続・50男と14女の関係? ― 2021年07月20日 22:40
私は刑法の専門家ではありません。必ずしも刑法学者と同じ視覚からの議論ではないので、一般の方に分かりやすく、面白いかもしれません。
「50代の私が、14才の女性と恋愛に落ちることを、犯罪として良いか」という趣旨の発言を巡り、立憲民主党の執行部が、議員本人の趣旨説明と陳謝を受け入れず、党の懲戒委員会に懲戒処分の諮問を行いました。本多議員は、中年男性から未成年の女性に向けられる視線といった類いの問題ではなく、刑法改正の議論において、実感を持って非犯罪化の方向で議論したかったとしています。
次回総選挙における党の公認内定取消し、更に、1年間の党員資格停止の処分を下すということです。本年秋に予定される次回選挙での当選が見通せない限り、議員生命を断つというほどの重い処分です。新聞記事によると、幹部らが本人に「出処進退を明らかにする」ことを迫ったにも関わらず、本人が受け入れなかったため、処分に踏み切ったようです。
衆議院議員本多平直氏の公式サイト (https://www.hiranao.com/)
朝日新聞の記事「立憲、本多氏の公認内定取り消しへ 性交同意巡る発言で」(https://www.asahi.com/articles/ASP7F3JHWP7FUTFK008.html)。
弁護士を含む第三者を委員とする「ハラスメント防止対策委員会」というのは、党内および党周辺におけるハラスメント案件について、告発を含めて対策を行うための、党から独立した常設の委員会であるとされています。同委員会から、この問題についての調査報告書が発出されました。
調査報告書をまとめた委員会の委員長が労働ジャーナリストの金子雅臣氏(一般社団法人職場のハラスメント研究所所長)です。調査報告書は長文であり、独特の専門的用語を用いた難解なものですが、簡単には、次の毎日新聞の記事で概要を知ることができます。また、立憲民主党幹事長の記者会見で、調査報告書の内容がやや詳細に紹介されており、これを受けた処分について説明されています。
毎日新聞の記事「本多平直氏「同意性交」発言 立憲、調査報告書で言動を強く批判」(https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/010/009000c)
立憲民主党「福山哲郎幹事長記者会見2021年7月13日(火)」(https://cdp-japan.jp/news/20210713_1800)
なお、立憲民主党プレスリリース「「誠心誠意、実現をしていきたい」ハラスメント防止対策委員会「調査報告書」を受けて、福山幹事長」 (https://cdp-japan.jp/news/20210713_1792)。
1,認知の歪みとされるものと、本多議員の失言の関係
まず、日本の文化の中には、男性支配の構造が今なお厳然として存在しています。「男が外で働き、女が家を守るという分業の発想」が、多くの仕事の場において、職員数や権限の質的な差を生んでいます。女子差別撤廃条約への加入を受けて、男女雇用機会均等法が制定されても、もちろん社会的発展の胎動が基底として存在したには違いないとしても、法の制定だけでは、文化というものはそう簡単に変わるものではありません。
高等教育を受ける機会を提供することについて、送り出す家庭にしても、受け入れる教育機関にしても(奉職先は国立大学なのでないが、)今なお男女の扱いに相違があり得ます。折角入った大学にしても、卒業時には、多くの企業が採用上、男女の差を設けているのは周知の事実です。必然的に、数と権限において圧倒的に強い男性集団に囲まれた女性労働者という構図を生じるのです。増えつつあると言っても、まだまだ女性管理職の数は限られます。職場の上司たる男性と部下である女性の間の権力関係を利用した性的搾取が行われやすい環境があるわけです。学校という教育の場において、教師と院生・学生・生徒、あるいは体育部監督・コーチと部員の、絶対的な権力関係が利用されることがあります。
このようなとき、権力関係の中での少なくとも半強制的な状況における性被害が、曖昧な意味合いを持ってしまうことがあります。そして男性集団の中で、被害者たるべき女性をむしろ非難の対象として貶めることもまま見受けられるところです。一般に、年齢差に基づく経済力や経験の差を含めて、これら全てが「力」による弱者の性的搾取を生む可能性を孕むのです。
日本におけるこの男性優位の社会構造に気付かぬ事を当該男性の「認知の歪み」と言うようです。ジェンダー論には疎いので、調査報告書を読むまで知らなかったのですが、憲法を学ぶと明確に自己および他者の人権意識が確立されます。ここでの記述は、他者の感じ方を思いやる感受性が法の解決をこころざすための前提となるといった観点からのものです。
人は生い育った文化に規定されます。家庭、学校、地域社会、書物や雑誌、それに映画などの映像作品の全てから影響されます。社会に差別意識があれば、その社会に生まれ育った者はその差別意識を空気のように身に纏い、なかなかその存在に気づきません。
技術者である下級公務員をしていた父がそうでした。「男はどういうもので、女はどういうもので、父は、子は・・・」。被差別者に対する侮蔑の表現を、少なくともプライベートな場では、厭うこともしません。戦中、戦後に幼年期から思春期を過ごした父の時代の風潮に規定されていたのです。私はそのような言動を否定しますが、だからといって父を軽蔑しません。どこにでもいる普通の男性です。しかし、その視点がおかしいと言っても全く理解されません。それが「常識」だからです。むしろ、お前が間違っていると怒鳴られるだけです。
時代は進展しました。社会や文化もその当時よりは発展したことでしょう。上述した法が立法されて、政府により女性の社会参画が叫ばれ、実際、社会のあらゆる分野に女性が進出しています。しかし、ご承知のように日本のジェンダー指数は先進国とは言えないような体たらくです。
女性管理職を増やすためには、社会意識に働きかけ、ともすれば女性の高等教育に消極的になりがちな家庭に対して、経済的支援を充実させることで、女性に対する高等教育の機会を充分提供することと、就職差別をなくすことが重要です。企業の門戸を広げさせ、その上で、管理職の数値目標を設定するアファーマティブな人権政策が必要だと思います。議員候補者のクォーター制などの試みも是非、実現してもらいたいものです。いずれは議員定数の一定割合を女性とする公選法改正もあるかもしれません。
話を元に戻しましょう。時代が変わり、文化も変わりつつあるとしても、また、上述の男性による「権力」の構造を意識しようとしていても、言葉の端に従前の文化に引きずられた表現が現れてしまうことがあります。それほど、自分の受けた学校、家庭の教育や基底的な文化の影響は大きいはずです。その言の端を捉えて押し並べて、そのいう「認知の歪み」に気付かず、伝統文化を押し付ける高齢男性集団と、これもまた類で捉えて差別されても堪りません。
立憲民主党の対応やその誘引となったフェミニズム論者が、「あっ、しまった」と、本多議員が表現の稚拙さを詫びているのに、一方的に本質的「歪み」の輩だと決めつけ、議員生命を絶つべきだとしている点に違和感があります。その「歪み」が本当になかったかについてはよく考えてもらうべきだけれど、余りに性急ではないでしょうか。私は余り詳しくはありませんが、本多議員がこれまで国政で果たしてきた実績にも目を向けてみる必要がありそうです。党幹部として、立憲民主党の基本的な政策の策定に関わり、その実現に奔走していたのではないでしょうか。そうすると、例えば、議員クォーター制なども入ります。
性交同意年齢を巡る、党の公約策定段階における党内議論の場で失言があったというのですが、先の調査報告書によると、その真意において「認知の歪み」があることが疑われるとしているだけで、これが処分理由にはなっていません。刑法改正を巡る党内議論の場において、多くの場合に威圧的で、外部からの講師に対しても、恫喝まがいの態度を感じさせた。これが通常の法的な定義とは異なるが、いわばパワハラに相当する。そして真意はどうであれ、あの不用意な発言が党の信頼を損ねる危険がある。以上が処分理由の全てです。
上述のハラスメント防止委員会の目的からして、その調査内容に限界があるのは当然でしょう。私は、この言動から、直ちに議員としての死刑宣告まで行ってしまうのは、処分の相当性を欠くように思えてなりません。実際に何らかの性犯罪を遂行したとか、不貞行為があったというのではないのです。
これでは、ジェンダー平等を掲げる政党が支持者を失わないために、選挙向けの宣伝のため、拙速に処分をしたという印象を与えるでしょう。実際、福山幹事長が厳重注意という軽い処分を下した後、フラワーデモの関係者から鋭い批判を浴び、一転して厳格な処分を行ったという迷走が、このことを示します。
2,法制度の弊害と優先すべき利益
法は、対立する多様の利益の衡量を行い、最も上手い均衡点を探求するものです。各々の利益の観点から、異なる結論に至る対立する主張を付き合わせて、調和点を求めようとします。本多議員は激しやすいようですが、このような複数の利益の内の一方の主張を行っただけでは無いでしょうか。この点、性交同意年齢の論点に則して私見を述べます。
結論的には、上に述べた権力構造を前提に、弱者保護を図る一環として、性交同意年齢の引き上げに賛成です。理由を以下に説明してみます。
法制度には弊害が付き物で、何の利益を優先するかの選択が必要となります。最近の例では、児童相談所を巡る問題がありました。
児童虐待が疑われると、緊急的に一時預かりの処分を下し、その親から子を引き剥がさなければなりません。児童虐待か否かの判断が困難な事例がままありますが、慎重になりすぎると、子供の命の危険にかかわります。他方で、虐待ではなかった場合、子は、その発達の重要な時期に、家庭環境から引き離され、親の養育を失い、親もその権利を侵害されます。子のSOSを看過し、傷ましい虐待死を招いた重大事件の後、児相が一層、保護処分相当の判断に傾く傾向があるようです。この場合、子の命への危険を一層、重視するなら、良き親から子を奪う結果となるときに、子の福祉の観点から問題を生じます。
子供の長い髪の毛が首に巻き付いた跡を、虐待による傷跡と間違ったために、実際、このような弊害を生じた事件があったのです。幼い子の養育のための、かけがえのない時間をその子と親から奪ってしまう結果となりました。子の命の危険を避けるべきは一刻の猶予もありません。しかし、家庭養育による子の福祉の増進を失う可能性もあります。どちらを優先するべきでしょう。
さて、性交同意年齢の問題です。真の恋愛は通常、刑事事件化しません。愛し合っている相手を犯罪者にしたいとは誰も思わないでしょう? 刑事事件となるのは、ア)最初から犯罪で良い援助交際や強制性を伴う性交の場合か、イ)第三者が問題視した場合、そして ウ)最初は恋愛感情によるものであったのに、後になって若年者の方が翻意したような場合でしょう。
刑法典に書き込まれたときに、その年齢に至らない若年者とは性交が許されないという規範が成立します。ア)の事例は当然だが、イ)や、ウ)の事例ではどうでしょうか。イ)の場合、当人同士が恋愛関係にあり、愛情の発露としての関係であったとしても、当事者の保護者やあるいはその他の第三者が通報すれば、成人の方が犯罪に問われることになります。法定レイプです。
個人の自由意思の範疇に国家が介入し、不当であるようにも思えます。しかし、立法が成立するなら、成年者の方が、相手がその年齢になるまでは、抑制するべきだという規範が確立することになります。真の恋愛であればこそ、例えば16才という、その年齢まで待てないのはおかしいでしょう。また、実際には、警察の捜査裁量、検察の起訴裁量にかかる範囲も相当あるので、示談で解決される場合もあると考えられます。
法制度には弊害がつきものであり、この場合に何が優先されるべきかと言うと、ア)の場合の若年者保護という事になります。この限りで、特にイ)やウ)のときに、国家が個人の自由意思の範囲に介入する余地は増すが、若年者側に訴追の決定権という権力を与え、権力構造の偏りを少し解消するのです。権力関係から半強制的に、あるいは判断能力の劣る者の同意を強いる状況で性交に至る若年者を一層、保護するわけです。
一般的には、若年女性の保護が念頭に置かれているので、1に述べた男性集団と女性の権力関係を是正するという意味でフェミニズムに関係し、ジェンダーの議論となります。しかし、性交同意年齢の引き上げに関する刑法の改正論議は、男女の関係は必ずしも固定されず、成人女性と若年男性の関係や同性間の関係も規律するものです。いずれにせよ、若年者という意味で、権力のある者と弱者との関係において、定型的な弱者を保護する議論なのです。
* 7月28日に、本多議員が自ら離党し、比例区候補の筋を通すとして、衆院議員も辞職しました。
50男と14女の関係? ― 2021年06月18日 04:57
https://www.youtube.com/watch?v=Ji4-FLfiGZQ
(「50代が14歳と性交」立憲本多議員の発言が物議を呼んだ性交同意年齢の刑法改正議論 法務省の検討会での議論と問題の発言|ゲスト:島岡まなさん(6/16) #ポリタスTV)
1,
性交同意年齢を引き上げる刑法改正が議論されています。刑法の専門ではないのですが、個人的には少なくとも16才までの引き上げに賛成です。真の恋愛と勘違いした50男は捕まってもおかしくない。法があったとすれば、真の恋愛であればなおさら、その年齢まで成人の方が抑制すべきです。明治期の日本であれば、14才ぐらいの女性が金持ちの男の許にその種の「奉公に上がる」ことが有り得たのかもしれません。経済力のある男性が女性を扶養し、子孫を残すべきであるとする文化があったのです。婚姻適齢が男女において差があったのも、そのような日本の文化を反映しているのでしょう。しかし、文化は変わります。男女雇用均等法が施行され、女性の社会進出が当たり前になりました。少子高齢化の進行によって、女性の労働力が社会において活かされざるを得なくなっています。最近、婚姻適齢も、男女とも同一年齢の18才とされました(2022年4月施行)。女性が「家」ないし男性から独立する経済力を獲得し、女性差別が禁止される社会であるのです。
性交同意年齢の引き上げがジェンダー論と結び付けて主張されるのは、上のような日本社会の変容を受けて、若年女性が経済力ある男性から性的搾取を受けることが不当であるとする観点がまず、考えられます。また、強制性交罪における通常被害者である女性の側の立証の困難を緩和するという観点があります。暴力や被害者との関係における優位性に基づき、弱者である女性を保護する必要があるという文脈において、ジェンダー論に関係します。一般論として、主として女性被害者の問題であることは恐らく間違いが無いのでしょう。
立法事実として、男性と女子中高生との援助交際が問題視されているのは承知していますが、男女の逆パターンや同性間の問題にも気づくべきです。例えば、20才と14才の恋愛はどうか。やはり性交までは思いとどまるべきか。20才が捕まって良いか、微妙にはなります。私の結論は全てアウト。そういうと、50才の女性と14才の男性のパターンにおいて、女性の犯罪とされるべきかについて違和感を覚える人が結構いるのではないでしょうか。しかし、これが許容されるべきだとするのも、強くて早熟であって良い男性像を前提しているように思われます。これが不快であり、精神的な傷を負うような男性であったならどうでしょう。判断能力の十分ではない若年者が上手く拒絶できない場合があるとして、その人格の発達過程を保護するべきだとするなら、性別に関わらす同意を可能とするべきではないはずです。これも広義においてはジェンダー論に関わるかもしれませんが、定型的に弱者である「女性を」一方的に保護するということではありません。
もし真の恋愛で、当事者同士や周囲が認めていたなら、刑事事件化しません。誰かが問題視したら、刑事事件になりますが、その解決方法としては、示談もあり得ます。判断能力の類型的に劣る若年者の保護のために、とにかく刑事事件にはなるという制裁があって良いと思います。
2,
冒頭の本多議員の発言は、立憲民主党というリベラル政党の党内議論におけるものでした。主として「女性保護」の観点から、性交同意年齢の引き上げを党の立法提案とするべく議論したようです。50の男が捕まるべきではないとすることは、認識を疑いますが、この議員の発言の真意は犯罪化に対する慎重論であったと考えられます。同意を問わず強制性交となる法定レイプ罪の範囲が拡張されるからです。
日本のリベラルとされる人達に、どうも非犯罪化の教条主義がはびこっているように思われます。このイデオロギーは、どんな問題でも常に非犯罪化の結論をとろうとする教条主義なのです。人によりますが、一般論として、マルクス主義を前提とした社会主義法学を背景とするものです。人権保護や国際の平和と安全ためのグローバル・スタンダードから外れることを厭わず、どの国のリベラル派も反対しないことを反対することにもなります。
マルキストでなければ非犯罪化のイデオロギーを共有する必要がないのに、「リベラル」のラベルが欲しくて、あるいは仲間外れにならないために非犯罪化を叫んでいるように見えます。リベラル=マルクス主義という固定観念があるとすれば、再定義が必須です。
かつてソ連で優勢だったマルクス主義法学は革命の最終段階では労働者階級が勝利し、搾取される者が無くなるので人民の全てが幸福であり、社会を統制する法も、国家も不要となるとします。法と国家の死滅を予定するのです。その過程においても、非犯罪化により、国家権力の発動を最小限に抑制しようとする考え方があります。資本主義の政府であれば一層ということになります。
イデオロギーに規定された常に同一方向を指向する議論には警戒しなければなりません。法が決して価値を免れることはできないにしても、法は社会統制の手段として、憲法に組み込まれた複数の原理や指標の下で、多様の利益の衡量を明示しつつ結論が導かれるべきであり、データに基づく立法事実の客観的で正確な認識が必要です。
日本の法律を起草する法制審議会に呼ばれるような法学者や法曹界の重鎮達は高齢の男性たちです。(私も免れませんが)高齢男性に支配された法律分野は、実はとても保守的なのです。日本の社会通念を探求するとしながら、実はそういった支配層が子供の頃から生い育った環境の中で、そのころ受けた教育を前提とした道徳なりを体現せざるを得ません。こういった保守イデオロギーも、非犯罪化のイデオロギーも、またジェンダー論のイデオロギーもあるでしょう。
再度述べますが、法が価値を免れること、イデオロギーから完全に自由であることはあり得ないでしょう。しかし、法の議論である以上、イデオロギーの規定性に充分気を付けて、自己の帰属する立場に意識的に、かつ、いずれのイデオロギーからも一旦、離れた視点を獲得し、問題を可能な限り客観的に考察する態度が求められるのです。もっとも、政治的プロパガンダが必要な場面では話が異なります。法と政治は区別しなければなりません。
それにしても、件の議員は、女性に対して「怒鳴る」ごとくに大声をあげる行為は、それ自体、TPOに従い、パワハラになり得ると考えなかったのでしょうかね。
高等教育の行政改革 ― 2021年05月18日 10:41
C= (-。- ) フゥー
1、行政改革の意味すること
行政改革が公務員削減を意味するなら、公共団体のある部門の人員を削減して、民間委託することになります。その部門の労働者は、多くが社会に必須のエッセンシャルワーカーです。例えば、地方自治体では、廃棄物処理、運送、水道の検針業務、清掃等の各種関連業務などです。最近話題の保健衛生も含まれます。公務員であれば、身分保障があり、相当高待遇の労働条件で定年までほぼ間違いなく働けます。
その結果、確かに、モラルハザードを生じました。市民、利用者に対して態度が悪く、労働時間管理が疎かになりがちであるなど、非効率で人件費ばかり嵩むのです。これらの部門を切り離し、民間委託すると、民間の事業者は採算が合わないと倒産するので、効率化されます。それで従来と変わらないか、それ以上のサービスを低コストで受けられるなら、万々歳でしょう。
しかし、効率化とは、可能な限り少ない人員で同じだけの仕事量を遂行させることを意味します。低賃金、長時間労働を招き、賃金の単価が切り下げられます。また、事業者から見て不要なサービスも切り捨てられることになります。採算が取れない一切のサービスが公的部門に最小限を残し、社会から無くなることにもなります。コロナ禍が明らかにしたように、有事の際に、全く融通の効かない事態を招くことにもなります。
かくて、行政改革が特定部門の民間委託により、社会に必須の業務について、サービスの低下を招くとしたら、その改革は失敗であるとの誹りを免れないことになります。公務員が担うことによる非効率と、民間事業者による場合の全般的なサービス低下や社会のセーフティネットとしての役割の減退との、均衡の取れた施策こそ求められます。
2、大学の場合
ここで、視点を変えて、国立大学の教育という公的部門の一つの事業について考えてみます。大学の提供する高等教育がエッセンシャルであるかどうかは、議論の余地があるでしょう。しかし、これが社会にとって必要あるいは極めて重要であることは疑いのないところです。
少子高齢化により、大学の入学者が、長期的に減少していくことが予想されます。また、国家財政が全体として切迫していることから、大学にもリストラ圧力がかかっています。定年不補充の方法により、徐々に職員数を減らしてゆくのです。その結果、全国の国立大学の事務職員数が劇的に減らされました。いきおい、事務業務の教員への移管が進められることにもなります。大学の先生は、教育研究に専念していれば良いというのは今は昔のことです。
これが一巡すると、今度は、教員に対するリストラが始まりました。教員に対するリストラとは、教育科目のリストラを意味します。何とか、非常勤によって講義科目を維持できたとしても、研究分野を失い、何より学生にとってのゼミナールを無くすることになります。例えば、法学部系であれば、憲法や民法のゼミが無くなるのです。
旧聞に属しますが、国立大学には文系学部は不要であるとする政治家の発言が話題になりました。国公立、私立の垣根を越えた、大学、学部の統合が文科省の目下の目標ですが、あまり進展していません。先ほど、ディシプリンの枠組みに全くとらわれないミッションの再定義という大号令の下で、全国の大学の改革が遂行されましたが、その美名の下、実は、文系を中心とした大学内の学部併合に遂しました。一層、リストラがやり易くなったのです。
この先はどうなるのでしょう。文科省は長期的な視野に欠ける施策を良くするので、どのような目的を持っているのかは分かりませんが、財務省が大学の学生及び教員定員の削減を狙っているのは明かです。
国立大学・学部を潰すとしたら、少なくともその地方において、その教育分野の高等教育について「民間委託」することになるでしょう。ある地方の国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部などが無くなり、地方私立大学に委託されます。学生に対しては、おそらくは国が一定の金銭的補助をしてくれるでしょが、その結果どうなるか。
国立大学は、学生定員に対して教員数が多く、従って、私立大学に比して圧倒的に少人数教育に有利なのです。知人の私立大学教員に聞くと、人気の科目であると、期末試験の採点枚数が800枚から1000枚に及ぶこともあると言います。出席管理などどうするのでしょうね。授業を受けなくても、あんちょこで試験にさえ受かればの、ちゃっかり単位、ちゃっかり卒業ということになり易いでしょう。(もっとも、これは国公立にも共通の、大学としての課題ですが・・・。) ゼミナールも常時、数十人の規模となり、学生がゼミ報告をするとしても、年間、数回がせいぜいです。教員の目が学生一人一人に行き届くということは望めないでしょう。他方、奉職先大学の学部では、ゼミ定員の上限を6〜7人に設定しており、また、講義科目でも、可能な限り双方向の授業を実施しています。よりきめ細かな学生指導が可能であるのは目に見えています。大学事業の民間委託の結果がお分かりになるでしょう。
決して、私立大学の教育を否定する趣旨ではありません。しかし、この「非効率の」少人数教育を低負担で地方の若者に提供してきた国立大学の役割を失うことになります。
このブログでは教育に焦点を当てましたが、国立大学は、多くの研究者を雇用し、各学問分野に研究者を供給しています。伝統分野のみならず、先端的、あるいは融合的な、新しい学問分野の創造と発展に極めて重要な役割を担ってきました。これも効率化と引き換えに失うことになりかねません。日本に今求められているイノベーションを引き起こすものであるのにです。
ここでも、モラルハザードを防止しつつ、非効率を改善することと、安価で上質な高等教育の提供との、均衡点を見つける必要があるようです。
保守とリベラル? ― 2021年02月12日 19:11
リベラルと保守について、私の考えをまとめてみます。最近、この区別がよくわからないように思えます。冷戦が終結したことを理由にして、リベラル不要論さえあります。
高福祉高負担の現在の福祉国家路線は、戦後の高度経済成長に支えられて自民党保守本流が作ったものです。55年体制の下で旧社会党もこれに与りました。政治学の厳密な定義ではないですが、ヨーロッパの社会民主主義とも見まがうほどです。アメリカであれば、国民皆保険制度を社会主義と呼ぶ保守政治家が普通にいます。これを日本の保守的リベラリズムと呼んでおきましょう。
少子高齢化と国家財政破綻の危機に瀕して、新自由主義の流れを生じました。小さな政府を目指すネオ・リベラリズムと言うこともあります。これに抵抗するのが、保守的リベラル。立憲民主党の枝野代表の立場です。アベノミクスに代表される、新自由主義に向かって一歩を踏み出そうとするかのような政府・自民党の中心的な主張がこれに対峙しています。
ヨーロッパ諸国の中には、ドイツのように、ネオ・コンの主張を体現する政党と、共産主義を目指す極左政党が伸長したために、従来交互に政権を担ってきた福祉重視の保守政党と社会民主主義を標榜する穏健左派政党が中道化し、間に挟まれた正に真ん中に押し込められて弱体化している国が散見されます。しかし、これは戦前、ナチズムを産んだドイツの政治状況にも似ていて、心配でもあります。
このようなヨーロッパの国と比べると、極めて幅広い政治的立場を含む政治家の集合である自民党のおかげで、日本の政治情勢はぬるま湯の中につかっているようです。保守的リベラリズムと、その中心的主張は温存しながら、多少なりともその方向性に踏み出そうとするかのような新自由主義の対立だからです。後者さえ、アメリカのティー・パーティのような極端な自由競争信奉者ではありません。日本の保守的リベラリズムを核として、幾分かの幅を持ったいくつかの同心円の中に、根本的な経済政策および社会政策については、多くの日本の政党が収まってしまいます。細かな政策的相違を除くと、その相違さえも選挙前には良く似てくるのだけれど、そもそもその大綱は余り見分けがつきません。私は、各党の選挙公約が似通ってくることを、時代とコースの定理と呼んでいます。今の中学生は知りませんが、私の学生時代には、『〇〇時代』と『〇〇コース』という名前の月刊誌をクラスメイトのほぼ全員が買っていて、二つの学習雑誌が、特におまけの内容と量を競っていたのです。その結果、どちらの雑誌の付録も毎号ほとんど異ならなくなりました。
このことが問題であるというのではありません。幾分か一層、保守的リベラル、幾分か、新自由主義の相違を強調しつつ、経済政策においては穏健な政治的対立があれば良いと考えています。これを反映した経済的安定が国民の信頼獲得のためには是が非とも必要です。外交安全保障の相当程度の継続性も国民の安心感に通じます。
大きな相違は、多様性を尊重しマイノリティーの声を最大限反映する態度と、一層の環境保護および生物多様性の維持に向かう政策であるべきです。現代日本社会の最大の焦点の一つが女性というマイノリティーのより深化した社会進出の促進です。以上が「文化闘争」です。これに加えて国際主義の立場に依拠するのが、私の考えるリベラリズムです。
まとめると、経済における一層、保守的リベラルと、幾分か新自由主義の抗争と、文化闘争、そして国際協調主義と自国中心主義の相違に従い、政権交代が適宜に行われること。これこそが日本の民主主義の発展をもたらし、欧米に比べて、日本社会においてとてつもなく遅れている文化的価値の実現、換言すると、人権と多様性に開かれた寛容の価値を前進させるでしょう。
以上は、このブログでも再三触れてきた持論です。最近、下記の論考に接したので、改めて論じることにしました。
大賀 祐樹
2021年の論点100 ー「左」でも「反日」でもない……素朴な疑問「リベラル」とは何を意味するのか?
https://bunshun.jp/articles/amp/43096?page=1
書評が出ました。 ― 2021年02月05日 09:17
<書評>山岡俊介「表現の自由と学問の自由――日本学術会議問題の背景」(寄川条路編、社会評論社)(『アクセスジャーナル』2021年2月3日)
https://access-journal.jp/56659
学術会議の任命拒否問題 ― 2020年10月18日 20:58
(_ _)
当面、不定期に更新します。気がついたら、読んでみて下さい。
1
日本学術会議法は昭和二十三年に公布された法律です。戦後間もなく、戦中、科学が軍事目的に利用されたことの反省に立ち、政治部門とは独立した科学者の機関として設立されました。昭和58年に大きな法改正があり、それまでの、会員公選制から推薦制に改められました。このとき、学術会議の推薦に基づき内閣が任命するとしても、形式的任命であり、実質的な意味合いを含まないという趣旨の政府答弁が繰り返されていました。
(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html
NHK・News Web 2020年10月8日 12時48分)
政府は、憲法15条を根拠にしつつ、首相に、推薦通りに任命する義務はないとの立場です。かつ、昭和58年法改正時の政府答弁から、必ずしも解釈変更はないとしています。
憲法15条は公務員の選定・罷免権が国民に存することを規定しています。ここで、公務員とは国民の代表者たる議会の議員のことであり、普通選挙によることが規定されています。この規定を根拠として、その他の公務員についても、国民主権原理の下で、国民の代表者である国会・地方議会がその勤務条件等を決定する権限を有するべきであると解されています。民主主義的コントロールが公務員全般に及ぼされるという趣旨です。
ここから、学術会議の会員も公務員であるので、一定の民主的コントロールが及ぼされるべきであるとすることは理解できます。しかし、その民主的コントロールとは、国会が学術会議法という法律により、その選任の方法を決めているならば、それで足りると解することもできます。直ちに、首相の任命拒否権の根拠となるとは言い難いのです。
学術会議会員は公務員といっても、特別公務員であると加藤官房長官が説明しています。特別職公務員とは、一般職公務員と異なり、「政治的な国家公務員(内閣総理大臣、国務大臣など)や、三権分立の観点や職務の性質から国家公務員法を適用することが適当ではない国家公務員(裁判官、裁判所職員、国会職員、防衛省の職員など)を指します(人事院のHP「おしえて人事院-国家公務員や人事院に関するQ&Aです」より)。
公務員と言っても多様であり、職務の性質に応じて、民主的コントロールの在り方も様々です。例えば、国立大学の役員や一般の教職員・事務職員は、法人化以前は文部省・文科省の一般職国家公務員でした。法人化後も国家公務員法の適用は受けませんが、準公務員として、学長は文科大臣が任命します。運営費交付金など巨額の税金が投入される教育・研究機関です。法人職員の勤務条件は人事院勧告に従い決定されます。仮に、文科大臣が、特定の国立大学において選考された学長の任命を、政治的理由に基づき拒否するなら、直ちに学問の自由に関わる問題となるでしょう。
また、特別職の代表格である裁判官ですが、その非民主的性格は法学を行う者の常識です。裁判所は司法を行う国家機関として税金により運営されています。しかし、日本の裁判官は、国民の選挙により選ばれません。たかだか最高裁判所裁判官について、国民審査があるだけです。但し、憲法および裁判所法に基づき、最高裁判所裁判官は内閣の指名に基づき、天皇が任命し、下級審裁判官は最高裁の指名に基づき、内閣が任命します。一旦、判事として任命されると、国会の弾劾裁判によるほかは罷免されません。民主的コントロールからはほど遠い存在ですが、この程度にはコントロールが及んでいるとも言えます。もっとも、下級審裁判官について、最高裁が指名した判事を、政治的理由に基づき、内閣が任命を拒否できるとすれば、政治部門が司法に対して介入したとして、三権分立の観点から直ちに憲法違反の疑いを生じます。
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学術会議は内閣総理大臣の所轄であり(法1条2項)、その会員については、学術会議が内閣総理大臣に推薦し(法17条)、総理大臣がその推薦に基づき任命する(法7条2項)と規定されています。これまで、学術会議の推薦に対して任命拒否を行った例がなかったのに、今年の推薦に限って首相が6名について拒否したのです。いずれも人文および社会科学の分野の学者であり、自然科学分野を含んでいません。
新聞報道等によると、この6名の学者は、集団安保法ないし共謀罪の創設に係る組織犯罪処罰法改正に反対の立場を表明したことのある人物です。政府は、総合的な見地からの任命権の行使であり、人事の案件であるから詳細を述べないとして、具体的な理由を明らかにしていません。
学術会議会員となるべき資格は、「優れた研究又は業績がある科学者」(17条)としか規定されていません(11条も参照。昭和58年改正時の両院の付帯決議によると、推薦に際して、女性や年齢構成に対する配慮が求められている)。政治家や官僚が、学問的業績を評価して、わが国における各分野の最も優秀な専門家達の推薦を拒否することは不可能と言えるでしょう。後でも触れますが、集団安保法反対等の理由であるとしか考えられません。そうであれば政治的理由に基づき、学術会議会員の任命を拒否したことになります。
このことが憲法の規定する学問の自由に抵触するかが問われます。
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以降の記述の前提として、特定の政治的立場から述べているのではないことを明らかにしておく必要があるでしょう。まず、集団安保法について、憲法違反の疑いは晴れません。憲法改正が必要です。拡張的個別自衛権と、片務性のある集団自衛権というのは、どれほどの相違があるのでしょうか。具体的に、何ができて、何ができないのかの精密な議論こそ必要です。例えば、自衛隊が敵地攻撃能力を保有するべきだというのは、個別自衛権の範囲内で可能な議論です。原理的な、もっと言えば、言葉の争いをいつまでもしていては仕方がないのではないでしょうか。拡張的個別自衛権のラインに戻すとしても、日本の片務性に関するアメリカとの再交渉を含めて、外交・安全保障の現実的対応をとらざるを得ません。
次に、組織犯罪処罰法の改正についてです。現在の国際社会共通の最大の関心事項の一つがテロとの闘いであり、また経済的犯罪組織を含めグローバルな手法を用いた資金洗浄の防止です。そのために「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」が平成12年に国連総会において採択され、わが国が同年に署名し、平成15年には、条約として発効し、わが国の国会が承認しています。
わが国における条約の実施法が組織犯罪処罰法の改正法であり、共謀罪の新設ですが、この実施法の成立に随分時間を要しました。実施法の成立後、同条約を締結し、ようやく同条約がわが国内において発効しました。外務省のホームページによると、2018年6月18日現在の締約国は,189の国・地域となっている非常に成功した多国間条約です。この条約の趣旨について反対する人は少ないでしょう(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/soshiki/boshi.html 参照)。
条約を締結すると、国際法としてわが国を拘束します。その内容に抵触する国内法の改廃を行わない限り、国際法違反ということになるから、実施法の成立を待たなければなりませんでした。実施法との関係でいうと、共謀罪を新設して、準備段階に犯罪の構成要件を拡張することが、条約上の義務と言えるかが焦点となります。もし条約上の義務であるならば、必要な立法を行わない不作為の国際法違反となるので、国会が条約の承認を行い、これに加入すると決定しておきながら、実施法の立法を怠るのは矛盾します。もっとも犯罪化拡張の範囲について、どのような法改正が有り得たか、条約および国内法の解釈が必須とはなります。
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学術会議法の問題に戻ります。
同会議の目的が法の前文に規定されています。すなわち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」。戦後間もなく、焦土と化した国土を前に、政治家も科学者も、その戦禍を被ったことを悔い、二度と、科学の軍事利用がなされないように決意したことが伺えます。
この目的のための職務を遂行する上で、学術会議の独立性が規定されています(3条)。昭和58年改正時の両院の付帯決議にも、特に、会議の独立性に配慮するべきことが述べられています。
その職務として、政府は学術会議に対して、「科学に関する研究、試験等の助成、その他科学の振興を図るために政府の支出する交付金、補助金等の予算及びその配分」や、「政府所管の研究所、試験所及び委託研究費等に関する予算編成の方針」について諮問することができ、諮問を受けた学術会議は答申を行います。また、学術会議は、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策。科学研究者の養成に関する方策、科学を行政に反映させる方策、科学を産業及び国民生活に浸透させる方策」に関して政府に勧告を行うことができます。
学術会議が行政改革の対象たり得るとして、その在り方について見直しが検討されるという報道がありました。近時、学術会議が「提言」は行っているが、「答申」「勧告」は余り利用されていないとされています。しかし、最近はあまり諮問がないので、「答申」がないというのが本当のところのようですし、求められてもいないのに、学術会議が政府に対して「勧告」を行うほどの必然がないとも言えそうです。「勧告」というよりも「提言」する方が、当たりが柔らかいので、日本社会では受け入れられやすいでしょう。
学術会議は政府の言う通りに答申、提言を行っておれば良いというのであれば、その会議は単なる御用学者集団であり、独立性を損ない、その目的を無にします。
見 直し議論の背景として、学術会議が軍事目的研究を禁止していることが考えられます。
「井上信治科学技術政策担当相は13日、日本学術会議が軍事目的の研究を禁止していることについて「戦後70年以上たち、社会のあり方、時代の変化もある。軍事と民生のデュアルユース(両用)はどの科学技術の研究分野でもあり得る。そうした変化も考えた上で考えていただければと思う」と述べ、禁止の見解を見直すよう促した」。(https://www.sankei.com/politics/news/201013/plt2010130021-n1.html
産経新聞2020.10.13 16:39)
戦後復興を遂げ、既に経済大国となって久しい日本です。時代の進展とともに、日本周辺の情勢および国際社会の考え方が変わり、科学技術の発展もあるので、これに併せて学術会議の在り方が見直されるということは、すなわち軍事目的の研究を解禁するべきであるという圧力であるようです。
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以上の一切が今回の任命拒否の理由でしょう。
まず、先に述べたように、集団安保法や共謀罪について、研究者として、その学問的知見からどのような意見を持ち、主張するかはその研究者の自由であり、これが理由で政府が学術会議に任命しないとすると、まさに学問の自由に関わる問題となります。
次に、廃止を含めた行政改革を振りかざして、どうしても政府の見解を踏襲するべきだと専門家集団に強要することもまた、学問の自由に抵触する可能性があります。助成金、交付金、補助金などの配分、政府所管研究所等における予算編成について、政府の諮問を受けたときに、軍事目的研究に肯定的に言及する答申をさせるということでしょうか。
時代や社会の進展とともに、法の改正や法解釈の変更が必要となることが有り得ることは当然です。少なくとも、学術会議会員の任命拒否は法の運用の変更に当たります。軍事目的研究の解禁を促すために、会議の構成員を代えようとするのではないかと少々穿ったみかたをしたくなります。しかし、当初の学術会議の目的が上述の通りである以上、軍事目的研究の解禁を認めることは背理となります。
確かに重要な問題でしょう。学術会議でも議論を尽くす必要があります。むしろ学術会議だけでは済まない、大いに国民的議論を巻き起こしてゆくことが必要な問題です。繰り返しておきますが、仮に集団安保法や共謀罪に賛成であり、軍事目的の線引きが困難であるからその研究も有り得るとする立場をとるとしても、思想良心の自由、言論の自由、学問の自由に抵触する方法をとることは許されません。
憲法を含めた「法」の解釈には客観的な、取り得る範囲があるとする見方を私は取っています。法と政治を明確に区別するべきです。法は社会統制の道具です。法の支配が社会の安定に通じます。そのときの政治的風潮に左右されない厳然とした範囲のあることが重要です。
法の明文および改正時点での両院付帯決議における独立性の強調、推薦規定を含む法の構造、学術会議創設の当初目的と推薦制の当初運用を勘案して、学術会議法の解釈として、首相による任命拒否を可能とする解釈変更が可能かについては相当疑問があります。これを可能とするためには、行政府が暗黙裏に解釈変更を行うという姑息なやり方ではなく、真正面から、学術会議会員の任命方法についての法改正を行うべきであったでしょう。
行政庁所管の法律について、当該行政庁の解釈が先行し、まずは優先されることには疑いがありません。しかし、解釈の可能な範囲を超えると違法となります。学術会議法の解釈に憲法問題が関係します。法解釈についての有権的最終的な決定権限は裁判所にあります。任命拒否問題は継続しています。いずれ憲法訴訟に発展するかもしれません。
2020/11/07 誤解を招かないために、3の部分的な修正。
コロナ大恐慌と9月入学-ソフトな公共投資 ― 2020年07月21日 04:01
広田 照幸「コロナ危機でわかった、日本の学校に教職員が「23万人以上足りない」現実 「令和の学校教育」に向けて必要なこと」現代ビジネス(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74032)
日本大学教授である広田氏のweb記事です。5月、政府が9月入学の導入について検討を始めたときに、反対を表明した教育学会の会長です(参照、日本教育学会声明。(http://www.jera.jp/20200511-1/))。小池知事や吉村知事ら複数の政治家が賛成を表明したことに対して、文科省で記者会見を開いた広田氏が、「教育制度の実態をあまり知らない方が、メリットだけ注目して議論している。財政的にも制度的にも大きな問題を生む」と述べていました(共同通信。https://news.yahoo.co.jp/articles/0100cc1c43ed6001876bbbfd8da5f4216865ce15)。
現代ビジネスの広田氏の記事によると、コロナ前の段階で、学校は既に手一杯だったとされます。1980年代以降、個性重視の教育原理に変わり、「子供達に考えさせ表現させるような教育が推奨される」ようになった、2020年の新指導要領では、「主体的・対話的で深い学びへの転換が求められている」そうです。文科省の発出する学習指導要領が時代とともに変わって行くのです。指導要領が変わる度にその対応に追われ、それに従ったカリキュラムを進め、全国で画一的な学校行事を遂行して行くだけでも大変そうですが、それに加え、日々の雑務に追われ、超過勤務を強いられて、教職員が疲弊しています。
個性を重視し、自分で考え、発表するということがいかに大切なことか、大学教員のはしくれである者にとってこそ、痛いほどよく分かります。
日本の大学生は自分の考えを発表することが本当に嫌いです。むしろ、考えるということ自体が苦手なのではないかと思えます。大学で行う学問は、通常、答えがありません。正解がないということに、学生らが慣れていないのです。
その先生がどう考えているのか?それが学期末試験の正解なのだから、それだけ丸暗記しておけば良い。考える筋道はいらないから、手っ取り早く正解を教えてくれ。
それまでの学校教育では、恐らく、教師が板書する内容を、児童・生徒達がノートに丸写しし、教師も、ここが大事だ、ここが試験に出るから「覚えておきなさい」と強調します。この一方通行の、指導要領に従ったカリキュラムの内容を詰め込み式に丸暗記させる教育が、個性を重視した、考えるための授業であるとは思えません。私が、小学生だったころ、かれこれ50年以上も前ですが(笑)、上述の80年代における教育原理の転換を経て、どれ程変わっているのでしょう。
一口に大学生と言っても、千差万別、人により異なるのですが、一般的、標準的な大学生は、上に述べたように「正解」ばかり求め、自分で考えようとはしない傾向が強いようです。新入生に対して、大学教員がまず教えないと行けないのは、今までの勉強とは違って、大学の学問というのは「答えが無い」ということを学ぶことなのだということです。
今までの勉強とは違う?
高校までの学習と、大学での学問とは、勉学の在り方が質的に異なっているということは確かです。大学以前には、日本における各学問領域における水準を標準的な内容として、理解し、記憶することが重要なのでしょう。大学になって始めて、真の学問とは正解がないものであり、真理を追究し、考え抜くことであることを知ってもらわないといけないのですが・・・。それまで叩き込まれてきた勉学の態度を、容易には改めることができないようです。そのような学生達と日々格闘している者として、大学以前に、自分自身で考える態度と、その考えを発表する姿勢を、何としても身につけて欲しいものだと、常々考えていたのです。
高校までの勉強を変えて欲しい。
ところが、広田氏の記事を読んで、それが無理難題であるあることがよく分かりました。個性や対話を重視し、考えること、発表することを、充分教育するためには、適切な少人数教育と新たな工夫が必須となるでしょう。ところが小、中、高校の教員数が圧倒的に不足しているのです。教育学会は、この5月にまとめた提言で、教員10万人、学習指導員などの職員を13万人増員することを求めています。
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政府の教育再生実行会議が、本年7月20日の会合において、新型コロナウイルス感染症を踏まえた「ポストコロナ期における新たな学び」と題して、情報通信技術(ICT)を活用したオンライン学習の推進や、将来的な9月入学の導入について議論を始めました。小中学校及び高校の教育と、高等教育とに分けて検討するとされています。
(「コロナ後の「新たな学び」議論 ICT推進、9月入学―教育再生会議」(時事通信。https://www.jiji.com/jc/article?k=2020072000811&g=pol))
私自身は、教育学会の立場と異なり、本年度新入学生および在校生についての、半年ほどの卒業延期と、来年度新入学生からの9月入学を支持していました。今のところ、既に政府が断念したので仕方がありません。今後、今のようなコロナ蔓延の状況を前提にしながら、多くの重症者・死者を生じるような事態に陥らない限りは、以前のような一斉休校はしないという政府・自治体の強い意思を感じます。
地域によっても異なるのですが、その場合、今後も、感染防止のための分散登校や遠隔授業を織り交ぜる必要に迫られています。学校におけるソーシャル・ディスタンスの確保のために、一教室の少人数化を図るためです。長期休暇を縮小して、平日授業の延長と土曜日授業を実施しながら、学校行事を省き、カリキュラムも一部省略しつつ、在校生については複数年に渉り実施することで対応します。
小中、高の教員、学校関係者はさぞかし大変でしょう。子供達は、ただでさえの詰め込みカリキュラムを、ことさらに、まさに詰め込まれるのです。そして、教育の一環である、大切な学校行事を奪われ、かけがえのない青春の閃光を輝かせる機会を失ったのです。
高等教育については、全国の多くの大学が遠隔授業を早くから実施していますし、元々、教育内容は各教員の裁量に任されているので、その面では余り問題がありません。しかし、新入生は入学式もなく、未だに大学の門をくぐったことが無いのです。以前からの在学生にしても、大学施設を利用することも、課外活動を行うこともできません。友人らとの会話も無く、学生全般に意欲の低下がみられます。
今年の生徒、学生をこそ、救済してあげて欲しい。そのために、万難を排してでも、卒業や進級を延ばしてあげるべきでは無かったでしょうか。大学の卒業時期については、柔軟に対応が可能であったかもしれません。もっとも、就職先となるべき企業等、幅広い社会的合意が不可欠とはなります。
最初の広田氏の記事に戻ります。元々、コロナ以前においても、教員職員等の増員が必要であるのなら、今こそ、そのことを実現する良い機会だったのではないでしょうか。
教育再生会議が、文字通り教育の再生を企図するべく、むしろコロナを契機として、コロナ後の平常時からの一学級の少人数化と、小、中、高校における個性を重視するための、「考え、表現する」教育を目標としなければならないでしょう。
幼児教育を義務教育化し、小学校のカリキュラム内容を一部取り込みつつ、同時に、子供の理解力に応じて、小、中学校からの留年や飛び級が有り得るようにすることは考え得ないことではないように思えます。日本の公的教育制度は、子供の個性を殺し、おしなべて凡人を育てる教育です。科学の天才、文芸の天才、商売の天才、スポーツや芸術、そのほか諸々の実技の天才。いろいろ有って良いでしょう。その才能の芽を摘むことがないようにするべきです。
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大学についても、現在ある文科省の施策には大いに問題があります。文科省は、国立大学に対する交付金の削減という兵糧攻めにより、教職員のリストラを進めています。日本の少子高齢化を踏まえ、国立大学の学生定員が多すぎるので、遅遅として進まない国立大学の統廃合を推進したいという背景事情があります。これも行政改革の一環とも言えます。そして、国立大学の学生について、極めて厳しい定員管理を要求しているのです。
すなわち、受験に合格する入学者が、予め決められた大学としての定員を大きく上回らないように、そして留年率が高くならないようにすることです。民業圧迫になるという理由ですが、要するに、定員通りに学生を入学させ、そのまま4年間で卒業させなさいということになります。同時に、単位の実質化とは、学生にちゃんと勉強させ、適正な成績評価を行えというのですが、至難の業です。
高等教育において、学生が本当に勉強を行うようにするためには、余裕を持った定員管理を行わなければなりません。定員より多く入学させた学生が、勉強をしなければ留年し、最終的にも卒業できないことがあるということが普通だという、アメリカ型の方法です。単位の実質化を行うためには、毎日の授業の予習、復習のための宿題を課し、厳密に評価しなければなりません。現在の日本の大学教員が研究と教育を両立させるために、多人数の学生の宿題に目を通している暇がありません。チューターなどの補助業務を行う職員が必要になります。
小中高の教職員数の増員を行わないこと、従って一学級の少人数化をなし得ず、子供の個性を伸ばすことができない教育、交付金を削り、大学の教職員数を減らすこと、従って勉強しない学生を放置せざるを得ず、高等教育の破綻を黙認すること、都道府県毎に少なくとも一つの国立大学を確保しないこと、これら全てが行政サービスの削減ないし低下です。
コロナによる世界的な大不況は、もはや大恐慌と比較されるようになっています。第二次世界大戦以前の大恐慌のとき、これを乗り越えるために必要な公共投資はダムの建設や鉄道の敷設として行われました。
今、目の前にある恐慌に対して、100年後の日本のために現在必要な公共投資は、人を育てるための投資でしょう。ここでは、学校教育への投資を取り上げましたが、社会人の再教育とやり直しの機会を確保することや、外国人材を受け入れるための様々な投資など、人を育てる投資は多様です。
かつてのハードな公共投資から、現代のソフトな公共投資へ、考え方の根本的な転換が必要です。
ソフトな公共投資は、人を育てる投資のみならず、巨視的には、更に多様で有り得ます。コロナ禍に対処するために現在政府が実行し、批判にも曝されている、国民の賃金の下支えを行う給付や中小企業や個人事業の持続のための給付、観光や人の移動を促すための給付などです。現下の困難の克服のために、戦前のニューディール政策と並ぶような、大胆な公共投資が、それもソフトなそれが求められています。
警察署、児童相談所、労基署、国税局、税関など、人手不足が深刻な公的部門は保健所に留まりません。もっとも政府の財政規律も重要な要素に違いないので、民間の人材派遣事業を活性化する何か上手いアイデアはないでしょうか。
イノベーションを促す企業創生のための投資も現状を超える大胆さが必要でしょう。そのために、古い時代の考え方に捕らわれ、既得権益にがんじがらめにされた法規制の、過不足をなくす変革が、日本社会の現在と将来を前提として実行されなければなりません。
グローバル化と法の支配 ― 2020年06月16日 01:04
また、わが国などのマスク不足から、「国際分業」が問題視されています。国の防疫に関わり、人の健康に影響する製品の国産化のためには、安価な外国製品の輸入制限が必要であるとする趣旨でしょう。
保健所職員の削減など公務員の削減が、新自由主義の産物として、揶揄されることもあるようです。
新自由主義ー国際分業ーグローバル化というキーワードによって繋げられるるのですが、私は、コロナによって、グローバル化が押しとどめられるとは思いません。グローバル化という言葉に対する正確な理解が必要であるようです。
その何が悪であり、何を問題とするべきか。
コロナ禍の遺す教訓は、むしろ「更に一層の法の支配を、この国際社会にも!」ということではないでしょうか。
1,レーガノミクスと新自由主義
レーガノミクスは、減税と政府支出の抑制を組合せ、小さな政府を志向し、財政出動によるよりは、自由競争の下、市場の手に委ねる方が国の経済がより一層発展するとした。新自由主義に基づくとされます。
レーガノミクスは現実の政策であり、思想としての新自由主義そのものではありません。それは経済学および社会理論であり、新自由主義に属するとされる個々の経済学者や思想家の主張が完全に一致するわけではありません。中でも、著名なノーベル経済学賞を受賞したハイエクは、法の支配の下での自由を主張しました。
第二次世界大戦後の世界経済がグローバル化の一途を辿ったとされています。もっとも、世界経済のグローバル化が、いつから始まったのか、自明とは言えないでしょう。世界的な交易は、例えば有名なところで、古代ローマ帝国の時代に盛んであった地中海貿易や、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードの交易があり、近代以降は、欧米列強の重商主義と結びつく、宗主国と植民地間の貿易があります。特に、後者は現代の世界経済の原型かもしれません。
ここでは、第二次世界大戦後の世界経済の発展と国際経済社会の法発展の関係を、手短に説明します。
2,ブレトンウッズ体制の成立と世界貿易の南北問題
第二次世界大戦は甚大な戦禍を国際社会にもたらし、夫や妻、子供、兄弟姉妹、親友、多大な人命が失われました。アメリカを除く先進国を含め、まさに焼け野原となった国土に立って、二度とこのような戦争が起こらない世界を築くことを強く祈ったです。そのための法的枠組みが、戦後間もなく成立したブレトンウッズ体制でした。
ブレトンウッズ体制はGATTおよびIMF協定を基礎とします。その目的は、大戦を招いた主因の一つであるブロック経済化を防止するために、各国ごとの関税や貿易制限を可能な限り抑制し、同時に、通貨の切り下げ競争を回避しつつ、送金の自由を確保することです。かくて、自由貿易主義に基づき、地球上の全ての国にとって、持続可能な経済発展と富の最大化がもたらされるという根本理念を有します。
戦後、1970年代になると、ようやく旧植民地諸国が世界の表舞台に独立国家として勢揃いしました。このころ、国際法に関する南北問題も生じるようになりました。18世紀以来、欧州列強が作り上げてきた国際法の枠組み自体が、そのころには国際法的に国家として存在しなかった植民地諸国に不利であるとして、開発途上国が共同して国際法の改正を要求するようになったのです。
GATTの下で、自由貿易主義の恩恵を被り、奇跡的な経済発展を遂げたのが日本でした。他方で、植民地時代のプランテーションの遺物である社会経済的限界によって、多くの開発途上国が貧困のままに、世界経済の発展から取り残されました。発展途上国にとっては、先進国企業の投資が、経済的に一定の潤いと雇用をもたらし、工業化を図る唯一の方途でした。
しかし、結局、先進国企業が低賃金の下で得た利潤を母国に送金するばかりで、投資先国での再投資と技術移転が一向に進まない時期がありました。途上国側は、投資企業の母国への送金を制限したり、一方的に先進国企業の権益となる施設等を接収しました。これに対して、OECDが資本移動自由の原則を打ち出し、また、企業と途上国との間の国際投資紛争に介入することで対抗しました。
3,アメリカ通商法の不公正貿易の観念とGATT=WTO
貿易の自由の側面からみると、GATTが継承されて、1995年にWTOが成立しました。もともと資本主義の最先端を行くアメリカが、世界で最も強力な独占禁止法と証券規制に関する法を有し、市場における規律ある自由競争を確保するための規制を有していたのですが、通商法としても、自由競争による市場を歪曲する不公正な行為を規制する強力な法を成立させていたのです。
戦後、世界経済の覇権を握ったアメリカが、あるいはアメリカ企業が、追随する国々の企業に対して、自国のこれらの国内法に基づき規制を及ぼそうとしました。他国の企業がその国の緩い法規制の下で、アメリカ法の立場からは不公正な行為により大きな利益を上げていると、自国企業が世界市場において競争上不利な立場に置かれることに我慢ならなかったのです。
悪名高いアメリカ通商法スーパー301条を用いた貿易制限による恫喝によって、他国産業界に輸出自主規制を呑ませるという、GATTの観点からは灰色措置と呼ばれる脱法行為をしばしば行いました。アメリカ通商法の手続を真似て作ったWTOの紛争処理手続は、アメリカ法における幅の広い不公正貿易の観念を、国際法としてGATT=WTOの中に取り込む代わりに、アメリカによる灰色措置を禁止したものです。
4,世界の相互依存性の進展と行き過ぎたグローバル化
GATT=WTOの下、累次の貿易交渉の成果として、世界の関税が劇的に引き下げられ、農産物を含む輸出入の数量制限が撤廃されると、加速度的に世界経済が相互依存性を強めてゆきました。インターネットやジャンボ・ジェット機の就航など、技術的革新もあいまって、交易の観点からは、どんどん国境の壁が低くなり、ヒト、モノ、カネが国境を越えて自由に移動するようになりました。
行き過ぎたグローバル化として糾弾されるような事態も生じます。巨大な投資ファンドが一国の通貨を売り浴びせて、その国を国家破産させたことがあり、国際的通貨危機の引き金になりました。最近のリーマン・ショックもそうでしょう。製造業のサプライ・チェーンが途上国を含めて構築されると、製造業の国際的分業が確立しました。このことが、従来、経済発展から取り残されていた国の経済開発に通じ、極端な貧困から脱却する国、および新興国と呼ばれる更に発展した国を生じ、途上国間の格差を生みました。他方、先進国における産業の空洞化が進んだのです。
5,行き過ぎたグローバル化とWTO
よく、経済は生き物だと言われます。世界経済は国境を越えて一体的なものです。企業は単純に利潤を求めて貪欲に、利己的に行為します。いずれかの国が、一国の法規制によってその流れを押しとどめようとしても、経済活動は容易に法規制をすり抜け、一国の努力もその奔流に押し流されるだけです。
上述のような国際分業の確立と、それに伴う先進国における産業の空洞化、他方、貧困を免れる国を生じることは、むしろGATT=WTOの根本的理念の中に織り込み済みであるとも言えます。WTO体制による貿易自由の原則の下で、各国が構造転換を繰り返してゆくこと、そうして、世界全体の持続的な経済発展に繋げることが予定されているからです。
例えば、インドは、筆者が中学、高校で使った頃の地理の教科書には、かつてのプランテーションのせいで、その他の産物の生産が不可能であり、工業化もできず、貧困に喘ぐ国であるされていました。それが、現在は新興国として更に発展することが約束されています。東南アジア諸国には、日本、韓国、中国の企業のサプライチェーンが互いに組み合わされており、確かに、近時、経済発展がめざましい国があります。そうして、他方、日本のような先進国の製造業はその国でしかできないことに特化し、また新たな産業を生み出し、構造転換を果たしてゆくべきなのです。
その点で、反グローバリズムを信奉する人々から、WTOがグローバリズムの権化としてやり玉に挙げられることがあります。実は、WTOにも南北問題があります。自由貿易の恩恵が一部の国に留まり、多くの開発途上国が更なる発展の段階を迎えていないという不満を背景とし、最近は、むしろ、先進国、新興国、途上国の三つ巴の抗争という様相を呈しています。
ドーハ・アジェンダと呼ばれるラウンド交渉が頓挫した直接の原因は、新興国であるインドが、自国産業を保護するための特別セーフガードの発動基準を緩和することを強行に主張し、中国がこれに賛同したのですが、アメリカ、欧州等の先進国が反対したことでした。まさに、加盟国が大幅に関税を引き下げる交渉が大筋合意されており、最終的に妥結する前夜のことです。
WTO上、途上国に対してWTOの様々な義務を猶予する条項が用意されています。また、実際の運用上も、途上国には甘いというダブルスタンダードがあるとされます。
6,グローバル経済と法の支配
WTOが自由貿易主義一辺倒かというと、決してそうではありません。原則規定と例外規定が組み合わされており、その国に不可欠の資源、その国の人々の生命、健康に関わるもの、安全保障に関するものについての貿易制限が可能です。
また、地球環境保護や生物多様性の保護、あるいは労働者保護などの、自由貿易以外の価値が、自由貿易主義との関係でWTOの解釈問題として争われています。これらの価値と自由貿易主義との抵触については、それらの価値を扱う専門的な諸条約と、WTOという、レジームを形成するような多国間条約間の関係という新たな問題領域を生み出しています。自由貿易主義と、国際社会において実現すべきこれらの価値の、衡量の場として、WTOが機能しているのです。
金融取引の規制についても、一言のみしておきましょう。自国通貨以外の通貨を取引することをユーロ取引といいます。欧州の単一通貨であるユーロのことではありません。オフショア市場で取引される、日本円をユーロ円、ドルをユーロ・ドルと呼び、欧州通貨のユーロであれば、ユーロ・ユーロとなります。
イギリスがもともと法規制の外に置くことで、ロンドンのシティで発達したものであり、今では、世界中で取引されています。基本的に法規制の及ばない自由な取引市場です。その法規制を、いくら一国で懸命に行おうとしても、カネはどの国の国境をも自由に超えて行くものなので、その国の手の中からいとも簡単にすり抜けて行ってしまいます。国際的金融取引の規制は、諸国が協働して行わなければ無意味なのです。
要するに、経済グローバル化に対抗し得るものは、決して、一国中心主義や偏狭な経済ナショナリズムではなく、国際社会における法の支配の確立こそが必要なことであり、更に言えば、EUのような多様な価値を共有する単一市場であるところの、国際的な地域共同体の成立に向けて努力することです。この点からは、更なるグローバル化こそが、その弊害に対処できる唯一の方法であるということになります。
covid-19のPCR検査と救える命 ― 2020年05月18日 01:50
PCR検査と救える命
PCR検査を行うための、「発熱、症状、高齢、妊娠、基礎疾患や透析」という厚生労働省のガイドラインが変更され、このことについて加藤厚労相が「誤解」であったと発言したことに批判が集中しました。ガイドラインは、厳密な基準とは異なります。厚労省は、これが当初より一定の目安でしかなく、厳密な基準ではなかったとしています。確かに、基礎疾患がなく、65才以上でない人は、37.5度以上の発熱が4日以上続くときにPGR検査が妥当とする「基準」が、一般の人々にとってあたかも厳密な基準であるかのように受け止められました。その部分のみが新聞やテレビの情報番組など各種メディアによって盛んに喧伝された結果でしょう。大臣の発言からは、厚労省から、地域の実情に応じて柔軟に対応するという方針が、実施機関に対して伝えられていたとされます。
実際に、「基準」の運用が保健所により相当の幅があったようです。「現代ビジネスプレミアムの記事「中原一歩「保健所職員の告白「検査も人員も何もかも足りない」あまりに過酷な現場-「公衆衛生」を軽んじてきたツケ」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72125?page=2」この記事によると、むしろ、厚労省の基準を最低基準として、地域によっては更に厳格な基準によっていました。東京都のある保健所では、38.5°以上の発熱がなければPCR検査の可能な外来に繋ぐことがなかったそうです。
このブログを書いているのが5月17日なので、上の記事はもっと早い段階のことであり、しかも東京都の事例です。日本はPCR検査が他国の検査数に比べて余りに少ない。このことがよく報道されているし、国会でも政府が追及されています。なぜでしょう。安倍首相も、検査数の少なさを認め、目詰まりを起こしているとしていました。筆者は、公衆衛生の専門家ではありませんが、報道されているところをまとめてみます。
PCR検査により陽性の結果が出る場合の手順から考えます。まず、①保健所を中心として設けられた帰国者接触者相談センターを窓口として、PCR検査が妥当であるかを判断し、②指定された検査機関においてPCR検査が実施されます。次に、陽性という結果であると、③感染症法上の指定感染症に指定された後は、感染症治療のための指定された医療機関・施設に入院することになります。いわゆる隔離されるのです。
この手順の内、②のPCR検査について、指定されたPCR検査機関が限られていて、検査能力が足りないとされています。そして、③のコロナ陽性の患者を受け入れる医療機関・施設における病床数が、少なくとも当初、圧倒的に不足しているとされていました。保健所というのは、原則として都道府県が設置し運営している機関です。政令指定都市など、市町村がこれを行う場合もあります。そこで、①のPCR検査の適合性については、保健所等、地方自治体の機関が判断を行っているので、その地域毎の実情、すなわち上の、②検査能力と③病床数に応じて、物理的な可能性を加味した判断とならざるを得ないはずです。重症者が出た場合、救急搬送の可能な病院の手配までしなければならない。ここで、東京や大阪などの大都市および周辺地域と、地方との区別が必要でしょう。検査能力および受入病床数の逼迫という状況が、地方にはまだないとも考えられるからです。従って、東京等大都市圏の保健所では、検査数を限定するような判断基準を用いる必然があったと言えます。まさに、「無い袖は振れない」です。
更に、①の保健所についての、人的資源が不足していたことも明らかになっています。皆さんも保健所に行かれた事があるでしょう。典型的な保健所は、ワンフロアーのカウンターの中に、三つほどの机の島が並んでいます。庶務業務、保健業務、環境・食品衛生業務を行う各部署です。保健業務は医師および保健師が行い、予防接種、健康診断・相談、精神的疾患に関する業務があり、母子手帳の交付や、原爆医療など各種給付事業もあります。その他、公害防止等の環境関係や、野犬処理、犬猫の引き取り、狂犬病予防接種、飲食店等の営業許可、看護師免許交付、病院・医院等の監督業務など多様の日常的業務を行っています。これを大都市圏の保健所であれば、30~40人ほどの職員が分担しているのです。PGR検査適合性の判断は、当然、保健師が行うと考えられます。保健師は、看護師の上位免許を持つ専門職です。ところが、単純に、保健師が保健所職員の総人数の3分の1に相当するとしても、現在のPCR検査相談業務を行うのに、その人数だけでは足りません。しかも、保健師と言ってもcovid-19の専門家でもないので、ごく単純な基準に従い、機械的に決めることしかできないでしょう。あるいは、健康相談の専門でもない保健所職員も含めるしかないということになっていないでしょうか。実際にどうしているかを聞いた訳でもないのですが、PCR検査適合性の判断を健康相談の経験を持たない、ずぶの素人が行うことになります。しかも、その他の保健所の業務も、市民の生活に欠かせない重要な業務であり、休むわけにもいきませんね。一日中、電話が鳴り続けて、てんてこ舞いしている様子が目に浮かびます。
PCR検査ができないボトルネックが、①~③の全てに存在していたことになります。最近は、PGR適合性の相談窓口が拡充されたり、かかりつけ医の判断で可能とされるようになりました(①)。また、検査能力(②)については、行政検査に頼らず、民間の検査機関を十分活用しない理由が分からないという見解もありましたが、これも一部、拡充されつつあるようです。保険適用とした上で、かかりつけ医の判断で、検体を採取し、民間の検査機関に回せるというのであれば、通常のインフルエンザ等と同等であり、簡便、迅速にできたでしょうに。医師の側の感染防御対策を講じることが可能であることが前提となります。大病院では自前のPCR検査に踏み切るところもあります。山梨大学の学長の辛辣な批判が話題になっています。何故、大学等の研究機関の余剰の検査能力を活用しないかというものです。地域によれば、研究機関等の同意の下、これを可能としています。PCR検査陽性者の病床(③)については、都道府県知事の要請に従い、無症状ないし軽症者について、民間宿泊業者の協力が得られたところもあります。むしろ、その場合の医療従事者の確保が難しいようです。徐々に克服されているようですが、国民の不満の多くは、ボトルネックの解消に政府が強力なリーダーシップをとっていないように見えると言う点にあります。
感染症法の指定感染症となると、陽性者は必ず、入院・隔離が必要になるので、そのとき以降は、必要病床を確保できていることを前提としてのみ、検査するのでなければ必然的に医療崩壊を生じたでしょう。十分な病床確保が見込めない限り、PCR検査の増加は、それでも医療崩壊を生じないという賭けになります。政府の方針が、当初、PCR検査数を抑制することであったようにも考えられます。いくら何でも国民の命を犠牲にして、東京五輪を延期ないし中止させないことが理由であるとは思えません。
「救えるはずの命を救う」。
国境なき医師団における海外派遣の経験のある医師の言葉です。Covid-19が日本で蔓延した初期において、この医師が今後は救える命を救うというアプローチこそが必要となると、テレビのインタビューで答えていたことを覚えています。医療崩壊を防ぎつつ、重症に至る人を必ず捕捉して、現在の日本において可能な医療水準を提供する。政府や地方自治体の首長が、刻々と移り変わる情勢の下で、上のような賭けを強いられてきたと言えるでしょう。この点で、covid-19による死亡者数が他国に比べても圧倒的に少ないことは評価して良いと思います。
何人の犠牲の上に、何人の命を救うかという、功利主義的正義論を私は好みません。たとえたった一人の命であってもかけがえのないものに違いないからです。PCR検査を待ちながら、一気に重症化し、亡くなるという痛ましい事件がありました。遺族の気持ちを思うと、胸が塞がります。しかし、為政者が上のような崖っぷちの判断を繰り返さざるを得ないという非常時であることは忘れないようにしたい。PCR検査数の増加と隔離体制の確立が、両翼として、今後は、加速度的にこれが達成されることを望みます。これに加え、新薬の承認やワクチンの開発があれば、covid-19の蔓延が収束します。日本が、他国、特に開発途上国に対して、新薬の供与や検査体制の構築に協力することにより、世界おける蔓延の収束に貢献できれば、全世界に東京五輪の祝祭の鐘が鳴り響くでしょう。
ここで、視点を変えてみます。
行政は法の下にのみ行われます。中央政府にせよ、地方自治体にせよ、行政を行うためには必ず法の根拠が必要であり、法の根拠の無いかぎり何もできません。このことは極めて重要な原則です。法は国会が作るものです。三権分立の一翼を担う、国会と行政府ですが、国会が法を制定し、政府はそれに従うという仕組みは、直接的に選挙で選ばれた国民の代表である国会が優位にあることを意味し、特に強大な権力機関である政府の手を縛り、国民主権の原理を実現するために重要なのです。民主主義の根本原理の一です。
憲法に緊急事態条項を設けるべきであるという憲法改正論が関わります。大規模災害や、新たな感染症の蔓延という事態に対処するために、総理大臣に、広範な裁量権を与えるという立法を可能とするものです。このことについては、様々な議論があり、最後にごく簡単に触れるに留めますが、少なくとも現在はそのような法がありません。感染症に対処するためには、検疫法と感染症法が重要です。以下には、感染症法をみてみます。
Covid-19が感染症法の指定感染症に指定されました。感染症法の目的が前文に規定されています。
「人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。
医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。
・・・・(省略)感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。
ここに、このような視点に立って、・・・(略)感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。」
感染症法によると、国すなわち厚労大臣は、基本指針を決定することができるだけであり、基本指針に即して、具体的な予防計画を策定実施するのは都道府県知事です。法第9条によると、国が、例えば、「感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」や「病原体等の検査の実施体制及び検査能力の向上に関する事項」について、基本指針を策定すると、法第10条に従い、都道府県知事が、「地域の実情に即した感染症の発生の予防及びまん延の防止のための施策に関する事項」や、「地域における感染症に係る医療を提供する体制の確保に関する事項」などについて、予防計画を策定することとされています。
関係する政省令も重要であり、このあたりが、PCR検査のボトルネックに関係する可能性がありますが、筆者は詳らかではありません。無症状、軽症、重症を含めた医療体制の構築や検査態勢の拡充については、地域の実情に応じた具体策を講じる都道府県知事の役割が極めて大きいとは言えそうです。東京の小池知事や大阪の吉村知事が、連日、メディアを賑わしています。国と地方が、相互に、責任転嫁を行っている暇がありません。国の策定した基本指針の下で、地方が、具体的な施策を実行するのです。国と地方がしっかりとした協力関係を築き、一体となった行動が是非とも必要です。
全てを、要請と合意を基にして遂行して行くしかないないのです。感染症法によっても、法の強制力に基づき、大学に検査実施を義務付けることはできず、空き地を借用するのではなく、いきなり国がいずれかのホテルを収用することは困難です。憲法上の営業の自由の侵害であり、それが可能としても十分の補償が必然となります。合意ベースにして、時間がかかるのもある程度うなずけるでしょう。
これだけの非常時にそのようなことができない! 日本は民主主義の国であり、憲法の基本的人権を守る国だからに違いありません。一般市民の外出自粛や民間事業の休業要請も、法の強制力、罰則もなく遂行されました。そのような法が無いからです。もっとも、今後、一定程度これを可能とする立法が議論される余地はあるでしょう。韓国において、感染拡大の第二波を心配するべき事態が生じました。感染者のクラスターが同性愛者の集まるナイトクラブで発生しのです。文化的には封建的な伝統が色濃く残る韓国ですから、ゲイであることのカムアウトは相当に勇気のいることでしょう。性的指向がウイルス感染者の行動追跡を通じて明らかにされ、実名が公表されているという報道がありました。行動の追跡と公表を政府が行っているので、日本であれば、プライバシー権の侵害であり憲法違反であるとされるでしょう。感染症法にも感染者の人権保障がうたわれています。日本が、戦後、戦前の反省に立って、現行憲法の下、人権をよく保障する国となった証左です。追跡アプリの実装が日本でも議論されていますが、このような結果を来すことは有り得ません。
日本という国は、繰り返しますが、法の強力な強制力もなく、市民が政府の要請に従い、ウイルスの蔓延を抑制してきました。ひとまずは相当程度に成功したようです。世界にもまれな国民性です。公共性として美徳でもありますが、悪く言えば附和雷同、他の人達の様子をみながら、それに合わせることを極端に好む文化の賜です。仮に、声の大きな勢力に扇動される世論の流れが生じたときに、これを押しとどめる個性の尊重が危ぶまれます。日本という国でこそ、徹底した議論と対話の結果としての選択であることを常に確実なものとして行く努力を積み重ねる必要があります。ナチスドイツは、ワイマール憲法下、成立しました。戦前の日本が歩んだ軍国主義は願い下げです。政府に大幅な裁量権を与えることの危険性を十分理解しながら、しかし、どのような形で、新たな感染症に立ち向かって行くのか、阪神淡路大震災や東日本大震災と福島原発事故などの大災害を克服するのか、徹底的な議論が必要です。緊急事態条項をめぐる憲法改正も、この議論の結果としての国民の選択としてのみ有り得ます。
三島由紀夫と全共闘ー右翼と左翼 ― 2020年03月22日 21:04
1、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』と学生運動
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が公開中です。
1969年、学生運動に参加する学生らと、作家・三島由紀夫との討論会が東大のキャンパスで行われました。全共闘に参加する学生らが企画したものです。その記録映画です。
「右と左。思想の異なる両者がぶつかりあう言葉たち。時に怒号飛び、時に笑いが起きながら、会場を圧倒的な熱が包み込む」。(竹内明「“右と左”の直接対決 三島由紀夫vs東大全共闘「伝説の討論会」、いったい何が語られたのか?」 より。文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/36746)
日米安全保障条約締結時の60年安保闘争、10年後の同条約延長をめぐる70年安保闘争と言っても、若者たちには良く分からないでしょう。学生の政治運動が「バリケードと角棒」を用いた暴力による大学封鎖に発展しました。学生活動家が機動隊と対峙していたのです。
昨年激化した香港の民主化運動(逃亡犯引渡条例の改正への反対運動)を思い出すと、ちょうどそのようなものなので、イメージしやすいでしょう。
前述の三島由紀夫との討論会があったのは、学生の立てこもる東大安田講堂に機動隊が突入して、強制的に大学封鎖を解除した後、4ヶ月という時点です。上の記事によると、会場には1000人の学生が詰めかけていたそうで、学生運動の熱気が感じられます。
それから10年後、私の学生時代、学生運動はもはや下火ではありましたが、その残り火が身近に感じられもしました。大学の構内を、ヘルメットにマスク姿の10人程度の集団が、角棒を持って練り歩くのを、時折、見かけたものです。1回生のとき、あるサークルに所属していた同級生が、「搾取」、「搾取」という言葉をやたら連発しながら、ほとんど親しくもない私に向かって、「誰も分かっていないんだ」と熱っぽく語っていたのを思い出します。サークルの先輩が背後に居て、資本論の研究会に参加を呼びかけていました。私自身を含め、多くの学生が「搾取」という聴き慣れない術語を聞いて、怪訝な感を抱き、そのような活動に無縁であったようです。ヘルメット集団とこのサークルとは関係がないのですが、何となく連想してしまうので、この同級生を避けていたように思います。この頃には、既に、ノンポリという言葉が一般化していました。
現在、大学教員となって、学生らを見ていると、国際経済法や国際取引法という法分野を学ぶ学生であるからかもしれませんが、政治的活動に対して、消極的に無関心であるというより、むしろ積極的に「政治活動」から距離を置こうとしている態度を感じます。何やら、得体のしれない危なっかしいものという風に感じているようです。
このことは私の属する大学だけではなく、相当程度に、一般的なのではないでしょうか。一斉を風靡し、ファッションにもなった、左翼思想が若者の間で最近はあまり流行らないのです。全共闘? 全学連? 革マル派? 内ゲバとか、怖そうだし。但し、私は、政治思想の専門家ではありませんので、学生運動を正確に区別してお話をしているのではありません。現在まだ活動する学生運動の大部分が、暴力主義的な運動とは一線を画するものであるとされます。
2、三島由紀夫のこと
文学や政治思想の専門的知見というより、私の個人的な思い出を書いておきます。高校生のとき、純文学にしか価値を見出せなかったので、純文学の小説を乱読していました。無数の詩作など、たわいもないものですが、そういった生活を送っていた典型的な文学少年でした。そのころ、強烈な印象をもったのが、三島の小説です。『金閣寺』に衝撃を受けて、三島の政治思想なんか全く知らずに、幾つかの小説を憑かれたように読み耽っていたことがあります。
その後、大学に入ってから、彼が右翼の思想家であり、自衛隊員の前で演説をした後、割腹自殺したこと、筋骨隆々の褌姿の写真、それにゲイであったことを知ったのです。小説からは窺い知れず、それはもう驚いたものでした。
全共闘学生らとの討論会は、三島が自殺する直前の時期に開かれたものです。前述の記事によると、三島と学生らが理知的に、笑いを交えながら、長時間の討論を行ったのです。
右翼の政治思想にも疎いので、三島由紀夫の思想的系譜や、反米主義とも親米主義とも結びつく「正統」右翼の諸団体との関係を分析することはできません。しかし、この討論会が、よく考え、練られた政治思想としての、左翼と右翼の実に興味深い議論であったことは想像に難くありません。
決して妥協することのない、従って、結論的に根本的な同意を予定しない議論が、しかし、互いの理解を深め、あるいは影響を及ぼし得る、民主主義の基底をなすものであることは指摘しておきます。このような議論は相手を打ち負かすことのみを目的とするディベートとは異なります。法廷で実務家たちが繰り広げる議論や、選挙に際して行われる政治家の討論は、多くの場合にディベートです。これも目的にかなった必要悪ではありますが、区別する必要があります。
3、「右」と「左」
政治的な意味で、左翼とか右翼という場合、上のような学生運動が盛んであったような時代、冷戦期において、社会主義・共産主義と反共主義を指す場合が多かったのです。特に、ソビエト連邦の崩壊は、マルクス・レーニンの、ユートピアである社会主義の理想が、現実の国家としては存在し得なかったことを明らかにしました。そこで、冷戦終結とともに、リベラルという政治思想が不要となったという主張があります。そこでいうリベラルというのが、社会主義あるいは社会主義に多分に好意的な政治的立場ということになります。特に、冷戦下、社会主義国家の建設と、ソビエト連邦を頂点とする社会主義陣営に与することを目指す立場です。
アメリカにも保守対リベラルの対立があるのはご存知でしょう。アメリカは共産主義を非合法としています。そこでリベラル派とは大要、民主党の政治家を指します。オバマ元大統領が国民皆保険制度を創設した政策を、保守主義者は社会主義と呼んだりしますが、上の意味のマルクス・レーニン主義と異なることは自明です。今年の秋に行われる大統領選挙に向けて民主党候補者を選ぶ選挙が行われています。バイデン議員が中道であるのに対して、サンダース議員は自らを社会民主主義者であると呼びます。
アメリカの健康保険制度は、高齢者と生活困窮者向けの社会保険的な給付が元々あったのですが、それ以外の国民は、民間の保険会社から保険を買う必要がありました。民間企業である保険会社が健康保険の適用範囲を狭く認定しがちで、著名なクラスアクション(集団訴訟)に発展したことがあります。それでも、これが、税金に頼らない自由競争を信奉するアメリカ社会の伝統であるとして、皆保険制度に対してはテイーパーティー運動などの極めて激しい反対運動が巻き起こりました。このオバマ・ケアを維持ないし発展させるとすることや、大学の無償化、学生に対する多額の借金となっている奨学金の減免などを、公約とするサンダース候補が、これに反対するトランプ大統領から「社会主義」と呼ばれるのです。しかし、それでは現在の日本の健康保険制度や大学無償化への流れが、社会主義であることになってしまいます。
ここで、分配的正義による市民相互の平等に一層価値を置く立場と、自由競争に基づく社会全体の富の蓄積に重きを置く立場とは、今でも有効な対立軸です。日本の野党のいう格差是正と平等の実現か自民党の自由競争を重視する政策かという対立によく即しています。もっとも、現実の政策は、いずれの方向性も絶対ではなく、その対立軸の中のどの辺りに線を引くかという、相対的なものです。そして、どちらかというと社会の底辺にある生活困窮者の救済に力点を置くのが、野党であるとは言えるでしょう。日本の与野党の政策対立は、アメリカの保守とリベラルの相違ほど歴然としてはいませんが、確かに、これに対応するようです。
また、個人の尊重と自由主義と、国家公共の利益とのいずれを優先するかの対立もあります。もっとも、これもいずれも絶対の価値ではなく、個々の問題ごとに、その価値対立の座標軸上に均衡点を穿つ必要があるので、その均衡点を幾分右にずらすか、左にずらすかの相違でしかありません。憲法自体に、個人の人権保障と公共の福祉との対立と調和が公理として組み込まれています。個人の国家からの自由を重視し、国家が介入することを嫌う傾向と、むしろ国家公共の価値を重視する傾向の対立であり、前者は、一層、多様性と自己決定の尊重に結びつきます。前者がリベラルであり、後者が保守であると、一般的には言えるでしょう。
全共闘対三島由紀夫の時代の、左右の対立など、それ自体はもう影も形もありません。そのような過去の亡霊のような価値体系と結びつく左や右という言い方は、誤解の元となり、今や全く不要です。何故か、日本の各野党がリベラルを名乗りたがりません。リベラルの名を捨てたような感さえあります。しかし、保守と対立する軸としての、政治思想を上手く名付けてもらわなければなりません。保守が従来からそう変わらないものであり得るとすれば、「伝統ある」リベラルの名を生かしてもらった方が分かり易いです。しかし、これを誰もが分かる様に再定義する必要があるでしょう。
もっとも、保守主義にも、次の様な用法があることに注意しなければなりません。第二次世界大戦前の戦間期の各国において、上述の意味における左右の対立が激化しました。ことにドイツは多額の戦争賠償に喘いでいた時期があり、また大恐慌後の不況をなかなか乗り切れないなか、生活に窮した市民が、革命思想に導かれた全体主義としての左右の両極端の政治的主張のいずれかを支持したのです。その結果、ドイツ国民は、ナチスの台頭を許し、未曾有の惨禍をもたらした世界大戦とホロコーストを招きました。この戦間期において、保守主義の次の効用が説かれたのです。
革新的思想に対して、保守主義が漸進主義によることで、社会の振り子を極限まで振り上げることなく、中庸を行くことによりその振り幅を適正に制御できるとします。
私は、社会の中の限られた知識人に社会運営を任せておけば上手く行くというエリート主義が行き過ぎることを好みません。良き大衆主義(ポピュリズム)は、一部の者が大衆を扇動するということではなく、適切な情報提供と徹底的な議論により、大衆の賢慮を引き出すことであると考えます。その上で、その結論に従うという姿勢です。少数者・弱者の保護は、現行憲法の重要な原則であり、大衆の賢慮の一部であり得ます。
現代の学生が、政治に無関心であるという主張は私の学生の頃より多数説でした。しかし、集団的自衛権をめぐる学生団体「SEALDs」の活動は比較的最近のことです。この活動が、上述のような学生運動とは全く異なる新しい若者の政治参加の方法でした。合法的なデモと、報道機関への明確な自己主張、意見の一致する政治家との協調行動です。マスコミや政治家をも巻き込んだ非暴力主義的なものです。ヘルメットに角棒ではなく、カッコ良い黒シャツをユニフォームとして、ラップを用いた分かり易い政治的宣伝など、斬新なスタイルも際立ちました。
憲法を守るために、集団的自衛権へ向かう法改正を阻止しようとして、選挙での多数を獲得するという一個の政治目的のためにのみ、それが組織され、目的達成か否かに関わらず、選挙後、間も無く解散したのです。私自身は、この問題も大衆の賢慮に委ねるべきであると考えます。具体的には、憲法改正国民投票によるということです。しかし、若者の政治活動のあり方として、ブレークスルーとなったことは間違いなさそうです。
最初に掲げた映画を是非観てみようと思っています。


