改憲論議1-憲法と「個」2018年03月02日 18:56

1、個人と国家

桝添要一氏が少し前のブログ(2017ー10ー24)で、

自民党憲法改正第一次案(2005年)と第二次案(2012年)を対比させて、第二次案を批判しています。
https://ameblo.jp/shintomasuzoe/entry-12322370358.html

第一次案をまとめた自民党内責任者が国会議員時代の桝添氏です。

要点は、第二次案を起草した自民党国会議員は、立憲主義を理解していない、というものです。

権力者=機関が国の仕組みを恣意的に変更したり、国民の人権を侵害したりしないように、予め、法のルールにより、特に、政府を拘束するという使命を、憲法が帯びるものであること。これがここでいう立憲主義です。

日本の憲法は明文の規定がありますので、憲法の条文に反する行為を国家機関ができないということです。

どんなに強い権力者も服さなければならない、絶対に冒すことのできない領域を設けることで、弱い立場の一個一個の人間が少なくともその範囲内では、権力者の恣意的な扱いを免れることを意味します。

同氏の言葉では、国家の対局にあるものが個人であるとしています。

個人(の人権)を国家(による侵害)から保護することが憲法の第一の使命です。

自民党第二次案が、個人の「個」の字を削除してしまっていることの意味を桝添氏は次のように推測しています。

日本の連帯感のなさは個人主義の蔓延のせいであり、その元凶が現行憲法であると決めつけて、憲法の中にある「個人」という表現を削除したのではないか、というのです。

そして、西欧の天賦人権説の否定が底流にある、としています。

以上の分析が真実であるとすると、この指摘は重要な意味を持っています。


2,アメリカ福音協会

視角が変わりますが、実は、アメリカはキリスト教の強い影響の下にある国です。キリスト教文化が深く根付いている社会なのです。

昨晩、NHK総合で、時論公論「トランプ政権と福音派」(高橋祐介解説委員)という番組を放映していました。(2018年3月1日)

高橋委員によると、アメリカ合衆国では、政教分離が、明文の憲法条項は別にして、実際上は確立されていないというのです。

このあたり、筆者はアメリカ憲法の専門家ではないので即断できませんが、確かに、歴代大統領が宗教家と深いつながりをもっており、政権運営の重要な要素であったことは間違いないと思われます。

NHK時論公論は、宗教保守派であるキリスト教福音派の著名な伝道師であるビリー・グラハム氏が逝去したことを伝えるものでした。

共和党だけではなく、民主党出身大統領も、同氏に助言を求めることがあったと言います。

ところで、同派は、トランプ大統領の支持基盤の一つであり、大統領戦では、白人福音派の81%が同大統領を支持したとされています。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/22538/20161110/white-evangelical-hand-victory-to-donald-trump.htm

米国の保守的なキリスト教団体です。
トランプ大統領が、保守的な、例えば妊娠中絶に反対するような信条を有する裁判官を連邦裁判官に任命するという形で、既に、米国政治に影響を与えつつあります。

トランプ大統領のエルサレム首都認定の背景にアメリカのキリスト教福音派が存在するという指摘もあります。
https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2017/12/1221.html

このような文化的、社会的あるいは政治的なキリスト教の強い影響力をアメリカという国が受けていることと、日本国憲法とは、全く切り離して考えて良いでしょう。


3,「天」賦人権の思想

現行憲法を起草したのが誰であるか。少なくともアメリカGHQの強い影響下に、GHQ案に沿った形で起草されたとは言えるでしょう。

従って、憲法はアメリカに押しつけられたもので、日本の価値観を反映していないので、書き換えなければならないと、日本の保守派が主張していますね。

天賦人権の思想=キリスト教の教義のような認識が一部には存在するようです。

天賦人権の思想というと、西欧の絶対王政が克服される過程で生み出された、すなわち革命で流された血の上に築かれた人類の叡智の結晶であるとする理解が一般的でしょう。

西欧各国が、キリスト教の聖俗に渡る長い支配と、やがて絶対王権とキリスト教会の癒着という歴史があり、しかし、庶民と革命指導者の信仰の礎であり続けたという意味で、革命もまた、キリスト教の文化的影響とは切っても切り離せないものでしょう。

他方、日本がそもそもその影響を極力排斥してきた国であったことは歴史をみれば明らかです。戦国時代末期から江戸時代にかけて、キリスト教の精神的支配を回避するために、キリスト教が禁止され、キリシタン狩りが行われたことはよく知られています。

明治維新に至り、江戸時代の法と断絶した、西欧列強の法を継綬した日本ですが、このときに作られた大日本帝国憲法が、やはり立憲主義思想の下に制定されたものには違いありません。

同時に、西欧的価値観とは異なる儒教の影響が考えられる封建制度が組み込まれているものでした。

戦後日本に成立した現行憲法が、この封建制度を払拭したのです。

封建的な「家」制度がなくなって、現代の日本社会が公徳心を欠いた、退廃した社会であると言えるかは疑問です。あまり長く論じる余裕がありませんので、以前のブログなど参照して下さい。

個人の尊厳を尊重し、人の相違に寛容であるという精神すなわち多様性の尊重は、両性の平等や、障害のある人を人の資質の相違として把握し、相違を理解するべきだとする考え方へと現代的に発展を遂げています。

人々の多様性を包容する日本に住む人たちの共同体のあり方を更に模索する必要があるでしょう。

それにしても、天賦人権の思想の天が西欧において、キリスト教の神を意味し得たとしても、宗教的影響に関係しない者にとって、その「天」はいかなる神にも無関係の、「天」であり得るのではないでしょうか。

その国の意味における「天」があるはずです。日本においては、日本古来の意味における天として、森羅万象、すなわちいかなる権力をも凌駕する自然そのものを意味すると理解しても構わないのではないでしょうか。それは崇拝と畏怖の対象であり、人もその一部に過ぎない、人を取り巻く環境の全てであったのです。

その意味は、人類社会のいかなる世俗的・宗教的権力によっても、特に国家によって決して奪われない個人の権利が存在する。そして、憲法を制定し、その範囲を確固としたものとするということです。

天賦人権の思想が、慣習国際法であり、これが日本国憲法に流れ込み体現されているとするのが、恐らく憲法学説や行政解釈の帰結です。国際公序とも言えるでしょうか。

その「天」は、西洋と東洋を架橋する普遍的なものであり得ます。人類社会に所与のものです。

天賦人権の思想の根本的意味をないがしろにしてはならないのです。

今後、改憲論議がなされるとすれば、このことに充分注意する必要があります。

次回は憲法9条の改正について、野党の分裂を憂える立場から考察したいと思います。

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