラに相当する。そして真意はどうであれ、あの不用意な発言が党の信頼を損ねる危険がある。以上が処分理由の全てです。

 上述のハラスメント防止委員会の目的からして、その調査内容に限界があるのは当然でしょう。私は、この言動から、直ちに議員としての死刑宣告まで行ってしまうのは、処分の相当性を欠くように思えてなりません。実際に何らかの性犯罪を遂行したとか、不貞行為があったというのではないのです。

 これでは、ジェンダー平等を掲げる政党が支持者を失わないために、選挙向けの宣伝のため、拙速に処分をしたという印象を与えるでしょう。実際、福山幹事長が厳重注意という軽い処分を下した後、フラワーデモの関係者から鋭い批判を浴び、一転して厳格な処分を行ったという迷走が、このことを示します。


2,法制度の弊害と優先すべき利益

 法は、対立する多様の利益の衡量を行い、最も上手い均衡点を探求するものです。各々の利益の観点から、異なる結論に至る対立する主張を付き合わせて、調和点を求めようとします。本多議員は激しやすいようですが、このような複数の利益の内の一方の主張を行っただけでは無いでしょうか。この点、性交同意年齢の論点に則して私見を述べます。

 結論的には、上に述べた権力構造を前提に、弱者保護を図る一環として、性交同意年齢の引き上げに賛成です。理由を以下に説明してみます。

 法制度には弊害が付き物で、何の利益を優先するかの選択が必要となります。最近の例では、児童相談所を巡る問題がありました。

 児童虐待が疑われると、緊急的に一時預かりの処分を下し、その親から子を引き剥がさなければなりません。児童虐待か否かの判断が困難な事例がままありますが、慎重になりすぎると、子供の命の危険にかかわります。他方で、虐待ではなかった場合、子は、その発達の重要な時期に、家庭環境から引き離され、親の養育を失い、親もその権利を侵害されます。子のSOSを看過し、傷ましい虐待死を招いた重大事件の後、児相が一層、保護処分相当の判断に傾く傾向があるようです。この場合、子の命への危険を一層、重視するなら、良き親から子を奪う結果となるときに、子の福祉の観点から問題を生じます。

 子供の長い髪の毛が首に巻き付いた跡を、虐待による傷跡と間違ったために、実際、このような弊害を生じた事件があったのです。幼い子の養育のための、かけがえのない時間をその子と親から奪ってしまう結果となりました。子の命の危険を避けるべきは一刻の猶予もありません。しかし、家庭養育による子の福祉の増進を失う可能性もあります。どちらを優先するべきでしょう。

 さて、性交同意年齢の問題です。真の恋愛は通常、刑事事件化しません。愛し合っている相手を犯罪者にしたいとは誰も思わないでしょう? 刑事事件となるのは、ア)最初から犯罪で良い援助交際や強制性を伴う性交の場合か、イ)第三者が問題視した場合、そして ウ)最初は恋愛感情によるものであったのに、後になって若年者の方が翻意したような場合でしょう。

 刑法典に書き込まれたときに、その年齢に至らない若年者とは性交が許されないという規範が成立します。ア)の事例は当然だが、イ)や、ウ)の事例ではどうでしょうか。イ)の場合、当人同士が恋愛関係にあり、愛情の発露としての関係であったとしても、当事者の保護者やあるいはその他の第三者が通報すれば、成人の方が犯罪に問われることになります。法定レイプです。

 個人の自由意思の範疇に国家が介入し、不当であるようにも思えます。しかし、立法が成立するなら、成年者の方が、相手がその年齢になるまでは、抑制するべきだという規範が確立することになります。真の恋愛であればこそ、例えば16才という、その年齢まで待てないのはおかしいでしょう。また、実際には、警察の捜査裁量、検察の起訴裁量にかかる範囲も相当あるので、示談で解決される場合もあると考えられます。
 
 法制度には弊害がつきものであり、この場合に何が優先されるべきかと言うと、ア)の場合の若年者保護という事になります。この限りで、特にイ)やウ)のときに、国家が個人の自由意思の範囲に介入する余地は増すが、若年者側に訴追の決定権という権力を与え、権力構造の偏りを少し解消するのです。権力関係から半強制的に、あるいは判断能力の劣る者の同意を強いる状況で性交に至る若年者を一層、保護するわけです。

 一般的には、若年女性の保護が念頭に置かれているので、1に述べた男性集団と女性の権力関係を是正するという意味でフェミニズムに関係し、ジェンダーの議論となります。しかし、性交同意年齢の引き上げに関する刑法の改正論議は、男女の関係は必ずしも固定されず、成人女性と若年男性の関係や同性間の関係も規律するものです。いずれにせよ、若年者という意味で、権力のある者と弱者との関係において、定型的な弱者を保護する議論なのです。

* 7月28日に、本多議員が自ら離党し、比例区候補の筋を通すとして、衆院議員も辞職しました。

50男と14女の関係?2021年06月18日 04:57

  「50才が14才と性交しても、真の恋愛であれば犯罪とするべきではない」と、立憲民主党の本多議員が党内WTにおいて発言しました。ポリタスTVにおいて、当事者の一方である大阪大学の島岡教授が詳細を述べています。
https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ
(「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言|ゲスト:島岡まなさん(6/16) #ポリタスTV)

1,
 性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも16才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした50男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、14才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の18才とされました(2022年4月施行)。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。

 性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。

 立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、50才の女性と14才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。

 もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。

2,
 冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。50の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。

 日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。

 マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル=マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。

 かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。

 イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。

 日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。(私も免れませんが)高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。

 再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。



 それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、TPOに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。

元SEALDsメンバーの福田和香子さんのステイトメントについて2021年06月04日 00:37

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 集団安保法制に反対した元SEALDsメンバーの福田和香子さんが、twitter上、匿名で中傷された事件です。相手方を特定した上で名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、地裁において勝訴しました。

 2021年6月1日東京地裁判決についての、webニュースです。
 https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060101021&g=soc


 福田さんのステイトメントとが公表されています。

 https://tokyofeminist.wixsite.com/waks/single-post/long-way-home

 
 自身が受けた侮辱的な言葉の一個一個を明らかにしながら、その言葉により傷つけられた者が声を上げることは、生まれながらにして持っている権利だとしています。インターネット上、度々生じる誹謗中傷に対して、恐れずに立ち向かうことは。よほど困難なことに違いありません。

 一人の被告に対する裁判という以上に、女性が政治的発言をすること、政治的な行動を起こすことに対して、よってたかって誹謗中傷を行う匿名の人たち、もっと言えば、このことを許容する社会に対して起こした代表訴訟だと思います。

 記者会見で、次世代に伝えたいメッセージを聞かれ、次の様に答えたそうです。

 「あなたが生きているうちに社会が変わることはないかもしれないけれど、大切なのはあなたがその変化の一部になろうとしているという事実があることです」。

 生きている間に変わることないかもしれないと、社会に対する絶望的な見方を述べながら、しかし、「変化の一部になろうとしている事実」こそ大切だとしています。 若い女性が、戦って強くなってしまった。強くならなくても生きてゆける社会にしたい。生きている間に実現しないとしても、次の世代のために戦い続けるという彼女に強い感銘を受けました。

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 この世の中は、プラスとマイナスの抗争によって成り立っているなどというと、まるでゾロアスター教の教義のようですが、キリスト教文明にも深く刻まれた思想です。聖邪、善悪の対立がこの社会の構成要素であって、どちらが欠けてもいけない。いずれかが完全に負けてしまうと、社会そのものが瓦解する。むしろ「抗争」こそがこの社会の実体なのだとするのでしょう。

 私が、善悪という言葉にしないで、プラスとマイナスと呼ぶのは、善し悪しの評価をすることができない両極という意味を表したかったからです。単純な勧善懲悪ではなく、いわゆる「悪」とされるものであっても、実は、この社会を成立させるために、なくてはならないものである可能性があります。

 例えば、世界を股にかける武器商人は、明らかに「悪」なのでしょう。しかし、それでは武器商人が完全に無くなれば良いかというと、国際社会はもっと複雑です。この社会に人々が生きていくために必須の役割をも担っています。単純に善悪に決めつけることは不可能なのです。もっとも、これと戦い続ける努力を無くすることは有り得ません。一方が完全に支配するなら、人間の社会が消失してしまうからです。

 プラスとマイナスが存在し、お互いに力を及ぼし合うことでこの社会が成り立つので、未来永劫、いずれかが完全に勝利することは有りません。 しかし、この闘いは、決して諦めることが許されません。プラスの方向に向かう変化の一部になろうとする「事実」が是非とも必要なのです。完全にマイナスに支配されることは社会の滅亡を意味します。

 この闘いには、希望がなく、絶望も許されない。その人が変化の一部になろうとする、その事実が存在するだけなのです。

 冒頭の記事の福田さんは、「声を上げる」ことを諦めません。この抗争を止める訳にはいきません。法廷闘争は、現代社会の重要な闘いの場です。

 資本主義や天皇制に対する考え方は、私とは異なります。しかし、「変化」の一部になろうとするその態度に感動を覚えたのです。若者が、女性が、民主主義のために発言し、行動すること。

 生きている間に実現しないという希望のなさに耐える強さを、闘いの中で身につけ、強さを持たない人への優しいまなざしを失わない。この若い女性の態度にです。

入管法改正と、経済難民、移民政策。2021年05月29日 22:55

 スリランカ人であるウィシュマさんが、入管施設に収容中亡くなったことを契機として、入管法改正法案が廃案になりました。ウィシュマさんは、在留資格が無くなったため、不法滞在の状態にありました。

 外国人の収容施設には、不法滞在で法務大臣の特別在留許可を申請している人のほか、難民申請を繰り返しながら、認定を受けられず、長期的に収容されている人など、本国への送還を拒む長期収容者が多くいます。

 ウィシュマさんの死は、主として、外国人収容施設における外国人に対する待遇改善の問題を提起しました。ここでは、別の角度から、すなわち、日本の難民受入れが極端に少ないこと、日本が移民を受け入れるべきか否かという観点から、少しお話をしようと思います。

 結論的には、移民政策と難民政策の両面からのアプローチが必要だということになります。


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 難民条約上「人種や宗教、国籍、政治的な意見のため母国で迫害を受けるおそれ」がある場合を「難民」として定義しています。日本の入管法上、この立証を難民申請している者に求めており、難民認定が入管庁の裁量に委ねられており、極めてハードルが高いことが知られています。

 例えば、内戦などの母国の状況から難民化した人は、必ずしも政治的意見を表明したために迫害のおそれがあるではありません。経済的理由から母国ではとても生活ができない、あるいは命の危険があるとしても、経済難民として扱われます。

 かつて、ベトナムのボート・ピープルが大量に生じました。社会主義化を心配して資本主義政権の支配地域から逃れてきた人達が、手作りの筏に乗って、東シナ海にこぎ出したのです。大海の中を漂流する人達を人道上の理由から複数の国々が「難民」として受け入れました。日本は、上の定義に当てはまらないとして、当初、受入れを拒絶したのですが、国際的な批判の高まりもあって、一定数を受け入れることにしました。しかし、インドシナ難民として特別の枠組みを作り、受け入れることにしたのです。条約上受入を義務づけられる難民を条約難民と読んで、これと区別しています。

 それも極めて限定的です。法務省の説明によると、ボート・ピープルの側が、文化的な理由等から、日本を受け入れ先に希望しなかったとされます。これに対して、例えば、シリア内の戦闘激化による難民が、トルコを経由して大量に欧州に押し寄せたとき、EU加盟各国が割当制により受け入れたことは記憶に新しいですね。

 確かに、難民条約上の難民の定義には、経済難民を明示的には含んでいないようです。条約上、これを受け入れる義務があるかについては議論があるでしょう。条約の目的や、起草過程など、国際社会における多くの国々の国家実行がどうであるかなど、慎重な国際法解釈が必要になります。

 また、仮に、他国が経済難民も受け入れるとしても、移民政策の相違がその前提としてあることには注意が必要です。アメリカや欧州先進国が、従来より、寛容な移民政策を取ってきたのです。新天地を求める移民の中に、母国の政治情勢などの理由で経済的に困窮している人達が含まれていると予想できます。従って、欧米では、経済難民を受け入れる素地が元々あるわけです。

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 これに対して、わが国は、少なくとも法制上、移民を全く受け入れないという政策を取っているのです。高度人材となる専門的技能・知識を有するような外国人と異なる単純労働者については、第二次世界大戦後、日本の高度経済成長期を通じて全く門戸を閉じていました。
 
 しかし、少子高齢化が進行しているわが国の労働市場において、単純労働こそ需要が旺盛なのです。バブル期より、足りなくなった人手をどうして補っているかというと、表向き国際貢献目的である技能実習を通じて、その外国人の一生に一度だけ、3年ないし5年の年限を区切って受入れることで何とか急場を凌いでいるのです。定住、永住の途は一応ありません。

 もっとも近年、細かい業種毎に受入れ人数を管理しながら、特定技能や介護(これが単純労働とは言えないかもしれませんが)の新たな資格を設けて、受入れを拡張しています。これについては、一部、永住化の方法も有り得るので、既に、移民政策と言っても良いでしょう。そもそも高度人材については、以前より、積極的な受入れ、永住化の政策をとっているのですから、「移民」ではなく「外国人材」と言い換えても、ほんの言葉の問題に過ぎないでしょう。国際的な移民の定義からはかけ離れています。

 そこで、単純労働分野における移民の受入れを認め、もとより、そのためには多様な要素に基づくコスト・ベネフィットの計算と、日本人労働者の労働条件の切り下げを防ぐための最適な受入れ方法についての、国民的な議論を前提としますし、相当の準備も必要です。しかし、その上で、真正面から、移民政策をとっていると認め、労働者保護と機会均等に向けた内国の外国人保護政策を行うべきであると、このブログでも以前より主張しています。定住化および同化、統合のための施策も必要になります。

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 このことが、経済難民受入れの前提となるでしょう。なぜなら、少なくとも建前としての単純労働者の移民絶対拒絶政策が、経済難民受入れと、実際的な結果として、全く相容れないからです。これを併せて改革するのでなければ上手くいきません。単純労働の受入れを一定程度拡大し、定住化を容認するとすれば、母国が紛争下にあり、生命の危険にさらされているような人達を受け入れることは政治的か、あるいは経済的理由であるかの線引きが、そこまで厳密である必要が無くなるからです。

 併せて、不法滞在者の処遇問題についても、改善が期待できるのではないでしょうか。個々人の、わが国で送ってきた生活態度や素行などを勘案しつつ、柔軟に、特定技能やその他の資格転換のための猶予を与えることができるかもしれません。

高等教育の行政改革2021年05月18日 10:41

 もう梅雨入り。朝から曇天で、しかし風はひんやりとして心地良い。コロナ禍はまだまだ収まらず、小生は、今日も大部の洋書と取っ組み合う予定です。これはこれで楽しいのですが、そよぐカーテン越しに、窓の外を眺めながら、難儀な世の中・・・。
C= (-。- ) フゥー

1、行政改革の意味すること

 行政改革が公務員削減を意味するなら、公共団体のある部門の人員を削減して、民間委託することになります。その部門の労働者は、多くが社会に必須のエッセンシャルワーカーです。例えば、地方自治体では、廃棄物処理、運送、水道の検針業務、清掃等の各種関連業務などです。最近話題の保健衛生も含まれます。公務員であれば、身分保障があり、相当高待遇の労働条件で定年までほぼ間違いなく働けます。

 その結果、確かに、モラルハザードを生じました。市民、利用者に対して態度が悪く、労働時間管理が疎かになりがちであるなど、非効率で人件費ばかり嵩むのです。これらの部門を切り離し、民間委託すると、民間の事業者は採算が合わないと倒産するので、効率化されます。それで従来と変わらないか、それ以上のサービスを低コストで受けられるなら、万々歳でしょう。

 しかし、効率化とは、可能な限り少ない人員で同じだけの仕事量を遂行させることを意味します。低賃金、長時間労働を招き、賃金の単価が切り下げられます。また、事業者から見て不要なサービスも切り捨てられることになります。採算が取れない一切のサービスが公的部門に最小限を残し、社会から無くなることにもなります。コロナ禍が明らかにしたように、有事の際に、全く融通の効かない事態を招くことにもなります。

 かくて、行政改革が特定部門の民間委託により、社会に必須の業務について、サービスの低下を招くとしたら、その改革は失敗であるとの誹りを免れないことになります。公務員が担うことによる非効率と、民間事業者による場合の全般的なサービス低下や社会のセーフティネットとしての役割の減退との、均衡の取れた施策こそ求められます。

2、大学の場合

 ここで、視点を変えて、国立大学の教育という公的部門の一つの事業について考えてみます。大学の提供する高等教育がエッセンシャルであるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、これが社会にとって必要あるいは極めて重要であることは疑いのないところです。

 少子高齢化により、大学の入学者が、長期的に減少していくことが予想されます。また、国家財政が全体として切迫していることから、大学にもリストラ圧力がかかっています。定年不補充の方法により、徐々に職員数を減らしてゆくのです。その結果、全国の国立大学の事務職員数が劇的に減らされました。いきおい、事務業務の教員への移管が進められることにもなります。大学の先生は、教育研究に専念していれば良いというのは今は昔のことです。

 これが一巡すると、今度は、教員に対するリストラが始まりました。教員に対するリストラとは、教育科目のリストラを意味します。何とか、非常勤によって講義科目を維持できたとしても、研究分野を失い、何より学生にとってのゼミナールを無くすることになります。例えば、法学部系であれば、憲法や民法のゼミが無くなるのです。

 旧聞に属しますが、国立大学には文系学部は不要であるとする政治家の発言が話題になりました。国公立、私立の垣根を越えた、大学、学部の統合が文科省の目下の目標ですが、あまり進展していません。先ほど、ディシプリンの枠組みに全くとらわれないミッションの再定義という大号令の下で、全国の大学の改革が遂行されましたが、その美名の下、実は、文系を中心とした大学内の学部併合に遂しました。一層、リストラがやり易くなったのです。

 この先はどうなるのでしょう。文科省は長期的な視野に欠ける施策を良くするので、どのような目的を持っているのかは分かりませんが、財務省が大学の学生及び教員定員の削減を狙っているのは明かです。

 国立大学・学部を潰すとしたら、少なくともその地方において、その教育分野の高等教育について「民間委託」することになるでしょう。ある地方の国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部などが無くなり、地方私立大学に委託されます。学生に対しては、おそらくは国が一定の金銭的補助をしてくれるでしょが、その結果どうなるか。

 国立大学は、学生定員に対して教員数が多く、従って、私立大学に比して圧倒的に少人数教育に有利なのです。知人の私立大学教員に聞くと、人気の科目であると、期末試験の採点枚数が800枚から1000枚に及ぶこともあると言います。出席管理などどうするのでしょうね。授業を受けなくても、あんちょこで試験にさえ受かればの、ちゃっかり単位、ちゃっかり卒業ということになり易いでしょう。(もっとも、これは国公立にも共通の、大学としての課題ですが・・・。) ゼミナールも常時、数十人の規模となり、学生がゼミ報告をするとしても、年間、数回がせいぜいです。教員の目が学生一人一人に行き届くということは望めないでしょう。他方、奉職先大学の学部では、ゼミ定員の上限を6〜7人に設定しており、また、講義科目でも、可能な限り双方向の授業を実施しています。よりきめ細かな学生指導が可能であるのは目に見えています。大学事業の民間委託の結果がお分かりになるでしょう。

 決して、私立大学の教育を否定する趣旨ではありません。しかし、この「非効率の」少人数教育を低負担で地方の若者に提供してきた国立大学の役割を失うことになります。

 このブログでは教育に焦点を当てましたが、国立大学は、多くの研究者を雇用し、各学問分野に研究者を供給しています。伝統分野のみならず、先端的、あるいは融合的な、新しい学問分野の創造と発展に極めて重要な役割を担ってきました。これも効率化と引き換えに失うことになりかねません。日本に今求められているイノベーションを引き起こすものであるのにです。

 ここでも、モラルハザードを防止しつつ、非効率を改善することと、安価で上質な高等教育の提供との、均衡点を見つける必要があるようです。

保守とリベラル?2021年02月12日 19:11

 私は木蓮の花が好きです。寒い冬が終わり、いよいよ暖かくなる一番最初に、木綿色の、柔らかな紫の、大きな花が一斉に咲きます。もうすぐ春です。木蓮の蕾も膨らんできました。

 リベラルと保守について、私の考えをまとめてみます。最近、この区別がよくわからないように思えます。冷戦が終結したことを理由にして、リベラル不要論さえあります。

 高福祉高負担の現在の福祉国家路線は、戦後の高度経済成長に支えられて自民党保守本流が作ったものです。55年体制の下で旧社会党もこれに与りました。政治学の厳密な定義ではないですが、ヨーロッパの社会民主主義とも見まがうほどです。アメリカであれば、国民皆保険制度を社会主義と呼ぶ保守政治家が普通にいます。これを日本の保守的リベラリズムと呼んでおきましょう。

 少子高齢化と国家財政破綻の危機に瀕して、新自由主義の流れを生じました。小さな政府を目指すネオ・リベラリズムと言うこともあります。これに抵抗するのが、保守的リベラル。立憲民主党の枝野代表の立場です。アベノミクスに代表される、新自由主義に向かって一歩を踏み出そうとするかのような政府・自民党の中心的な主張がこれに対峙しています。

 ヨーロッパ諸国の中には、ドイツのように、ネオ・コンの主張を体現する政党と、共産主義を目指す極左政党が伸長したために、従来交互に政権を担ってきた福祉重視の保守政党と社会民主主義を標榜する穏健左派政党が中道化し、間に挟まれた正に真ん中に押し込められて弱体化している国が散見されます。しかし、これは戦前、ナチズムを産んだドイツの政治状況にも似ていて、心配でもあります。

 このようなヨーロッパの国と比べると、極めて幅広い政治的立場を含む政治家の集合である自民党のおかげで、日本の政治情勢はぬるま湯の中につかっているようです。保守的リベラリズムと、その中心的主張は温存しながら、多少なりともその方向性に踏み出そうとするかのような新自由主義の対立だからです。後者さえ、アメリカのティー・パーティのような極端な自由競争信奉者ではありません。日本の保守的リベラリズムを核として、幾分かの幅を持ったいくつかの同心円の中に、根本的な経済政策および社会政策については、多くの日本の政党が収まってしまいます。細かな政策的相違を除くと、その相違さえも選挙前には良く似てくるのだけれど、そもそもその大綱は余り見分けがつきません。私は、各党の選挙公約が似通ってくることを、時代とコースの定理と呼んでいます。今の中学生は知りませんが、私の学生時代には、『〇〇時代』と『〇〇コース』という名前の月刊誌をクラスメイトのほぼ全員が買っていて、二つの学習雑誌が、特におまけの内容と量を競っていたのです。その結果、どちらの雑誌の付録も毎号ほとんど異ならなくなりました。

 このことが問題であるというのではありません。幾分か一層、保守的リベラル、幾分か、新自由主義の相違を強調しつつ、経済政策においては穏健な政治的対立があれば良いと考えています。これを反映した経済的安定が国民の信頼獲得のためには是が非とも必要です。外交安全保障の相当程度の継続性も国民の安心感に通じます。

 大きな相違は、多様性を尊重しマイノリティーの声を最大限反映する態度と、一層の環境保護および生物多様性の維持に向かう政策であるべきです。現代日本社会の最大の焦点の一つが女性というマイノリティーのより深化した社会進出の促進です。以上が「文化闘争」です。これに加えて国際主義の立場に依拠するのが、私の考えるリベラリズムです。

 まとめると、経済における一層、保守的リベラルと、幾分か新自由主義の抗争と、文化闘争、そして国際協調主義と自国中心主義の相違に従い、政権交代が適宜に行われること。これこそが日本の民主主義の発展をもたらし、欧米に比べて、日本社会においてとてつもなく遅れている文化的価値の実現、換言すると、人権と多様性に開かれた寛容の価値を前進させるでしょう。

 以上は、このブログでも再三触れてきた持論です。最近、下記の論考に接したので、改めて論じることにしました。

大賀 祐樹
2021年の論点100 ー「左」でも「反日」でもない……素朴な疑問「リベラル」とは何を意味するのか?
https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1

書評が出ました。2021年02月05日 09:17

先にお知らせしましたように、私も小論を執筆しています。書評が出ました。

<書評>山岡俊介「表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景」(寄川条路編、社会評論社)(『アクセスジャーナル』2021年2月3日)
https://access-journal.jp/56659

出版のお知らせ2021年01月26日 16:35

このほど、
寄川条路編『表現の自由と学問の自由-日本学術会議問題の背景-』(社会評論社)が出版されました。小生も、第三章「大学はパワハラ・アカハラの巣窟」を執筆させていただきました。


寄川条路/編稲正樹/榎本文雄/島崎隆/末木文美士/
不破茂/山田省三/渡辺恒夫/著

A5判並製128頁
本体1,000円+税
ISBN 978-4-7845-1589-9 C0030 社会評論社


寄川氏は、著名な明治学院大学事件の原告です。
この事件については、次のウェブサイトを参照して下さい。

https://sites.google.com/view/meiji-gakuin-university-jiken/
http://university.main.jp/blog8/archives/cat120/
(いずれも、2021/1/26確認)


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