立憲主義と法解釈の客観性 ― 2017年11月06日 23:56
自然法といっても、国際法や憲法にある一定の規範内容をそう呼ぶわけではありません。ちなみに、筆者は無神論者です。
天賦人権思想が人類の叡智として、国際慣習法であり、わが国の憲法にも流れこんでおり、従って、これに拘束されるという言い方をする場合に、一つの候補ではあり得ます。
しかし、むしろ確かに存在するけれど、決して確知し得ないもの、半永久的に不可視かもしれないXを探求し続ける義務づけと呼べるものです。
正義についても、同様に、正義という語を用いて議論することが重要であると考えています。無内容な正義の語を避けて、全てを功利的、実証的にのみ論じるべきであるとする立場があり得ます。しかし、正義の語を用いて議論することで、この語の周辺に、この社会の正義の内実となるべき要因がまとわりつき、正義を巡る議論と対話が始まるでしょう。正義という言葉自体の持つ強い作用も重要な要素であると思います。
ところで、
立憲主義という場合、憲法には一定の客観的な規範内容が存在するということを前提しなければなりません。憲法の内容として、いかなる結論をもとり得るとするなら、立憲主義は成立しないからです。
憲法の内容としてある結論を主張する者も、客観性に関わる何らかの証拠を挙げ、その結論を実証しようとするでしょう。
このことは、法一般に当てはまり、自己の価値や信条に基づき、既存の法の内容について、各人の結論を想定することができます。法が客観的に存在し、万人に対して平等に適用されなければならないとする法の存在根拠によって、法の解釈学が発達しました。
法解釈というとき、法分野横断的に共通の(完全な一致ではない)方法論を有します。西欧法において何世紀にも渡り形成され、わが国に継受された法伝統としての、解釈原則と規範的議論がそれです。
わが国の法学者全般及び法曹(裁判所、検察、弁護士)に通用する共通言語であり、裁判において唯一通用する「言語」です。この程度の専門性は、どの社会においても、文化・科学技術なりの各分野において存在するでしょう。
憲法がいかに政治に隣接する問題群を有するとしても、その法としての解釈は、政治的信条の開陳ないし政治的主張とは異なり得るのです。
次に、法の解釈が客観的足り得るかという問題について、述べます。
この問題は哲学上の大問題であり、多様な考え方がありますが、以下は、筆者の見解です。
法の解釈においても、自己の価値や信条に基づきいかなる結論をも導き出すことができるという立場を取ります。
それでは、どうして客観的足り得るのでしょうか。筆者の考えでは、法の解釈者としての訓練を受けた者が、客観的解釈を探求するとする態度と、先の解釈原則に基づく規範的議論を行うとする自己拘束によることになります。
繰り返しますが、この方法によっても、いかなる結論も可能となります。それでも、上の意味における、解釈としての、客観性に対する指向性においてのみ、その客観性が基礎付けられます。
場合によると、自己の価値観に反するとしても、法の解釈としては、異なる結論を取らざるを得ないとする程の自己拘束を伴います。
同一の問題に対する法の解釈者の結論は、多様であり得ますが、客観性に対する指向性に裏付けられて、収斂することもあります。あるいは、「解釈」の集合体の中で、多くの点の集まる中核部分と周縁部分が生じ、一定の基底的理解を生じることもあります。
以上のプロセスを経た解釈的結論と、政治的主張や信条の開陳は厳密に区別するべきです。
そして、立憲主義という場合には、一先ず、法解釈の方法による結論を前提にするほか無い。その上で、政治的議論があり得るというのです。
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