国際的格差と自由貿易2019年09月30日 02:44

先日、国際連合総会でなされた安倍総理の演説で、日本が自由貿易の旗手であり続けることを宣明し、自由貿易主義が国際的格差の是正に貢献することに言及されました。今日のブログは、この問題を扱います。結論からお話しすると、筆者は、この考え方に賛成します。

国際的格差是正と自由貿易

国際的格差

世界の最富裕国から最貧国まで、どの程度の 経済格差があるのでしょう。国際機関が 公表している統計に従い比較してみます。IMF(国際通貨基金)の統計によると、2018年の国別GDPの上位3カ国はアメリカ、中国、日本で、アメリカ約20兆5000億USドル、中国が約13兆4000億USドル、日本が約4兆9800億USドルです。最下位までの3カ国が191位キリバス約19億USドル、192位ナウル約12億USドル、193位ツバル約4億5000万USドル です。

また、世界銀行の統計によると、2018年の国別購買力平価(PPP)一人当たりGNI(国民総所得)で、上位三カ国がカタール、マカオ、シンガポールであり、1位のカタールが124,130ドルです。ちなみに、2017年の統計で、日本が40,343.1ドル、アメリカが55,350.5ドルです。GNI(国民総所得)というのは、GDPに海外からの所得の純受取額を反映させた指標です。今日、外国に投資をしたり、金融資産を保有することが特に先進国では一般的です。外国に保有する富を反映させないと、正確に経済力の比較をすることができません。為替レートの影響を受けないように調整して、GNIを各国の人口で割ったものが一人当たりの購買力平価です。下位の三国がコンゴ民主共和国、中央アフリカ、ブルンジのアフリカの 国々です。最下位であるブルンジが688.8ドル(2016年)となっています。1ドルが110円として、大雑把に換算すると、日本人の年間購買力の平均が4,43万7,741円であるのに対して、ブルンジの国民は7万5,768円ということになります。一月6,314円で生活している計算になります。

世界全体のGDPの約8割がG20参加国に集中し、約5割をG7参加国が占めます。(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46490200U9A620C1000000/)世界における富の偏在は明らかです。

国際機関における各国の投票権はどの国も平等に一国一票であることが原則ですが、IMFだけは異なります。IMFには、多様な役割がありますが、重要な役割の一つが国家のための銀行となる国際機関であることです。各国が拠出した資金をプールしておき、国際収支に問題を生じたときに加盟国が資金を引き出すことができます。経済が行き詰まって国の債務が返済不能となる国家破産の場合に、国や国際機関及び民間の債権者と債務者である国とを仲介して、債務の免除や繰延べを行わせたり、巨額の資金を貸し付けたりします。このIMFの投票権は、拠出した資金量に応じて各国に割り当てられています。IMFのホームページをみると(IMF Members' Quotas and Voting Power, and IMF Board of Governors,Last Updated: September 29, 2019, https://www.imf.org/external/np/sec/memdir/members.aspx)、現在の所、アメリカが17.46%で一番議決権の割合が大きく、日本は6.48%、中国が6.41%です。今のところ、日本が2番目ですが、出資割当ての見直しが始まっており、国の経済規模を反映するので、中国に抜かれそうな情勢となっています。前述したブルンジは、0.03%、南太平洋の小国ツバルの議決権が最も小さく、0.001%です。189カ国が加盟するIMFの全議決権を100%としたときの割合です。

IMFの重要事項がこの議決権に従って決定されるのです。従って、アメリカと出資割当ての大きな先進国である西欧諸国が合意に到れば、IMFを自由にコントロールすることができます。もっとも、最近では中国など新興国の出資割当てが増額される傾向にあるので、将来的にはこの構図にも変化がもたらされるかもしれません。このような議決権の配分はIMFの特徴です。国際機関の決定方法は一般にコンセンサス方式によります。全員一致でのみ可決されるという方法です。 独立した主権国家は平等ですから、これが原則となります。この方法の場合、加盟国のいずれか1カ国が反対票を投ずれば、その議題が否決されるということになるので、加盟する全ての国に拒否権があることになります。国際会議が容易に合意に至らず、空中分解するか、曖昧な玉虫色の解決しか生み出せない原因の一つです。

WTOもそうです。総会で決定される重要事項について、全ての加盟国に拒否権があります。現在、アメリカが反対するので、上級委員会委員を任命することができない状態が続いています。WTO紛争解決手続きの上訴審に当たる上級員会が機能不全に陥る危機にあります。

しかし、WTO全加盟国を構成員とする紛争解決機関の決定はネガティヴ・コンセンサス方式によります。ネガティヴ・コンセンサス方式というのは、全参加者が反対しない限り否決にならないという方法です。そのため、WTOの紛争解決手続きでは、法の専門家の集まりであるパネルや上級委員会の前で、WTO諸協定の国際法としての解釈が争われ、当事国のWTO協定違反が認定され是正勧告が出されると、全加盟国で構成されるWTO紛争解決機関を自動的に通過することになります。ネガティヴ・コンセンサスによるので、いずれか一国でも賛成すれば可決されるのであり、少なくともパネルや上級委員会で勝訴した国は賛成するからです。

1995年にWTOが成立する以前のGATT時代には、GATTを巡る国際紛争は外交交渉に 基づく政治的解決に委ねられたのですが、WTO以降は、限界が指摘されるとしても、法に基づく司法的解決に移行したと言われます。法の下では、大国も小国も平等です。政治的解決であれば、アメリカが負けることがありません。しかし、WTO紛争解決手続きでは、小国がアメリカに勝訴することが実際にあるのです。


反グローバリズムとWTO

現在の国際社会では、ヒトやモノの移動手段である航空機や、情報の伝達手段であるインターネット通信が、テクノロジーの発展により、ますます高速、大容量化を遂げ、グローバル化が更に加速しています。ヒト・モノ・カネが自由に国境を越えます。行きすぎた側面があるとも指摘されることがあります。

ヒトの移動について言えば、生活水準の低い国々から、開発先進国に移民や出稼ぎ労働者が自由に移動したEUのような地域では、不況下にその弊害が現れ、反移民運動を生じ、社会の分断を招きました。無軌道な移民受け入れ政策が失敗したということでしょうが、大局的にみれば、域内の開発途上国の貧困を構成国が全体として引き受けつつ、EU全体としての経済発展と、全体としてのEU市民の生活向上には通じたとは言えそうです。反移民運動について言えば、未だに国境を中心とした発想に囚われている人々が民族主義の郷愁に浸っているようにも思われます。しかし、受入国社会の激変を緩和する措置を設けることを怠り、受入国の移民の同化政策が失敗した、ないし無策に近く、周囲から社会的心理的に隔絶した 移民集団を作り出したことに問題があったのではないでしょうか。

金融の側面では、ジョージ・ソロス氏の率いる著名な投資ファンドが、一つの私企業でありながら、投機的な投資によって、イングランド銀行を潰したとか、あるいはタイを国家破産に追い込んだことは有名です。また、タックスヘイブンに逃避する先進国富裕層の資金やマネーロンダリング、多国籍企業の租税回避が問題とされます。「カネ」が、貨幣のような物理的存在を止めて純粋に価値として流通する場合、これを規制することがそもそも困難であるとも言えそうです。国際金融の暴走も、本を正せば、ロンドンのシティーを国際金融の中心地として、その地位を確固たるものとしようとしたイギリスが域外通貨のオフショア取引を無規制に置いたことや、スイスなどの銀行法が、自国の権益を重視して守秘義務を絶対視したことに端を発しているのです。グローバル化の弊害というよりも、行き過ぎた一国中心主義の弊害であり、現在の国際社会が適切な法規制を作るための努力を行なっている最中なのです。国境を越えて自由に飛び回るカネに対する法規制を一国で行うとしても限界があり、ほとんど無意味なのです。そのための国際協調の仕組みが是が非とも必要とされます。

最後に、モノの自由移動に関わる自由貿易主義の「弊害」について、考えてみましょう。

グローバル化が進み、どの国も自国産品を輸出して大きな利益を挙げることができるようになりました。すると、その国の主食である作物を輸出に回して、主食が国内的に欠乏してしまったアフリカの国があります。しかし、他方で、自由貿易主義の恩恵を被ることで、開発途上国を脱して新興国として経済発展を遂げる国々も多数あらわれました。例えば、インドやタイがそうです。インドは大英帝国の植民地とされた時代が長く、プランテーション農法の後遺症に苦しめられてきた国の代表格でしょう。ところがインドが目覚ましい経済発展を遂げて、極貧の生活を免れる市民も増えていることを、我々日本人も良く知っていますね。筆者が中学や高校で学んだ頃の地理の教科書には、タイが、その南国風の「鷹揚な」国民性も相まって、進出した日本企業が困惑しており、工業化が困難な国であると記述されていました。メコン川流域には日本の工業製品のサプラチェーンの一大拠点が広がっています。不見識である筆者の教科書的知識からは、未来永劫工業化の不可能な国であったはずのタイは、メコン川流域サプラチェーンの中心地となり、経済開発が成功したのです。

そして、WTOが特恵関税や義務免除などの途上国有利な仕組みを備え、運用上も先進国には厳格に、途上国には寛容に行うというダブルスタンダードが存在するとされます。公正な自由競争の下でこそ、世界市場において資源を適切に配分することが可能となり、国際社会が全体として利益を最大にして、加盟国の全てが恩恵に与るというのが、WTOの根本的理念である自由貿易主義です。

そして、WTOのフォーラムでは、多様な価値が争われます。例えば、国際経済法の規制のあり方を巡って先進国対途上国の南北問題を生じます。これまでの多角的関税交渉は、先進国に一方的に有利であったとして、途上国側の不満が高まり、新興国との三つ巴の争いとなりました。それが現時点で、WTO交渉が行き詰まっている最大の原因なのです。しかし、このことは裏を返せば、新興国、途上国に発言権があり、その意向も反映され得ることを示しているのではないでしょうか。

自由貿易主義に関するWTOのみならず、多様な価値を扱う国際的レジームが複数存在します。労働規制に関するILO(国際労働機関)や環境規制や生物多様性保護に関わる国際協調の仕組みがあります。例えば、国際的な労働法規制を遵守しない国、企業からの輸入を
規制することが認められるべき場合があり得ます。児童労働や過酷な労働環境を放置することで安価に製造等できるとしても、そのような産品の輸入制限をWTO協定に盛り込むことが可能かということが争われています。希少動物保護のための手段を尽くしていない国の産品の輸入を規制することが、生物多様性の保護の要請に適うとしても、少なくとも一見すると自由貿易主義に反します。しかし、WTOのフォーラムは、これらの多様な価値を衡量する、少なくとも一個の場として機能し得るのです。ただ一途に、モノの自由移動という物理的態様を保護するものでないということは確かです。WTOが他の国際的レジームとも協調しつつ、これらの国際的価値の実現に一定の役割を果たすことが可能です。

一時、グローバル化の弊害を助長し、あるいはその親玉のような存在として、反グローバリズム運動の側から、WTOが目の敵にされていたことがあります。そこで、今一度、先にお話をした、経済紛争を司法的に解決する枠組みを作ったということがいかに重要であるかを確認しておきます。多分に政治から法へと、紛争解決の源を移行させることで、国際経済社会を弱肉強食の世界から救い、法の支配の下、小よく大を制することを可能とした功績が大きいのです。

そして、GATT=WTOの下で、世界の隅々まで経済発展の波が及びつつあることを忘れてはならないでしょう。

次回の更新は、10月12日ごろを予定しています。

日韓請求権協定と、日本の解釈・韓国の解釈ー国際法と国内法22019年08月28日 14:46

以前、「思いが重なるその前に・・・国際法と国内法」というテーマでブログを書きました。その続編です。「元徴用工訴訟」も参照して下さい。

日韓請求権協定という条約の解釈について、日韓が対立しています。

1、条約解釈について

条約法条約31条3項(b) 「条約の適用につき後に生じた慣行であつて、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの」。この意義について、各国の国際法学者や外交官・実務家の間で最も争いのある論点の一つです。

大まかに言うと、条約を文言に従って厳密に解釈する、あるいは条約を締結した当事国間の締結時における合意内容に拘束されるのであるか、後の国際社会の発展を考慮した目的的な解釈が許されるのかの争いです。後者は条約の文言、特に、一般的な用語、抽象的で曖昧な用語を柔軟に解釈することを許容します。しかし、例外的場合を除いて、後者の考え方を明確に一般国際法として確定できるような、国家実行の趨勢や、国際司法裁判所を含む国際機関の明示的な先例が存在するとは言えません。むしろ、印象として、文言解釈、及び条約締結時の当事国間の合意内容に拘束されるというのが国際的な多数派です。

第一に、国家実行や国際機関の判断も、一つあれば足りるというような解釈態度は国際法認識の方法として正しくありません。行政府の措置や政府の宣明、国内裁判所の判決などを、国際法を認識するための国家実行と呼びます。あるルールが国際法であるためには、そのルールを法として遵守するべきであるとする法的確信を各国家が有していることが必要であるので、そのことを国家実行により確認します。国家実行の大勢がいずれにあるかを確かめるのです。また、国際機関の示す解釈も国際法認識のための重要な要素となります。

仮に、発展的解釈を許容する場合にも、後の解釈が「当事国の合意を確立する」ものでなければならないので、当事国の意思が明白であるか、当事国を拘束し得るほどに、国際慣習法が確立されていることが立証されなければならないでしょう。その立証はそう容易ではありません。

第二に、国際司法裁判所の先例で、発展的な解釈を行うとする一般論を有するものがあるとしても、その部分のみを取り出して恣意的に一般化してしまうことは避けなければなりません。裁判所の判断というのは、常に、その時代、その当事者、その事実関係の下で、目の前の紛争を解決するもので、当該の事実的文脈において結論を理由づける性質を有します。

日本やドイツはどちらも、第二次世界大戦の敗戦国として、戦争被害者による個人的請求権の「放棄」に関する条約・協定があり、しかも後の国際人権・国際人道法の発展を踏まえた個人的請求がなされた困難な問題を有する国です。

ドイツについては国際司法裁判所の判決が下されたことがあります。しかし、個人的請求権の放棄が定められた二国間条約があり、かつ、条約締結後の国際人道法上の発展が国際公序として作用するので、被害者個人の賠償請求が認められるとした、国際司法裁判所の判決はないのです。とにかく結論的には、賠償を肯定した国の国内裁判が国際法違反として否定されています。

日韓の問題は、日本と韓国の間に締結された日韓請求権協定を前提として、その解釈をしなければなりません。日韓の問題について、日本政府が国際司法裁判所に提訴したとしても、韓国が応じない限り、強制管轄がないので、裁判が始まりません。仮に、韓国が応訴したとしても、日韓請求権協定という二国間の法が国際法としてあり、その通常の解釈手段によって確定された結論を覆すことができるほどの、国際慣習法が存在すると直ちに断定できるものではなく、この段階で、韓国の方に勝ち目がすこぶる大きいとは到底言えません。筆者の得られる情報からは、日本の方が有利であると思われます。


2、韓国大法院判決

韓国の最高裁判所に当たる大法院判決について、詳細を知りませんが、大日本帝国による朝鮮半島の植民地支配を国際法の観点から違法と断じて、その判決の理由の一つにしているようです。日本による朝鮮半島併合についての解釈も、日韓で相違しています。しかし、その違法か合法かは、直接、日韓請求権協定の解釈には関係しません。例えこれが違法であっても、第二次世界大戦後、その戦後処理のために締結された日韓請求権協定は、そのことを前提としているとも言えるからです。いずれにせよ賠償の問題は、国家間及び個人的請求の問題を含めて、一括して解決したというのが国家間の条約締結当時の意思であれば、その旨の条約を締結したわけです。

現行の韓国憲法は、日本による植民地支配が違法であることを出発点とします。朝鮮半島を併合した日韓併合条約は国際法に違反しているので無効であり、従って、この間の日本による統治も違法、無効であるとします。第二次世界大戦の終結により解放された後に成立した現在の韓国政府が、中国に亡命した独立運動の正統な継承者であるとしています。

遡って明治維新の頃、日本が西欧列強による植民地となることを恐れていました。地球のほとんど全ての領域がこれら列強の植民地と化していたのです。そのとき、日本が低開発途上国として、列強を中心とする国際社会に現れたのです。その後、富国強兵政策により、経済開発を進展させた日本が、日清日露戦争に勝利し、西欧列強がかつてそうしたように、朝鮮半島と台湾を植民地化し、中国大陸に侵出したのは歴史的事実です。

国連憲章が武力による国際紛争の解決を違法とし、領土的野心に基づき、他国を侵略する行為は禁止されました。現代の国際法規範として、植民地政策が違法とされるのは間違いがありません。韓国は、ここでも国際法のその後の発展を踏まえ、そのような国際法規範の確立される以前の日韓併合条約及び条約の下で現出した状態の全てを違法、無効と断じるのです。ここで、その是非を論じるつもりはありません。しかし、次の点を指摘しておきます。

日本の海外における支配領域が第二次世界大戦終結により解放されたのですが、連合国側の戦勝国を宗主国とする植民地が独立したのは、更に遅れて、そのほぼ全てが独立したのは漸く1970年代に入ってからのことです。この間、世界で、先進国による植民地住民に対する抑圧が継続していたのです。思うに、武力による他国侵略及び植民地政策を禁止する国際法規範は、国際政治の現実の中で、現在まで破られることの多い法です。しかも、これを行う国が正面から国際法に違反するというはずがなく、そのことが合法であるとする何らかの国際法上の理由づけを伴うのが通常です。このことは最近の、クリミア半島へのロシア軍の侵攻を見ても明らかです。

しかし、破られることが多く、即時的な実効性を欠く場合があるとしても、重要な国際法規範であることを全く否定しません。また、以前のブログに述べたように、国際人権法及び国際人道法の現代的発展が、まごう事なくあったと言えるでしょう。

但し、仮に、日韓併合条約が無効であったとしても、日韓請求権協定における個人請求権の「放棄」が決して許されないものではない。先に述べたように、この両者は論理的には無関係であるというのです。

語弊があるので、戦争被害者による個人請求権の「放棄」という言葉を説明しておく必要があるでしょう。請求権協定により、戦争被害者に対する賠償が全くなされないことと決められた、日本がその権利を剥奪したということではありません。その人達の賠償問題を含めて、多額の金銭と便益を日本が韓国政府に支払うことにより、解決したということです。戦争被害者の個人的賠償については、韓国政府が責任を負います。

もっとも、大日本帝国による統治時代に、非人道的な行為を、日本の政府ないし政府関係者らが行ったとして、その統治自体が無効であれば、その行為の国内法的違法性が一層高まるという理屈はあり得るように思われます。先に言及した韓国憲法の下、韓国国内法秩序において、日本統治時代の被害は払拭されなければならない。これが韓国の公序であるとする、韓国法の価値観に基づくのです。従って、日本国憲法の下、日韓併合条約を合法とすることを前提とする、日本の裁判所の下した判決の効力は、韓国内において否定されるとするのでしょう。しかし、何度も繰り返しますが、日本の裁判所が日韓請求権協定に基づき、個人的請求を否定するために、日韓併合条約が合法であることを必要としません。


3、日本の最高裁判決(西松建設事件)

最高裁平成19年4月27日判決(第二小法廷・民集61巻3号1188頁)は、広島高裁平成16年7月9日判決を破棄しました。高裁判決をひっくり返したのです。

中国国民が、第二次世界大戦時において、強制連行及び強制労働により損害を被ったとして、日本企業に対して損害賠償を請求した事件です。最高裁判決も、原告と被告企業との関係において、高裁判決が認定した強制連行及び強制労働の事実を前提としています。この原告らは、中国大陸において日常生活を送っていたところ、軍隊によって、貨物船に乗せられて日本に連行され、強制的に労働をさせられました。過酷な労働により、多くの中国人の人命が失われ、また重大な傷害を負った事実が認定されています。

そして、昭和26年に締結されたサンフランシスコ平和条約の「枠組み」の下で、「個人請求権の放棄」という言葉の意味を、「請求権を実体的に消滅させることを意味するものではなく・・・・裁判上訴求する権能を失わせる」ことと解しています。

実体権としては消滅しないが、裁判上訴求できないというのは、法技術的な表現であり、難解ですが、要するに権利があっても裁判に訴えることができないということです。

わが国の国内法上、自然債務という概念があります。これに対する権利と同じ存在ということになります。例えば当該の契約が公序良俗に反して無効なので、お互いの契約上の義務は自然債務であり、任意に履行しても構わないけれど、裁判上は請求できないとされる場合です。実際の裁判例があります。

そして、サンフランシスコ平和条約の枠組みの下で、日華平和条約が締結され、日中共同声明が発出されたのであり、中国との関係においても、個人請求権の処理について同様に解されるとしたのです。この部分がこの判決の中核をなすものであり、判例として効力を有します。すなわち、中国(及び台湾)との関係において、日華平和条約及び日中共同声明により、個人請求権は放棄されたのであり、実体権としては失われないが、裁判上は訴求できないとされました。

同じ日付の最高裁判決(第一小法廷)は、中国人慰安婦が日本国に対してした損害賠償請求訴訟です。この判決も第二小法廷の上記判決とほぼ同趣旨です。こちらは東京高裁の判断を維持しました。

なお、第二小法廷判決は、最後の部分で、日本企業(西松建設)が「自発的な対応をすることは妨げられない」と判示しています。これは上述したように裁判上は請求できないということを繰り返したに過ぎません。任意に対応することを希望するという判示は裁判所の罪滅ぼしでしょう。法の問題ではありません。

もっとも、この日本企業は一定の補償を政府より得ていたこともあり、最高裁判決の後に、原告側と和解しました。

日本の最高裁以下の裁判所及び、行政府の解釈を総合すると、わが国は、平和条約等にいう「個人請求権の放棄」の意味を、戦争被害者の権利(実体権)自体は失われないが、双方の政府が自国民に対する外交保護権を行使することを放棄し、かつ、裁判上請求が許されなくなるという意味に解しているということになります。

繰り返しますが、正確には「個人請求権の放棄」を規定したのではなく、自国及び他国の、国及び国民相互間の請求権を一括して処理したのであり、日本が相手国に対して、その双方を併せて賠償等を支払ったのです。個人的な請求の問題は、日本としては、相手国が国として被害者に補償することを期待していると言って良いでしょう。

自国民が、他国領域において被った人権侵害に対して原状回復を図る国際法上の国家の権利を、外交保護権と称します。請求権協定により、当事国がこれを放棄したことは争われていません。日本及び韓国が、第二次世界大戦時に被った自国民に対する人権侵害等の被害について、外交保護権を行使することは許されません。しかし、第二次世界大戦後に締結された条約としての日韓請求権協定に、当事国が違反して、その国の領域内において損害を被る自国企業に対して外交保護権を行使することは別論です。


4、国際法と国内法

上記最高裁判決は中国国民との関係についてのものです。従って、日華平和条約と日中共同声明が問題とされました。韓国国民との関係については、日韓請求権協定があります。この解釈をしなければなりません。個人請求権の放棄についての日本の解釈は、中国との関係と同じものであると考えられます。

韓国政府も、元徴用工については、個人請求権の放棄について、日韓請求権協定が規定していると解していたのです。ところが、韓国の大法院が、同趣旨の下級審判決を覆したのです。韓国国内裁判において、韓国人被害者から日本企業に対する請求を認めました。韓国の裁判所は韓国憲法の価値観に従い、その法体系の下で結論を正当化しています。条約の解釈について、行政府と裁判所が対立した場合、憲法がその解決方法を決めています。韓国国内法において、大法院判決が最終的であるとするなら、条約の解釈が韓国国内法的に決定されたのです。

日韓請求権協定という条約について、日本の国としての解釈と韓国の解釈が相違するという事態を生じました。それぞれの解釈が国内法的には至高であり、当事国双方の解釈が対立しています。

日本は、韓国を条約違反、すなわち国際法違反であると非難しています。この場合、まず第一に、当該の条約に規定された紛争解決の方法によることが必要です。条約の解釈について、当事国間で争いを生じた場合に、どのようにこれを解決するかを、条約において、予め規定しておく場合があります。日韓請求権協定には、国際仲裁によるべきことが規定されています。日本が再三再四、韓国に対して国際仲裁に応じるように要請し、条約に規定される期間内に仲裁人を選任するように要求したのに対して、韓国が無視したのです。

ある報道によると、戦略的無視であるとされていました。「日本が一方的に設定した期間に従う必要がない」との声が韓国側から聞かれましたが、条約に基づく手続きの開始を通知し、所定の期間内に韓国として行うべき手続きを履践するように要求したに過ぎません。なぜ、韓国が国際仲裁を殊更に拒むのでしょう。これは憶測に過ぎませんが、日韓請求権協定について、通常の条約解釈の手順に従う場合に、上記に触れたような意味で、韓国には自信がないからではないでしょうか。

日韓請求権協定の解釈について、対立が解消されない限り、日本企業が裁判上の請求に応じるべきではありません。これを認めると、韓国側の条約違反を追認することになります。

また、戦争ないし占領に伴う個人的請求に関して、たとえ請求権を一括的に処理する条約等があっても、他国や他国企業に請求できるという先例を与えることにもなります。韓国のみならず、第二次世界大戦終結後に平和条約を締結し、請求権処理を行った全ての国の国民との間に、同様の訴訟を生じる恐れがあります。

日本としては、国際司法裁判所への提訴が考えられます。しかし、この場合も、韓国が応じない限り、裁判が始まりません。たとえそうであったとしても、日本が提訴するべきです。これに対して、実際に韓国が応訴しない場合、そのことを国際社会に対してアピールできます。


5、ドラえもんのポケットは存在しない

現実の国際社会の紛争を、直ちに解決してくれる魔法の道具はありません。

過去に締結した条約も、法的効力のある限り、法は法として筋を通すべきです。

しかし、同時に、国際人権法ないし国際人道法の現代的発展も考慮する必要があるでしょう。私には全く見当もつきませんが、徴用工をめぐる日韓の問題を解決するための何か良い知恵は無いものでしょうか。

直接的な解決策ではありませんが、日本は戦争を引き起こす国にはならないということが何度も確認されると共に、国際法の現代的展開を踏まえて、他国の争乱において、積極的に発言を行うべきであると思います。現在、この地球上で強制労働等の国際人道法違反があってはならないのです。また、世界における紛争下性暴力の被害を食い止め、被害者に対して救済の手を差し伸べるための何らかの方途を、日本が提供することがあり得ます。日本は、韓国慰安婦問題の解決の一環としてアジア諸国の女性のための基金を創設し、一定の給付を行うなどの事業を行った経験があります。この事業は終了しているのですが、むしろこれを継承発展させ、世界中の紛争下性暴力被害の根絶と救済のための基金とすれば良かった。

日韓の問題を直ちに解決するドラえもんの道具はありません。但し、両国の国民が、特に若者達が「政治は政治、文化は文化」と言いながら、文化交流を継続している姿に感動を覚えます。互いの国の人々が、相手国の文物を好む風潮を遮ってはならないでしょう。


少し早めに更新しました。(^_^)

次回は、9月14日ごろ更新の予定です。

国際人道法上の重大な違反と請求権協定2019年08月18日 02:11

とても暑くて閉口しています。久しぶりに墓参りに行く予定なのですが、たくさん生えた雑草を抜くのが、辛そうです。


日清日露戦争の時代、戦争後の平和条約において、当事国市民である被害者の個人請求権が言及されることはありませんでした。もともと、戦争が行われても、最も甚大な被害を被る国民、市民からの賠償請求が顧みられることはなかったのです。しかし、1907年のハーグ条約付属「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」を経て、第一次世界大戦後のベルサイユ条約により、個人請求権が承認されました。重大な国際人権法および国際人道法違反に対する、被害者個人の権利の存在が明確にされたのが、「現在の国連の大勢」です(2005年の国連総会決議)。
(高木喜孝「戦後賠償訴訟の歴史的変遷と現段階―平和条約の解釈と個人請求権の前進で未踏の領域に踏み込んだ韓国大法院判決」 http://gendainoriron.jp/vol.19/feature/f13.phpより参照。)

1949年のいわゆるジュネーブ4条約(1953年にわが国が加入。条文については、防衛省のHP参照。https://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/geneva/)において、国際人道法に対する重大な違反行為を定義し、非戦闘員・文民に対する殺人、拷問、非人道的行為など戦争犯罪に対する個人の刑事責任を確立しました。その後、旧ユーゴスラビアやルワンダの内乱、カンボジアにおけるクメールルージュの非人道的行為など、おぞましい国際人道法上の犯罪を経験した国際社会が、2003年に、常設国際刑事裁判所を設立したのです。もっとも、ここで注意を要するのは、国際人道法上の罪という観念が確立され、その刑事訴追を可能にすることと、私人による民事的な補償ないし賠償請求の権利が可能とされることとは別個の問題であるということです。ジュネーブ条約から常設国際刑事裁判所設立への系譜は、刑事訴追に関するので、必ずしも、民事的な賠償の個人的請求に関する国際法上の根拠とまでは言えないのです。

ベルサイユ条約は、領土の割譲と敗戦国に対する巨額の賠償金を課した、ある意味ではきわめて不公平な内容を有する条約でした。戦勝国が敗戦国を裁いたものです。個人の戦争被害に対する請求権も戦勝国にのみ認められる片面的なものでした。その後、ドイツがこの条約を無視し、ドイツ国内においてナチスの台頭を招き、やがて第二次世界大戦に結果したことは有名です。(ホロコースト・エンサイクロペディア https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/world-war-i-treaties-and-reparations

日本の第二次世界大戦の戦争責任に対する請求権については、サンフランシスコ平和条約が、戦勝国及び敗戦国の市民双方に関する個人の請求権について明記しつつ、日本がする平和条約上の賠償以外は、相互にこれを放棄することとされました。上記平和条約に加わらなかった中国及び韓国について、後にこれに代わる条約が締結されたわけです。日韓請求権協定が、日本が韓国に対して賠償を支払うとともに、相互の請求を放棄した一括方式によっています。国及び個人の相互の補償、賠償に関する複雑な争訟を避けて、戦後処理を一括して行うという利点を有します。第二次世界大戦における戦後処理が、第一次世界大戦のそれに対する反省を踏まえているとも考えられるでしょう。敗戦国に過度の負担をかけることが回避され、敗戦国が早期に戦後復興を遂げ、世界平和に貢献する国となることが望まれたという一面を有することは確かです。

ここで、確認できることの第一は、戦争による個人の損害について、特に、文民・非戦闘員の虐殺や、拷問、強制労働、性的搾取などの国際人道法の重大な違反について、個人的請求権が存在することが、国際法により確認されているということです。

第二に、二国間条約により、その放棄が規定されることがあるということです。被害者にとって、酷なようでもありますが、その賠償としての性格をも有する金銭ほかの便益が、当事国に対して交付されることで、被害者のいる国が、その補償の責任を負うということを、国同士が約束したのです。国同士の約束としての条約・協定というのは、当事国間における「法」です。締約国国内において法としての効力を有するものです。上に述べたように、国際人道法上の犯罪について、個人に対する刑事訴追を可能にするべき責任を免れないし、条約の方法によって他国にその責任を免れさせることができないことは、ジュネーブ条約等に明らかですが、これは別論です。韓国が、独自の国際法解釈に基づき、後から、日韓請求権協定の個人的賠償請求の部分についてのみ無効化することは許されないというべきです。

第二次世界大戦後、幾つかの国の国内裁判所で戦後賠償訴訟が提起されています。戦勝国ないし非占領国の国民である戦争被害者が、自国及び敗戦国において、相手国ないし私人に対して損害賠償請求訴訟を提起するのです。日本でも、朝鮮半島出身者及び中国人による、多くの訴訟が提起されたのですが、上訴審も含めると結論的に賠償が認められていません。西松建設という日本企業が任意に和解に応じた例があるのみです。概ねわが国の裁判所は、上記ハーグ条約に基づく賠償請求を認めていません。紛争下における非人道的行為に対する個人の請求権が存在するとしても、その救済方法をいかに確保するかは、各国に委ねられた問題であるからです。

やや難しくなりますが、もう少し説明すると、条約が賠償に対する基本的な権利を認めているとしても、直接、条約に基づき国内裁判所で請求できることには必ずしもならないということです。国際法は、基本的には国家間の法として国を義務づけます。国に対して、そのような賠償の権利を確保するように、立法や裁判の方法を提供するように義務づけるのみです。私個人の見解を少し開陳しておくと、確立された国際法上の個人の権利であれば、国内私法上の一般条項ないし白地規定の解釈上、保護に値する法的利益として考慮し得ると考えています。国際法上認められる個人の請求権といっても、強いものから弱いものまで存在するでしょう。具体的には、わが国民法上の、契約ないし不法行為に係る一般条項ないし白地規定の解釈上、賠償に有利に考慮されると解します。

但し、ここでも、個人的請求権について放棄する二国間条約が他方の考慮要素となります。徴用工に関する個人請求についても、日韓請求権協定が存在するので、結論的には賠償が否定されます。条約は、締約国間の法です。締約国は、条約の締結時における合意内容に拘束されます。後から、独自の解釈に基づき一方的に解釈変更を行うべきではありません。条約の改定などの、新たな合意が目指されるべきですが、これも他方の国が認めない限り許されません。条約内容が、国際公序に重大に違反することが明白であるなどのことがない限り、「条約」という国際法の性質から当然です。

以上を、まとめておきます。

・戦争被害に対する個人的請求権が存在することが国際法上承認されている。
・直接請求が可能であるような多国間条約は存在しないが、国内私法上の一般条項ないし白地規定の解釈上、法的に保護されるべき利益として考慮され得る。
・国際人道法上の重大な違反を含めて、一括方式により、当事国間の賠償により、相互に個人的請求の放棄を規定する条約が可能である。
・国際人道法の観点から、一括方式により賠償を受けた国は、自国にいる被害者に対して十分の補償を与えるべきである。

法の解釈としての、私見を述べました。しかし、法は法として、十分踏まえた上で、政治的解決があり得るというのが、また私の結論であります。先のブログで述べたように、韓国大統領が貿易戦争のまさに宣戦布告を行った以上、また、実際に経済的対抗措置を講じる限り、この戦争はしばらく遂行するほかないでしょう。多少の不利益もやむを得ない。しかし、長期的な国家利益を見据えて、政府には、賢明な行動を期待します。同時に、貿易戦争が、日本の経済にとって、他面で一定の利益をもたらす方策を考えてもらいたいものです。

次回更新は、8月31日ごろの予定です。

貿易戦争-宣戦布告されたよ2019年08月04日 16:50

暑いですね。ようやく学期末試験の採点を半分終えました。

夏風邪をひいてしまいました。冷房をつけて寝ていたせいでしょう。家の内と外の温度差には気を付けましょう。

次回は、8月17日ごろ更新の予定です。


ホワイト国除外

 8月2日、日本の輸出管理において優遇国いわゆるホワイト国から、韓国を除外することが閣議決定されました。国民の意見聴取の手続きにおいて、4万件超の意見が政府に寄せられました。筆者は法の研究者として、経済規制の政令改正について、これほどの意見が集まったことをかつて知りません。このこと自体が異例のことと思われます。その内、95%が賛成だったようです。

 この決定に対して、韓国の文在寅大統領が直ちに閣僚会議を開催し、日本の閣議決定に対して強い非難を表明しています。冒頭部分の大統領演説に引き続き、この閣議の様子がテレビで生中継されました。このことも極めて異例です。
 
(産経新聞の特集:徴用工・挺身隊訴訟がこの間の事実関係をまとめていて分かりやすい。
 https://www.sankei.com/smp/main/topics/main-36092-t.html )

 韓国大統領は極めて強い調子で日本の措置を非難しており、朝日新聞(3日朝刊)によると、日本の措置が元徴用工訴訟に対する経済報復であり、「盗っ人猛々しい」、「韓国は日本に二度と負けない」と述べています。更に、GSOMIAの破棄を示唆し、日本をホワイト国から除外するとともに、韓国側の経済規制強化による対抗措置を採るとしています。

 韓国の新聞各紙は、一斉に、日本の措置を批判し、大規模な抗議デモが実施されました。日本製製品の不買運動も報じられています。国内世論が対日批判にまとまり、いよいよ経済戦争の宣戦布告を日本が行ったので、長期戦も辞さないということのようです。筆者も誇張表現のつもりで、この言葉を使ったのですが、実際の「経済」戦争に突入しそうな様相を呈してきました。

 戦争しなくないで良いですか?少々前に聞き覚えがある台詞です。武力を用いた戦争は真っ平ですが、経済戦争は有り得るべきであるというのが、筆者の持論です。経済力を背景とした、法と論理の戦争です。前回も述べたように、これが実際の戦争に発展しないという歯止めを意識しつつ、しかしアメとムチを使い分ける巧妙な外交を政府には期待したいと思います。


日本政府の措置と国際法

 韓国大統領によると、強制労働の禁止と三権分立が世界の普遍的価値であり、これが国際法原則であるとして、日本がそれらの価値を踏みにじるものであり、国際法に違反すると非難しています。

 まず、そのことが普遍的と目される価値であることには、誰も反対しないでしょう。第二次世界大戦中、日本の統治下にあった朝鮮半島で、強制的な徴用があったこと、及び、自主的に応募した徴用工を含めて朝鮮半島出身者が、過酷な労働環境において、多大な肉体的、精神的苦痛を被ったことは認めざるを得ません。このようなことが二度と引き起こされないような日本国であり、世界であるべきであるということを、日本が追求しないわけがありません。問題は、元徴用工に対する補償が、日韓請求権協定という国際法において、日本と韓国の間で解決された事項であるか否かという一点にあります。

 韓国の裁判所は、被害者とされる原告らと日本企業との間の私人間の補償について、特に、精神的苦痛に対する損害賠償としての慰謝料の請求まで、国家間において決定してしまうことはできない、と判決しました。韓国憲法の重要な原則である個人の幸福追求権の保障にもとるというのです。

 被告側である日本企業が、憲法解釈についても、これに対抗する論理を呈示しつつ争ったはずです。憲法というのは、対立するかもしれない複数の原則を呈示するのみであり、それのみで何らかの具体的な結論を明確に示し得るものではありません。どこの国の憲法でもそうなっているのです。韓国の裁判において、当然、原告側の被告側に対立する憲法解釈が主張されていたはずです。

 個人の幸福追求権を尊重する韓国司法のあり方は、軍事独裁国家における抑圧を克服した韓国の歴史・文化的な背景にその淵源をみることができるでしょう。重要なことは、日本による朝鮮半島の占領・統治が、当時の国際法に照らし合法であったか否かという、日韓政府の対立した解釈があることです。韓国裁判所の結論は、これを違法としつつ、現行憲法にいう個人の幸福追求権の保障を優先させた結果でしょう。

 韓国裁判所が、請求権協定という国際法を、韓国憲法に照らして、これに整合的に解釈したということです。韓国裁判所も、日本と同様に、国際法と国内法の関係について、国内法(憲法)優位説を取っていると考えられます。

 日本としては、国際法の通常の解釈手順に従い、日韓請求権協定を解釈するべきであること、及び、条約締結時点における日韓両国の合意内容に基づくべきであることを、主張する必要があります。日韓の合意内容として、私人間の請求も含まれていたとする証拠を、日本政府が公表したことがこれに関係します。日本政府は、国際的な舞台においても、明示的に、国際法解釈の方法としての正統性を主張するべきです。

 国際法も、憲法と同様に、多くの原則の集積です。複数の原則が場合によると対立しつつ、それ自体では具体的な事件に明確な回答をなし得るものではありません。強制労働の禁止を謳った人権関係の諸条約があっても、このことから直ちに日韓の懸案を解決できるような明確な具体的法規範あるわけではないのです。重要な価値を体現する原則規定も、抽象的な一般的原則である場合、更にその内実を再叙するような諸規範が解釈を補充します。韓国が、日本の措置を非難するためには、日本が反したとする具体的な国際法規範を特定しなければなりません。これもまた至難の業でしょう。

 しかし、特に、人権や人道に関する国際法の一般原則は、たとえそれ自体が具体的な法とは言えないとしても、普遍的価値として世界の人々の心情に訴えることができます。韓国がこれを行う意図を有することは想像に難くありません。日本が人権を尊重する国であることを、同時に、国際社会に理解させる必要があります。

 次に、輸出管理を厳格化したことが、WTOという国際法に違反するかという問題です。前のブログでも述べたように、日本の措置が、実際に韓国企業に損害を与えるかどうかも確定していません。禁輸措置ではなく、輸出手続の厳格化に過ぎないのです。安全保障の懸念を理由とする、WTO協定上の根拠を有する措置です。もっとも、WTO協定も法ですから、解釈を争う余地は常に存在します。GATT=WTOの枠組みの中で積み重ねられてきた先例を参照しつつ、理論武装するとともに、証拠方法を確保することが、法的争訟の常套手段です。用いることのできる論理の強さと、証拠こそが、勝敗を決します。日本の有する証拠のみならず、韓国の有し得る証拠も勘案しなければなりません。

 安全保障を根拠としたことが、日本を優位に導くでしょう。たとえ、韓国がWTO提訴しても、相当の困難が予想されます。福島県沖海産物の禁輸措置について、従前の予想を覆したWTOの裁定がありました。今回は、韓国が国際経済法のエースを投入しても、神風がそうは吹かないでしょう。

 もっとも自由貿易主義という大原則があります。日本が多国間主義に基づき、これまで最重視してきた価値です。日本の措置がこれに反するとする主張を、韓国外相がASEAN+3の国際会議で展開しました。日本の河野外務大臣との間で厳しい応酬がありました。河野大臣のしたように、日本が感情的に元徴用工裁判を持ち出さず、冷静に分かりやすい論理を展開すれば良いことです。


政治的利用-親日排斥

 新聞報道によると、輸出規制の厳格化について、経産省が今後、優遇を受けるホワイト国という通称を止め、輸出先相手国をA~Dの4段階に分けることにするそうです。Dが北朝鮮、イラン、イラクなど10カ国ということなので、Aランクが従来のホワイト国ということでしょうか。韓国がBランクに位置付けらます。

 先ほど述べたように、このことの韓国企業に対する損害はまだ確定していません。手続が煩雑であるとしても、輸出入が滞ることがないならばそれで済むのです。この措置に対して、韓国政府の反応はいかにも大仰です。大統領が先陣を切って、日本の措置を「宣戦布告」として決めつけた上で、これを非難し、応戦を国民に鼓舞しているのです。これに呼応して韓国世論がナショナリズムに高揚しているようです。韓国紙には全面戦争という見出しも見られます。

 朝日新聞デジタルの3日付け記事によると、日本の今回の措置を受けて、労働組合など682団体が合同で、ソウルの日本大使館近くにおいて、大規模な安倍政権糾弾デモを開きました。また、アニメ映画「ドラえもん」の公開が映画館の自主的な判断に基づき無期限に延期されたそうです。日本人おことわりの張り紙を掲げる飲食店もあらわれたと言います。

 この間、次の様な報道を目にしました。韓国において、検事長クラス及び中間幹部を含めて60人以上の検事が辞表を提出しているとする記事です。(朝鮮日報日本語版8月3日付け)

 記事によると、積弊捜査に関わる検事が要職を独占し、文大統領政権の気に入らない捜査を行った検事が左遷されたので、その露骨なえこひいきに基づく人事に抗議するためであるとしています。韓国では、与野党を問わず、大統領を含めて前政権関係者が弾劾されることがよくあります。韓国では、積弊精算を文政権が進めており、収賄などに関わったとされる多くの政治家が逮捕されています。これまでに、朴槿恵前大統領のみならず、李明博元大統領も逮捕されています。

 旧日本統治に対する協力者としての「親日」の排斥が、文政権にとって、過去の清算としての重要課題であることと関係するように思われます。

 文大統領が、日本の輸出手続の厳格化を捉え、ここぞとばかりに反日宣伝を行い、「戦争」と言わんばかりにナショナリズムに訴えて国民を鼓舞することには、政治的意図がありそうです。経済面での失政により支持率が急降下していたところ、「対日戦争」が救世主のように現れました。実際に、大統領の支持率が向上しています。明白に政治利用しているのです。


慰安婦像-表現の不自由展・その後

 日本でも、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の、「表現の不自由展・その後」展覧会の中止という事件がありました。原因は、韓国の彫刻家の作品である、有名な元従軍慰安婦を象徴する少女増です。写真を見ると、きれいな着色がなされている例の少女像が、2つの椅子の片方にのみ座っています。この展示に対して、県美術館にテロ予告や脅迫と受け取れるものを含む多数の抗議が寄せられ、これ以上エスカレートすると安全、安心な運営が難しくなるという理由です。電話やメールによる抗議が1400件以上にのぼりました。(読売オンライン 4日付け)

 「(少女像を)撤去しないとガソリン携行缶を持ってお邪魔します」

 京都アニメーションの放火事件を連想させる内容です。県は、少女像について予め報告を受けていたのですが、行政が展覧会の内容に関与することを控えるべきであるとして展示を容認したものです。展覧会の中止は、まさに表現の不自由ですね。

 もっとも、この少女像が、日本の国民の心を深く傷つけるものであり、日韓の今日の対立を象徴する存在であることも確かです。


京アニに献花する韓国の若者と、日本の第三次韓流ブーム

 京都アニメーションの放火殺人事件が史上稀に見る凶悪な、多くの犠牲者を出した事件です。そのアニメーション作品は、日本だけではなく世界の多くの若者達に親しまれています。放火現場に備えられた献花台に、韓国の若者が涙ながらに献花している姿が報道されていました。京アニ作品の大ファンだという若者達はわざわざ韓国から来たと言います。日韓の関係が悪化していることをどう思うかというインタビューに、「政治は政治、文化は文化だと思う」と韓国語で答えていました。

 身近な命を惜しむこと、悼むこと、そのことが何よりも大切ではないでしょうか。そのような態度が人々の心に残る限り、戦争を阻むでしょう。

 他方で、現在、日本では第三次韓流ブームが巻き起こっています。日本の若者を中心として、韓国コスメや韓国アイドルに対する人気が高いのです。ブログを書いている本日のテレビ・ニュース番組でこのことを取り上げていました。日本にある韓国コスメ専門店で化粧品を購入している女性や、レコード店で韓国の女性アイドルグループのCDを買い求める青年が、今の日韓の関係についてどう思うかと問われると、「政治は政治、文化は文化」とみんな明るく答えていました。

 この経済戦争は長期戦となるでしょう。遂行するべきです。むしろこの機会を利用して、日本の産業界を利するような成果を期待します。他方で、このことが、武力を用いた戦争に発展しないようにしなければなりません。

若者達の健全さが、まばゆいように感じられます。

国際主義と国家主義2019年06月02日 13:11

やっと論文の締め切りに間に合いました。所属する学会が多数あるのですが、その一つである国際私法学会の機関誌向けに投稿するものです。もっともまだ査読がありますので、掲載が確定しているわけではありません。ちなみに、国際私法は法例という名の法律として明治期に制定されていましたが、戦後、国際私法学会が1949年に創立され、今日240名を超える会員を擁しており、ほとんど全ての会員が国際法学会の構成員でもあります。

可能な限り、隔週で更新して行こうと思います。次回は、22日ぐらい、週末を予定しています。


トランプ大統領が先日来日していました。当初は、首脳同士の話し合いにより、日米の貿易交渉にある程度、解決の方向性が見いだせるのかもしれないという期待があったのです。しかし、今回はそのような無粋な仕事の話は適当にして、日米の親善のため、アメリカの大統領が新天皇御即位の挨拶に来たということになりました。アメリカでは観光旅行として揶揄されたようです。

今回の大統領来日によって最も得したのは、安倍総理と自民党でしょう。日本の政治家のすることで、アメリカの大統領をここまで上手く使えたことがかつて無かったと思います。日本の文化を堪能した大統領は、むしろ日本国民に対して最高のパフォーマンスを発揮してくれました。

確かに、日米の同盟強化が国の内外に示されることで、日本の国際的立場がより高められることは疑いの無いことです。

以上のこととは直接関係がないのですが、最近、わが国を取り巻く国際社会で、ナショナリズムの高揚がみられるようです。今日は、国際主義の意味と日本について考えてみます。


国際共同体

国際主義という語は、internationalism という語の訳語です。国際という語が明治期に作られた造語であり、それ以前の大和言葉には存在しなかった言葉です。inter=間、nation=国ですから、internationalとは国と国との間という意味で、これに対して、国際という日本語は、あるものの周辺を意味する「際」という語を当ててその意味を表したのです。実に妙訳ですね。

国という語は、境界線で囲まれた領域に宝ものが守られている様を表しているに思えます。国語学者ではないので、この辺り思いつきです。宝物は、その時代に応じて、王様であったり、ときの政府であったり、国民、あるいはそこに住む全ての人々であったりするのでしょう。その一個一個の国を前提として、国とは異なる、国と国の間にある何かが国際です。

共同体というとき、個人に最も身近な存在としては家族や親戚であり、もう少し大きくして、村や町、そしてその町を含む地域共同体となり、ひいて国家という大きな共同体を考えることができます。個人に対する、それを囲む人の集団が共同体です。人は生まれた瞬間から共同体の中に暮らしています。

個人の集合が共同体であり、共同体の構成要素が個人です。人が隣人と協働して全体集合としての共同体を支えるのであり、共同体は人を個人として尊重しなければ、個人はそれを動かす機械の歯車でしかない。それに気づいた途端、絶望の淵に立たされるでしょう。個が協働し、個と全体が相互に影響し合いながら、個と全体としての個人と共同体が共に成り立ちます。

それでは国家共同体を超える、国際共同体は存在するのでしょうか。一国、一国が構成要素である共同体です。少なくとも、一定の領域と、そこに住む人と、支配する政府の存在として、国家という存在が人々の意識の中に確立された、近代以降において、国際社会と言うときも、単に国がたくさん地球上に存在しているという状態を指し、武力による実力行使のみが紛争解決の手段であるとすると、それは弱肉強食の社会です。地球人は何世紀にもわたって、戦争に明け暮れ、このことを経験してきました。そのうちに、一つの国の中に法があり、秩序を生み出すことが、人々が安全に豊かに暮らしていくために必要であるように、国際社会にも、国と国との間に秩序を生み出す法が必要であると感じられたのです。


国際連盟と国際連合、憲法9条

国際連合の前身である国際連盟が1920年に設立され、1928年にパリ不戦条約が締結されました。パリ不戦条約では、国際紛争の解決のための戦争放棄を規定した画期的な条約です。人類の歴史上始めて戦争が違法であるとしたのです。

戦争は悪である。漸くこのとき始めて、このことが法として確立されたのです。なんて遅いんだ! あぁ、人類は何と愚かな!!

もっとも戦争放棄は国際紛争の解決手段としては放棄されるのであり、自衛権は当然の前提として国家間において合意されていたとされています。

ところが、この条約もあの忌まわしい第二次世界大戦を防止することはできませんでした。焼け野原となった国土と夥しい数の人命の犠牲を目の当たりにした世界の人々が、今度こそそのような戦争を回避するために、国際連合憲章が作られました。その第2条4項が、他国を侵略し、その政治的独立を侵害するための、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じるものであり、パリ不戦条約の趣旨を取り込んでいます。

どこかの国が他国を武力により侵略したとしたら、その戦争は違法です。侵略を受けた国はどうすれば良いのでしょう。武力行使が禁じられていたはずです。国連憲章の基本的なアイデアは、国連軍が国に代わって戦うというものです。そのために国連軍を派遣する手続きが規定されています。しかし実際に国連加盟国による国連軍が組成され被侵略国を救済するために訪れるまで、相当の期間が経過してしまう可能性があります。そこで、国連軍が来るまで、自衛のための武力を行使し、また、同盟国との集団的自衛権を行使することを認めるのです。

以上が国連憲章の考え方です。しかし、以前にも述べたように、国際法と国内法は、国際的な場と国内的な場において各々、至高の存在です。どこかの国が客観的には違法な戦争を起こしたとしても、その国の観点からは全く正当であり、また国際法上正当化されると主張しているとすると、国連軍の派遣がなかなか困難である場合があり得るでしょう。国際社会を一個の共同体として理解し、その理想を述べるとしても、現実の国際政治とは上手くそぐわないこともあるのです。

この国連憲章が1945年に成立し、日本国憲法が1946年に公布されています。

そして、日本国憲法9条が次の規定です。

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

日本の憲法がパリ不戦条約の思想を受け継ぎ、国連憲章と踵を一にするものであることが分かります。しかし、2項が特異な存在であることが同時に了解できるでしょう。その崇高な理想を一歩進めて、その方法を戦力の不保持、交戦権の放棄として、現実の国家において確定しているのです。世界に誇るべき理念の実現でも有り得ます。

第二次世界大戦後、アメリカによる占領、サンフランシスコ平和条約締結後のアメリカ軍基地の存続、日米安保条約と、自衛権を行使するための最小限の実力行使を行う部隊の創設により、現実の国際社会の中で、むしろ憲法9条を担保する仕組みが作られてきました。日本の領域侵害に対しては、アメリカ軍が武力を行使して、日本を守ってくれるし、日本の実力部隊も共同して戦うとしているのです。そのお陰で、日本が自衛権行使に必要である以上の戦力を持たないで済むし、他国に侵入するような事態には決して陥らない。そうしてようやく、憲法9条自体は改廃しなくても良かったのです。

しかし、日本には自衛隊が存在します。それは次第に大きな軍事力を保持するようになり、まさに軍隊となっています。

憲法と自衛隊の関係については、裁判所が解釈を示すことを放棄しているので、専ら政治部門に憲法解釈が委ねられてきました。要するに、政府と単純多数の国会の意思です。

主権国家が独立併存し、必ずしも一個の共同体とは言えない現在の国際社会にあって、各国の領土的、経済的野心に晒されながら、日本の国民が自衛隊の存続を認めるようではあります。国民が自衛隊を受け入れているなら、崇高な国際主義の理念と、国際政治の現実とのバランスを考えて、もう一度整理し直す必要があります。国際の平和と安全に寄与するべく、日本の、国際社会における任務を再定義する試みがなされねばならないと思います。もとより、これが軍事的拡張主義による、武力による国際紛争処理を意味するのではありません。

国民的議論を巻き起こし、憲法制定権力の発動をみるべきです。それが政治の責任ではないでしょうか。


国際主義と国家主義

一国が、自国の利益のみを追求する国家主義が国際主義の対概念です。しかし、国家とはそもそも利己的なものです。国は、真に他国のためにのみ行動はしません。国際主義も自国の利益に通じるからこそ成立するに違いありません。国の利益と言っても、短期的利益と長期的利益の区別ができます。長期的にはその国の利益になると考えられるから、他国との交渉に応じ、たとえ短期的にはその利益を犠牲にしても、一定の合意に至ることが可能となります。利己的な国家が集まって、それぞれの国の少なくとも長期的な利益に適うなら、そのような集団を形成することもあるでしょう。

経済的な利益の観点からは、関税同盟や自由貿易地域があり、政治的、軍事的な意味において、集団安全保障の枠組みが考えられます。EU(欧州連合)は単なる関税同盟を超えて、一国の財政問題を除き、幅広い経済活動について同一の規律に服するし、政治的にも一層結びつきを強めつつあるようです。EU全体での法の統一への指向性も顕著です。EUの中で、集合と離散の二つの方向性が常に対峙しているとされていますが、現在ある、国家間の極めて密接な関係をもった国際共同体です。欧州各国は安全保障については、アメリカとNATOを結成しています。

そのような明確な国際共同体でなくとも、WTOという国際経済のルールに服する加盟国が、国際経済社会の共同体を構成しているという言い方もできるでしょう。法共同体です。同じ法的ルールを共有する国の集合です。

他方、国際連合がどの程度に共同体=communityであり得るか、現実の国際政治の世界では疑問もあります。利己的な国家の単なる集合体に過ぎず、重要なことは何も決められない烏合の衆なのかもしれません。WTOという自由貿易を守るためのルールが、アメリカから吹き荒れる保護貿易主義の嵐に揺らいでいることはご存知でしょう。

日本が、かつて国際連盟とパリ不戦条約より成る国際秩序を侵害した国でした。日本を含めて世界中の国が利己的な存在です。国家主義が大前提となります。長期的な利益のために短期的利益を犠牲にして他国の利益を慮ることが国際主義です。国際主義に基づく、国際法的共同体に属する国々は、そのお陰で、国民の命を守り、互恵的な経済的発展に預かることができるはずです。その共同体に属する構成員の全てが恩恵に預かることができるとき、その共同体が成功します。恩恵と言っても複線的で多様であり、ある意味においては不利益を被るとしても、長い目で見て利益に適うという慎重な判断が必要となります。一国至上主義、殊に軍事的拡張と覇権主義、そして大恐慌から始まった経済ナショナリズムが、かつての世界をいかに導いたかを思い起こさなければなりません。

先進各国は第三次産業革命から第四次産業革命へと向かっているともされます。目まぐるしいほどの科学技術の新規な展開と社会の変化に伴い、新しい形の一国主義が平和な世界に侵攻してきているように見えます。米中の貿易戦争は決着が見通せず、長期戦となる様相を呈し始めました。それは経済のみならす、むしろそのための科学的、技術的覇権争いです。IT技術の革新とIT産業の発展を通じてアメリカが世界を支配したように、中国が次の覇権を握ることを虎視眈々と狙い、アメリカが形振り構わずこれを阻止しようとしています。各国の為政者が自国利益優先に陥り、その確保に汲々としているようです。

各国の為政者がまず充分に国際主義の意義を認識すべきでしょう。民族主義というときも、自民族の伝統や文化を大切にすることは当然のことですが、決して他民族の排斥やその文化・伝統の排除を意味しません。多様性の尊重と文化的融合こそが全ての人々の文化や科学の新たな発展の礎となるはずです。各国の為政者が、偏狭なナショナリズムと民族主義を国民の間に鼓舞し、自己の政治的立場を擁護することのもたらす危険をこそ、国民一人一人が知るべきです。

子供の日に、少し遅れた憲法記念日2019年05月05日 20:06

久ぶりに更新します。論文の締め切りが迫っています。少し息抜きをするために、奥道後 ♨︎ に行ってきました。大きな露天風呂に浸かりながら、裏山の新緑を眺めて来ました。(^ ^)

今回から、本文については、デスマス調をやめました。デスマス調の文章にするのに手間がかかります。

子供の日に、少し遅れた憲法記念日です。



今年の4月18日に、経済同友会の憲法問題委員会が、憲法問題に関する活動報告書を公表した。グローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展によって、未曾有のスケールとスピードで変わろうとしている世界の中にあって、日本の新しい社会のあり方を考えるために、国の形を規定する憲法の議論が避けれらないとしている。

確かに第3次産業革命が更に進展している。その上、日本が世界の中でも最も早い方のペースで人口が減少する国となった。少子高齢化社会に対する政策を策定し、全力でこれを実行すると、政府がその取り組みを喧伝している。女性と高齢者の労働力の活用余力がそろそろ上限に近づいていおり、労働力不足を生産性を下げることなく克服するためには、AIとロボット技術の開発を促し、これが必要に応じて実際に用いられる社会とすること、同時に、それでも不足する部分を外国人労働力で埋め合わせることが喫緊の課題となっている。日本社会が多様性に寛容であることが一層要請されている。

女性や高齢者に対する差別の克服が叫ばれて久しい。これらの人々が充分に能力を発揮できる社会となるために必要不可欠である。その他のマイノリティーの問題について、同じ文脈においても言及できる。

外国人移民の受け入れに伴う更なる価値観の多様化と、社会全体のコミュニケーションの方法が革新される必要があるかもしれない。同質的な日本人社会のコミュニケーションに慣らされており、空気を読むこと、腹芸、忖度が、渡世のための必須の社会的スキルとなっているこの国に、そのことが必ずしも前提とならない人々と暮らすことになるからである。このことは、外国人移民を受け入れるからというだけではなく、もともとグローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展により、世界が極端に狭くなってきたのだから、日本という国が、あらゆる文化や産業において、今後の世界の中で生き残るためにこそ必要なのである。

工学などの理系分野のみならず、法学、及び、経済学とこれを社会に応用する商学、社会学や心理学といった社会科学と人文学を総動員して、社会的イノベーションを生み出すのでなければ、このような「国難」を乗り切ることは不可能であると思われる。

このような日本の社会及び日本を取り巻く国際社会全体の大きな変動をむかえて今日、日本の憲法はどうあるべきなのだろう。

日本国憲法の改正には、国会議員の3分の2以上の賛成と国民投票が必要である。従って改正がとても難しい。硬性憲法である。実際に、憲法が制定されて以来、改正されたことがない。

しかし、日本の憲法は、非常に抽象的、簡明であって、主として理念を宣明する憲法である。実際には、法律や判例によって補完されることによってその意義が明確にされていると言われている。実質的な意味の憲法が、「憲法」という名の法典を含めて存在しているのである。そのような法律が憲法付属法と呼ばれることがある。実質的な意味の憲法には、政府見解による憲法解釈も含まれよう。憲法典を取り巻く、実質的憲法の範囲が諸外国よりも広いと考えれる。外国では憲法典に書き込まれているようなことも、法律に規定している場合がある。すると、外国では憲法改正手続きによらなければならないことが、法律の改正、すなわち国会の単純過半数で改正可能であることになる。

このことにも良し悪しがあるだろう。例えば、選挙権を与えられる年齢が憲法に書かれている場合に、これを引き下げる度に、憲法を改正しなければならなくなる。日本であれば、公職選挙法を改正するだけで、選挙年齢を20歳から18歳に引き下げることができたのである。選挙年齢をそれほど重要視しないなら、憲法改正手続きによらねばならないとすることは煩雑であろう。

政府の憲法解釈というのが、日本のような議院内閣制を取る場合には、与党の支持を前提にするので、結局、国会の過半数の意見に相当するとも言えよう。

そもそも国家権力、具体的には、国会、政府、裁判所といった国家機関に義務付けを行うのが憲法である。そして、憲法を制定する権力は、国民にのみ与えられている。ある法を、作ること=制定・改正と、解釈することとは全く範疇の異なることなのである。憲法を、国会の単純過半数で改正できるとすること、まして政府が勝手に改正できるとすることが、ナンセンスである。

国会議員は国民の選挙によって選ばれた代表であるから、その決定で構わないとする議論もあり得よう。しかし、それでは何故、憲法の改正手続きが定められているのか分からない。憲法が法律と異なり、その改正には特別に厳格な手続きを用意した意味である。

憲法が抽象的であり、憲法的内容を国会、政府、裁判所が補充できる範囲が広範に過ぎるのであるなら、このことが既に問題なのである。他方、日本の裁判所は一般に憲法判断を可能な限り回避する傾向があり、違憲の判断を下すことに躊躇する。法の専門家であって、憲法を解釈できる最後の砦であるべき裁判所である。結局、重要な憲法問題について、国会と政府に委ねられることになる。

憲法9条と自衛隊との関係、日本が保有する自衛のための実力の解釈、専守防衛の範囲について、政府解釈が幾度も変転し、このことがその都度、憲法の内容に変更をもたらしたとする考え方が多い。憲法9条の文言は極めて平明である。世界に類例のない戦争放棄を規定している。素晴らしい理念である。もっとも、類例がないということは、経済力そのほかの能力の点で可能なのに、そのようなことをしている国が他に無いということである。

このことを世界に冠たるものとして歓迎する人々がいる。私たちの世代は、義務教育の頃から、社会科の教科書に基づきそのように教わった。政府解釈がその内容を補充し、その上、変えてしまったとして非難するのである。他方で、時代と日本を取り巻く国際情勢の変遷を受けて、政府・が適切に対処したとして、これを歓迎する意見もある。その内容の良し悪しについては、ここでは触れない。しかし、憲法9条は、その言葉はそこに厳然として存在している。

先に述べた実質的憲法の範囲で、国会と政府によって、「日本国憲法」として書かれたテキストの内容について、重大な変更を来したのは間違いない。憲法という法の性質を考えると、このこと自体がおかしいと考える余地がある。憲法という法の力を損なっている。

国際社会の進展に応じて、新たな日本社会に必要な、具体的な内容を憲法に書き込むべきである。憲法を変えないことが護憲であるとは思えないのである。

元慰安婦の損害賠償訴訟と、韓国の三権分立2019年03月26日 14:38

梅は咲いたかぁ〜 桜はまだかいなぁ〜

もう直ぐですね。漸く休暇を取って、これを書いています。これから新学期の雑務に加えて、当分、論文執筆に専念する必要があるので、不定期に更新します。更新しているのを見つけられたら、読んでみてください。


日韓関係に新たな火種 元慰安婦の損賠訴訟へ
https://www.fnn.jp/posts/00414070CX

2015年の日韓合意に反発した元慰安婦と遺族の20人が、翌年、日本政府を相手取り約3億円の損害賠償を求める訴訟を韓国の裁判所に提起しました。上記のURL は、ソウル央地裁が、本年3月8日、日本政府に対して訴訟開始を公示したため、5月から審理が開始される見込みとなった、という記事です。

1、このことの法的な意味を説明します。

(1)一般市民である私人が、国家を訴えることができる。

国家が私人と、売買やサービスに関する契約を締結することは良くあることで、仮に国家が債務不履行に陥ったとしたら、契約の当事者である私人が、履行や損害賠償を求めて損害賠償を求めることができても当然だと感じるでしょう。

国家、具体的には公権力を行使する公務員が、私人に対して不法行為を行ったとして、私人が損害賠償訴訟を提起することも良くあります。例えば、公害や薬害訴訟を思い出せば分かると思います。国の誤った許認可や監督・監視を怠ったことに基づき、多数の市民が損害を被ったとして、国を訴えます。日本においては、これが国家賠償法に基づき行われます。

契約にしろ、不法行為にしろ、民主的な国家であれば、その国の法に従い、私人が自分の国を相手取り、その国の中で民事の訴えを提起することができることが通常です。

(2)私人が外国国家を訴えることができる。

わが国においては、「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」に基づき、民事の訴えについて外国が主権免除を受けない限り、国際民事訴訟法を含めて、通常の民事手続きにより裁判することになります。

不法行為については、法10条により、外国の行為により損害を被った場合に、その行為の一部または全部がわが国領域内においてなされ、行為を行った者が行為のときわが国に所在した場合に限り、その外国は裁判を免除されないと規定されています。

国家が他国の私人から訴えられても、一切の民事裁判権を免除されるという絶対免除主義が克服されています。もっとも、完全に私人と同一ではなく、一定の制限は有ります。その範囲が国により異なるので、国際法である「国及びその財産の裁判権からの免除に関する国際連合条約」が成立しました。わが国はこの条約を批准しているので、この条約が発効すると、締約国との間では、その内容が法として効力を有します。

わが国の国内法である前述の主権免除に関する法律は、この条約に準拠して、締約国と非締約国とに関わらず、わが国において、外国国家を訴える場合の制限の範囲を明確化したものです。

前述の記事は、韓国国内における裁判ですから、韓国が締結している条約や韓国の国内法が問題となります。元慰安婦が提訴したのは、当時のわが国が彼女らに行った行為が不法行為に当たるとした損害賠償請求です。韓国が加盟していないとすると、前記国連条約は韓国を拘束しませんが、国際慣習法の重要な徴憑として参照すると、日韓併合により、わが国の統治下にあった当時の朝鮮半島において、原告らが慰安婦として従事させられ、そのことにより損害を被ったとするなら、一応、その基準に該当するようです。

なお、時効も気になるところですが、韓国国内法の解釈により、これを回避するのでしょう。

(3)訴訟を始めるために、訴状の送達が必要である。

民事の裁判では、相手型に訴訟が開始されたことを通知する手続きが必須です。そうしないと、裁判が始まったことも知らないで、従って、十分の法的な防御を行うこともできず、欠席裁判で敗訴してしまいます。これが訴状の相手方への送達という手続きです。原告がどういう相手に対して、どのような理由で、裁判で何を求めるかを明確に記載した文書が訴状です。これを被告に届ける手続きが送達です。

外国に居る相手方に訴状を送達するためには、その外国の協力が必要になります。裁判所の吏員が無断で外国に行って、相手方に訴状を渡したら、その国の主権を侵害したことになってしまいます。外国公務員の公権力行使に当たるからです。

国際的訴訟の度に、訴状の送達について、一々、外交ルートを通じて外国当局にお伺いを立てていては面倒だし、断られる可能性も高いのです。そこで、グローバル化の進展に伴い、訴状送達について条約が締結されています。「民事又は商事に関する裁判上及び裁判外の文書の外国における送達及び告知に関する条約」(略称、ハーグ送達条約)です。条約で約束した国内当局を経由した、条約の条件の通りの訴状であれば、裁判を行う国の裁判所等に代わって、相手方の居る国の裁判所等が送達を行うことを義務付けられます。

日本も韓国も送達条約の締約国ですから、条約が法として両国を拘束します。元慰安婦が提起した、日本を相手取った損害賠償請求訴訟の訴状を、韓国の裁判所が受理した場合、裁判の審理のために、その訴状を日本の政府機関に送達しなければなりません。ハーグ条約に則り、わが国の外務大臣に協力要請があったら、わが国は本来これを拒むことができません。しかし、この裁判については、日韓請求権協定や、慰安婦問題についての政府間合意などに反して提起された韓国国内における裁判に、国家としてわが国の出廷を求めるものなので、条約13条に基づき、わが国の主権侵害に当たることを理由に、送達を拒絶したもようです。

この場合に、韓国裁判所としては、条約15条に基づき一定期間の経過の後、裁判を行うことを宣言できます。

(4)韓国国内における裁判の公示?

前述の記事は、韓国裁判所が裁判を公示したので、自動的に審理が開始されるとしています。国内の裁判であっても、被告が行方不明であるような場合に、訴状の送達ができないと、公示送達が行われます。わが国の場合、裁判所前の掲示板に、訴状が一定期間、張り出され、そのことによって訴状の送達があったとみなされるのです。被告が出頭しないときに、欠席裁判になり、原告がほぼ100%勝訴します。韓国裁判所は、何らかの理由で、公示送達に類似の手続きを用いたようです。

外国国家に対する国内の裁判で、外国が訴状の受け取りを拒絶している場合に、公示送達の方法によるというのが、元慰安婦問題に関する裁判では、日本の主張に相応の根拠があると考えざるを得ないことからして、随分と不可思議な手続きを行なっているように見えます。

そこで韓国で、自動的に審理が始まったとしても、日本政府が裁判に出頭するとも考え難いですし、仮に、原告勝訴の判決が下されたとしても、日本が任意にこれを支払うとも考えられません。それでは、韓国にある日本政府の財産に強制執行が可能かというと、主権免除に関する前述の条約によると、在外公館の財産等は強制執行を免れることが規定されています。条約の発効や締約国か否かに関わらず、そのような強硬な措置に出ることは無いだろうと予想します。

更に、以前のブログで説明した外国判決の承認執行の制度があります。実質的再審査禁止の原則の下で、全ての手続きを再度行うことなく、一定の要件があれば、外国判決に自国判決と同様の効力を与える制度です。これについても、原告勝訴の韓国判決は、わが国公序に反するという理由で、日本の裁判所が承認・執行を拒絶する蓋然性が高いです。

以上、韓国内における元慰安婦訴訟は、たとえ勝訴しても、その判決の実現可能性が法的には乏しいと言わざるを得ません。単に、名目的、政治的意図に基づくものであると思えます。

2、韓国における三権分立

韓国は日本と同様に、憲法に基づき立法、司法、行政の三権分立が確立した民主的国家です。普通選挙に基づく国民の代表である議会を頂点としつつ、三権の独立と相互の抑制により権力の独走を抑止する、西欧由来の民主主義システムです。この社会体制が、戦後の途上国が独立して行くに伴い、国際社会に広く行き渡った、グローバルスタンダードです。しかし、殊に、裁判所の権力がどれほど強いかは、国により大きく異なります。

例えば、アメリカでは、トランプ大統領が裁判所の判決により、大統領命令の修正を余儀なくされることがしばしばあるように、司法積極主義で知られる、非常に裁判所の強い国です。政府と裁判所の対立が極端にまで現れることがあり、しかも政府が裁判所の判断に屈することが間々あるので、「法」特に憲法の存在感が際立ちます。これに対して、途上国では司法より政府の優位が明らかである国が多くあります。軍事政権下の裁判所の機能を考えれば容易に理解できるでしょう。中国はもはや途上国ではありませんが、三権分立については、以前のブログで触れたように、独特の位置付けがあります。共産党の一党独裁の下、党幹部が行政及び司法部門の責任者になるもので、相互の関係がより密接です。法制度の態様と共に、実際の運用を含めて検討が必要でしょう。

韓国も経済的には途上国を既に卒業して久しい国です。しかし、かつての軍事政権下において、過酷な人権侵害を経験し、新たな憲法の制定と人権意識の高揚と共に、個人の幸福追求権を尊重する法意識を持った国へと進展したのです。伝統的な家父長制的封建制度の克服にも、日本と比べて極めて長い時間を要していますが、少なくとも法制度の側面では、これも近年ようやく実現しつつあるようです。

三権分立についても、法制度としては、確立されているのです。元徴用工の裁判では、日本が韓国政府に対処を求めたのに対して、韓国の文大統領は、裁判所の判断を尊重しなければならない、韓国は三権分立の確立された国であることを理解してほしい、としていました。行政府であれ、司法府であれ、国際法を遵守するべきであるので、韓国が国として、これに違反しているというのが日本の立場です。国際法からは、政府であれ、裁判所であれ、その行為が国家実行として評価される点で異なりません。

ここで少し視点を変えて、韓国の三権分立について考えてみます。韓国の裁判所は、政権が変わると、その政権に協力的な判断をすることで知られています。裁判所という機関は、その良心にのみ従うとされる個々の独立した裁判官から構成されます。裁判官も一個の人間でしかない。孤独で、実は現実の権力、あるいは実力に対して弱い存在でもあり得るのです。法解釈の客観性の隠れ蓑の下で、優れて政治的な判断を迫られる、脆弱な権力機関です。裁判所が現実の政治や世論からの批判を回避するためにするのが、判断を下さないという方法なのです。「政治問題」であり、司法判断を超越するという口実を使います。

この方法は、日本でも、西欧諸国でも一般的に存在するのであり、アメリカでも用いられます。口実というのが言い過ぎかもしれません。軍事、安全保障、外交に関わる事項については、行政府の行為について、司法判断を回避することが妥当な場合があります。これが妥当であれば、憲法上も問題視されません。横道に逸れますが、日本の裁判所が自衛隊と憲法9条の関係について、高度に政治的な問題であるとして判断を回避しています。憲法9条が世界の中で日本国憲法に特有の条項であり、真正面から規定されている内容について、裁判所が判断を避けることできるかは、日本に固有の事象です。しかし、必要を超えて、口実でもあり得ることは確かです。

孤独で脆弱な国家機関である裁判所が、法の権威にのみ従い、他の権力と対立できるのですが、先にも述べたように、その態様は国によって様々です。政治・外交問題に関わる場合に判断を回避するという窮余の一策を講じることができることは、司法の独立と維持のために、必要なことでもあるでしょう。実のところ、法の解釈という法特有のレトリックを用いてその政治的意図を隠すことが通常の方法なのです。法原則は必ず例外則と組み合わせられます。例外のない原則は、法の世界に有りません。裁判所には相当の裁量的な解釈の余地が与えられています。更に、裁判所は手続事項について、極めて大きな裁量を有しているので、その裁判をいつまでにどのように審理するかについて、裁判所自身が決定できるのです。

三権分立の問題に戻ります。裁判所が、現実の政治や世論に抗する方法として、判断回避を行うこと、法解釈や手続の裁量を行使することが有り得るということを指摘しておきます。裁判所が、政府の言い成りになる、政府の好む結論をのみ述べる、すなわち政府の口になってはならないのです。判断回避にせよ、裁判所独自の判断を示す必要があるのに、韓国の裁判所はこのことがどうやら苦手のようです。この点で、外からは窺い知れないのですが、韓国の裁判所が、時の政府や世論にただ同調しているように見えるとしたら、三権分立が実現されているとは言い難いでしょう。

3、韓国の世論

ここで目を転じて、韓国内の世論について考察します。

テレビの情報番組で、あの優しそうなお婆さんが、涙ながらに昔の思い出を語っています。民族衣装に意義をただした高齢の女性がとつとつと、時として激しながら述べるのです。大日本帝国の植民地と化した祖国で、普通に暮らしていた女の子が、慰安婦とされた辛い日々のことです。

その当時、先祖伝来の大切な民族固有の名前を剥ぎ取られ、日本風の名前を名乗らされる。学校では朝鮮半島の言葉ではなく日本語を教えられる。その一切が、拭い去りたいけれど、忘れらてはならない記憶として、学校教育やマスメディアを通じて、繰り返し追体験されるわけです。現在の韓国政府は、韓国の独立の礎となったこのときの独立運動の継承者とされます。大日本帝国からの独立、民族主義、日本の政治的影響の払拭、これらが憲法的な価値観としての個人の幸福追求権の尊重に結びつくのが、韓国リベラルではありませんか。慰安婦への補償がその象徴なのです。

親日の徹底的な排斥が現在の政権のスローガンのようです。親日排斥といっても、大日本帝国時代から、戦後韓国の軍事政権に温存された日本の政治や考え方の影響の払拭のことです。旧日帝時代に植えられた公的施設の植物まで目の敵にする様子は、明治維新のときの廃仏毀釈を想わせます。この国は、未だに国内的な戦後処理、戦犯追放をやっているのでしょう。慰安婦問題にしても、過去における、日本からの償いの言葉やお詫び、補償の申し出も受け入れることができない程で、慰安婦合意にしても、お前の言い方が悪いから受け入れられないとするようです。もっとも、それが正に個人の法的權利の実現として、正当であることを真正面から認めよ、それこそすなわち正義であるとする視点があります。

政治運動としての側面も見逃せません。韓国の保守的政党が、日本を経済的には利用しつつ、韓国経済の発展を促したことに対抗して、リベラル政党が個人の人権保護と日帝時代の協力者や遺物の払拭を主張し、民族主義的運動を引き起こしているとも考えられます。

4、思いを重ねるために

日本の一般市民の意識と、韓国の人々の意識とが大きく乖離しています。第一に征服者と被征服者の相違があるでしょう。日本の戦後、征服者はアメリカでした。日本とアメリカは友好国となりましたが、第2次世界大戦における沖縄の悲劇や被爆体験については、今でも繰り返し語られます。殴った方はすぐ忘れても、殴られた方は一生覚えているのかもしれません。しかし、戦争の犠牲者を深く悼む気持ちが、世界平和への飽くなき希求と、核廃絶への強い運動に繋がったのです。朝鮮半島については、日本が加害者として現れるのですが、日本の人々はこの体験をどのように昇華すれば良いでしょう。

もちろん、国際社会に日本の立場を訴え続けることは必要です。国際法の論理を主張し、韓国をただ非難するのではなく、償いの気持ちとこれを受け入れてもらえないことを訴えるべきです。同時に、東アジア及び東南アジアを中心としつつ、広く世界の国々に対する人権擁護の側面での国際貢献、特に女性差別を根絶させるためにする貢献についての実績と展望について、理解を深めて行くべきです。

政府間の外交関係が冷え切ったときに、民間の交流こそが大切であるというのは、言い古されたことですが、現在の日韓の関係を見ると、当面、その他に解決の糸口が見つからないようです。韓国の若者の多くは、経済発展に関するコンプレックスも無くて、日本の文化、特に、和食やアニメ、カワイイ・ファッション、JPOPなどに随分興味のある、日本の若者が韓流文化に興味を持っているのと変わらない存在です。大人が口出ししないで、成り行きを見守ることがあっても良いでしょう。

こんなに近い国です。観光で多くの人々が直接お互いに触れ合い、そして何より商売を発展させるなら、良い商売相手を徒らに陥れることはしません。これを更に促進させるための条件整備、特に経済連携協定の締結や、TPPへの韓国加盟への働きかけと便宜の供与など、政府にできることがあります。

思いが重なるその前に・・・国際法と国内法2019年03月02日 23:57

今日は、国際法と国内法の関係について、考えてみます。

最近、日本が韓国の国家としての行動を国際法違反であるとして非難することが増えています。

元徴用工の賠償請求事件では、同じ条件下の原告が日本企業を訴える日本での裁判で過去に敗訴していたのですが、韓国国内の裁判で損害賠償を認められました。韓国政府は韓国国内の三権分立により、政府は司法の判断を蔑ろには出来ないということを、日本政府が理解すべきだとしています。韓国裁判所が韓国憲法に従い判断したことを、政府として尊重しなければならないとするのです。日本政府は、このような韓国の国家としての行動が、行政府にせよ、司法府にせよ、日韓請求権協定という国際法(二国間条約)違反であるとして非難しています。

また、先日の報道によると、韓国の外務大臣が国連人権理事会において、慰安婦問題に言及し、紛争下性暴力の問題というトピカルなキーワードを持ち出し、日本が個人の救済という観点から行動するべきだと、批判しました。元徴用工裁判と慰安婦問題は、問題の性質が若干異なりますが、これに対しても、日本は、日韓の政府間における慰安婦問題の合意を、韓国が一方的に破棄したものであり、韓国政府が誠実に履行するべきだとしています。


国際法と国内法の関係といっても、いつものように随分遠回りをします。法学的な緻密な議論というのではなく、多分に感覚的な、イメージのお話しをしたいと思います。中々、法の話になりません。いうなれば私小説的法学? ファンタジーです。
ちょっとお付き合い下さい。

私は生きています。 ??? (ここから始まります。)

私たちの体、人間の体は、一個の器官系として、自律的に意味ある行動を行います。
歩いたり、走ったり、物を持ち上げたり、下ろしたり、食べて、飲んで。
寝て、起きて・・・。
ひとりの人間として、生きるために必要な営みを行っています。
人の器官は、幾つかの臓器から成ります。
臓器は、無数の細胞の塊です。
一個一個の細胞は、それぞれが、自律的に活動しています。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)という日本の宇宙開発を担う政府機関が、小惑星探査機はやぶさ2号によって、小惑星リュウグウの表面にある物質の採集に成功したという報道がありましたね。来年、地球に帰還する予定だそうです。地球誕生の秘密に迫ることが期待されています。また、生命の起源となる有機物の採集にも成功しているかもしれないのです。(話が逸れた!!!)

小惑星探査機はやぶさ2プロジェクト特設サイト
http://fanfun.jaxa.jp/countdown/hayabusa2/overview.html#1993ju3

地球がどのように誕生したかについては、諸説あるようです。私は宇宙物理学者でも、地学の研究者でもないのですが、このお話はとてもロマンチックに感じます。とにかく無機物(鉱物?)の塊であった地球に雨が降り、海が誕生したところから、生命も始まるとされています。無機物の組合せにより、有機物が生まれ、何らかの要因に基づく必然と偶然により、一個の生命体が誕生したのです。それは、生物体を構成するような小さな一個の細胞のような存在だったのです。裸の細胞が、やがて結合しつつ、もう少し大きな生物へと進化した。これが、現在、地球上にある全ての動植物の起源となります。

だから、地球上の全ての生物が、花や木、昆虫や、は虫類や哺乳類など、根本的な構造と機能が同一の細胞の集積として存在するのです。地球上の無機物から、有機物が生まれ、やがて生命体が誕生したので、地球上にある、ありとあらゆる存在が、限りある元素の幾通りかの組合せであり、すべての生物の基本構造が細胞としては同一なのです。神秘的で、何かとても不思議な感じがします。

人はとても複雑な生物です。10の器官系から成ります。ここら辺、インターネットからの請け売りです。骨格系、筋系、循環器系、呼吸器系、消化器系、泌尿器系、生殖器系、内分泌系、脳神経系、感覚器系です。(まだです!!!)

例えば消化器と言えば、胃、小腸、大腸・・・などの多くの臓器からなります。
この臓器達は、私たちが意識するとしないとに関わらず、生きるために必要な活動を行います。ものを食べると、胃が収縮運動をして消化の活動が始まります。私が、胃に、収縮せよとか、消化液を分泌せよなどと、命じる必要はありません。

循環器に属する心臓もそうですよね。いちいち動けと言わないといけないと大変です。

臓器は、私たちの意識とは関係がないかのように、各々自律的に活動しています。

歩いたり、走ったり、運動するときは、一見、私たちの意識に従い、骨格系や筋系が連動して、その命令に従って動いているようです。しかし、これも、視覚、聴覚、皮膚感覚など、これを司る器官から受容した刺激を脳に伝達し、他方、脳から、神経系を通じて、特定の物質が神経細胞間に伝えられて、その相互の情報交換によって骨や筋肉を活動させるのです。

人の体は、各臓器から分泌されるホルモン等の特定物質の相互的なやり取りによって、私たちの生命活動にとって意味のある、統一的な活動を行うことができる、一個の複雑系なのです。

意識というのは、私たちの脳のどこかの部位によって生み出され、どこかの部位に蓄積される情報が、どこかに引き出され、新たな情報として組み合わされ、また新しいものとして生み出される繰り返しだとすると、脳という臓器そのものとは異なります。

これらの一切が、時折、不具合も生じさせながら、しかし、とにかく統一されているのです。

人の臓器は、多様な細胞の集積です。地球の最初の海で誕生した一個の細胞と同種の、これから進化した細胞の集積です。それぞれの細胞は、自分が生きるために、自律的に活動しています。誰に命じられるわけでもなく生命活動を営んでいるのです。一個一個の細胞が、必要な栄養となる物質を取り込み、老廃物を排斥しています。

心臓の心膜や心臓弁や心筋がそれを形成する細胞の塊であり、脳という臓器も、脳細胞や脳神経細胞や、人の体のすべてが、自律的に生命活動を営む一個一個の細胞の塊です。

繰り返しますが、人は、自律的に活動する個々の細胞の集合として理解でき、各細胞ないし器官による、ホルモンなどの物質の規則性をもったやり取りにより、少なくとも人という生物として、生命活動を営んでいるのです。

漸く、国際社会とこれを構成する各国家の関係についてです。

人の体を構成する細胞を国とすると、国は、その生命のために、一定の法則に従い活動しています。そして、ひとりの人の体の全体集合は、細胞間の特定物質やホルモンのやり取り、これが規則性を持ったものであり、その規則に従ってこそ、意味のある統一的な生命体として生命を維持することができます。この人の体としての全体集合が、国の集合である国際社会なのです。

国際法と国内法の関係に関する考え方として、国際法優位の一元論と国内法優位の一元論の争いがあります。国際法一元論は、まず国際法があり、その授権により、国内法が効力を有し得るとするのですし、国内法一元論を私流に表現すると、各国家の実行の集積を単に国際法と呼ぶので、まず国内法が存在し、国際法とは各国がそれを法として承認して始めて存在し得るのである。もっと言ってしまえば国際法というのは単なる幻想に過ぎないという政治学立場もこれに属するかもしれません。

極論すれば、鶏が先か、卵が先かの議論であり無用だとも思えます。もっとも現在、わが国の国際法学説上は、国際法と国内法の二元論的理解が多数のようで、国際法は国際の場において、国内法は国内の場において、それぞれ至高の存在であるとします。各国の行動がその国の国内法に従う限り、国際法に違反するとしても、直ちに無効であるとはされません。国内的には完全に合法だからです。ただ、両者は無関連では有り得ず、国内的に調整の契機が存在すると説明しています。

国際法というのが、ある時代の、その国際社会の条件を前提として成立する、各国の国家実行(ないし国際機関の行為)の趨勢であるとして、動態的にこれを捉えることもできるでしょう。各国の国家実行に法則性が生じるのです。これが各国にとって、「法」であり、遵守しなければならないと認識されることがあるのです。法的確信などと呼ばれます。

多くの国にとって国家間の「法」であるべきルールに、ある国が反するとすると、他国がこぞって批判を始めます。国際法に反するとして、国際的な批判にさらされるのです。国際法と言っても、二国間条約、多国間条約、国際慣習法と、法の存在形式が異なるので、法としての実施方法も一概には言えません。ルールの形が明文であり、その意義が相当程度に明確であるものから、不文であるものまで有り得るのだからですし、多国間条約の中には、それ自体の実施方法を規定するものもあるのです。また、場合によると、国連の制裁決議の下で、世界の国々による経済制裁を被ることがあるでしょう。しかし、最も重要な強制の契機の一つが国際的批判であることは疑いがありません。

ある国の国家としての行動はその国内法に従い遂行されます。その国は、国際法に抵触する可能性があると考えるなら、その行動が国際法に反しないものであると主張するでしょう。国際的批判を回避する必要があるからです。国際法も法として解釈の対象となります。

一国の憲法は相矛盾するかもしれない複数の法原則から成り、どのような政府の決定も、そのような法原則の組合せによる憲法解釈により、合憲であると説明されるでしょう。同じように、ある国の行動が、複数の国際法原則の組合せによる国際法解釈に従い、国際法に違反しないとする説明が可能となります。解釈者の立場や解釈態度により、主観的な国際法解釈と客観的な国際法解釈が有り得るとすると、国際裁判所や国際法学者が行う中立的で公平な規範的態度に基づき解釈するものが客観的国際法解釈です。幾つかの既存の国際法原則を特定し、多くの国の国家実行の趨勢を確定します。もっとも、これすら複数の解釈が可能とはなり得ます。

ここで、人と、人体の細胞との関係に戻ります。人を国際社会とし、その人体の細胞を国とすると、各国は、細胞のように自律的にのみ、それ自身の生命活動として行動します。国際社会は、単にその集合体であり、しかし、一個の人として、器官系により、また単体として、お互いに情報をやり取りしながら、全体として意味ある機能を遂行しているとみることができます。各細胞の生命維持がその規則に従い行い得るように、国家にとって国内法が存在し、細胞間の情報のやり取りにみられる法則性が、人としての生命活動に必須であるように、国際社会にとって国際法が存在します。

各細胞間、器官や系の間で、その情報の解釈の対立を生じると、その人は病気になるかもしれません。国際社会も同様なのです。通常はルーティンの解釈で済むのですが、ときとして、困難な条件を生じ、解釈の抵触が生まれるのです。人が生きていくためには、そのような解釈の対立は解消されなければなりません。予定調和として対立の解消が必然なのです。半自動的に、その調整が行われるはずです。そうしないと、細胞が死滅し、人の生命が途切れるように、人類が滅亡し、国際社会も無くなります。

・・・!

そういえば、人は死ぬ生き物でした?


目の前にいる恋人が死の病に取り憑かれています。
ただ見ているだけで、何もできません。
もう僕にはできることがない。
もう僕の事も分からなくなる。

遠くを見つめるあの人を
見ているだけで....
見ているだけで....

そっと手を取って
その手を握れば
柔らかな掌
血管の浮き出た
柔らかな 手のひら
温もりを感じ
温もりが伝わる

静かに思いが
重なる

思いが重なる
その前に....

憲法解釈と改正2019年02月03日 23:51

昼から雨。ベランダの観葉植物の大きな葉に小さな水滴が転がっていました。
遅い時間に漸く、ブログの更新です。
次回は、2月15~17日の間に更新する予定です。

憲法9条の解釈?

憲法9条の解釈論の複雑さには辟易とします。私が学生だった頃は、当時の憲法の教科書を何冊も、喜々として読み比べていました。それでも、1項と2項の関係において、各項の解釈の組合せと場合を尽くす議論に、幾重にも分岐した学説を整理するのがやっとであったことを覚えています。そのときの憲法の先生は、自説以外を答案に書くと点数が悪いというもっぱらの評判でしたが、私はどの科目でも自分で考えた結論を答案に書くことにしていました。その結果、よく勉強したのに、「良」しかもらえなかった苦い思い出があります。

これから述べることは、憲法学者でもないし、安全保障の専門家でもない者が考えたことです。その前提で、議論にお付き合いください。

さて、

憲法第二章「戦争の放棄」は、次の条文からなります。

第九条 第1項
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

第2項
 「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

この9条の「解釈」です。

憲法制定時における吉田茂内閣の立場(昭和21年)から始めるとすると、個別自衛権の否定と、いかなる戦力の保有も許されないとする解釈から、個別自衛権の肯定へと政府解釈が変更され、

これが、少なくとも鳩山一郎内閣のときまでには(昭和29年~)、そのための最小限の実力としての自衛隊を保有することが合憲であるとする解釈が確立されたのです。

そして、田中角栄内閣の時に個別自衛権を行使可能としつつ、集団的自衛権は、憲法の制約の下、行使できないとする政府解釈が明確にされました。これが、現在の安倍内閣において、平成26年に至り、集団的自衛権の一部が行使できることになりました。

「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきである。」(平成26年閣議決定)

今でも、自衛隊が軍隊であることは政府解釈として認められていません。

内閣法制局の解釈によれば、従来、武力行使と一体となった後方支援が集団的自衛権の行使に当たるとされていたのです。これが、安保法制の改正により、上述の閣議決定の要件の下では可能とされるようになったわけです。

ここでは、憲法9条の政府解釈の変遷が、このようになされたということを確認しておきましょう。

そうすると、例えば、北朝鮮の核ミサイルが韓国内に打ち込まれ、更に、わが国に照準を合わせていることが確認されたようなとき、アメリカ軍が北朝鮮を攻撃する場合を想定します。わが国への存立危機事態である蓋然性が50%を超えると判断されると、公海上を航行中のわが国自衛隊艦船「いずも」に、アメリカ軍の爆撃機が停留、給油を受け、そこから出発することは許されそうです。

また、更に、上のアメリカ軍機が北朝鮮の戦艦に攻撃されているときに、これを助けるために自衛隊が、北朝鮮戦艦を攻撃することが許される可能性があるということになるでしょう。実は、法的には、船舶についてはその旗国の領域であるとされるので、この場合には既に相手国領域への攻撃に等しいとも言えます。

国会議員の議論において、わが国が敵地攻撃能力を保有することについて議論されることがあります。

個別自衛権と専守防衛についても、次の例を考えてみましょう。上例で、核弾頭がわが国に向けられているときに、わが国の自衛隊航空機が、アメリカ軍とともに、あるいは単独で、北朝鮮領域内にあるミサイル基地に対して攻撃に向かうとすると、わが国の敵地攻撃能力に基づき実力行使することを意味します。個別自衛権の発動が専守防衛に基づくとしても、抽象的には、必ずしも、わが国が敵地攻撃能力を保有しないことを意味しません。

「専守防衛」という語の解釈によるでしょう。①わが国領域が実際に攻撃された場合にのみ、その後、これに対応することを意味するのか、それとも、②わが国への攻撃が確実に予測される場合をも含むのか。(a)わが国領域内においてのみ抗戦し、相手国の軍隊をわが国領域外に追い返す、あるいは未然に着弾を防ぐことのみを意味するのか、それとも、(b)わが国領域外の周辺において、相手国軍隊と交戦することまでは認めるのか。(c)相手国領域内における攻撃まで認めるのか。

①に対して、(a)~(c)まで、又は、②に対して、(a)~(c)までの、どこまでの武力行使が許されるのでしょうか。専守防衛の語の解釈として、①に対して(a)のみとする立場から、①と②に対して(c)まで含むとする立場まで有り得るように思われます。当然、前者からは、後者は「専守防衛」を踏み越えるとするのです。そのほかに、①、②に対して、(a)~(c)の多様な組合せが考えられます。

先ほどの例に戻ります。韓国に核攻撃がなされ、北朝鮮の弾道ミサイルがわが国に向けられていることが確認されたとき(②の場合)、ミサイルが発射されるまで待って、わが国領域内において、これを迎撃する(a)、わが国の自衛隊が出動して、北朝鮮のミサイル基地を攻撃する(c)の、いずれかの立場が有り得ます。最後の立場が、②に対して(c)を含むことになります。

このことについて、未だ不勉強なので、わが国政府解釈がどのあたりであるのかよく分かりません。国会で、しっかりと議論をしてもらいたいところです。

ここで、先ほど述べた憲法9条の政府解釈の変遷を思い出してください。

日本が永久に戦争を放棄し、従って自衛のためといえども戦力(実力でも、軍隊でも何でも良いです)を保有しないとする解釈から、現在の、明らかに軍隊である自衛隊(政府解釈のいう最小限の「実力」)の公認と集団的自衛権の一部、片面的行使まで、わが国における政府解釈が変遷しているのです。これを要するに解釈改憲ではありませんか?

「政府」の「解釈」によって、政府の手を縛るための憲法が改正されていることを意味します。憲法改正とは正面からは言いにくいので、ただの解釈の変更とされます。

もっとも、このことは憲法解釈の第一の担い手である憲法学者も免れません。私の学生時代(おおよそ40年前(^-^*))の通説が自衛隊違憲説であったのです。現在の多数説が自衛隊は合憲であり、かつ、個別自衛権のみが認められるとするようです。時代が変わり、社会の要請に応えて、解釈学説がゆっくりと変わったようです。法に携わる者は、得てしてこのように「保守的」です。

自衛隊を違憲とする学説の中にも、その当時の社会党がこれを採用したのですが、自衛隊を違憲ではあっても合法的な存在であるとするものもあるのです。違憲かつ合法? 実に奇妙ではあります。しかし、自衛隊は、「実力」と呼ぼうと何と呼ぼうと、実際には誰もが認めるように軍隊であり、しかも厳然として存在するのです。国民もそれを容認し、必要としている。憲法学者がその解釈に苦心惨憺してきた歴史が窺えます。

法の解釈も、時代が変わり、社会が変わるとともに、変わり得るとは言えます。これも法の性質に応じてその柔軟さが異なるのです。例えば、民商法のような私法であれば、相当柔軟に解釈が変わる場合のあることを認めることができます。

しかし、一例を挙げれば、法的な母子関係の成立について、生殖補助医療の進展した現在においても、子を懐胎し出産した母のみが、子の法律上の母であるとする解釈を、わが国の最高裁が維持しています。従って、父母の受精卵を子宮内に移植された代理母より誕生した子は、たとえ遺伝学的には卵子を提供した母の子であるとしても、従っていわゆる血の繋がりのある子であるとしても、卵子提供者は母子関係を否定され、代理母の方が法律上の母であるとされます。代理母など知らなかった戦後間もない時代に制定された家族法であっても、法は、現在においても、そのようにしか解釈できないからだとしています。判決は、これを解決できるのが立法機関だけであるとしているのです。

代理母についての結論について賛否を述べるのではありません。しかし、次の様に言えます。裁判所や行政機関は、法を「解釈」することしかできません。三権分立の観点から、法を作る(「立法」する)のは国会であるので、自ずから、法の解釈には限界があるべきなのです。国会は選挙で選ばれた国民の代表から構成されるから、その作った法に国民が服するという、国民によるコントロールと法の支配の関係が民主主義の根本にあるからです。

さて、憲法はどうでしょう。憲法と通常の法律とは異なります。法律より優越する最高法規が憲法であり、憲法違反の法律は無効となります。憲法を全く政府の「解釈」に委ねる、どのように「解釈」しても良いというのでは、憲法の定義に悖ります。憲法の、解釈を超える改変は、憲法制定権力の発動を待たなければなりません。憲法制定権力とは国民の意思です。

自民党の改憲案は、9条をそのまま残して、9条の2を設け、自衛隊を明記するというものです。しかし、与党内においても必ずしも議論が収斂していないようです。改正発議に向けて、十分な準備が整っていると言い難いでしょう。
https://www.sankei.com/politics/news/180503/plt1805030019-n1.html (産経新聞インターネット)

立憲民主党は、自民党政権下における憲法改正に反対であるとしています。

自衛隊と憲法の関係について、上述のような問いに対しても、私自身が明確な回答を持ちあわせていません。少なくとも、自衛隊が必要であるなら、それは合憲でなければならない。もうこの辺で、自衛隊と憲法の関係について、国民の意思を問うべきではありませんか?そのための憲法改正手続なのです。

デカンショ、デカンショで・・からの...2019年01月18日 17:37

「デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」
(参照。http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/minyo/dekansho.html

デカンショ節は丹波篠山の民謡ですが、明治時代以降に旧制高校生の間で流行しました。ある高校教師から、次の様に教わったことがあります。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの意味で、哲学書を半年読んでは、後の半年は寝て暮らすという意味だというのです。

デカルト、カント、ショーペンハウエルと聞くと、今ではちょっと古いなという感慨を持ちます。もちろん、この人達の思想が、現代に至るまで社会や政治に大きな影響を与えていることを私も知っていますし、その著作が多くの人々に親しまれ、今なお、それ自体、研究対象とされています。それでも古いなと感じるのは、その時代毎に、若い人達に好まれる思想の、「流行り」が生まれては消えてゆくからです。

私の学生時代、もう40年ほど前にもなりますが、ある先輩が言っていたのを覚えています。「少し前には、左手に資本論、右手にプレイボーイを持って、キャンパスを闊歩するのが格好良いとされていたんだ」。資本論というのは、いうまでも無くマルクスの著作で、マルクス・レーニン主義のバイブルです。プレイボーイというのは、ヌードや水着の女性のピンナップ写真を掲載していた若者向け情報誌で、相当硬い読み物も載っていたようです。その二誌を小脇に抱えるのが、当時の(男子)学生のファッションであったという戯れ言です。今では資本論を読んでいるとか、少なくともその振りをしている人達すら少なくなっていますし、プレイボーイは廃刊されました。

スキゾ、パラノという言葉を今の若い人達は余り使いません。浅田彰の『逃走論』は1984年に刊行され、一世を風靡しました。ドゥルーズやデリダなど、フランスのポスト・モダン思想は、マルクスの構造主義を「脱」構築する・・・なんかが流行った時期です。

そのときどきに若者の間でもてはやされる思想は、まるでファッション(扮装)の流行のように、流行り廃りを繰り返してゆきます。

ちょっと脇道にそれますが、(服装の)ファッションの世界に、モードという概念を想定できる様に思います。英語のmode の語義をWeblioというインターネット辞書で調べてみると、「方法、様式、流儀」という意味があり、どうやらそこから「(服装・芸術などの)流行(の型)という」意味を生じたようです。a mode of life で、生活様式や風俗という意味になります。パリ・コレクションやミラノ・コレクションなど、ヨーロッパ文化・文明の中心地で産み出されるファッションが世界中に流行を生み出します。これをモードと呼ぶようですが、単なる流行という以上に、世界の服飾業に対する影響は、静かな水面に落とす小石が大きな波紋を生じて、池の隅々に及ぶように、多大な影響を及ぼすがごとくです。パリコレで生まれた新奇なファッションが、数年後には世界中のモードになっていることがままあり、これが庶民の着るカジュアルファッションにまで生かされていくのです。

今なお、哲学思想の、世界中に影響を与えるモードを生み出す場所の一つがフランスやドイツを中心とするヨーロッパなのです。哲学のみならず、文学や、政治学、社会学等にも大きな影響を及ぼし、やがて現実の政治や行政のあり方に関係し、社会のあり方や人々の暮らし方に作用するものもあるのです。若年層がその共同体の中で最も鋭敏な嗅覚を持って、その流行りをモードとして感じ取っているのかもしれません。

もっとも、これは西欧中心的な考え方であるでしょう。世界には、西欧文化圏に必ずしも属さない、イスラム文化圏やアフリカ文化圏などもあるのだから。

日本は?

西欧文化圏に属すると言う人がいます。地政学的にはアジアに位置していることは間違いがありません。中国は古代文明の発祥した場所の一つであり、少なくとも、周辺の国々の宗教・思想、生活様式に多大な影響を与える大きな中国文化圏を形成している(た?)とも言えそうです。古来、中国の辺境であった日本が、その文化的、政治的影響を被りつつも、大陸とは海に隔てられているお陰で独自の文化圏を形成したともされます。少なくとも、朝鮮半島を経由することも多く、移入された中国文化が、日本文化の基底部分に存在しつつ、独自に発達したものと言えるのではないでしょうか。

江戸時代の倫理観念は、儒教を基にした封建的な価値観を中心としていたのです。江戸時代の法がこれを反映していました。明治維新に至り、ときの為政者達が、西欧文明の発展を目の当たりにして驚愕し、日本が西欧列強の植民地となることを避けるために、西欧文明の移入を急ぎました。このとき西欧法とは全く異なる江戸時代の法とは断絶した、日本近代の法を、西欧の法を真似ることによって作り上げたのです。急ごしらえの憲法や民法が、やがては社会に定着しました。もう一度言うと、日本は、それ以前の法とは、論理も価値観も全く断絶した西欧の法を、このときに継受したのです。

但し、家族法については、儒教的な価値観を根底から変えることができなかったと思われます。法が社会に受け入れられ、実際に生かされるために、現実の社会や人々の生活と結びついたものである必要があるからです。明治期の家族法は、封建的な家父長制度を規定するものでした。戸主が全財産を相続し、多様な権限を有するものです。第二次世界大戦に敗れて、現行の日本国憲法が制定されると、個人主義的な憲法の価値観に即した、現行の家族法が制定されました。戦前の「家」の制度を払拭したもので、日本社会の変革をもたらしました。「家」が、日本という共同体の末端組織として機能した戦前の法制度と比べて、国よりも、余りに「個」を重視しているとか、憲法の個人主義が家族を思いやる良き価値観を廃れさせたという批判がされることがあります。

もっとも、まだまだ個の価値、一個一個の人の命の重要さを再確認する必要があり、多様性に寛容である社会の中で、しかし、新たな家族の形を模索するべきときが来ているように思われます。それがどのような家族なのかは私自身、まだ分かりませんが、そのような新しい家族共同体の価値が追求されても良いと思います。他人の生き方に寛容である個人が寄り添う新しい家族が地域共同体のより良い隣人同士であり、その人々が共に、そこに住む日本という国のより良いあり方を考えるのです。

そこで、最初の話に戻ります。デカンショからポスト・モダンまで、日本の文化と一口に言ってしまえないはずの、様々な考え方を包摂する日本の文化を基盤として、新しいものの考え方を、西欧から旺盛に移入する日本の姿がそこにはあるように思えます。日本の法が、ヨーロッパ大陸の法と、英米の法をよく学びながら発展し、先進国の中でもこれほど外国法の動向に敏感であり、比較法に研究熱心な国が他にないように、日本の文化が、日本の伝統の上に、世界中の文化的影響を被りながら変転を続け、新たに発展する、文化的クロスロードの只中にあるのです。

日本は、歴史的には、むしろ辺境にある国であり、決して中心に位置するものではなかったのでしょう。しかし、インターネットと航空機等の移動手段の発達により、世界が地理的時間的に今までに無かったほど狭くなった今日、一個のグローバル社会の中にあって、海を渡ってこの国の浜辺まで打ち寄せた波がこの地から寄せ返され、大きなモードとなって世界中に及ぶことがあっても良いように思えます。

さて、いよいよ、日韓の関係が険悪化しています。日本と韓国の文化的異質性をその原因とする論調もあるようです。しかし、日本が古来より築いてきた朝鮮半島との文化的、政治的関係は、歴史上、重要な隣国として緊密であり続けたのです。

儒教的な封建的家族制度は、先に述べたように、第二次世界大戦の後に日本が払拭したのに対して、かつて韓国の法の中にむしろ生き続けていました。これが西欧的な価値である個人の権利と両性の平等を重視する方向へと改正されてきたのです。2005年にようやく戸主制度が廃止されました。その大きな原因となったのが、韓国における現行憲法への改正であったのです。

徴用工訴訟に関する韓国最高裁判決も、憲法上の個人の幸福追求権を重要な根拠の一つとしています。これが日韓請求権協定に違反する国際法上違法な、韓国の行為であることは以前のブログで述べました。しかし、韓国国内法としての法発展がかくなされたということは言えます。

韓国法の発展が、ヨーロッパ法及びアメリカ法の影響の下にもたらされていることなど、日本の法発展とよく似た展開をみせていることに留意するべきでしょう。

更に、韓国の優秀な若者が競ってアメリカ留学をして、殊に、アメリカの著名大学で最新のマーケティング理論を身につけた企業戦士が、東南アジアなど世界中を席巻し、むしろ日本企業が後塵を拝することがあったことも想起するべきです。

私には、韓国の文化的発展が、もとより全く同質ではないにせよ、日本のそれによく似ているように思えます。生活様式や情感のあり方など、やはり共通の文化圏を形成し得るのではないでしょうか