法解釈の客観性2017年11月05日 17:25

隣合う二人の住人の間に争いが起こりました。その争いを解決するために、1、殴り合い、2、二人ともよく知っている向かいの住人に仲裁を頼む、3、弁護士に相談する(裁判所に行く)という、三つの解決方法があるとします。どの方法にしますか?

殴り合いは、腕力の強い方が必ず勝つ方法です。類型的に力の弱い人は勝ちようがありません。
向かいの住人は、仲裁を断るかもしれませんし、どちらかがそのような仲裁を嫌がるかもしれません。
最終的には、弁護士に相談して、どうにもならないなら裁判所に行くしかないですね。

それとも、解決を諦めましょうか??

まず、「法」というのものがあって、私人間の紛争を解決するためのルールが決まっている。このことが、この社会の大前提ですね。

他方で、国家の公的部門と私人との関係も重要です。一市民は無力です。強大な国家権力に対峙するために、法が個人の権利を定め、それを守ってもらう必要があります。もしも国家が個人の権利を害するような行為を行うとすれば、市民の側はどうすれば良いでしょう。政府・地方行政府、国家機関の手を縛るものが、公法です。法を確実に遵守させるために、やはり最終的には裁判所に行くしかないですね。

わが国の国家システムとして、私人間、及び機関対私人間の法的紛争の最終的解決は裁判所に委ねるということになっています。

わが国は法治国家です。

法をどう作るかは、立法の問題ですので、今回は触れません。

法をどう解釈するか、法解釈の問題が今回のテーマです。

法的な紛争といっても、ごく簡単な事例=典型例を前提にすると、六法全書を紐解き、該当する法律の条文に、そのまま答えが書いてあるという場合が、社会に生じる紛争の大部分です。

これをイージー・ケースと呼びます。この場合、条文をみれば、結論が分かるので、紛争当事者のいずれも、何も裁判所に行く必要がない。どちらも、その通りの解決に異存がないということになるでしょう。

しかし、例外的に、条文をそのまま適用しようとしても、答えの分からない問題を生じてしまいます。

最初から、条文が曖昧であったり、包括的に過ぎて、具体的な適用方法が良く分からない場合もあり得ます。社会が進展し、立法の際には予想もしなかったような事例を生じて、ぴったり当てはまる条文が無いという場合もあります。

これをハード・ケースと呼びます。

こうなると、裁判所に行って、答えを聞かないとどうにもなりませんね。

裁判所が、紛争の最終的な解決機関の一つであるとして、それも重要な機関として、社会において認められています。

しかし、裁判所が、法を引用しないで、自分がこう思うから、その解決にしなさいとすることは、原則としてありません。裁判所がその権威によってのみ解決するのではなく、法を解釈して、事件に当てはめることによって、その理由を説明する必要があります。

ところで、「法」の解釈に客観性はあるのでしょうか。

法解釈の学者は、主としてハード・ケースについて研究し、正当な解釈のあり方を提案します。

ここで、解釈は、自己の価値観や信条の直截な表明としては行われません。

日本は、明治期に西欧法を継受し、これを発展させて、今日の法文化を形成しています。長い法伝統の賜物です。法の客観的な意味内容を確定するためには、一般に認められる法の解釈原則があり、これに基づく規範的議論によらなければならないとする解釈の作法が、その根幹になります。解釈者は、この「規範」に自己拘束を受けます。

もっとも、解釈者の価値観や信条が、解釈に反映されることもまた免れない。それでも、前者と後者を厳密に区別して議論することが求められます。そうしないと、解釈論として成立していないとみなされ、法の(解釈)言説の中で存在を否定されます。

一旦は、切り離すとして、それが何になるの?という疑問が生じるかもしれません。どのような結論をも、既にある「法」の「解釈」として呈示できるのですから。

解釈者の直感や価値に従った結論があったとしても、法の客観性を希求する態度を決して放棄しないこと、まるで修道僧のような自己規律です。場合によっては、自分の価値観に反して、受け入れられない結論であっても、「解釈」としては取らざるを得ないという結論に至る場合もあるのです。この場合、立法論として解決されるべきだということになります。

この自己拘束こそが、客観性を担保する唯一の方法であり、怠ることが許されません。

法の支配、立憲主義という場合も、「法」が、「憲法」が、その「客観的」内容を有するとする、法伝統に従う解釈原則と規範的議論の枠を超えないこと、このことを前提にしなければなりません。

その「法」「憲法」の解釈を超える行いは、違法、違憲である、としなければ、法の支配も立憲主義も成り立ち得ません。

裁判所がその任務を放棄することはあってはならないでしょう。

但し、法解釈の客観性については、法哲学における悠久の問いであり、ここに示したのは、筆者の見解です。

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