難民政策2017年11月19日 22:28

「海岸に打ち上げられた移民男児の遺体、欧州各国で波紋呼ぶ。」

2015年にインターネットに掲載されたニュースのタイトルです。
ショッキングな写真が数枚ありました。

浜辺の湿った黒い砂の上、稚児がうつ伏せになって寝ている。
柔らかな波が寄せるたびに、からだも頭も濡らして、息ができるだろうか。冷たくないのかな?
柔らかかったはずの小さな手のひら、半ズボンの足を投げ出して、まるで生きているように見えます。

この幼い子供は、2歳か3歳ぐらいの子は、亡くなっているのです。

シリア人難民を乗せてギリシャを目指していた船が、トルコ沖合で転覆し、海岸に打ち寄せられた子供の写真でした。

小さな船でトルコからギリシャに向かうのはとても危険です。

シリア難民については、次のHPを参考にして下さい。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)
Searching for Syria(シリアを探して)の日本語版。
https://searchingforsyria.org/ja/

国際NGO 難民を助ける会
http://www.aarjapan.gr.jp/activity/emergency/syrian_refugee/

チュニジアに「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が起こり、これがシリアに波及し、政府軍・反政府軍その他の武装勢力による内戦に陥ったため、膨大な数の難民を生じました。

ところで、1960年代末、当時社会主義国であったチェコで「プラハの春」と呼ばれる民主化運動が起こり、結局、ソ連の軍事介入を受けて制圧されました。「アラブの春」はこれをもじった言葉です。

平和なプラハの街頭を戦車が進み、旋回砲塔が無抵抗な民衆に向けられている様子を記憶しています。

大学生になった頃、「プラハの春」を題材にして、相対主義に基づく民主主義が世界において勝利する小論を書いたことを覚えています。

第二次大戦後、日本の憲法が変わり、戦前と価値観が転換したこと、特に、戦前の軍国主義的価値観を捨てたこと、その間、大本営発表に国民が欺かれていたことなど、そして戦後の日本は相対主義に基づく民主主義を基本として、個人の尊厳と自由を重んじる国になったことを、大学で学んで書いた小論です。

そのときの市民の多数の意見が、直裁に政治に反映される政治体制が必要であり、これが危機に貧するなら、武器を持たなければならないという拙文です。

冷戦の真っ只中ですね。

その後、1990年代初頭には、ソ連邦が崩壊し、中東欧も社会主義体制に変革が訪れました。

東西ドイツ・ベルリンの壁が市民によって壊される様を見て、小躍りしました。これで戦争の大きな根っこが無くなった? 若かったのですね!

その後、しばらくして中東欧の国々がEUへの加盟を認められました。

しかし、世界はなかなか平和にはなりません。
冷戦が終わっても、宗教を理由とする戦争が繰り返し生じています。特に、世界規模の戦争の震源地がパレスチナです。

イスラムとユダヤの対立に留まらず、イスラム教内部での宗教対立など、何世紀にも及ぶ紛争は、世界の軍事強国の介入により複雑化し、長期間に渡り継続します。

シリアの内戦は、宗教的対立と過激派それに民族対立が複雑に絡み合って泥沼化しています。アメリカ等の多国籍軍やロシアの空爆に晒されて、いま現在、普通に暮らす人々の生活の直ぐそばに銃弾が飛び交い、多くの人命が犠牲になり、負傷者が続出しています。

その結果、2015年に100万人にも及ぶ未曾有の難民がヨーロッパに押し寄せる、EUの難民危機を生み出したのです。

この難民達をEU各国は分担して受け入れています。

EUは2015年と2016年に難民危機に対処するため、EU予算から約100億ユーロを拠出したそうです。
http://eumag.jp/feature/b1116/
駐日EU代表部公式Web

難民に対して人道的な手を差し伸べるために巨額の費用を支出しました。

合法的にトルコからEUに移動する方法を講じた結果、エーゲ海を渡る危険な航海も激減したそうです。

しかし、EU構成各国の国内的な批判もあり、例えば、ドイツには2015年に約89万人、16年には約28万人の難民や移民が流入していたのを、メルケル首相が年間20万人に抑制すると発表しました。
(日経新聞10月9日電子版)

他方、日本の状況を見てみましょう。

日本には、現在、シリア難民が押し寄せるという問題はありませんね。難民危機はありません。

1951年の「難民の地位に関する条約」及び1967年の「難民の地位に関する議定書」があります。

わが国では、1981年に漸く国会承認を得て、翌年、日本国内で発効しました。

1975年にベトナム戦争が終結して、社会主義政府である北ベトナムが勝利し、資本主義であった南ベトナムから逃れる、ボート・ピープルが激化したため、これに対処する必要に迫られたからです。

外務省HPによると、1975年わが国に到着したボート・ピープルは9隻126人であり、79年から4年間は、毎年1000人台を記録しました。ボート・ピープル全体のピークが79年で、この一年間で39万人に登りました。

ボート・ピープルは、その名の通り、小さな船や筏で、東シナ海に漕ぎ出した人々のことです。

日本は当初、「一時滞在のみを認めること」としていましたが、

「国の内外からの要請」を受けて、インドシナ難民に対して特別の処遇を与えることにしました。

ベトナムだけではなく、ラオスやカンボジアの難民にも拡張され、受け入れが終了した2005年までに、なんと、11,319人もの難民の定住を認めたのです!?

命からがら、荒海に漕ぎ出した人々です。きっと「航海」の最中に命を失った人、子供達も多いでしょうね。

内訳としては、難民キャンプにいる家族の呼び寄せを含みます。人数としてはこれが一番多いのです。

インドシナ難民については、難民条約とは別個の枠組みにおいて、受け入れを「積極的」に進めた結果です。

国内法としては、「出入国管理及び難民認定法」に、難民条約に則した難民の定義を置いて規律しています。経済難民は含まれません。

外務省HPによると、難民認定制度ができた1982年以来、2015年までに、申請数が30,145件で、認定660件、人道上の理由で在留が認められたのが、2,446件です。

平成27年度、難民申請者7,586人、その内、申請の処理が3,898人で、認定者がわずか19人でした。申請数の増加が顕著であるようです。(法務省・平成28年版「出入国管理」より)

EUにおいて、難民・移民の排斥運動が起こったのとは、日本は事情が異なります。

ここでは、条約上の「難民」と、「移民」の区別をする必要がある点を確認しておきます。

西欧先進国は、経済成長期に単純労働の担い手の必要から、北アフリカやトルコ、中東からの移民を大量に受け入れました。近年は、中東欧の貧しい国々からの移民の問題を新たに抱えました。

EUの問題は、この余りに増え過ぎたかもしれない難民・移民をどう抑制するかという問題です。

日本は、単純労働については、日系人を除き、定住化政策を取っていません。高度人材外国人については、戦後の排外主義を捨て、既に受け入れ政策に転換しているのですが、あまり人気が無いようです。

すなわち、全く無い所から、単純労働を含めて、これから移民をどのように受け入れるかが議論される。正反対です。天と地の差が有りますので、日本と、ヨーロッパやアメリカの議論とを単純に比較してはいけません。

なお、日本の単純労働力の不足は、技能実習という「国際貢献」?により何とか賄われているのですが、最近、ベトナム人の技能実習生が急増しており、中国人に迫る勢いです…‥‥。(T_T)

海岸に打ち上げられた幼い子に、明るい紫のバラを一輪、捧げます。

移民政策については、次回に述べます。

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