三島由紀夫と全共闘ー右翼と左翼 ― 2020年03月22日 21:04
1、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』と学生運動
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』が公開中です。
1969年、学生運動に参加する学生らと、作家・三島由紀夫との討論会が東大のキャンパスで行われました。全共闘に参加する学生らが企画したものです。その記録映画です。
「右と左。思想の異なる両者がぶつかりあう言葉たち。時に怒号飛び、時に笑いが起きながら、会場を圧倒的な熱が包み込む」。(竹内明「“右と左”の直接対決 三島由紀夫vs東大全共闘「伝説の討論会」、いったい何が語られたのか?」 より。文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/36746)
日米安全保障条約締結時の60年安保闘争、10年後の同条約延長をめぐる70年安保闘争と言っても、若者たちには良く分からないでしょう。学生の政治運動が「バリケードと角棒」を用いた暴力による大学封鎖に発展しました。学生活動家が機動隊と対峙していたのです。
昨年激化した香港の民主化運動(逃亡犯引渡条例の改正への反対運動)を思い出すと、ちょうどそのようなものなので、イメージしやすいでしょう。
前述の三島由紀夫との討論会があったのは、学生の立てこもる東大安田講堂に機動隊が突入して、強制的に大学封鎖を解除した後、4ヶ月という時点です。上の記事によると、会場には1000人の学生が詰めかけていたそうで、学生運動の熱気が感じられます。
それから10年後、私の学生時代、学生運動はもはや下火ではありましたが、その残り火が身近に感じられもしました。大学の構内を、ヘルメットにマスク姿の10人程度の集団が、角棒を持って練り歩くのを、時折、見かけたものです。1回生のとき、あるサークルに所属していた同級生が、「搾取」、「搾取」という言葉をやたら連発しながら、ほとんど親しくもない私に向かって、「誰も分かっていないんだ」と熱っぽく語っていたのを思い出します。サークルの先輩が背後に居て、資本論の研究会に参加を呼びかけていました。私自身を含め、多くの学生が「搾取」という聴き慣れない術語を聞いて、怪訝な感を抱き、そのような活動に無縁であったようです。ヘルメット集団とこのサークルとは関係がないのですが、何となく連想してしまうので、この同級生を避けていたように思います。この頃には、既に、ノンポリという言葉が一般化していました。
現在、大学教員となって、学生らを見ていると、国際経済法や国際取引法という法分野を学ぶ学生であるからかもしれませんが、政治的活動に対して、消極的に無関心であるというより、むしろ積極的に「政治活動」から距離を置こうとしている態度を感じます。何やら、得体のしれない危なっかしいものという風に感じているようです。
このことは私の属する大学だけではなく、相当程度に、一般的なのではないでしょうか。一斉を風靡し、ファッションにもなった、左翼思想が若者の間で最近はあまり流行らないのです。全共闘? 全学連? 革マル派? 内ゲバとか、怖そうだし。但し、私は、政治思想の専門家ではありませんので、学生運動を正確に区別してお話をしているのではありません。現在まだ活動する学生運動の大部分が、暴力主義的な運動とは一線を画するものであるとされます。
2、三島由紀夫のこと
文学や政治思想の専門的知見というより、私の個人的な思い出を書いておきます。高校生のとき、純文学にしか価値を見出せなかったので、純文学の小説を乱読していました。無数の詩作など、たわいもないものですが、そういった生活を送っていた典型的な文学少年でした。そのころ、強烈な印象をもったのが、三島の小説です。『金閣寺』に衝撃を受けて、三島の政治思想なんか全く知らずに、幾つかの小説を憑かれたように読み耽っていたことがあります。
その後、大学に入ってから、彼が右翼の思想家であり、自衛隊員の前で演説をした後、割腹自殺したこと、筋骨隆々の褌姿の写真、それにゲイであったことを知ったのです。小説からは窺い知れず、それはもう驚いたものでした。
全共闘学生らとの討論会は、三島が自殺する直前の時期に開かれたものです。前述の記事によると、三島と学生らが理知的に、笑いを交えながら、長時間の討論を行ったのです。
右翼の政治思想にも疎いので、三島由紀夫の思想的系譜や、反米主義とも親米主義とも結びつく「正統」右翼の諸団体との関係を分析することはできません。しかし、この討論会が、よく考え、練られた政治思想としての、左翼と右翼の実に興味深い議論であったことは想像に難くありません。
決して妥協することのない、従って、結論的に根本的な同意を予定しない議論が、しかし、互いの理解を深め、あるいは影響を及ぼし得る、民主主義の基底をなすものであることは指摘しておきます。このような議論は相手を打ち負かすことのみを目的とするディベートとは異なります。法廷で実務家たちが繰り広げる議論や、選挙に際して行われる政治家の討論は、多くの場合にディベートです。これも目的にかなった必要悪ではありますが、区別する必要があります。
3、「右」と「左」
政治的な意味で、左翼とか右翼という場合、上のような学生運動が盛んであったような時代、冷戦期において、社会主義・共産主義と反共主義を指す場合が多かったのです。特に、ソビエト連邦の崩壊は、マルクス・レーニンの、ユートピアである社会主義の理想が、現実の国家としては存在し得なかったことを明らかにしました。そこで、冷戦終結とともに、リベラルという政治思想が不要となったという主張があります。そこでいうリベラルというのが、社会主義あるいは社会主義に多分に好意的な政治的立場ということになります。特に、冷戦下、社会主義国家の建設と、ソビエト連邦を頂点とする社会主義陣営に与することを目指す立場です。
アメリカにも保守対リベラルの対立があるのはご存知でしょう。アメリカは共産主義を非合法としています。そこでリベラル派とは大要、民主党の政治家を指します。オバマ元大統領が国民皆保険制度を創設した政策を、保守主義者は社会主義と呼んだりしますが、上の意味のマルクス・レーニン主義と異なることは自明です。今年の秋に行われる大統領選挙に向けて民主党候補者を選ぶ選挙が行われています。バイデン議員が中道であるのに対して、サンダース議員は自らを社会民主主義者であると呼びます。
アメリカの健康保険制度は、高齢者と生活困窮者向けの社会保険的な給付が元々あったのですが、それ以外の国民は、民間の保険会社から保険を買う必要がありました。民間企業である保険会社が健康保険の適用範囲を狭く認定しがちで、著名なクラスアクション(集団訴訟)に発展したことがあります。それでも、これが、税金に頼らない自由競争を信奉するアメリカ社会の伝統であるとして、皆保険制度に対してはテイーパーティー運動などの極めて激しい反対運動が巻き起こりました。このオバマ・ケアを維持ないし発展させるとすることや、大学の無償化、学生に対する多額の借金となっている奨学金の減免などを、公約とするサンダース候補が、これに反対するトランプ大統領から「社会主義」と呼ばれるのです。しかし、それでは現在の日本の健康保険制度や大学無償化への流れが、社会主義であることになってしまいます。
ここで、分配的正義による市民相互の平等に一層価値を置く立場と、自由競争に基づく社会全体の富の蓄積に重きを置く立場とは、今でも有効な対立軸です。日本の野党のいう格差是正と平等の実現か自民党の自由競争を重視する政策かという対立によく即しています。もっとも、現実の政策は、いずれの方向性も絶対ではなく、その対立軸の中のどの辺りに線を引くかという、相対的なものです。そして、どちらかというと社会の底辺にある生活困窮者の救済に力点を置くのが、野党であるとは言えるでしょう。日本の与野党の政策対立は、アメリカの保守とリベラルの相違ほど歴然としてはいませんが、確かに、これに対応するようです。
また、個人の尊重と自由主義と、国家公共の利益とのいずれを優先するかの対立もあります。もっとも、これもいずれも絶対の価値ではなく、個々の問題ごとに、その価値対立の座標軸上に均衡点を穿つ必要があるので、その均衡点を幾分右にずらすか、左にずらすかの相違でしかありません。憲法自体に、個人の人権保障と公共の福祉との対立と調和が公理として組み込まれています。個人の国家からの自由を重視し、国家が介入することを嫌う傾向と、むしろ国家公共の価値を重視する傾向の対立であり、前者は、一層、多様性と自己決定の尊重に結びつきます。前者がリベラルであり、後者が保守であると、一般的には言えるでしょう。
全共闘対三島由紀夫の時代の、左右の対立など、それ自体はもう影も形もありません。そのような過去の亡霊のような価値体系と結びつく左や右という言い方は、誤解の元となり、今や全く不要です。何故か、日本の各野党がリベラルを名乗りたがりません。リベラルの名を捨てたような感さえあります。しかし、保守と対立する軸としての、政治思想を上手く名付けてもらわなければなりません。保守が従来からそう変わらないものであり得るとすれば、「伝統ある」リベラルの名を生かしてもらった方が分かり易いです。しかし、これを誰もが分かる様に再定義する必要があるでしょう。
もっとも、保守主義にも、次の様な用法があることに注意しなければなりません。第二次世界大戦前の戦間期の各国において、上述の意味における左右の対立が激化しました。ことにドイツは多額の戦争賠償に喘いでいた時期があり、また大恐慌後の不況をなかなか乗り切れないなか、生活に窮した市民が、革命思想に導かれた全体主義としての左右の両極端の政治的主張のいずれかを支持したのです。その結果、ドイツ国民は、ナチスの台頭を許し、未曾有の惨禍をもたらした世界大戦とホロコーストを招きました。この戦間期において、保守主義の次の効用が説かれたのです。
革新的思想に対して、保守主義が漸進主義によることで、社会の振り子を極限まで振り上げることなく、中庸を行くことによりその振り幅を適正に制御できるとします。
私は、社会の中の限られた知識人に社会運営を任せておけば上手く行くというエリート主義が行き過ぎることを好みません。良き大衆主義(ポピュリズム)は、一部の者が大衆を扇動するということではなく、適切な情報提供と徹底的な議論により、大衆の賢慮を引き出すことであると考えます。その上で、その結論に従うという姿勢です。少数者・弱者の保護は、現行憲法の重要な原則であり、大衆の賢慮の一部であり得ます。
現代の学生が、政治に無関心であるという主張は私の学生の頃より多数説でした。しかし、集団的自衛権をめぐる学生団体「SEALDs」の活動は比較的最近のことです。この活動が、上述のような学生運動とは全く異なる新しい若者の政治参加の方法でした。合法的なデモと、報道機関への明確な自己主張、意見の一致する政治家との協調行動です。マスコミや政治家をも巻き込んだ非暴力主義的なものです。ヘルメットに角棒ではなく、カッコ良い黒シャツをユニフォームとして、ラップを用いた分かり易い政治的宣伝など、斬新なスタイルも際立ちました。
憲法を守るために、集団的自衛権へ向かう法改正を阻止しようとして、選挙での多数を獲得するという一個の政治目的のためにのみ、それが組織され、目的達成か否かに関わらず、選挙後、間も無く解散したのです。私自身は、この問題も大衆の賢慮に委ねるべきであると考えます。具体的には、憲法改正国民投票によるということです。しかし、若者の政治活動のあり方として、ブレークスルーとなったことは間違いなさそうです。
最初に掲げた映画を是非観てみようと思っています。
パラサイトと移民の受入れ ― 2020年02月18日 19:39
先日、微熱が数日続き、高熱のときのようなひどい倦だるさを感じました。初めて経験する症状なので、近くの医院に行ったのですが、インフルエンザのA型でもB型でもないという検査結果でした。風邪薬を飲んで、直りました。
たまに行く大阪梅田や道後の町は、有数の観光地なので、道行く人の中国語をよく聞きます。先日の風邪が、コロナであったら良いな(*⌒▽⌒*) 免疫があるので、心配いらないことになりますよね。
1,日本の出生率向上のためには、価値観の大転換が必要
少子高齢化が社会保障の財源不足の原因となり、潜在成長率の低迷にも繋がる恐れがあります。日本経済の中心的な構造問題が人口減少・高齢化であるとされます。(翁邦雄・法政大学客員教授(経済教室)「移民問題を考える(中)-包摂体制の整備が急務」2020年2月17日・日経電子版)
人手不足と人口減を放置したまま、日本の、社会的、経済的収縮を容認するという考え方も有り得ます。少なくとも江戸時代の日本ぐらいまで人口や経済規模が小さくなれば、その辺りで均衡点が訪れて、人口減少にも何とか歯止めがかかって落ち着くだろうという楽観論です。それはそれで構わないという選択を積極的に行うという立場です。習慣や価値観が同一で、他人が何を考えているか誰でも大体想像がつくという、これまでの日本のような住みやすい社会にわれわれ日本人が住み続けられることこそ重要であるというように、発想の転換をするのです。
あるいはAIとロボット技術の革新により、人口減少を補い、生産性の逓減を抑制できるという考え方もあります。この観点も重要であり、不可欠です。人手不足によって現在正に直面している困難を乗り切る窮余の一策でもあります。無人コンビニや、自動運転乗用車の試験走行を行うスマートシティーの実験など、確かに、AIとロボット技術の急速な発展が日本の社会の構造転換を進めているようにも見えます。しかし、これでは、仮に経済規模の収縮がある程度、止まったとしても、特殊出生率が2.0を下回る限り、人口の自然減は免れません。これを回復する手立てが出生率の減少に追いついていないのです。
定年延長等による高齢者の活用や、女性の社会進出の促進は、日本の労働力不足を補っています。女性が働きながら子育てをする環境を整備するために、配偶者双方が子供の養育に参加すること、育休を採ることが推奨され、保育園が増設されています。女性は「家」を守り、家事と子育てに専念すれば足りるとする、古い価値観に戻ることが許されません。むしろ、かつては男性の労働現場であったところに女性が働くようになり、政治家や管理職などの女性比率の向上が叫ばれています。国際社会からの批判に答えるためでも、単に憲法に書いてあるからではありません。人の個性や人格の相違もありますが、一個一個の生命への優しいまなざしや、寛容の精神が、女性一般には、男性よりも一層感じられます。人口の半分を占める女性の感性や考え方が社会制度や社会的価値観にもっと直接的に反映される必要があるためです。そうすれば日本の社会は随分違ったものとなるでしょう。
職場に赤ちゃんを連れてくることは今でもタブーでしょうか。女性がそう主張すると白眼視され、「どうせ女なんて、男の仕事を理解しない」、「生半可な心根で仕事をしやがって」と罵詈雑言を浴びせられることも有り得るでしょう。女性が働くことへの理解は漸くあっても、外の仕事と家の内の仕事を厳密に区別する発想が未だに存在するようです。そして、家の内のことは女性の仕事であるとするのです。家の外と内の仕事を、男も女も、当たり前のように両立させる工夫が求められるようです。
子供の居る家族の意味を見直すことも必要かもしれません。生き難いかもしれない人間社会の中で、二人の人間が寄り添い、子供のいる家庭が、人の一生の中で重要な場所と時間を提供するものとしての価値観が若い人達の中にあるでしょうか。夫と妻が家を作り、あるいは名前を継ぐべきであるという社会規範や制度があるからそうするのではなく、家庭があれば、世の中をたった一人で生き抜くよりも一層、喜びや、温もりを与えてくれるからこそ、男も女も家庭を持つのです。仕事や遊び以上のものがあり、家庭という重要な存在を維持するための時間や労力を惜しまない。男性が家事従業員としての女性を養うのではなく、同等のパートナーとして婚姻という契約を結ぶのです。
もっとも、若者の生活に対する何らかの経済的支援も必要です。貧乏子だくさんを応援できる、社会保障制度でなければならないでしょう。
保育所の建設のような物理的整備と、育休のような法制度の調整も進めて、更に、新しい家族の形や婚姻観の創造に向けて、価値観の大転換なり醸成が可能であるとしても、まだまだ相当の時間を要するでしょう。そうだとすれば、出生率の向上は直ちには見込まれません。
2,移民政策
現在の日本の社会的な構造転換のために、出生率向上のための施策を着実に実行して行くとともに、同時に外国人労働者の活用が必須となっています。
先日、韓国映画「パラサイト」がアメリカのアカデミー作品賞を受賞しました。英語以外の言語による映画が受賞したのはアカデミー史上初めてです。BTS(防弾少年団)がアメリカのビルボード200で1位を獲得するなど、英米のヒットチャートを賑わす常連となっています。韓国は、わが国以上の少子高齢化による人口減少社会です。ある報道によると、韓国国内に滞在する外国人は252万人を超え、2019年12月末現在、総人口の4.9%に当たるそうです。その割合が年々増加しています。(ソウル聯合ニュース) 総人口の5%が外国人であるとすると、その国に暮らす20人に一人が外国人であることになります。
以前の韓国が日本文化を拒みつつ、他方で、ある種憧憬の念を抱いていた時代があったことを知らない若者達が増えています。韓国の歌謡や映画が、アジア圏でも、日本のそれよりもよく流行し、良い興行成績を上げているようです。韓国で、外国人移民の受入が、韓国の伝統文化を壊すので、抑制すべきであるという議論があるのか、筆者はよく知りません。
一方、厚労省によると、わが国の2019年10月末時点の外国人労働者が前年同期比13.6%増の165万8804人でした。他方で、日本人の「国内出生数は86万4千人であり、前年比5.92%減と急減し、1899年の統計開始以来初めて90万人を下回わり、出生数が死亡数を下回る人口の「自然減」も初めて50万人を超えました。(日本経済新聞2019年12月25日朝刊)少子化・人口減が加速しています。法務省の出入国管理(白書)によると、2018年末現在における在留外国人数の割合は、総人口1億2,644万人(2018年10月1日現在)に対し2.16%です。
中長期間、わが国に居住する外国人を、政府は移民と呼びません。外国人材の活用と言っています。単純労働を含めて、受入国において就ける職業の制限のない、いわゆる移民と異なり、詳細な在留資格毎の就労制限と在留期間の定めのあるのがわが国の入国管理制度です。しかし、単純労働への就労を予定する資格以外については、在留期間は更新が可能であり、永住申請や帰化も有り得ます。ここでは、永住者および更新可能で永住資格への転換も可能であるか、相当長期の在留も可能な資格の保有者を「移民」としておきます。
上記の解説記事(「経済教室」)でも述べられているように、移民を受け入れることの「社会的影響と経済的影響(企業へのメリットだけでなく国内労働者への跳ね返りなどもある)を総合的に比較するのは」容易ではありません。メリットのみではなくデメリットもあります。
経済学ないし統計学的な社会経済的数値の比較は、そのような議論が必要ではあっても、それだけで決定的な判断が下せるということにはなりません。結果に有利にも不利にも説明が可能だからです。ここでは、ほぼほぼ単一民族である(であった)わが国社会が異なる文化的背景を有する他民族・人種を受け入れることへの、一般的な危惧について考えます。ヨーロッパ諸国やアメリカのように社会が分断され、犯罪率が増加するという社会的な懸念です。
まず、現状を確認しておきましょう。既に、単純労働を含めて就ける職種の限定のない長期生活者としての外国人移民が多数存在します。法務省白書によると、2018年度において、永住者771,568人、日本人の配偶者142,381人、永住者の配偶者37,998人、定住者192,014人(日系人)、特別永住者321,416人です。
次に、わが国の法制上、外国人移民の中で、単純労働者と高度な知識経験の必要な業務に従事する者の区別が重要です。厳密な法令上の定義ではなく、便宜的に後者を高度人材と呼ぶことにします。
単純労働については、基本的に、その外国人の一生に一度きり、一定期間の居住の後に必ず帰国させることを前提とした受入れを行っています。一定期間わが国で働いた後、別の外国人がやってくるので、出稼ぎローテーション方式と言って良いでしょう。技能実習制度がこれです。しかし、一部業種については特定技能という資格を新設し、わが国において更に長期間、働くことができるようにしました。特定技能については、極めて限定的ですが、一定の業種について更新可能とし、家族の呼び寄せも可能としたので、出稼ぎローテンション方式が部分的に崩れています。単純労働の担い手としては、留学生も重要ですが、彼らはその後、高度人材になり、わが国に居住することも期待されています。
わが国で暮らす外国人である166万人の内、残りが更新可能であり、永住資格に転換することもできる、高度人材としての在留資格を有することになります。しかも、高度人材については、もう相当以前から、わが国は積極的な受入政策に転じているのです。従って、政府の言う移民政策は取らないというのは、字義通りに受け取らない方が良いでしょう。就労制限のない長期滞在者を含めて、それだけの数の外国人移民の受入政策を既にわが国が取っているのです。
ちなみに、技能実習および特定技能として、介護分野が含まれています。これは出稼ぎローテーション方式によるものです。日本における介護職の恒常的人出不足が、今後さらに悪化していくことが予想されています。そのため、別途、更新可能な介護という在留資格が創設されました。留学の資格で日本の介護職養成学校で学び、卒業後に介護福祉士の資格を取得すると、更新可能で家族帯同の出来る在留資格を得るのです。
社会的分断や犯罪の増加という社会的懸念の問題に戻ります。
まず、犯罪の増加ですが、同じ生活水準である層を比べると、日本に暮らす日本人と外国人の間で犯罪率の顕著な相違が存在しないという統計があります。従って、外国人の受入によって犯罪が増加するとすれば、日本人よりも貧困層が多いからということになります。貧困が犯罪を引き起こす原因となるのは日本人も外国人も変わりがありません。そこで、社会的分断の問題です。
仮に、移民割合が10%になったからといって、実際に日本文化が崩壊の危機に瀕するということがあるでしょうか。日本は、古来より中国や朝鮮半島からの帰化人を活用し、その固有の文化発展の基礎を築いてきたという伝統を有する国です。多様な文化や価値を融合して、独自性のある文化を創造することが日本のお家芸であるとも言えるでしょう。芥川龍之介ではありませんが、何物もその中に溶かし入れてしまう触媒としての日本文化が、多様な異文化を受け入れることで、全ての伝統を失い、全く外国のそれに転換してしまうことなど考えられません。むしろ世界に発信できる新たな価値を生み出すことをこそ期待できるでしょう。
重要なのは、社会的分断の苦悩を経験したヨーロッパ諸国に学ぶことです。単純労働について、出稼ぎローテーション方式で大量の外国人を受け入れたとして、その人達はいずれ「帰る」人達です。日本の社会の構成員として、文化的同化を受け入れながら、その社会の発展を真剣に考えることがあり得ないでしょう。そのような人達が日本社会の相当部分を占めることは大変危険なことです。日本の法制度では、最長8年から10年を、家族の帯同を許されず、単身、つらい労働に従事しながら生活し、やがて帰国するのです。
単純労働についても、更新可能な特定技能のような資格に比較的短期間で転換可能とし、永住に道を開くことと、同化政策を実施することが重要です。同化強制に陥らない、同化のための適切な施策を遂行する必要があります。移民社会が社会的に閉じられた、隔離された集団とならないために、子弟の教育と機会均等の保障を行うことが大切です。その出自の故に、決して抜け出すことの出来ないような差別対象とされない工夫です。日本には、かつてニューヨークにあったハーレムを作りだしてはいけないのです。移民1世に対しては、日本語と日本の習慣の研修と共に、民主主義の教育が必要となるでしょう。日本人には当たり前のことが、その人達には当然とは言えないかもしれません。
以上は、現在、就労制限のない長期在留者についても同様です。
社会的分断を、取り巻く日本人社会が、分断を恐れる余りに誘発することになりかねません。異なる文化を有する、価値観の異なり得る移民を、そのようなものとして真正面から受入れ、その価値観を否定するのではなく、日本の社会に同化することを可能とする寛容を、日本人社会が持つ必要があるでしょう。
日本の国籍法は、先進国の中で、帰化が相当難しい方に属します。以前のブログで触れたように帰化を容易にすること、そうして日本人となることを促進することも、移民の同化政策の一環です。共により良い社会を構築する構成員となることがその目的です。
女系天皇を容認すれば、天皇制が崩壊する? ― 2019年12月22日 20:03
昨年より、学会報告や論文執筆に忙しく、ブログ更新が遅れがちになっています。現在、なんとか不定期に更新しています。更新時に、閲覧数の順位が大きく変動するので、まだ読んで下さる皆さんが居られるのだと理解しています。更新をみつけられたら、お読み頂けると嬉しいです。何とか、月に一度ぐらいは更新していこうと思っています。
1週間ぐらい前に、幻冬者ルネッサンス・アカデミーの連載原稿を、発行元に送りました。その内に掲載されると思います。日韓請求権協定と輸出管理、戦後補償をめぐる解説をしています。専門的な小論と一般的読み物の中間ぐらいなもので、このブログよりは若干難解かもしれません。出来るだけ平易であることを心がけています。興味があれば、ご覧ください。サイドのリンクから行けます。
女系天皇を容認すれば、天皇制が崩壊する?
菅官房長官が安定的な皇位継承のあり方を研究するべき時期にあると発言し、政府部内において、女性宮家や女系天皇などの容認論があると報道されました。このころ、自民党幹部である二階俊博幹事長や甘利明税制調査会長が女系天皇容認を示唆する発言を行ったことが、物議を醸しました。2019年11月のことです。万世一系という言葉をご存知でしょうか? 神武天皇から今上天皇(令和天皇)に至る126代にわたる天皇の系図が、「父系をたどれば神武天皇へつながる1本の線で示される」ということです(「危うい自民幹部の「女系」容認論 先人たちの知恵に学べ」- 産経ニュース(社会部編集委員である川瀬弘至氏の署名記事))。
ここで女性天皇と女系天皇の区別が必要です。女系天皇とは、母親のみが天皇家の血筋である天皇を指し、男性であっても女系天皇となります。父親が天皇家の血筋である限り、女性天皇であっても父系天皇となります。日本の歴史上、父系女性天皇は実際に存在します。そして、女系天皇の否認論者は、父を辿れば神武天皇に繋がるという皇統こそが正統性の証であるとします。これこそが世界に類を見ない日本の伝統であり、日本の国民がその子孫のためにも未来永劫死守するべきであるというのです。民間人と結婚した女性天皇の子供は、男子であっても天皇とはなり得ません。
現在の皇室典範上女性天皇も認められていません。従って、父系を維持するためには、皇后陛下や皇太子妃など男性皇族と結婚した女性達が、どうしても男子をもうける必要に迫られます。今の天皇陛下には雅子妃殿下との間に女性である愛子様しか子供がおられません。今上天皇が皇太子であった当時の総理大臣であった小泉純一郎氏が女性の皇位継承を検討すると決定したのですが、秋篠宮殿下に男子が誕生したので、結局これも見送られました。ことに保守系を中心として大きな議論を巻き起こすことが必定であるため、問題を先送りしたのです。
父系擁護論者は、江戸時代の史実を例にして、次のように言います。徳川家の和子中宮を天皇家に嫁がせ、その子供である女性が明正天皇となったのですが、この天皇が徳川家の血筋のものと結婚し、その子が即位するなら、徳川家直系の天皇となったはずだというのです。そのような天皇は正統性を害する存在となる。女系天皇が認められなかったので、このときも皇統の正統が守られたとします。先の記事によると、徳川家としては、明正天皇が女性であったので、その即位を喜ばなかったと言います。徳川家の血筋が代々の天皇に受け継がれることがなく、徳川家の血統としては途切れてしまうからです。
この論者も認めるように、中世における藤原家など、女子を天皇家に嫁がせてその子を即位させる外戚政治が横行したことがあります。日本を支配する権威の象徴である天皇の外戚となることにより、政治の実権を確実にすることが目的です。男子である限り、その子や孫が天皇となるのです。このような天皇の政治利用は、日本史上よく知られたことであり、世界にも珍しいことでしょう。武家の支配する鎌倉、室町、戦国時代へと進むにつれ、天皇家の政治的実権が無くなって久しくなっても、その権威は温存され、経済的に困窮した天皇家が、その権威を利用しようとする武家の庇護を受けていたのです。このことは、明治維新において、薩長が錦の御旗を利用したときに再現されました。昭和天皇が第二次世界大戦のとき、軍部に政治利用されたというのが東京裁判の背景にあった理解でしょう。そして終戦後の混乱を抑制するために、今度は米国によって政治利用されたのです。
明生天皇の史実を現代の政治に置き換えるとしたら、安倍晋三総理が天皇家にその子女を嫁がせて、子供が男子であればその子を天皇に即位させ、その間の子が女子であれば安倍総理の血筋に繋がる男子と結婚させることを目論むということになります。安倍家直系の天皇の誕生です。女系天皇を容認したからとしても、果たしてこのことが現在の日本において現実に起こると言うのでしょうか。安倍総理がこのことを望むでしょうか。
大日本帝国憲法
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三條
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
日本国憲法
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
言うまでもなく、大日本帝国憲法と異なり、日本国憲法において、天皇は国民統合の象徴であり、主権者は国民です。そして、政府は国民の民主的選挙によってのみ正統性を付与され、天皇の権威を全く必要としません。政治の実権が法的に世襲されることも有り得ないのです。天皇は政治に関与することを禁じられ、厳密に憲法に定める国事行為のみを行います。天皇の政治利用がいかなる意味においてもなされ得ないためです。
万世一系を宮内庁の系図により確認することができるとしても、神武天皇や最初期の天皇が神話上の存在であるとされ、実在を疑われているのが歴史学の常識です。神武天皇に遡ることはむしろ宗教的ですらあります。子供は、父母の遺伝子を受け継ぎます。その際、父母の遺伝子の二分の一ずつが配分されることは遺伝学という科学により証明されています。すると、仮に神武天皇に遡るとしても、その遺伝子は、今上天皇の子供に対しては、二分の一の126乗が継承されているに過ぎないこととなります。
皇統に対して、男女のいずれかの血筋のみが「正しい」とすることが、現在のわが国の社会的常識に適うと言うべきでしょうか。私は、天皇制の廃止論者ではありません。日本の伝統文化の継承者として重要な意義を担い続けていると考えています。そして、先日の、天皇即位の儀式にしても、広く諸外国に紹介され、日本文化の良い伝統が世界に喧伝されたことでしょう。世界最古の国王として、文化交流における日本の外交使節としてこの上もない存在です。そして何より、国民統合の象徴として、憲法によって天皇に与えられたその地位なのです。国歌、国旗が、スポーツの世界大会では、国民の高揚感と一体感を演出してくれます。国歌を歌いながら涙する選手の姿に多くの人びとが感動します。同様の意味において、国民にとって、愛される存在となるべきです。
少し注記しておきますと、私が国民というとき、それは日本民族を意味しません。人種や民族を問わず、この国の国籍を有する人のことです。更に、この国に住む全ての人々を包括するべき新たな概念も必要だと考えています。そのような日本の全ての市民を統合する象徴たるべきでしょう。アメリカであれば、市民統合の象徴は、国歌、国旗であり、アメリカ建国の礎となった憲法、そして大統領がこれに相当すると言えるかもしれません。もっとも、天皇が大統領のような政治的権力を有する存在となるとことを望むものでは毛頭ありません。「象徴」としての機能のみが切り離された存在です。先進諸国に残る国王がやはり政治的権力と切り離された権威的存在であるとしても、天皇の象徴たる地位の歴史的伝統は日本固有のものでしょう。
女系天皇排斥論は、男系血統が絶えた場合にどうするかの現実論を無視するものです。むしろ、将来的な天皇の不在を来す恐れすらあります。
テニスボールとラグビーボール ー 国籍について ― 2019年10月21日 21:10
テニスの大坂なおみ選手の誕生日が10月16日だったそうです。同選手が、日米両国の国籍を有する二重国籍者であることをご存じの皆さんも多いでしょう。父がハイチ出身者で、母が日本人である同選手はアメリカに住んでいます。先日、大坂選手が日本国籍選択の手続きを開始したという報道がありました。22歳になる直前のタイミングです。
私は内心ほっとしました。二重国籍であっても、一方が日本国籍であれば良いようにも思えますが、日本の国籍法によって、22歳までに国籍選択宣言を行わないと日本国籍を失うからです。大坂選手が来年の東京オリンピックに日本代表として出場するためには、日本国籍が必要です。もし、ここで国選択宣言を行わないと、東京オリンピックに、大坂選手がアメリカ代表として出場したかもしれません。
ほっとすると同時に少し後ろめたい気持ちにも駆られました。なぜなら、国籍法上、日本の国籍を選択すると、もう一つの国籍を放棄する必要があるからです。大坂選手は、アメリカ国籍法の手続きに従って、アメリカ国籍を放棄する必要があります。しかし、アメリカ在住の同選手が、アメリカ国籍を放棄した途端、住んでいる国で外国人になってしまいます。今までは、アメリカ人であったのに!アメリカからの出入国の際に、手続きが煩雑にならないと良いのですが。国籍を失うと、そのほかにも色々面倒があります。日本に住む外国人であれば、国政はおろか地方の選挙権も無くなります。
国籍取得について、日本は父母両系血統主義によります。父か母が日本人であれば、その子供は生まれた時に、日本の国籍を取得するのです。他方、アメリカなどの移民国家は生地主義をとる場合が多いです。その子がアメリカで生まれた場合、アメリカ国籍も取得します。そこで、その子は二重国籍となります。このように、ある国の国籍を有するか否かは、その国の国籍法が決定するので、二重国籍が必然的に発生します。
しかし、日本の国籍法は、国籍唯一主義を前提とします。二重国籍の発生を抑制しようというのです。日本人の子供が外国で誕生した場合、日本に出生届を出すときに、国籍留保の届けをしなければなりません。とても簡単にできますが、これをしないとその子は日本国籍を失います。外国で生まれた子供については、日本との関係が薄い場合があるので、その親に日本国籍取得の意思があるかを確認するのです。その上で、その子が22歳になるまでに、上述の国籍選択宣言を行わないといけません。日本国籍を付与する場合を、その人と日本との密接な関係のある場合に限定するためです。しかし、他方で、国籍唯一の原則から、二重国籍者が日本国籍を保持するために、他方の国籍を放棄する義務を規定しています。
これは、外国人が帰化する場合も同様です。日本国籍を取得するときに、元の外国国籍を放棄する必要があります。もっとも、その外国が国籍放棄を容易には認めてくれない場合もあるので、帰化が難しい理由の一つになり得ます。在日外国人の子供が日本に生まれたとき、親の国籍を承継しているとすると、そのまま外国人として日本で暮らしてゆくことになります。もし、この人が日本に帰化しようとすると、親の国籍を放棄しなければなりません。
国籍というのは、どのような意味を持つのでしょう? この国に住む大多数の人は、日本に生まれた日本人です。国籍なんか、生まれたときにあるので、水か、空気のような存在でしょう。外国に行くときに、日本のパスポートを作り、その国のビザを申請するので、ようやく日本の国籍を意識できるかもしれません。しかし、移民にとっては、とても重要な問題です。
国籍は、多くの人にとって、アイデンティティーの中心です。移民にとって、元々、生まれ育った国の国籍であったり、親から受け継いだ国籍であったりします。他方、今、住んでいる国はその人にとってどのような存在でしょうか。仕事があり、生活の中心である国です。友人、知人に囲まれている。二世以降であれば、生まれ育った国であり、その国で教育を受け、その国の文化や風習に馴染み、心からその国を愛して止まない。日本人がその出身地を想うように、まさに生まれた地域こそ故郷なのです。ある人にとっては、そんな国なのかもしれません。
もっとも、移民集団が、その社会の中で囲い込まれてしまっていて、差別の対象である場合もあります。その移民集団は、むしろその社会の中にあって、隔絶された小社会を形成し、もと居た国の文化や伝統を頑に守り、子孫にもその誇りを伝えようとするかもしれません。今生きている国から、真の意味での同化を拒まれ、逆に、今生きている国に対して同化を拒絶する声にならない叫び声を発しているのです。
昨年、テレビ・ドラマ化された山崎豊子の『二つの祖国』という小説があります。明治期以来、多くの日本人が海外に移住しました。貧しかった時代の日本は移民送り出し国でした。この小説は、アメリカに移住した日系二世の第二次世界大戦時における苦悩を描いたものです。アメリカに住む日本人がひどい差別を受けながら、日本人としての民族の誇りを失わず、しかし、同時に生まれたときからアメリカ人なのです。そのアイデンティティーの揺らぎがこの小説の重要なテーマです。
国籍選択の話に戻ります。二重国籍を有する人にとって、一方が、生活の中心の国であり、他方が、アイデンティティーにより重要な国であるかもしれません。また、双方の国が同じように重要である場合もあるでしょう。このとき、国籍選択制度は、生まれ育った国と親の国との間での選択を迫るものとなります。
ある学生は、ブラジルから来た移民一家の子弟でした。ブラジルは生地主義の国なので、ブラジル生まれで、日本人の親を持つその学生は二重国籍者でした。大学生にとって、22歳というのはもう目前です。大学を卒業し、永住しようと決心しているのです。民族的には日本人です。日本国籍を選択して、ブラジル国籍を放棄すれば良いじゃない?と、簡単に考えてしまうかもしれません。しかし、その学生にとって、ブラジルは生まれた国であり、ブラジルの文化や風習にも、子供の頃から慣れ親しんでいるし、何より、その国は大好きなお婆さんの国なのです。日系人も、もう三世、四世にもなれば、その国に同化している場合が多いでしょう。日系ブラジル人の場合、日本の文化にも親しんでいるし、日本語も堪能である場合があります。これから生きていく国と、お婆さんの国の、どちらかをどうしても選ばないといけない。ブラジルの国籍を捨てるとすると、お婆さんを悲しませてしまう。
生活の中心である実効性のある日本の国籍と、ある種の郷愁とアイデンティティーの源の一つであるもう一方の国籍を、同時に保有することを許容することがなぜできないのでしょう。国籍唯一の原則にも理由があります。政治的には、二つの国に結びつくことが問題視されるでしょう。しかし、私的な生活においては、二つの国籍を持つことが、むしろその人の利益になることが多いのです。
帰化の場合を含めて二重国籍を許容するべきであるというのが私の持論です。そうして、国籍をめぐるアイデンティティーの悩みを無くし、日本国籍の取得を促すべきであると考えています。二重国籍の許容が世界の潮流になっています。ヨーロッパでは多くの国の加入する条約があり、二重国籍者が双方の国籍を保持する権利を保障しています。もっとも、二重国籍者に対して、ある種の公民権の制限はやむを得ないかもしれません。確かに、国会議員になる被選挙権を認めることには抵抗があります。しかし、自分達の生活やその国の将来を決めるために、代議士を選ぶ選挙権を保有することが、その国に受け入れられたというアイデンティティーの形成に役立ち、真の意味での同化に通じるでしょう。
技能実習や特定技能という資格で外国人の出稼ぎ労働者を多く受け入れる政策に日本が転換しました。少子高齢化が進行してやむを得ず、単純労働についても、外国人を受け入れることにしたのです。しかし、高度人材外国人については、容易に永住権が認めらるとするなど、相当以前より、日本は移民受け入れ政策に転換していたのです。熟練した技能を有する単純労働者を含めて、労働力が不足している分野において、生活力のある、日本で活躍してくれる良い外国人を、より一層受け入れるべきであるとすれば、同化政策を失敗する訳にはいきません。同化を強制するのではなく、心から、日本人として、日本のために貢献してくれる人たちとなってくれるように。
ところで、ラグビー・ワールドカップでは、日本代表の快進撃が日本中に勇気を与えてくれました。南アフリカと対戦したとき、涙を流して君が代を歌う流選手と肩を組んでいる選手たちの中に、多くの外国人選手がいました。その国の代表が、国籍ではなく、住んでいる国を基準にして選考されるのです。
年金と少子高齢化-金融庁報告書は正しい ― 2019年06月25日 15:17
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いよいよ暑くなってきました。こちらの地方はまだ梅雨入りしていません。
国連によると、日本の人口が2058年に1億人を下回り、2100年には7500万人になるとしています。。良く耳にしますが、世界の国々の中で、少子高齢化が際立っている国なのです。65歳以上1人あたりの25~64歳の「現役世代」は、現在1・8人で50年には1・1人に減るというのです。現役世代一人が、その稼ぎで、おおよそ一人のお年寄りを支えることになるということです。ただし、国の人口推計は、より一層人口減少が進むとしていて2100年が6千万人としているので、もっと深刻です。(朝日新聞デジタル6月18日の記事より)
国会における先日の党首討論は、金融庁の報告書が一つの中心的争点となっていました。マスコミにしても、年金100年安心が神話だったとする論調が多かったようです。老後、年金だけでは暮らしてゆけず、亡くなるまでに、夫婦二人の世帯で2000万円不足するというものでした。しかし、これが報告書の前文のような部分に記載された、いわば枕詞のようなものであり、その全体の趣旨は、ことに若い世代が、老後の生活を考えて早くから準備するべきであると、国民を啓蒙するものであったようです。
年金制度の「安心」を巡る議論のために、二つの視点が重要だと考えます。一つは、高度経済成長期と現在の日本の社会や経済の在り方が異なるという点であり、他の一つは、人それぞれの条件の相違を踏まえた人生設計は自己決定の産物であるという点です。在り来たりではあっても、この間の与野党の議論や情報番組を見聞きしていると、もう一度確認しておく必要があるように思えます。
先に、後者について、簡単に言及しておきます。現役世代の収入に即して、年金資金としての払込額が異なり、これに応じて年金額が人それぞれに異なるのです。金融庁の問題視された報告書が、平均なり、標準なりを示すとしても、万人に適したものでないことは当然でしょう。年金額がもっと少ない人たちも多いのです。現役時代の生活水準を目途に、どの程度これを維持できるか、あるいは切り詰めるべきかは、各世帯ごとに違います。将来の年金額の予測に基づき、自ら準備するべき額も、その家庭毎に計算せざるを得ず、しかも、いくらを将来の貯蓄に回し、あるいは現在の生活を楽しみながら、老後はむしろ切り詰めるなど、一に掛かって各個人の自己決定に委ねられている問題であるはずです。
そこで、一つ目の問題です。
一昔前には、60歳で定年を迎え退職金をもらえば、相当の年金を得ることができました。ある程度の生活を維持しながら、70歳から80歳ぐらいの平均寿命に到達して死ぬまで、安楽に暮らしていけると、一般的には考えられたのかもしれません。これから年金をもらい老後を迎えようとする世代は、親や祖父母の世代が悠々自適に生活している様子が原体験としてあるので、年金とはそうあるべきものであると思い込んでいるのでしょう。しかし、少子高齢化の進展による本格的な人口減少社会となることを「国難」とまで言って、政府が喧伝しているのです。
現在の60歳は、親の世代ほどの年金額を期待できません。老後を支えてくれる現役世代の人口が減ったのだから。しかも、平均寿命は年々昂進しつつあり、今60歳の人が10年後、70歳になったとき一体、平均寿命が何歳になっていることやら。再生医療の進歩、遺伝子解析による先進医療の開発など、その10年の医学の発展を考えると、全く予測もできないように思えます。更に、その先の10年後はどうなるのでしょう。まさに人生100年時代の到来です。少子化と高齢化のダブルパンチです。親の世代に影響されて、のほほんと生きてきた者にとって、この現実は余りに残酷です。住宅ローンに、教育ローン、それでも生活を切り詰めて、無いに等しい利息でも、何とか貯蓄してきたのにと、嘆いていても始まりません。退職金でローンの返済を終えて、幾ばくかの貯蓄が残されるとしても、2000万円には足りないという人も多いのではないでしょうか。政府は70歳まで働けという。私個人は大歓迎です。一刻も早く、全ての国民が、働きたいなら、少なくとも70歳までは働ける環境を整えて貰わなければなりません。
日本人は貯蓄好きであるのに対して、アメリカ人は消費性向が強く、貯蓄より投資を好むと良く言われます。アメリカの年金基金は株式等による資金運用を行っています。日本の公的な年金基金は、貯蓄に相当するような安全な運用のみを行っていたのを、一部改めています。また、個人型確定拠出年金(iDeCo)という制度が創設されましたね。個人でも、将来の年金のために資金を積み立てて、運用会社と運用方法を選択できるというものです。個人の資産が投資に向かうために、NISAのような税制上の優遇措置を用意しています。私は、FPではありませんし、素人の立場でこのような資産運用をお勧めしようとしているのではありません。ここで言いたいことは、年金の不足を補うためには貯蓄では足りず、投資による運用も必要であるとする、警告めいた情報提供が、ようやく今、国民に提示されたということです。ああ、もっと早く気づけばよかった。無知な自分を恥じよということでしょうか。少なくとも、若い世代が、老後を含めたより良い青写真を描くことができるようにすることは、政治の責任でしょう。
この意味で、政府は先の報告書を引っ込めるべきではなかったのではないでしょうか。
「ゆり籠から墓場まで」の社会保障制度は高度経済成長期に、自民党が主導し、55年体制の下、野党も共同して作り出したものです。アメリカのような自由競争を信奉する国からは、日本がまるで社会主義国家に見えるでしょう。その大前提となっていた日本の社会・経済が根本的に異なるものになったのです。国家財政が累積赤字により破綻の危機にあり、このままでは年金制度が瓦解する恐れがあるとして、早くから警鐘を鳴らしたのは、ほかならぬ日本の政府です。そのときから年金不安が社会不安を惹起したようです。国民は冬眠前のクマのように、働いて得られた給料を消費に回さず、一層、貯蓄に走りました。これが個人消費の回復を遅らせ、不況を招いた要因の一つでもあるように思えてなりません。年金不安が払しょくされるまで、大多数の国民にとって、個人消費の本格的回復は見込めないのではないのでしょうか。
高度経済成長期の成功体験が社会の固定観念となってしまっていた日本において、この固定観念を打破するべく、新たな社会経済の情勢を前提にした年金制度の見通しを、真っ正直に晒す必要があります。どうすればどの程度の年金制度を維持できるかという確実な予測を示すことができれば、国民の疑念を払しょくすることに通じるでしょう。これこそが経済対策ではありませんか。どうしても生じる年金の不足には自助努力により備えるしか方法がないのです。しかし、どの程度備えれば足りるかの、明確な指針が必要です。
例えば、こうです。行政改革による財政支出の1%減と消費税の引き上げ1%を、何年間にわたり継続すれば、最終的に、消費税が何%となり、財政赤字が解消され、どの程度の年金給付額を維持できるかを、政府が宣言するのです。1%という数字は必ずしも根拠があるわけではありませんが、そのような明確性と、実行の確実性が必要です。もとより現在実施されつつある少子高齢化対策としての諸政策を、不断に遂行することが肝要です。女性の社会進出の促進、高齢者の労働力の活用、AIやロボット技術の汎用化による生産性の向上等の政策を更に深化させていく必要があるでしょう。
これらはいずれも、箱ものではない、民間の活力を引き出すような経済政策、人への公共投資を前提とします。女性、高齢者への投資、多様な高等教育の機会の提供、イノベーションを引き起こす発明、起業の環境整備です。その一環として、外国人労働力の活用も考えられるでしょう。
同時に、外国人の移民化政策を押しすすめるべきであると思います。既に、地方からは、特定技能制度を拡充することが求められています。外国人が熟練の技術・技能を身に着け、折角、日本の生活・文化に馴染んできたのに、その時点で帰国させる必要があるでしょうか。その人たちは、自分自身で余裕をもって生計を営むことができ、税金を納めているのです。
技能、教育について選別をせず、入国した当初から、単純労働を含めた一切の職種に就くことができるものとして外国人を大量に受け入れることを移民政策というとすると、日本はこの政策を採っていません。細かく職種を限定して在留資格を設け、在留資格ごとに、必要な要件と在留期間が決まっており、法務大臣の許可決定が必要な制度となっています。そして、高等教育を受けており、相当程度の知識、経験、技能を有する高度人材外国人については、排斥ではなく、従来より受け入れ政策に転じているのです。在留資格は期間を過ぎても、何度でも更新可能であり、5年ないし10年の定住により、永住資格に転換も可能ですので、もうこれは移民受け入れ政策であるとしか言えないでしょう。政府の弁明は強弁ないし言葉の遊戯でしかありません。
しかし、単純労働については、戦後一貫して移民政策を採用していません。日本が高度経済成長を遂げたアジアで唯一の富める国であった時代には、まだまだ生活水準の低い開発途上国に周囲を囲まれていたので、移民の受け入れをすると、一気に多くの移民が押し寄せ、日本の社会が大混乱に陥ると心配されたからです。しかし、特にバブル期には、3Kと呼ばれるような職種を日本人が敬遠したため、単純労働力が不足し、在外日系人に、就職できる職種の限定のない特別の在留資格を与えて急場を凌ぎました。しかし、労働力不足が常態となったのです。技能実習や留学生ではもはや足りないので、名実ともに外国人単純労働者の受け入れを認めたのが、先般の出入国管理法改正でした。
これについても、日本の産業界において労働力不足が顕著な業種を選び、業種毎に不足数の予測をはるかに下回る外国人を、能力試験を経て入国させるというものです。技能実習制度により受け入れた外国人が、在日中、偶然に身に付けた技術・技能を基に、在留期間を過ぎても特定技能資格者として滞在を延長することが考えられます。これが一つの典型例です。その長い在日期間中、家族の呼び寄せも適わず、これを経過すると特定技能1号については必ず母国に帰国させるのです。極めて限定的な2号については、在留期間が10年を超えれば、永住資格に転換が可能ではあります。もっとも、1号資格者でも、技能を身に付けた結果、そのほかの高度人材としての在留資格に転換することができればやはり永住も夢ではありません。そこで、私の提案は、2号資格を与える職種を拡大してゆくことと、1号資格者が他の在留資格に転換可能だとする実務を積み重ね、このルートを一層拡張し、確実なものとすることです。
還暦と呼ばれる、昔なら老後を迎えていた年齢に至り、自分の青年期とは激変した日本を目の当たりにし、根底から社会の制度設計が変わらざるを得ない現実に、途方に暮れる。
親の年金で、親の介護を賄える幸せ。でもね。
ε=( ̄。 ̄;)フゥ
・・・・・あぁ
次回更新は7月6日ごろを予定してます。
・・・・・あぁ
すべての政策を総動員して、少子高齢化に立ち向かう? ― 2019年01月07日 00:17
一昨日、ジムに行って走り初め。たまに行く居酒屋で夜ご飯? ご飯と言うより、お酒とつまみ。走って減ったカロリー分を結局、酒ガソリンで充填してしまいました。このところ正月太り。今日もお鏡餅を下ろして、しかたないのでぜんざい。あぁぁあ。
今日は、少し軽めに。
国際通貨基金(IMF)によると、2002年から2017年にかけての15年間に、日本は、世界の主要国の中で、人口が減少し、新興国や経済開発の目覚ましい途上国と比べても、米国、英国、ドイツ、フランスといった先進国と比べても、実質GDPの伸び率が少ない。そして何よりも消費者物価指数がほとんど変化していない、特異な国であるようです。
(2019年1月4日の日経新聞記事(猪木武徳氏のエッセイ)より)
猪木氏によると、「日本経済は世界の相場と比べて不思議な動きを示してきた」としています。そのような特異性の原因として、企業や家計の予想と心理といった日本国民の精神の内的状況に原因があると主張しています。
上述の記事に従い、古い伝統のある先進国である英国、ドイツ、フランスとの比較を次に示します。記事によると、英国の人口が11%、ドイツが1%、フランスが9%増加し、実質GDPがそれぞれ28%、22%、20%、消費者物価が、39%、25%、20%増加しているのに対して、日本の人口が-1%、実質GDP15%、物価が3%の増加に留まります。従って、この国々の中では、日本のみが人口減少の局面を迎えたこと、物価が極端に安定していることが目立ちます。
以下は、私なりの感想です。
英国、ドイツ、フランスと日本の違いは何でしょうか? 私の関心からは、移民政策です。三国はいずれもEU構成国です。英国のみ離脱を控えていますが、EUの中心的な構成国として、EUの進歩発展に貢献してきた国々です。
三国の移民政策は一様ではありません。まず、英国とフランスについては、EU域外にも旧宗主国とその植民地であった国々との強い結び付きがあり、それらの国々からの単純労働者を受け入れる素地があったことは指摘できます。ドイツは、第二次世界大戦におけるホロコーストに対する反省から、外国人を排斥しないという基本的な姿勢が憲法上の要請となっています。高度経済成長期に大量のトルコ系移民を受け入れた経緯があります。
また、キリスト教文明を社会の基盤とするこれらの国々が、富める国として、人道的理由から、多くの難民を受け入れてきました。
最も重要なことは、EUの最大の眼目が単一市場の創設であり、ヒト・モノ・カネの自由移動を徹底して追求してきたことが挙げられます。域内においては、どの構成国の国民もEU市民籍を持っていて、どの国に移住して、またどの国で働いても構わないのです。原則的に構成国はヒト(EU市民)の移動の自由を制限しません。そこで、EU拡大に伴い、経済的に貧しい中東欧がEUに加盟するにつれ、これらの国々から、賃金や労働条件のより良い先進地域に移住する人々が増大したのです。
EU構成国たるポーランドからの移民が、英国人の雇用を奪っていると宣伝され、単純労働に従事する人々を煽り立てたことが、英国がEUを離脱した一つの大きな原因でした。EU構成国である限り、移民を制限できないと考えたのです。景気が悪くなり、失業率が大きくなると、その不満の矛先が移民社会に向けられることは、フランスやドイツでも見られます。その国に従来から住む人々の共同体と移民社会との分断が社会不安を招き、EUの先進的構成国において極右団体が活発に活動し始め、極右政党が勢力を増しつつあります。帰化した人々を含めて移民社会が貧困層として新たな階級を形成し、テロの温床ともなった。社会の分断がこれら国々における共通の問題となっています。
経済規模の相違もあり、単純に比較できないのでしょうが、しかし、上に掲げた統計をみると、少なくともその数字において、英国、フランス、ドイツの三国の人口減少には歯止めがかかり、実質GDPの伸び率も日本より高いではありませんか。もともと、いずれの国も少子高齢化が進行しつつある先進国の代表格だったはずです。
本格的な人口減少社会となった日本です。高年齢層が若年層よりも多い頭でっかちな人口構成になり、国家財政破綻の危機を目前に、将来の年金に対する不安はもはや大きな社会不安と言って良いのではありませんか? 平均寿命は、男性が80才を超え、女性が90近くにまで至ったのです。今後、IPS細胞の医療への応用や遺伝子療法の開発が進めば、飛躍的に寿命が延びる可能性もあるでしょう。私の世代が80才ぐらいになったころ、後、20年超ありますが、平均寿命は何才になっているのでしょう。健康寿命が延びるのであれば良いのですが、要介護となったらどうしましょうか。
また、昨年は人手不足倒産が過去最大となったようです。
女性の社会進出を後押しし、女性の労働力の活用策を練り、定年の延長など高齢層の労働力も活用する。AIやロボット技術の進歩を促し、効率的な社会とする。全ての政策を総動員して、………..国難とまで言われる少子高齢化を乗り切ることができる?
以前のブログにも述べたように、AIやロボットによる労働力の補填がどこまで望ましいか。考える余地がありそうです。近未来は、人々の外出が例外となるかもしれませんね。多くの仕事が半自動化され、しかも自宅でできるようになったり、医療も遠隔治療技術の発展により、自宅でうけられるし、買い物もレクリエーションも自宅にいながら享受できます。旅行すらVRで楽しめるでしょう。
生産の営みの多くがAIとロボットに委ねられるなら、人は何をすれば良いのでしょう。毎日、家の中に引きこもり、遊んでいるのでしょうかね。恋愛もAIで擬似的に可能かもしれません、発達した人工知能を有したアンドロイドの恋人は常に理想のパートナーとなります。そのような社会では、人類の種の保存はどのように可能とされるのでしょう。
ちょっと勇み足でしたね。まるでSFです。しかし、技術革新により十分可能とされるでしょう。もっとも、このようにAIやロボットに頼るためには、もう少し時間がかかりそうです。
全ての政策を総動員して!
まだ足りない。
外国人材受入れ法案の審議 ― 2018年10月30日 01:40
昨日(10月29日)の国会における代表質問を聴いていて、いつもブログを読んでくださっている皆さんに、どうしても一言したいことができてしまいました。
外国人材受入れ法案についてです。
1、わが国における在留外国人の現状-もう既にこうなっている。
法務省の白書である「出入国管理」(平成29年版)によると、平成28年末の中長期在留社数は204万3872人、特別永住者数は33万8950人でした。
特別永住者というのは、サンフランシスコ平和条約によって、わが国に在留する朝鮮半島出身者が在日外国人となったという経緯を有する人達です。日韓併合によりわが国の領土の一部となった朝鮮半島の出身者が、わが国の国民として外地戸籍に編入されていたもので(本土の出身者は内地戸籍に編編入されていた)、日本の海外領土の放棄により朝鮮半島が独立したときに、当時わが国に在留していた(外地戸籍に編入された)人達が、突然、その日以来外国人となったという人達です。
白書によると、これらを合わせた在留外国人数は238万2,822人となります。27年末現在と比べ15万633人(6.7%)増加しています。
また、平成28年末現在における在留外国人数の我が国の総人口に占める割合は、我が国の総人口1億2,693万人に対し1.88%となっており、27年末の1.76%と比べ0.12ポイント高くなっています。
日本が本格的な人口減少社会となるにつれ、在留外国人数及び総人口比の割合が、東日本大震災により漸減した以外は、毎年、増加しています。
そもそも日本の外国人の在留制度は、在留資格毎に職種を限定し、在留を認められる期間内においてのみ、その職種においてのみ就労を認めるものであり、移民として一括して受け入れ、自由に就労を認める移民政策とは異なります。
もっとも、先の特別永住者と、「永住者」(平成28年末727,111人)という資格を保有する場合に、職種の限定を受けずに、自由にわが国で就労可能です。
また、「定住者」という資格があります。これは海外に居住する日系人である外国人が、日本に働きに来ることができる資格で、平成28年
末で、168,830人です。これも職種の限定を受けません。バブル期における特に単純労働の人手不足の時代に新たに設けられた資格です。
定住者資格は、従って、かつて貧しい途上国であったわが国から、海外に移民をした人々の子孫が、富める先進国となったわが国に里帰りした人達を含みます(もっとも他国で3世4世となった外国国籍保有者です)。唐ゆきさんの時代から、じゃぱ行きさんの時代に、移り変わったのです。
その他、日本人の配偶者等である外国人が139,327人、永住者の配偶者等である外国人が30,972人で、これらの人々も職種限定を受けません。
これらの人々を除き、在留資格毎に決められた期限内に、限定された職種にのみ就くことができます。
一般企業の外国人社員や企業内転勤の外国人達は、その企業に勤める人達ですが、これが、「技術・人文知識・国際業務」及び「企業内転勤」という資格の下で、わが国で在留を認められています。
わが国はIT技術者の慢性的な人手不足です。このような人達が、上記の資格でわが国に暮らしています。わが国産業のイノベーションに欠かせないこれらの専門的技能を有する人達について、国際的な獲得競争となっており、どうやらわが国が負け気味なのです。
そこで、政府は、高度人材外国人に対して、ポイント制の下で(学歴、職歴、年収などに基づきポイントを付与する)、永住資格獲得の年数など優遇策を講じています。
その他、技能という資格は、外国料理の調理人や宝石の研磨技師など、外国特有の産業の熟練した技能を有する人達がわが国で、その職業に就く場合の資格です。
また、興業という資格は、外国人ダンサーなどが、わが国でその職業に就労するための資格です。
そのほか、細かく限定された職種毎に、在留期間が決められています。
もっとも、在留資格の更新が可能であると、定住できることになるが、更新は法務大臣の許可処分にかかることになり、これが自由裁量行為です。
2,わが国の単純労働の担い手
上の在留資格の中に
技能実習(22万8588人)と、留学(27万7,331人)という資格があります。
これが、わが国における単純労働の担い手となっています。
外食産業やコンビニは、もはや留学生無しにはなりたちません。本来わが国で勉学を納めるはずの留学生ですが、この人達は一定の決められた時間内でのみ、アルバイトが認められているのです。
もっとも、わが国の大学や専門学校の留学生が卒業後、わが国企業に就職できれば(従来狭き門)、上の「技術・人文知識・国際業務」という資格に移行できますので、高度人材外国人の候補となると言えるでしょう。
技能実習という資格が独特の制度です。以前のブログに述べたように、外国の産業発展のための国際貢献を目的とした資格でしたが、一部を除き、全く、単純労働の人手不足を解消するために用いられています。そして、この資格については、最長5年の在留のみ認められ、更新が可能ではありません。家族帯同も認められません。
既に、大企業ないし中小企業の製造現場や地方の地場産業など、この資格による外国人無しには全く立ちゆかない状況となっています。
3,特定技能
現在、国会において議論されている外国人材の受入れですが、創設される特定技能という資格は、相当程度以上の技能を有する単純労働分野の特定の職種毎に、一定数を受け入れるものです。
建設、宿泊、農業、介護、造船の5分野等での受入れを予定しています。*
上に述べた他の資格と同様に、自由にいかなる職業にも就労可能という制度ではありません。そして、特定1号は在留期間が上限5年であり、更新が認められないのです。また、家族帯同が認められません。
受け入れ人数など、厳密な政府の管理に置かれ、必要に応じて制限ないし停止できるものとされます。
思うに、技能実習制度と同様に、産業分野毎に、わが国の受入団体と登録支援団体を通じて、わが国事業者のニーズを基にして、労働力の需給をマッチングさせることも可能になるのではないでしょうか。
従って、技能実習制度の、専門的・技術的分野における拡張という意味合いを有します。
また、特定技能1号について、必要な生活支援を行い、就労上必要な研修や日本語研修を行うとされます。
例えば、建設現場におけるコンクリート技術者などが容易に想像できます。日本において、この技術者が圧倒的に不足しており、法令上、存置を要求されているので、限られた人数の技術者が各現場を回っているような状況では、その技術者を待っている間、工事が停滞し、そのため工期が伸びるので、その分費用が嵩むということも生じています。そのような技術者が外国人労働者として供給されると、ことにオリンピック関係で建設工事が増加している東京において有用でしょう。
3、特定技能2号
特定2号については、家族帯同を認め、更新可能とされるようです。イメージとしては、1号資格の外国人について、優秀な人材のみ、更に所管省庁による技能試験により選抜され、2号資格に移行できるというものです。
2号資格の外国人について、私は、次の様な人達をイメージしています。
1号で日本にやってきた外国人のうち、定住を目指して懸命に働き、2号資格に移行するための技能を身につけるほど勤勉である者であり、職場や居住地域において親しまれ、上手く日本社会に定着できた者です。現在就労している事業所において定収があり、労働力としてのならず、少なくとも相当期間、納税者として、日本の社会保障制度を下支えすることが見込まれるのです。
1号資格者を5年毎に総替えして行くとすると、その都度、日本語研修や職業訓練等を一から繰り返すということになるので、一層コストがかかります。技能実習制度でも有り得たそのような問題点を払拭し、日本で優秀な技能を身に付けた外国人がむしろ定住し、将来的にも日本の構成員として活躍できるものとした方がはるかに効率的でしょう。
優秀な技能を有する人達がわが国に定住することで、特定技能1号の新たな募集数を減らすことができるということが予想されます。
また、大黒柱となる家族の一員が定収を得られる職を確保した上、日本社会にある程度定着した段階で家族を呼び寄せることができれば、その子弟についても日本社会への定着が迅速になされ得る。その意味で同化政策が極めて重要です。
日本人との賃金格差を無くし、待遇差別を無くし、労働契約の内容についても規制が及ぶならば、日本人労働者の生活を圧迫することを防ぐことが可能です。
政府は、出入国管理庁という新設の官庁を設ける予定です。このような監督官庁がとても重要となります。
同化政策と社会政策の失敗をしないことが、犯罪抑止に有効です。実は、同程度の所得層で比較すれば、外国人であることが有為な犯罪率の差を生まないという統計もあるのです。
同化政策として、決して強制に陥らない、地域住民との交流と、地域の祭りへの参加が重要です。また、地域のルールや習慣を習熟するための研修の機会を是非設けるべきです。これらのことは、地方公共団体の役割でしょう。
付言すると、このような2号資格に移行可能であることが、1号資格者の労働意欲と技術習得に対するインセンティブを与え、その5年の労働生産性が向上するのではないでしょうか。
更に、2号資格者となり、やがて家族を呼び寄せることができるという日本における成功者をロールモデルとすることで、特定技能の在日外国人社会のモラル向上に役立つでしょう。
4,まとめ
以上のように、わが国で、現在計画されている外国人材の受入政策は、受入れ分野と職種を限定し、その限られた範囲の専門的技能を有する即戦力となる労働者について、受入人数を調整した上で、外国人のための支援体制も整えるというものです。
単純労働分野においても、分野を限らず。無条件に極めて多くの人数を一括して受け入れ、社会政策上の失敗から貧困層を生み出し、社会の分断を招いた欧州の移民政策とは区別されます。
次の三点が、わが国とEUとの区別をする点で重要です。
まず、EU構成国は、EUの共同体としての法規制があり、EU市民たるヒトの移動の自由が徹底されており、構成国に対してこの義務づけがあるので、EU市民である限りいかなる「移民」も拒めないのです。
旧宗主国として、旧植民地であった国々との関係上、そのような国からの移民を容易に受け入れました。
次に、膨大な数のシリア難民が発生し、人道上、そのような人々を移民として受け入れざるを得なかったので、その分担が必須となりました。
繰り返しますが、以上の意味で、わが国の外国人材受入れ政策は、移民政策とは一線を画するものです。
以前のブログでは、用語法の分かりやすさを優先して、定住を、移民のメルクマールとしましたが、
そもそも、定住をいう限り、わが国には既に多くの外国人が定住しています。この点で、専門的技能を有する高度人材外国人の定住政策への政策転換がなされて、既に相当の年月を経ています。
従来は単純労働分野に分類されていた範疇においても、専門的技能を有する特定の限られた職種について、5年内に在留を認める範囲を拡張しつつ、更に、その中から熟練技能者を選抜して、定住化を認めることで、この日本の社会のむしろ安定化を図るものです。
必ず5年で帰る人達が、真剣に社会のことを考え、同化できるとは考えられません。定住可能な人達こそが、その住む社会をより良くするために働き、取り巻く住民社会とも親しみ、良い構成員となり、その社会の発展に貢献することができるでしょう。
人手不足倒産が増加して、後継者難からも中小企業の大廃業時代を迎えている今日、地方では地場産業が人手不足の悲鳴を上げ、地方自治体が消えゆく(廃村)状況に至っているのです。
AIとロボットによる技術発展を待っているような悠長なことを言っていられますか?
また、中小の町工場が無くなり、限られた大企業の工場内でロボットが働き、地方に人が居なくなる中、AIのおかげで何とか生きていけるというような世界観と、民族的多様性を受容しながら、ヒトに囲まれて暮らしていく世界観との、価値選択がいずれ必要になるのではないでしょうか?
*10/31 22:37 追加
介護、ビルクリーニング、素形材産業、産業機械製造、電気・電子関連産業、建設、造船・船用工業、自動車整備、航空(空港グランドハンドリング・航空機整備)、宿泊、農業、漁業、飲食料品製造(水産加工業含む)、外食の14業種で適用が検討されている。
「自民、外国人拡大を了承 見直し条項導入条件に」日経電子版 10/30 23:00 より。
単純労働力の受け入れ ― 2018年06月23日 17:27
少し前に、大阪に帰省して驚いたことがあります。通天閣の側に串カツの専門店街が広がっています。観光客の集まる名所の一つです。夜8時過ぎ頃に、久しぶりにそのような串カツ屋に入ったのです。テーブルに座って待っていても、誰も注文を取りに来ません。お茶か水さえ、持ってこないのです。
店員がいなかった訳ではありません。5~6人の店員が輪になって、談笑している様子なのです。こちらから店員らの顔を見てアピールしたのですが、誰も来ません。大声で呼びかけると、ようやく若い女性店員が不機嫌な顔をして、水を持ってきました。
その店員らはみな中国語を話していたのです。
そして、女店員は厨房の中に、私の注文を告げると、今度は、厨房の中にいる調理師らと中国語で喋り始めたではありませんか。
この店は、この時間帯は、フロアも厨房も、中国人が働いていたのですね。サービスや料理も、おもてなしを大切にする日本流ではなく、どこか北京風でした。このような店を、中国人観光客が喜んで訪れるのでしょうか。
断っておきますが、私は中国の人に偏見があるのではありません。実際にあったエピソードですので、今回ブログの前置きにちょうど良いかと思います。
1、単純労働の受け入れへ-政策転換!
安倍首相が、6月5日に、外国人の単純労働者を受け入れる方針を発表しました。
2019年4月に、建設、介護、農業など5分野で在留資格を新設し、最長5年の就労を認めるとうもので、2025年ごろまでに、50万人超の新たな外国人の受入れを行うそうです。早速、財界が歓迎の意向を表明しました。
これは経済財政諮問会議に提出された、「経済財政運営と改革の基本方針2018(仮称)」の中で、示されています。
移民政策とは異なる外国人材の受け入れであることが強調されています。これによると在留期間の上限を5年として、家族の帯同も基本的に認められません。
ここまでであれば、後で言及する従来の技能実習制度と変わりません。昨年(2017年11月)施行された新制度により、技能実習の在留期間が最長5年間(従来3年間)となり、人数枠が二倍程度に増加されています(厚労省HPより)。また、介護職としての、技能実習が新設されました。
新設される在留資格では、在留中に一定の試験に合格するなど、高い専門性や技能を示した外国人に対して、現行の他の在留資格への変更が可能とされます。
2、在留資格
外国人は、一定の在留資格に基づき、定められた在留期間を上限に、日本に居住することを許可されます。
参考:入国管理局HP(在留資格一覧表)http://www.immi-moj.go.jp/tetuduki/kanri/qaq5.html
例えば、大学で教鞭をとる外国人の先生達がいますね。この人達は「教授」という資格を有していて、在留期間が最長5年間です。また、「技能」という資格は、特殊分野の熟練した技能を有して、わが国でそのような仕事をしている外国人達に与えられます。例えば、中華料理やフランス料理の調理師、スポーツ指導者、航空機の操縦者などです。サッカーの元日本代表監督のハリルホジッチ氏は解任されましたが、恐らく技能の資格で日本で就労していたと思われます。航空機の熟練パイロットは年中人出不足の状態で、外国人パイロットが国内航空便の航空機に搭乗するところをよく見かけます。この資格も最長5年間の在留が許されます。日本で活躍するダンサーは、「興行」という資格で、キリスト教の宣教師は「宗教」という資格で、わが国で活動しています。その他、多くの資格があります。
それぞれの資格毎に日本で就ける職種が決まっています。資格外活動を行うと不法滞在者となり、日本から強制退去されることになります。
留学生は「留学」という資格を持ち、日本の大学等の学校で学ぶ学生・生徒ですが、一定の資格外活動、すなわちアルバイトが認められます。
また、これら「現行の」在留資格毎に許可される在留期間は、更新可能です。在留期間が終わるまでに、法務大臣により更新が許可されると、更に、同期間の在留が認められ、再度、更新可能です。
これに対して、「技能実習」という在留資格は、その資格においては、同一人に対して、一生に一度だけ認められるもので、一度きりの在留期間を終えると、帰国しなければなりません。
3、技能実習制度
本来、途上国の技術開発・経済発展のために必要な技術者等の人材育成をわが国が引き受けるという趣旨の制度です。例えば、工場で働く旋盤工や板金工などがいなければ、製造業が発展しません。しかし、熟練工のいない途上国で、一からそのような人材を育てるのは困難です。そこで、途上国からの実習生がわが国で働きながら技術を学ぶための資格なのです。
ところが、以前のブログでも述べたように、わが国における単純労働の担い手として、この資格による在留外国人が活用されているのです。
また、多くの外国人労働者が、単にわが国に出稼ぎに来るという目的を有しています。
そこで、帰国後の職業に無関係に、わが国において「就労」しています。母国では農業に従事している人が、わが国の水産加工業者の下で牡蠣の養殖を行うことや、母国での仕事とは関係のないクリーニング屋さんで働くなど、わが国の受入団体により斡旋された様々な職種の実習実施者の下で単純労働の労働力となっているのです。
実際に、本来的な役割を果たしている場合もあるのですが、実態は、国際協力という美名の下に、ほぼ単純労働の不足を補うものでしかないと言って良いでしょう。
4、技能実習の新制度
政府の発表した上述の新制度は、十分具体化されていませんが、技能実習制度の改定であるようなイメージです。介護のための技能実習制度が始まったようですが、これを建設や農業などの新分野にも広げ、基本的には5年間を上限としつつ、試験合格等により、他の現行の在留資格に移行するという制度です。
従って、政府の強調するように、当初5年間の労働者の受け入れは、必ずしも移民ではないのです。しかし、他の資格に移行し、わが国に定住するに至るときに、移民であることになります。
政府が、このように「移民」という言葉を嫌っている理由は何でしょうか。このような慎重な言葉遣いは、恐らく保守系の政治家・思想家や、与党支持層に配慮しているからでしょう。あくまでも、50万人超の「人材」の受け入れを目指すというのです。
5、単純労働者の受け入れと、高度人材移民の受け入れ
これまで、単純労働者を移民として受け入れることを、政府は徹底して敬遠してきました。ここで移民とは、日本に一定期間以上定住ないし永住する外国人のことであるとします。移民政策をわが国が取っていないと言うのは語弊があります。高度人材としての外国人に対しては、日本が門戸を開いて久しいのです。
特に、最近は高度人材ポイント制を採用して、高学歴や収入により、一定以上のポイントを獲得できる外国人は、早期に永住資格に移行できます。高度専門職という資格です。従って、高度人材外国人の移民奨励がなされていると言えます。わが国におけるIT産業の発展に欠かせないプログラマーなどの高度人材の人出不足も深刻であり、高度人材移民については、経済発展を遂げた韓国、台湾や西欧各国とも、人材獲得競争となっています。
日本が留学生の増加計画をたてて積極的に受け入れているのですが、この留学生が将来日本で就職し、定住するなら、自動的に高度人材外国人の候補となります。前述の「経済財政運営と改革の基本方針2018(仮称)」でもその奨励策が掲げられています。
政府が人材という語を使って、移民の語を避けているのは、ただの言葉の問題でナンセンスであるように思われます。
政府が戦後一貫して避けてきたのは、単純労働者の移民です。奇跡的な高度経済成長を遂げた日本は、生活水準がかけ離れたアジアの発展途上国に囲まれており、これら諸国と賃金格差が大きかったので、単純労働者の移民の受入により、大量の外国人移民が日本に流入し、日本の治安や経済に悪影響を与えることを心配したのです。
しかし、いよいよ少子高齢化が進行し、人口減少社会となった日本において、相当以前より外国人移民の受け入れが特効薬であるとする議論がありました。実際に、日本より早く少子高齢化社会となった西欧各国が経済成長期に移民を受け入れ、人口減少を食い止めることができたのです。
6、外国人移民の必要
日本が高度人材外国人に対して開国しても、単純労働者については、移民鎖国を続けていたのでが、遂に、もう仕方ないと、安倍首相が決意したようです。移民とは呼んでいませんが。
現在の日本にとって、人出不足にあえいでいる焦点となるのが単純労働分野です。
コンビニやファーストフード店、町工場など、全ての産業・業種で、単純労働を外国人労働者に頼っている状態です。大都会でもそうでしょうが、地方でも人出不足が深刻です。建設や介護分野だけではなく、農業分野の「人材」受け入れを予定しているようですが、地方の地場産業でも外国人がいなければやっていけないところが多いのです。福島原発事故の祭には、近県から多くの外国人が帰国し、地場産業が成り立たないと言って悲鳴が上がったほどです。
少子高齢化の象徴とも言える介護士不足は知られていますが、25年度末には、介護分野で、55万人の不足が予想されています。
2040年度の生産年齢人口は18年度比で、約1500万人減る見込みとなっています。
もはや手をこまねいていることができなくなったのです。
移民受け入れによる労働人口の増加が潜在成長率を押し上げる効果を有すること、地方へのメリットが大きいことなどが、利点とされています。しかし、高度人材であれば、わが国で一定以上の収入を上げ、税金も納めてくれるはずなのですが、単純労働者については、言葉の問題もあり、教育レベルも低いのですから、なかなか高収入を得るまでは行かないでしょう。
入国初期における日本語教育や、日本の習俗習慣、公民教育に十分の時間を費やすべきですし、就労計画をたてて人材としての育成や、子供の義務教育や高等教育の負担も考えられます。
病気や事故で怪我をした場合の労災や医療保障、仕事が上手くいかなくなった場合には生活保護など、日本にとって社会保障負担の増加が懸念されます。つまり、税金を納めてくれる以上に、負担が増えると、費用対効果に悖る結果となるのです。このことも以前のブログでは指摘しています。
外国人移民に頼らず、少子高齢化を契機として、人材育成及びロボット化など産業技術の発展によって、生産性を維持し、更に経済成長に繋げるという主張もあるところです。
そこで、政府は、一定の職種に限定してまず技能実習制度の拡充から始め、次第に定着・定住外国人を増加させようとしているようです。
ただ、ここで、費用対効果の試算から、徒に慎重なアプローチを取っているべき場合ではないかもしれません。人口減少に伴い、地方では、農業も、漁業も後継者難で、地場産業も衰退し、限界集落、自治体の消滅という危機に見舞われ、町の製造業の経営者の跡取りが無く、熟練工も不足し廃業もやむを得なくなる状況から、わが国の製造業の足腰が脆弱になりつつある現状を、この危機感を切実に感じるべきではないでしょうか。
狭い日本のことだけを考えてる島国根性は、この際、捨て去ることができないとしても、ちょっと隅の方においやっておいて、この土地を外から来る人にも開放し、豊かさを、他のアジアの人々と共有する心意気を持つことが、将来の日本とこの地域の、平和と繁栄に通じるのだと思います。
7、外国人との共生社会
政府が恐る恐るではありますが、ようやく、単純労働力の受け入れに向けて、政策転換したのです。長期的に日本に滞在する外国人との共生社会を、これから築いていかなければなりません。
西欧各国が、大量の単純労働者を含む移民によって少子高齢化を克服した、その引き換えに、社会の分断とテロの恐怖を招き、反グローバル運動や移民排斥運動が激化したことを忘れるべきではありません。
外国人労働者をスラム街に追いやってはならないのです。日本において不足している単純労働者の就ける職種は、低賃金で重労働、長時間労働である、あるいは生命身体の危険を伴う職種です。日本において、そのような職業を多くの外国人が占めることが予想されます。
前述したように日本語教育や職業訓練を十分行い、特に、子供達の教育面での支援が欠かせないのです。勉強すれば、どのような職業にも就くことの出来る環境を作ってあげる必要があります。機会均等が徹底される、差別のない社会でなければなりません。*後柱参照。
外国人移民の集団・集落ができて、周囲の日本人社会と画然として孤立しているという、分断された社会にしてはいけないでしょう。ことに、入国初期に、日本の文物に慣れること、日本社会の基本的ルールを学ぶことが必須となります。
外国人が多くなると、ゴミ捨てマナーがなっていないので、周囲の住民から苦情が殺到するということがあるようです。その外国人の以前に住んでいた町では、ゴミの分別やゴミ回収日の遵守というルールがなかったかもしれません。その人にとっては、随分煩わしいことで、その必要を十分理解できないのも無理がないのです。やったことがないのですから。外国人住民と、以前から日本に住む住民との対話も必要でしょうが、むしろ行政が十分のコストを負担しつつ、日本社会のルールを学ぶ機会を提供するべきでしょう。日本の住民にとって、ゴミ分別ルールが、その定着にどれ程長く係った、大切なルールであるかを、懇切に説明するべきです。日本人には小学校で勉強したことでも、外国人には違うかもしれないのです。
一朝一夕には行かないことも多いでしょう。そのような文化的軋轢を生じることも覚悟の上で、本格的な共生社会の構築に向けて、一歩を進めるときが来たようです。
文化的に多様な社会からこそ、イノベーションが生まれる。新しい価値観や発想が日本のこの場所に暮らす人々を、文化的に更に豊にもすることでしょう。島国日本に古来より住んできた「日本人」は、一定レベル以上に違うものを受け入れることが極端に下手なのではないでしょうか。社会心理的に、「違うもの」を排除して、差別を内面化しても気づかないぐらいで、阿吽の呼吸や腹芸で何でも決めてしまう、忖度の得意な、外国人には分かりにくい集団です。「違い」に寛容で、対話を積極的に行うことが、日本人にもいよいよ求められるのです。
* 技能実習の資格において、現在、家族帯同は認められていません。単純労働者が技能等の資格を得て、定住化を果たした場合、家族を呼び寄せることができるようになります。
14年前に亡くなった女の子ー創作 ― 2018年06月02日 14:41
相田みつをの詩に「うん」とうのがあります。以前のブログで紹介した相田みつを美術館(東京駅の近く)でカレンダーを買いました。この詩の書が6月です。
うん うん、苦しかっただろうなあ、辛かっただろうなあ と、うん うんと、頷いて。
そういう詩です。
次は、私の詩です。
すなはま。
砂浜
すな はま
すなの中に
ちいさな ちいさな 足あとが
突然あらわれて
跡を追ってゆくと
ひまわりの花の前。
しゃがみこんで
また
歩き出して
足あとが
突然 消えた。
7年も待って
また7年も待ったのだから
もう出ておいで
もう隠れんぼは いいから
出ておいで
財津和夫の歌に「会いたい」というのがあります。1990年に、沢田知可子という歌手が歌って、大ヒットしました。私は財津和夫のカラオケで、良く歌います。
女性が恋人を失って、その人を思い出しながら、「会いたい」と詩う。男性が歌うと、自分が突然死んでしまって、霊魂となった男が、目の前で嘆き悲しむ恋人を、愛しんでいる詩になります。
「今年も海に行くって
映画もいっぱい見るって 約束したじゃない
会いたい」
と、自分を責める女性をみながら、どうにもならないのです。
林部智史の「会いたい」という歌謡が最近ヒットしたようです。
これも恋人を亡くしてしまった女性の気持ちを詩っています。
「私の笑顔があなたの幸せだとしたら
前を見て生きようと 胸には決めたけど」
どうしても男性を忘れられない女性が、なんとかして涙をこらえているけれど、つい嗚咽を抑えられなくなる。一日中、女性が嘆き悲しむ様子に、霊となった男性は途方にくれます。女性がどうにかなってしまわないか。死んでしまわないか、心配でなりません。
声をかけるけれど、手を伸ばして触れようとするけれど、どうしても届きません。叫んでも、女性には聞こえません。女性の温もりも感じられない。
・・・・
ところが、夜が明けると、
その女性が、長い髪の毛に、朝日をまとって、明るい窓ぎわに立っているのです。自分の目の前に、うれしそうに見つめるその瞳があって、吐息を感じることができるのです。女性がいたわるように優しく触れる指先を感じます。
きっと、天が願いを聞き入れて、男性をこの世に生き返らせたのです。
「ひまわりの約束」という秦基博のフォークソングは有名ですね。どうして君が泣くの?という歌詞で始まります。
「そばにいたいよ 君のために出来ることが 僕にあるかな
いつも君に ずっと君に 笑っていてほしくて
ひまわりのような まっすぐなその優しさを 温もりを 全部
これからは僕も 届けていきたい 本当の幸せの意味を見つけたから」
生まれ変わって、また出会って。
その人を喜ばせることができれば良い。
自分を見て微笑んでいる女性の姿に、男性は有頂天になります。
しかし、女性の様子が少し変なんです。
女性が優しい言葉をかけてくれるのですが、男性が懸命に答えても、女性には分からないようなのです。
天が男性の嘆きに同情して、転生させてくれたのですが、小さな鉢植えのサクラソウになったのです。素焼きの小さな鉢の中に、一輪のサクラソウが咲いています。
窓辺に置いたサクラソウが朝日を浴びていると、女性があいさつをして、水やりをします。うれしそうに、鼻歌を唄っています。
サクラソウになった男性は、鏡に映った自分の姿をみて、このことに気づくのですが、その運命を受容します。
その人のそばに、ずっといられたらそれで良いと、その人が自分をみて笑っているのなら良いと、思います。
河口恭吾の歌った「桜」は、中国でもヒットしたのですが、少し前のヒット曲です。
「僕がそばにいるよ
君を笑わせるから
桜舞う季節かぞえ
君と歩いていこう」
サクラソウのおかげで、女性が次第に元気を取り戻してゆきました。
7年が経って、
そのうち、別の男性と知り合い、親しくなるんです。女性の部屋で、違う男性と嬉しそうに語りあっているのを見ながら、サクラソウが枯れ始めます。
「ハナミズキ」は2004年に発表された一青窈のヒット曲です。作詞した一青窈によると、この曲の詩は、テロで亡くなった人とその恋人や家族のことを謳っているそうです。
果てない夢が終わりますように、果てない波がちゃんと止まりますように。
「君と好きな人が百年続きますように」。
待たなくても良いよ。知らなくても良いよ。
花に泊まった白い蝶が、ひらり、空に飛んで行きます。
役目を終えたサクラソウが枯れて、男性は飛び立って行きました。
・・・・
「14年前の女児殺害事件」
(例えば、http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3382563.html)
5月30日に報道されたニュースです。2004年に岡山県津山市で殺害された当時9歳の女の子のことです。別の事件で服役中の男が逮捕されました。
「どうか皆様、わずか9歳で非道な刃に散った侑子の思い出を、いつまでも忘れないでいただけるなら、幸いです」。
亡くなった女児のお父さんが告別式で述べた言葉です。
犯人逮捕後、このお父さんが、14年間、その子のことを忘れたことが無かったと言っています。(いずれも上のニュースサイトより)
上に描いた恋人を亡くした女性は、この女の子でした。霊としての存在となっていることに、自分では気付かないのです。
亡くなってからずっと、じっと悲しみに堪える父親を見ていたのです。成長した女性の姿でいつものように、自分の家で暮らしているのですが、父親のことを、自分の恋人だと思い込んでしまいました。
なぜか分からないけれど、悲しくて、辛くて。亡くなったその子が泣いていると、いつも優しく声をかけてくれる存在に気づきます。その子の写真を見ながら、語りかけるお父さんです。
父親は、犯人を探すために、今日も街頭に出かけます。恋人だと思って、少女は声をかけて送り出しているのですが、父は気付きません。
漸く犯人が捕まりました。
少女もようやく役目を終えて、天国へ旅たちます。お父さんの歌うハナミズキを聴きながら。
・・・・・
もうすぐ学会報告をしなければならないので、少し忙しくなってきました。2週間ほど更新を休みます。
再開後、またよろしくネ <(_ _)>
以下、6月6日追加。
亡くなった少女の母親の手記が公表されました。
ひまわりが大好きで、大人になったら、花屋さんになりたかった女の子だったそうです。
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13527816.html
https://www.sankei.com/west/news/180606/wst1806060051-n1.html
日大アメフト部問題 ― 2018年05月26日 03:51
1、反則行為と20歳の記者会見
問題となる行為は、ボールを持たず、集団から離れてゆっくり歩いているQBに対する猛タックルでした。被害者は全治3週間の怪我を負いました。
被害選手が後ろからタックルを受けて、もんどり打ってひっくり返る様子が、ユーチューブにアップされ、大きな反響を呼んだのです。あれで全治3週間で済むというのが信じられないくらいでした。脊髄損傷で麻痺が残る恐れのある危険行為です。
フットボールは大男が身体をぶつけあう激しいスポーツですね。フィールドの格闘技とも言われます。ゲームの最中には、ボールを持っている相手選手が怪我をするかもしれないと心配して躊躇していることは許されないでしょう。実際、フットボールの試合で、半身不随の後遺症を残すような怪我をするような例があります。
法律上も、本来なら、暴行・傷害に問われる行為でもそれがスポーツのルールに従う、正当な行為である限り、罪には問われません。例えば、ボクシングで殴り合っても、犯罪には該当しません。日大アメフト部の選手の行為にしても、意図的に相手に傷害を与えるのでない限り、ゲーム中の不幸な事故であったとされたでしょう。
しかし、加害学生が意図的に怪我をさせる行為であったことを記者会見で明らかにしました。しかも、監督やコーチの指示に従ったと言うのです。
加害学生が陳述書を読み上げていた様子からは、その内容が真実であるように思われましたが、監督・コーチの指示があったかについては、当事者同士で対立があります。
冒頭、加害学生の弁護士が、未成年に近い学生が実名を明かして、顔を出して記者会見に臨むことがどのように危険なことか、そのことを認識しつつ会見を行う旨説明があり、その点を理解して欲しいと述べていました。日本全国でこの記者会見の模様が放映されたのです。
実際、学生スポーツを巡る不祥事で、20歳の学生が会見を行うなど前代未聞のことです。大方の同情を買ったと言えるでしょう。自身の責任を自覚し、深く反省していることが窺われ、もうアメフトをやる資格もないと、うな垂れる姿は痛々しく真情が溢れていました。
日大側が事実を公表することを怠っている間に、大きな社会問題となる過程で、被害学生側が被害届を提出し、加害学生が異例の緊急記者会見に追い込まれたのです。監督・コーチが一刻も早く真実を語り、大学が適切な対処を行なっていたとすれば加害学生をここまで追い詰めることが無かったはずです。
2、加害学生による記者会見の意図
ここで、加害学生による記者会見の意図が何であったかを考えてみます。
まず、加害学生が相手選手に傷害を与えようとする意図を有していた、故意の行為であることは、ユーチューブの動画を見る限り疑うことのできないものです。複数の動画が残されており、故意行為であることを否定することが可能ではなかったと思われます。最初のあの危険プレーは、下半身へのタックルなので、ルール上、即刻退場とはならないようです。プレーを継続した加害選手が、相手チームの、怪我をしたQBと交代したQBにも、同様の危険なタックルを行い、漸く退場になった点も、最初の行為が故意であったことを裏付けています。
この行為は、先に述べたように、法律上、傷害罪に問われるべき行為です。実際に刑事事件化しました。被害届が受理されたのです。20歳のこの学生は、警察の取り調べを受けた後、裁判で傷害罪の有罪が確定する可能性が十分あります。そうなると社会的にも傷害罪の前科があるという受け止め方をされるでしょう。通常は大学として、退学処分が考えられますし、仮に卒業できたとしても、その後の就職にも支障を生じるでしょう。
日大学長は、記者会見で、加害学生の大学への復帰と卒業後の就職までのフォローを考えていると述べていました。加害学生の会見は、大変勇気のある行為です。彼が述べた通り、真実を明らかにすることが、償いの第一歩であると決意したのでしょう。監督やコーチの強制的な指示に従ったのであれば、大学の責任として、大学で授業を受けることのできる環境を整えてあげることもあり得るように思えます。この学生の言うように、どのように言われたとしても自分で、そのような反則行為を止めるという判断をするべき責任があったと言えるのみだからです。そして、退学処分というのも、その事情に鑑みて罪一等を減じることもあるでしょう。
しかし、この学生がコーチの叱咤激励を勘違いしたのであれば、それはやはりその学生の責任だとも言えます。監督・コーチは相手方QBに怪我をさせる指示をしていないと否定しており、当初、大学もこれを支持しているようでした。大学側が、これだけの騒動となって慌てて、世論の動向に従い、加害学生に寄り添うような対応を考えたようにもみえます。
被害者側に十分な謝罪を伝えて、真実を公表することで、処罰感情を抑制してもらうということも考えられます。被害学生の父親が記者会見で怒りを露わにしていました。大切な息子が関西学院大学のアメフト部という強豪チームに入り、しかもQBというポジションで先発メンバーとなっているのです。その子が半身不随の重傷を負ったかもしれないので、当然です。傷害罪に該当すると言っても、犯情によっては、情状酌量により罪が軽くなる筈です。
加害学生の陳述書は具体的な状況を克明に記述しており、先に述べたように記者会見の様子からは、その内容が真実であると思えます。それが真実であったとすれば、この学生をこのような事態に追い込んだものは、後悔して真実を述べて謝罪しようとする者を押しとどめ、部の体面や監督の威光を維持しようとしたアメフト部や、ひいて大学の曖昧な態度です。
もっとも、具体的な指示を下したコーチとコーチを通じて選手に指示したとされる監督は、相手選手に傷害を与える意図を有していたとすれば、加害学生に対する教唆、あるいは共同正犯に当たる共犯ということになり、刑事犯罪人になります。否定するのが当然でしょう。
加害学生によると、試合後のハドルで監督が次のように言ったとされています。
「監督から「こいつのは自分がやらせた。こいつが成長してくれるんならそれでいい。相手のことを考える必要はない。」という話がありました。その後、着替えて全員が集まるハドルでも、監督から「周りに聞かれたら、俺がやらせたんだと言え」という話がありました」(陳述書より)。
危険タックルで退場になったことについて、「俺がやらせんたんだと言え」と言ったということはどういうことでしょう。「〜と言え」というのは、実は違うけれど、自分がかばってやるという風に聞こえます。しかし、記者会見では、指示について明確に否定しています。実際に、前監督が傷害の全体計画を練って、コーチに指示していたのだとすれば、実は違うという虚偽の証拠を作出するための卑劣な行為なのかもしれません。
3、相手QBを潰せ!
報道を見ていると、大学スポーツに詳しい解説者の見解に、加害学生の指示の受け止め方の勘違いを指摘するものが幾つかありました。フットボールでは、「相手選手を潰せ」というのは、そのぐらいの気持ちで当たれという意味で普通に使うというのです。激しいスポーツで勝ち抜くためには、そのぐらいの厳しい言葉が必要であるようです。実際、その趣旨の説明を問題の日大アメフト部コーチがしています。
しかし、その学生とコーチの師弟関係は、日大系列の高校アメフト部時代から続いていたそうです。普通の「アメフト用語」を、親密な関係のあるコーチが通常の意味に用いている場合に、大学生となった選手が聞き違える、意味を取り違えるということがあり得ないのではないでしょうか。あのような極端な行為を、誰の指示もなく、学生選手が行える訳がないと、素人には思えます。アメフトのように心身の鍛錬の必要な、臨機応変の判断と高度な頭脳プレーを要するスポーツの強豪チームの選手が、そんな判断ミスをするでしょうか。監督は、記者会見で、加害学生が、代表チーム入りするに相応しい優秀な選手であったとしているのです。
先に述べたように、陳述書に書かれた状況が十分具体性のあるものであり、やはり学生の主張が事実に即しているように思われます。
4、日大アメフト部の文化?
内田前監督が、人事担当の常務理事でした。大学トップが理事長であり、学長がナンバー2ですが、内田氏が実質ナンバー2であったとする報道もありました。理事というのは、大学の経営陣です。理事長や学長の信頼も厚かったといいます。
甲子園ボウルとは、毎年開催されるアメフトの大学日本一を決定する大会です。歴代の優勝校をみると、関西学院大学と日本大学がライバル校であることがわかります。昨年は、日本大学が関西学院大学から優勝を奪回しました。
現役部員や部のOBだけではなく、在校生や卒業生一般にとっても非常に大切な対戦です。甲子園球場には多数の在校生やOB、それに父兄らが応援に詰めかけます。その期待と熱狂は強烈なプレッシャーとなります。
内田監督は、チームを甲子園ボウルの勝利に導いた監督です。多くのコーチを率いて、実際の練習はコーチ陣に委ねていたそうです。大学の要職にも就いており、コーチに対して絶対の支配権を持っていたのでしょう。具体的な指示をした井上コーチは学生のときに、内田前監督の下で日大アメフト部員であり、日大コーチとなったのも、監督の縁故によるのです。前監督は、選手にとっては話をすることもできない雲の上の人でした。
そのような監督、コーチと選手の間のコミュニケーションの問題が指摘されています。しかし、私には、加害学生が叱咤激励を取り違えたコミュニケーションの問題であるとは思えないのです。
いずれにせよこの問題は、学生スポーツに存在する勝利至上主義がもたらしたものです。
5、学生スポーツと勝利至上主義
昨年の覇者である日本大学が連覇を狙っていました。近年は関西学院が優勢で、なかなか勝てなかった日本大学アメフト部にとって、関西学院大学が最大のライバルです。定期戦の勝敗など大したことはない。そのQBを潰すことができれば、甲子園ボウルの連覇も近づくでしょう。
勝利至上主義がもたらした組織的な犯罪ではないでしょうか?このことは、当事者が否定しています。日大の第三者機関による調査も予定されているし、捜査機関による捜査も開始されるでしょう。これら調査・捜査の結果をみるまで真相は分かりません。
しかし、それほどの勝利至上主義があっても不思議がない状況が大学スポーツを巡る環境としてあるのではないでしょうか。
ちょっと話が飛びますが、高校野球部の不祥事が絶えませんね。特に、上級生による下級生に対する暴力事件が起きて、公式戦出場辞退に至る例があります。新設校は、まず野球やサッカーなど、一般に普及しているスポーツの運動部を育成し、全国的な大会での優勝を目指します。よく知られていることですが、全国大会で実績を残す強豪校となることが良い宣伝効果をもたらし、生徒の募集に通じるのです。多くの生徒を集めて、受験料・入学金が学校の収入に直結します。(このことが軌道に乗ると、次は進学校となることを目標とする高校があります。大学進学において有名校・難関校への実績が上がると、これが宣伝となり、受験生を集めることができるようになるからです。)
そこで、そのような高校であると、全国の中学生のスポーツ大会にスカウトが向かいます。ある程度才能のある生徒に声をかけて、入学費用や授業料も学校もちで、全寮制の高校に入れるのです。もちろん寮の費用も出してくれます。そうしてかき集めた子供達が、親元を遠く離れて、学業もそこそこに、毎日昼頃から練習に明け暮れるのです。前述した意味で軌道に乗ると、強豪校を目指して来る子を合わせて、学校の規模にもよるでしょうが、毎年、例えば百人ほどの生徒が同一の運動部に所属することになります。出身地ではある程度成績を残していたような生徒を互いに競争させて、その中から更に選ばれた者がレギュラー入りを果たし、大きな大会に出場することができます。
そうした高校では、先の事情から、勝利への執念は相当なものであり、「教育」といっても、人格形成のためのスポーツ教育というよりも、競技のための競技として、エリート選手を育成することに力点が置かれることもあるようです。もちろん、真に子供の成長を目的とする優れた指導者がいることも本当でしょう。いずれが原則で例外かは容易には知りえません。
そうした人格的教育をそっちのけにした、勝利至上主義の下で競技のための過当競争の中で、暴力事件が起こることがあるわけです。
スポーツ選手養成のこのようなシステム自体がそんなに悪いことであるとも言いません。スポーツで培われるべき様々な能力を身につけることが、その人間の成長であり、優れたスポーツ選手が人格的にも優れた人物である例も、我々はよく知っています。
勉強偏差値とは別に、スポーツ偏差値による、子供の選別もあり得るし、その競争の中で問題を生じる場合があるということを指摘しているのです。
大学についても、よく似た例があるようです。新設大学が学生募集で軌道に乗るために、まず、全国大会で実績を残せるような運動部の育成に向かう例があります。このことは何も新設校に限りません。私立大学の場合、一般に、運動部を目指す学生を集めることが、大学のために必要不可欠なのです。高校スポーツの優秀な選手を特待生として、入学金、授業料、寮費免除で集めることが良く行われています。そうしてその大学の運動部が全国大会で活躍することが、大学の宣伝に通じ、学生募集に役立つのです。結局、トータルで大学が儲かる仕組みです。
そこで、運動部向けに、カリキュラムの特別メニューが用意されることもあります。筆者の知人が務めている大学では、アメフト部専用の憲法の授業があるそうです。講義を受けているのが、全員アメフト部員なのです。なぜ、憲法かというと、教員免許を取る前提として大学の憲法の単位が必要だからです。
また、運動部員専用の、勉強お助けデスクなるものを設けて、教員が常駐しているという大学もあるという話を聞きました。授業についていけない学生のための手助けを引き受けるようです。勉強に自信のない体育会系学生が安心して大学に入学できるように、このことを入試パンフレットにうたっています。
大学が力を入れている運動部の部員は、一般学生に比べて特別扱いがなされており、特別カリキュラムが用意されたり、授業出席や単位取得の面で工夫がある場合があります。もっとも全部の私立大学がそうだというのではなく、一部の大学ではそのようなことがあるということです。こうなると、運動部員は大学の授業はそっちのけに、先に高校運動部の例として述べたのと同じように、昼頃から、専用グランドに繰り出し、練習に明け暮れます。
こうして、そのスポーツについて才能をひめた学生らが集まって、その中での競争が行われます。かくて、そのスポーツ種目について、種目別人口の全国的ヒエラルキーの最上部に属するスポーツエリートが集まることになります。彼らは、主としてそのスポーツをするために大学に入ったのであり、給料さえでませんが、学費等免除の上、生活費も保証されており、セミプロのような存在です。
このようなスポーツ・エリートの養成システムについても、それ自体が必ずしも悪いとも言えないでしょう。社会主義国のスポーツ選手の育成を国家が担うように、わが国のような資本主義国におけるスポーツ選手の育成は市場に委ねられているですから。
もっとも大学スポーツの全国大会で活躍できる選手はごく一握りです。プロ選手になれるような学生は更に限られるでしょう。スポーツ・エリートと言っても、この一握りの学生たちをさすのではなく、スポーツ推薦枠に入るとスポーツで大学に入学できるという学生を指すとすると、裾野はぐっと広がります。
さて、学費免除、全寮制の寮費免除の学生は、入学する際に、特定の運動部に入部することが条件となります。そして、大学生活において、その運動部に所属する限りにおいて、その特権が約束されているのです。従って、部を辞めることが、大学を辞めることに繋がる場合があります。その時点で、特権が剥奪され、金がかかることになるからです。
郷里で優秀な成績を残してきた学生が、そのスポーツで身を立てることを夢見、またはただその競技が好きで、競技を続けたい一心で、憧れの強豪校に特待生入学を果たしたとすると、本人だけではなく、親の期待も一身に担うことになるでしょう。
その競技に才能のある学生たちの競争の中にあって、監督・コーチの指導の下、その部の文化、価値観を内面化して行くでしょう。毎日続けられる厳しい練習は、その年頃の若者にとって体力の限界に近いかもしれません。競技で勝つための精神的修練も欠かせません。精神的に追い込んで行くという指導もあり得るように思われます。
スポーツで「勝つ」ことを目指すこと、それ自体が悪かろうはずがありません。単なる遊びではない真剣勝負のスポーツでこそ養われるものが多いはずです。大学スポーツの担い手である者は、大学生です。大学が教育機関であること自体は忘れるべきではないでしょう。その教育は、必ずしも学問である必要はありません。
しかし、先に述べたような大学の組織的要請やOBを含めた大学関係者の期待が、大学スポーツの指導者の肩に重く伸し掛かり、その結果、勝つことに異常に執着してしまってはならないのです。スポーツマンシップとフェアプレイの精神は、スポーツの重要な価値でしょう?そのような価値を十二分に身につけた人材をこそ、大学は社会に送り出すべきです。
なぜ、日大アメフト部の加害学生は、あのような反則行為を仮に強制されたとしても、自ら引き返すことができなかったのでしょう?
実戦練習から外され、重要な大会に出場させてくれないというプレッシャーの中で、何も考えられなくなったのは、なぜでしょう?
以下は、想像です。
スポーツ特待生としての身分から、部を辞めることは考えられない。高校時代からの恩師であるコーチの言葉が極端な重みを持ったので、お前のためだというお為ごかしに説得されてしまった。とにかく自分の将来がその試合に掛かっているという思い込みがあった。そして何より、部の価値観が、勝利への執念と連帯が内面化されていて、これが監督・コーチによって反則行為も辞さないということにすり替えられてしまった。
何事も「部」のためには正当化されるのです。
強迫観念のようなものに突き動かされて、フェアで無いことを自分がしてしまったことに、冷静になって気づいた学生は、涙を流して泣いたのです。自分の過ちは、神聖なアメフトというスポーツを汚してしまったことでしょう。取り返しのつかない思いに駆られたに違いありません。
「相手のことを考えているのだろう。それがお前の弱さだ」、という言葉は、それが事実なら、スポーツの指導者として、言語道断ではありませんか?


