鳥獣戯画2017年10月18日 01:17

 鳥獣戯画は、中世の風刺漫画ですよね。

 一庶民が殿上人を漫画にして笑う。ここではそういう意味に理解します。

 普通の人は、普段何の声も上げないで、毎日の生活を送っている。そういう意味で寡黙な人です。

 政治家は選挙のときだけ、こちらを見るふりをして、懸命に声を張り上げて、何かを訴えています。選挙が終われば、天上に帰り、我々のことなど忘れてしまうのかもしれません。
 大上段に構えて日本のことを語っていても、一人一人の市民の生活を知っているのでしょうか?

 このブログは、その寡黙な普通の人が、普段の生活の中で、声を上げようとする。そういう趣旨で作ります。選挙の後で、市民が寡黙でばかりあっては、忘れられてしまいます。

 風刺だとか、戯画とか、ちょっと斜に構えて、遠くから「からかう」という方が、私の性に合っているのですが、ここでは真面目に、真面目一方に、政治に向き合って行きたいと思います。

 なお、私は、これまで別に政治活動をしてきたわけではありません。大学のころも普通の学生生活を送っていましたが、いわゆるノン・ポリではありません。選挙大好きで、投票権を得てからは、国政選挙での投票を欠かしたことがありません。

 贔屓の政党があって、当時から中道です。今と違って、東西冷戦の最中で、政治的にも資本主義と社会主義の対立が中心であった時代です。中道というと、よく日和見などと小馬鹿にされたものです。それでも私は、一貫して、真ん中に拘ってきました。一歩もずれずに。

 兎に角、この間の野党の分裂には驚きました。新党(希望の党)ができて、大風が吹きそうな予感がしたら、そこに民進党が合流すると・・。一気に政権交代の機運が高まったと、うかつにもそう思いました。

 ところが、希望の党が保守という立場に拘泥し、リベラル派を排除したところから、おかしくなりました。

 私は、中道のリベラルという立場を堅持しています。最近の候補者の演説を聞いていると、最初に言い出した立憲民主党だけではなく、希望も、維新までも、人によっては、右でもない、左でもない、真ん中!と言っています。

 皆、真ん中では、訳が分かりません。次は、私なりに、「中道」の意味を考えてみます。

中道2017年10月18日 18:36

 今、衆議院選挙の選挙運動が行われています。街宣車が近くの道路を通ります。
 立憲民主党、希望の党、維新の会の、党首・代表や各候補者が、「右でも左でもない」と言っています。その意味はそう明白ではありません。

 「中道」という意味だろうか?

 希望の党は党代表が中道「保守」と名乗っていますし、立憲民主党は党首の演説を聴いていると、中道という言葉も使わないようです。維新も「中道」という意識があるのか分かりませんね。少なくともより保守の側であるような気がします。

 私が学生だった頃、かれこれ三十有余年以上も前には、その意味はもっと分かりやすかった。

 当時、自民党と社会党が少なくとも表面上は対峙しており、後は、共産党と、民社党、公明党が有力な政党でした。自民党が保守・右派であり、社会党と共産党が革新・左派、民社党と公明党が革新・中道とされていました。ちなみに私は民社党支持者でした。中道の勢力はとても小さかった。自民党単独政権が嫌と言うほど続いていて、革新勢力が全体として野党として、これと対立するというものでした。

 私は政治学者ではありません。学問的正確性ではなく、長年、有権者として政治を眺めてきた者としての、直感的理解を申し上げます。

 右とか左というのは、社会主義という政治経済思想・国家の仕組みに関する理解と関係します。もっと正確にいうと、マルクス・レーニン主義です。より正確には、中国共産党の思想(毛沢東)が若干これと区別されるのでしょう。

 現実の国際社会において、資本主義国家としての、アメリカ・西欧諸国と、社会主義国としてのソ連・東欧や中国などの国々が、冷戦を繰り広げていました。

 社会主義・共産主義を信奉し、社会主義国家になることを目指す傾向が左派で、これに反対して、資本主義・自由主義国家であり続けることを指向するのが右派だった。至極大雑把に言って、先にも述べたように、社会党、共産党が左派、自民党が右派と目されていたように思います。もっとも、わが国の政党の個々の政治家にも多様な考え方の分布が有り得たので、社会党の中にも、必ずしも、社会主義思想に共鳴しない人達も居ましたし、現実の国家としてあるいずれの社会主義国のそれとも異なる理念として、その思想を現実的課題として標榜する人達も居るのです。

 そして、革新勢力として自民党と対立しながら、必ずしも社会主義に関わらないのが、中道でありました。

 ちょっと長くなったし、余り難しくなってもいけないので、私自身の確信を開陳することにします。政治思想としての社会主義か否かを基準とするかつての「区分け」がもはや時代遅れになっており、現在では通用しないというものです。

 そこで、「右でもない、左でもない」という言葉を、もうイデオロギーなんてどうでもいいや、そんなもんぶっ飛ばせ!語弊があるかもしれませんけど。こういう意味に理解できるように思います。

 大部はしょります。随分前ですけど、自民党が分裂して、中道各党及び社会党が結びついて、連立政権を樹立しました。その後の、民主党や民進党は、保守革新中道を包括する新党であったし、実際に、このことを標榜していたのです。

 そして、自民党の小さな亀裂に乗じて「希望の党」ができると、その以前の新党であった民進党が再分裂し、立憲民主党が誕生した。

 このあたりが中道と言われるのかもしれませんが、

 結論を繰り返すと、「もはやイデオロギーに拘泥する時代は終わった」とすると、中道という言い方も、イデオロギーを基準とする右と左の対立を前提する言い方、その真ん中というものであるので、これもまた古くさいということになるかもしれません。

 それでは、社会主義という思想が全く無意味であるのかというと、そうではありません。このことは、次の記事で述べようと思います。

 右も左もないとして、それでも「保守」という言い方が残っているし、リベラルがどうやらこれと対立するみたいだなぁ~。

 ところが、自民党にも立派なリベラル派(派閥)が存在するし、民進党リベラル派を排除した希望の党がリベラルな政策を掲げています。小池代表記者会見によると、中道保守であり、かつ「多様性と寛容」とか環境保護などリベラルな政治目的を党の基本政策としていました。それに、立憲民主党の代表である枝野氏のインタビューを読むと、保守であり、リベラルだと述べて、独特の「保守」の使い方をしています。

 保守が同時にリベラルだ、あるいはリベラルが同時に保守だ?

 このことがそう不可解ということでもないでしょう。定義を明確にすれば、確かに同時に可能な政治的態度で有り得ます。マスコミの言葉の使い方が混乱を呼ぶのかもしれません。
 
 しかし、私は、左と右という対立軸はぶっ飛ばした上で、保守とリベラルという対立軸は是非残して欲しい。そうしないと、現実的具体的な、そのときの個別的政策選択の違いで分けるということになります。それは、「保守二大政党の政権交代の時代へ」といった、維新の主張に通じます。

 やはり、基本的な理念、根本的政策の違いによる、大まかな相違による選択肢が必要であるように思います。

 そこで、イデオロギーとは無関係な、保守とリベラルの根本的相違とは何でしょう。次に、このことを考えます。

 この記事の結論。
 1,右でも左でもない、イデオロギーなんてぶっ飛ばせ!
 2, それでも保守とリベラルの対立軸はどうしても必要だ。

立憲主義2017年10月19日 01:45

 予定とは異なり、立憲主義について、考えてみます。

 まず、前提として、私は、憲法の改正そのものを、何が何でも絶対にするべきではないという主張には違和感を覚えます。時代の価値観にそぐわなくなった部分については改正が考えられて当然だと思います。憲法と法の規定する手続に従い、必要な改正が有り得べきです。

 また、安保法制そのものについても、国の安全保障のあり方そのものの議論としては、どうしてもこれに反対する必然がある。それがリベラルだとするのは、論理の飛躍です。

 次に立憲主義がリベラルの試金石でしょうか?
 そうだとすると、まだ日本は明治維新のころと変わらないことになります。
憲法を制定して、その下に、国家を建設するべきかが、議論されていた頃です。

 わが国の政府が憲法を無視するとは到底思えません。与党・自民党もそうでしょう。例えば、自衛隊が憲法に反しないとする法解釈論を営々と行ってきたのですし、安保法制にしても、合憲としての法解釈を主張しているのです。その意味で、立憲主義に拠っているのは間違いがありません。

 但し、法解釈というのは、いかなる結論をも導き出す、論理の単なる技術でしかありません。「規範的議論」とされる、厳密な解釈原則に則っている推論である限り、解釈としては正当であると主張できます。

 例を挙げて、私の考えを説明しましょう。

 憲法第九条と自衛隊の問題です。30年ほど前までは、憲法学者の中では、自衛隊が九条に反しており、違憲であるとする学説が圧倒的通説でありました。憲法学者は、憲法の解釈を専門に研究する人達です。条文を文言に則して率直に読めば違憲という結論に至るのは自明です。

 ところが、知人の憲法学者に聞くところ、最近は、解釈改憲説が相当に有力ないし多数説であるというのです。解釈改憲によって、自衛隊が合憲になったというのはどういうことでしょう。

 警察予備隊から自衛隊が創設され随分と長い年月が経ちました。政府は最初から合憲としての解釈論を展開していたのですが、仮に、違憲だったとしても、自衛隊の存在という既成事実により、憲法が明示的な改正手続によらず、改正されてしまったということです。すなわち、国会議員の多数により構成される内閣=政府の解釈と国会の容認により、言い換えれば、国会議員の単純多数によって、憲法が改正されてしまった。

 現在ある政党の公約や党首・代表の言明などを前提に、憲法改正の要否についての立場を別にすると、既に国会議員の3分の2以上は、自衛隊合憲説です。

 もう一度、繰り返すと、自衛隊の存在そのものに限ると、憲法がその改正手続によらず、すなわち国民投票を経ずして、国会議員の多数決により、改正されたのです。

 既成事実によって、憲法が改正された!

 その上で、更に安保法制が制定されたのです。これについて、憲法学者の多くが未だに違憲説であるのは、よく知られていますよね。

 解釈改憲をいつまで続けるつもりなのでしょうか!!
 その範囲が一層拡大されたのです。

 これはいくら何でもおかしい。この意味で、真の意味で、日本が立憲主義なのか疑いたくなります。

 このことは、私の意見では、リベラルかどうかには関係がありません。単純に、法の手続が無視されている。日本において法の支配が完成していない。法の発展途上国であると言うしかない。

 本来、最高裁判所が、法の有権的で最終的な解釈機関であると、憲法上そう定められています。そうすると、例えば、自衛隊が違憲か否か、安保法制が違憲か否かは、裁判所が決めることであり、裁判所がそう判断したなら、国家の仕組みとしてその判断が最終的なものとなるはずです。

 ところが、わが国は、裁判所の憲法審査について間接審査制を取ると解されています。直接、自衛隊が違憲ですか?、安保法制が違憲ですか?とは聞けないのです。何らかの民事的な事件において、その前提問題として、裁判所に持っていくしかない。そして、そうしても、この種の問題について、裁判所は、「高度な政治問題」であるとか、あるいは手続的な技術的問題に依拠して、門前払いをしてしまいます。

 すると、わが国において、自衛隊が違憲であるか否かというような重要な問題について、政府や政治家、学者、評論家などの、合憲なり違憲なりという「意見」のみがあふれかえり、いつまで経ってもどちらか決まらないということになりました。最終的に解釈を決定するべき裁判所が沈黙を守るからです。

 ここで、アメリカ合衆国の事例を思い起こします。トランプ大統領が移民の入国を禁止した大統領令に署名し、全国の税関でこの命令が実行された、あの事件です。空港内が、アメリカに入国できない中東出身の米国居住者などで溢れかえりました。

 そのとき、連邦憲法に反するとして、大統領令の執行を差し止める決定(正確には仮処分)が裁判所によって下されると、大統領の命令が即日執行停止され、その日のうちに空港の混乱も終息しました。

 日本の裁判所は、行政府に弱すぎるのではないでしょうか。現在の制度では無理である以上、憲法裁判所の創設が必要である様に思われます。

 結論。
1,立憲主義は当然であって、リベラルか否かに関わらない。
2,解釈改憲の積み重ねが問題であって、法の手続に従わなければならない。
3,憲法裁判所の創設が急務である。

リベラルの試金石2017年10月20日 00:21

右でも左でもない。イデオロギーに関係ない。

としても、リベラルと保守の違いはあって欲しい。

それは何でしょう?

様々な考え方が有り得るのは当然でしょう。

次に述べるのは、私の考えるリベラルの試金石です。

ひと言でいうと、「声を上げることのできない弱者・少数者の声を代弁すること」です。

 次に、リストを掲げます。必ずしも包括的ではありません。

◎ 民族主義と結びつくファシズム(一国主義・国粋主義)とは、いかようにも相容れないこと。

◎ そこに住む人々を、この国、この地方の構成員として、多様な人々を受け入れること。その受容は心の障壁の撤廃にも及ぶこと。すなわち、それぞれの人の違いを認め合い、その相違に対して寛容であること、そのためのより積極的な施策を含むこと。

○ 文化伝統に関する法規制の緩和により、より一層、個人の自己決定権を尊重すること。

○ 広い意味で消費者主権原則に基づくこと。

○ 環境保護のための予防原則に立脚すること。


 これらの要素について、保守主義を標榜する人達も、一顧だにしないということはむしろ、稀でしょう。しかし、その程度の差こそ重要だと思います。

 以上の諸点については、また今度の機会に、もう少し具体的に触れたいと思います。

所得再分配....?2017年10月21日 14:28

所得再分配とはどういう政策でしょうか。

 私は経済学者ではありません。学問的な正確性を度外視して、私の理解を述べます。

 皆さん、仕事をして、カネを稼ぎますよね。もし税金(広い意味で)がなかったら!

 毎月の給料明細を見ながら、「公」のために取られるお金の大きさに、いつもため息が出ます。税金フリーの天国があれば、もっと遊べるし、物が買えるのに。もっとも、私は一層、投資に走るだろうと思いますが。 (^◇^;)

 国が、警察のみ用意して、最低限、殺人や窃盗などの犯罪のみ取り締まり、経済政策としては、完全に自由にしたら。

 完全な自由競争の社会です。弱肉強食の資本主義社会に起こったこと。

 社会は一部の成功者と多くの失敗者に分かれました。ごく一部のもの凄い大金持ちと、裕福ではない多くの庶民、それに生活困窮者に分裂したのです。

 そして、完全に自由な資本主義は暴走を始め、第二次世界大戦前のバブル崩壊が世界大恐慌を産み出しました。

 その結果、経済が停滞し、夥しい失業者と大量の生活困窮者を生じました。そのときアメリカ合衆国大統領ルーズベルトがしたことは、公共投資により、国が企業に大規模な土木工事を発注し、企業が人を雇うように仕向けた。そうして雇用を産み出すことでした。

 完全に自由な資本主義は失敗する。

 そこで、完全な自由に委ねるのではなく、国が、社会的弱者を保護するための法規制を行い、また、公共投資等によって、計画的に経済をコントロールする。現在の先進的な地域の資本主義は、いずれの国でも、この意味で修正されています。

 修正資本主義です。社会科の教科書に載っていましたね。

 戦後の日本もそうです。

 敗戦後、自民党の長期政権下、所得再分配政策が取られました。

 累進課税によって、所得の多い層からより多くの税金を取って、社会保障や福祉政策のための費用に充てる。年金制度を整備して、働けなくなった老後も安心して暮らせるようにする。働ける世代が、皆でお金を出し合って、この国に住む全ての人の面倒を見てあげる。

 現在、誰も、この政策を廃棄するべきだ。完全な自由経済主義によるべきだなんて言う人は居ませんよね。日本はヨーロッパ型の、ゆりかごから墓場までの、社会保障制度の完備した国を目指した。

 アメリカは少し事情が違うみたいです。自己の才覚によって一攫千金を夢見る、アメリカンドリームが健在で、自由競争社会であることが、社会の根本的価値観となっているようです。むしろ格差を厭わない。

 医療保険についての国民皆保険制度もない国でした。基本的に医療保険は民間の保険会社から購入するので、普通の生活を送っている人達、ブルーカラーの人達が買える保険は、保険金のもらえる疾病の範囲が狭いものしかありません。そこで、保険会社との保険範囲を巡る紛争が絶えないのです。

 そこに登場したのが、オバマケアでした。日本の健康保険制度とは異なるのですが、国民皆保険制度の導入です。ところが、これに対して、税金の使い途としておかしいとして、自由経済の信奉者がティー・パーティーという運動を起こしました。現在は、トランプ大統領がオバマケアを廃止しようとしています。

 こんな熾烈な競争社会は、日本人には合わない、と私は思います。

 もっとも、アメリカにしても、社会保障制度は存在するので、国のお金の使い方、あるいは配分方法の相違であり、所得再分配の方策は別途存在するとはいえるでしょう。

 高度経済成長を達成した日本は、時としてベビーブームに沸き、多くの若者、働く世代が稼ぐお金を、少数の、老後を迎えた人々に回して、うまくやっていました。

 ところが、バブルがはじけて経済が停滞した後、少子高齢化社会を迎え、人口減少社会が到来すると、寸胴型の人口構成になっていて、国の財政がどんどん赤字になっていくことが問題視されるようになりました。

 足らない分を赤字国債発行で賄うというのは、借金を借金で返す火の車だということです。

 国が破産して、社会保障制度や年金制度が破綻する! 社会不安を惹起し、いよいよ消費も冷え込んでしまいます。

 これを何とかしようとして、社会保障支出をカットし、年金額も減らして、消費税を上げて・・・。行政改革によって、国の支出全般を少しでも減らして、と。それでも所得再分配政策を止めようという議論はどこからも生じません。

 でも何だかうまくいってない。

 戦後最長の好景気だ。株価が上がっている。

 株価が上がるのは当然です。企業の内部留保が大きくなると、会社の資産価値あがります。これを全体の発行済み株式の数で割ったものが、株価の基礎となるからです。

 将来の不安もあるし、今の生活から、満足感が得られない。好景気の実感が湧かない。

 多くのお父さん・お母さんは、住宅ローンと教育ローンの二重のローンを抱えて、残業だ、パートだと、懸命に働いている。子供を大学にやるために!
子供の教育費用が大変だ。小学校から、塾に通わせ、高校に入ると授業料の他に、予備校に行かせて、大学に入ったとなると、私立では文系で年間100万円、4年で400万円、理系だと、年間200万円、4年で800万円が相場かな。
専門学校に行っても2年間ないし3年間、同じようにカネがいる。他の地方で下宿させるとなると、最低でも月6万円を下らない仕送りがいるでしょう。6×12=72(万円)。6万だと、アパート代ぐらいにしかならないしね。後は、子供のバイトに任せて、自分たちが生活を切り詰めてでも、なんとかしよう! 

 現在の日本の多くの中間層?の実感ではないでしょうか。

 これを聞いたら、若い人が、もう子供なんかいらない、と言うでしょう。

 そもそも若い人達一般の生活はどうでしょう。いっぱいいっぱい?
所帯を持つなんて、考えられない、と言うかもしれません。

 子供の貧困問題、若者の貧困問題、高齢者貧困問題。貧困問題が拡大していることが社会問題となっています。

 その一方で、確かに、極めて裕福な一部の人達がある。

 こういうのを格差というのです。

 経済情勢が高度経済成長期とはまるで異なります。少子高齢化社会です。従って、その主張は、その構造を何とか改めて、お金の使い途を考えながら、あの頃を取り戻そうということではないでしょうか。格差の少ない、中間層の分厚い社会にするということでしょう。

 もっともどうできるか、今後、政府の政策を見守って行きたいと思います。

  私が重要だと思うのは、介護士や保育士の待遇改善です。

 これらの職種は、需要が多いのに、供給が足りない。端的に言えば、求人があっても、給料が安いのに仕事がきついから、人が来ない。介護施設や保育所を増やしても、人が居なけれどうにもなりません。

 「人」、人材への投資が、結果的に、若者の雇用を生み、その他の人々の介護や子育て負担の軽減に通じるし、更に、若者が子供をもうける意欲に通じる可能性を秘めているように思えます。

 また、イノベーションを促すためのベンチャー支援や、高等教育を含めた教育の無償化、大学・研究機関への支援により社会還元を図ることなど、これも人への投資です。

 単純労働を含めて、外国からの移民を計画的に受け入れるとすると、公民教育や同化定着のためのコストがかかります。しかし、これも不可避的な投資と考えることも可能でしょう。

 公共投資=箱物への投資(ハードな公共投資)という観念を変えて、人への公共投資(ソフトな公共投資)という考え方があっても良いのではないでしょうか。長い目でその効果を待つべきでしょう。

結論
1,主要国の資本主義は修正資本主義であり、何らかの所得再分配政策を実施している。
2,戦後日本は所得再分配政策の下で、社会福祉の充実した国家を目指した。このことが前提であるのは、主要政党で変わらない。リベラルも保守も同じだ。
3,公のお金の徴収方法と再分配の方法については、対立がある。
4,ハードな公共投資からソフトな公共投資へ。

リベラルの経済政策....?2017年10月23日 17:57

衆議院選挙が終わりました。

最近、気になったのは、経済政策でリベラルと保守の対立とは何か?ということです。

大きな政府か小さな政府か、という対立軸がある、というのはよく耳にします。

どの点に着目して、大きい、小さいというのかはそうはっきりしません。

「公」が、累進課税によって、金持ちから特に、たくさんの税金を取って、市民に分配する。そうして、経済状態の格差をできるだけ減らそうとすれば、それは「大きな政府」なのでしょう。
公共事業の支出を拡大して、経済の活性化を図るという方向性も「大きな政府」だと言える。

他方で、政府支出を減らして、経済活動の自由にできるだけ委ねるべきだ。市場の原理、自由競争に任せておけば、政府が色々するよりも、良い結果が得られる。経済活動を縛る法規制も無くすべきだというのは「小さな政府」の主張でしょう。

それぞれの極端な立場を除くとしても、大きな方向性として、政党毎にその違いはあります。

そこから、保守主義とリベラルの違いという分け方にも一理ある。格差是正と平等主義か経済活動の自由かの、大まかな相違です。


しかし、例えば、この政策が大きな政府を指向し、この政策が小さな政府を指向するというような、同一の座標軸上に置かれた物差しがあり、大きな政府政を指向する政策の方向に+何ポイント、小さな政府・政策の方向に-何ポイント進むと仮定します。


現実の政党の具体的な経済政策毎にこのポイントを割り振るとして、各政党のポイント総計が、大小のどちらに何ポイントずれているのでしょうか。

例えば、行政改革によって、政府の人件費や仕事を減らし、支出を減少させると、小さな政府方向ににXポイント進むが、消費税増税によって、高齢層や若者層への公からの給付を増やすと、大きな政府の方向にYポイント進むなら、そのポイント差が、いずれに向かうかによって、大きな政府指向というのか、小さな政府指向と言うのかを決めるのでしょうか。

ここで言いたいことは、各党の現実の政策というのは、大きな政府指向、小さな政府指向の様々な政策を複雑に組み合わせるものであって、一概に、大きな政府、小さな政府という区別ができないのではないかということです。

それで良いはずですよね。

前回の記事で述べたように、自民党長期政権下における、55年体制という、自民党と社会党の裏取引もあったとされる政治状況の下で、所得再分配政策が進められ、それなりに社会保障の充実した国になった。大規模な公共事業も行われ、ひたすら経済成長が目指された。これは全く大きな政府指向の政策だったと言えるでしょう。

現在、少子高齢化社会となって、財政破綻の危機を迎えているのは、社会構造の変化を計算に入れていなかったためであり、泡を食って何とかしようとしている。

それでも、各党の政策では、アメリカ型の激烈な自由競争社会に向かおうとする主張はなくて、社会保障を維持しつつ、財政危機を乗り越える議論です。

この観点からは、田原総一朗氏が、ブログやテレビ討論で主張したように、日本には、リベラルがないのではなくて、保守がないのです。経済政策に関しては、総リベラル社会だと言って過言ではない。

また、規制緩和を推し進め、経済活動の自由をある程度容認するという方向は、「保守」主義にしかあり得ないのでしょうか。国の経済状態が良くなって、税収が上がり、社会保障ないし社会的給付の原資に充てることができる。その分配については、弱者優先か、高齢者や若者のいずれへの給付を多くするかなど、方法の相違が有り得るし、税金の徴収方法や税率の問題も別に有り得ます。

古い時代には、自民党内の現実的な政策選択としての主張の相違が、自民党総裁選の争点であり、国民・市民の関心事項でした。

結論
1、大きな政府、小さな政府という区別では、わが国の、リベラルと保守を分けることが難しい。
2、税金の徴収方法と社会的給付の分配方法に関して、格差是正と平等主義に一層着目するか、自由競争を指向するかの、大まかな違いが理念としてはある。しかし、現実の政策としては、そんなに大きな違いがあるようにはみえない。

差別の問題と、下からの民主主義2017年10月26日 00:26

人権条約というのをご存知ですか?

1976年に発効した国際人権規約という包括的な条約のほか、1969年発効の人種差別撤廃条約、1981年発効の女子差別撤廃条約という二つの条約があります。この二つの条約について、少しお話しします。

日本は、女子差別撤廃条約を1985年に、人種差別撤廃条約を1995年に批准しました。

女子差別撤廃条約は、女性に対するあらゆる形態の差別を禁止する条約です。

そのために、雇用機会均等法が制定され、国籍法が改正されました。

この条約への加入と、条約上の義務を充たすための国内法整備により、女性の社会進出が一層推し進められたのです。

それまで女性保護の名目で、女性であることを理由に就職ができなかった様々な職種が解放されました。電車運転手やタクシー運転手などもその例です。今では良く見かけますね。

それ以前は、女性であるために、たとえ希望しても、決してその職に就くことが許されなかった。

外資を除くと、大企業の総合職への就職についても相当制限的でした。例えば、都市銀行についても、窓口業務を基本とする一般職ではなく、男性と同等の条件で転勤・昇進の有り得る総合職には、それまでほとんど女性採用が無かったんです。均等法における「努力義務」の規定のおかげです。

国立大学も、今では女性教員の採用が奨励されています。文科省が数値目標を言ってくるぐらいです。実は、筆者の専門分野である、法律は、それまで極めて女性研究者の少ない分野の一つでしたが、現在は相当数の女性が大学に採用されています。

これらの社会変革を生じたのが、約30年ほど前の条約加入をきっかけにしているのです。

30年前のことですよ。そんなに古い話ではありません。

この条約の義務履行をわが国に求めている国際機関によると、女性管理職の割合や、賃金などの雇用条件の差別、人身売買被害者への救済対策について、問題視されています。

民法の婚姻年齢が男女間で異なることも指摘されていましたが、現在の民法改正作業において、改められるようです。

なんと緩慢な歩みでしょうか!

次に、人種差別撤廃条約です。

1969年に国際的には成立・発効している条約について、わが国はほんの20年ほど前に漸く加入しました。

これは、あらゆる形態の人種差別を禁止する条約です。

人種のほか、民族、肌の色、出自などに基づく差別を禁止しています。国や地方公共団体が差別行為を行わないこと。そして、一般社会における私人間の差別を撤廃するための法律を作ることが求められています。

この加入時に、わが国は、現行法で十分条約の義務を充たすことができると考えたので、新たな差別禁止法などは立法していません。

外国人おことわりの張り紙を貼って、外国人女性を店から追い出した宝石店や、やはり外国人の入浴を拒否したスーパー銭湯の運営会社が、差別行為を理由に民事的な損害賠償を払わなければならなくなりました。裁判は、この条約を根拠としています。

この条約履行のための国際機関により、日本は、被差別部落の問題やアイヌ民族の問題を指摘されています。

筆者は、被差別部落、アイヌ民族のほかにも、在日朝鮮・韓国人の問題が日本固有の最も根深い問題であると思います。

これらの人達は、どんなに長く日本に住んでいても、日本に生まれ育った人達であっても、今現在の問題として、結婚・就職差別が厳然として存在している。

私の母校の一年後輩に、在日の学生がいました。大変優秀な人なのですが、司法試験の口頭試験に三度落ちてしまいました。筆記試験こそ難関なのですが、口頭試験はほぼ通る試験なのです。彼は、差別のせいかと悲観して、他の国立大学の医学部を受験し、一発で合格しました。ただ、医学部に合格した年に、司法試験の最終合格を果たし、弁護士資格を得ています。

司法試験のことが差別を原因とするかどうかは分かりませんが、この事例の意味するところは、これほど優秀な学生が、難関の資格試験に合格すること以外に、良い就職が考えられないということです。

差別を禁止するためのより積極的な施策を国・公共団体に義務付けること、私人間の差別を禁止し、助長する行為を罰することを含む、包括的な差別禁止法が望まれます。

最近できた、障害者差別解消法にしても、差別禁止規定は実は「努力義務」に留まります。

ここで、この回に、もう一つ是非とも主張したいことがあります。

女子差別や人種差別など、国際条約に加入して、国が条約に義務付けられる形で、漸く、法ができ、あるいは裁判の根拠とされるようになった。

草の根の運動を地道に行ってきた人達がいることも否定しません。しかし、筆者が言いたいのは、そのような運動が社会全体を揺るがすような大きな運動につながって、世論が動いた、その結果として、社会の変革がなされた、というものではないということです。「上」からの、一歩前進ですね。

女性で無い者、被差別対象ではない人達が、そういう声をくみ取り、社会改革のために一緒に立ち上がるということが余り感じられませんね。傍観者社会です。

もっとも、私自身がそのような運動に参画してきたというわけではありまんので、偉そうにはとても言えませんが。

草の根からの、「下」からの、民主主義によって、社会変革が成し遂げられるというのが、理想でしょう。


結論
1,より積極的な規定を含む包括的な差別禁止法が必要である。
2,日本の社会は少数者・マイノリティに冷たい傍観者社会だ。
3,下からの民主主義がどうすれば生まれるのか、考えなければいけない。

リベラルの経済政策....?22017年10月27日 00:25

前の記事の続きです。
25日に投稿した同じテーマ(リベラルの経済政策...?2)の記事から冗長な表現を取りました。内容は同じです。

リベラル=労働者の味方、保守=大企業の味方、という図式化された判断様式は、もう古いのではないでしょうか。

現実の経済政策というのは、そう簡単な図式で決定できるものではないです。

消費増税や法人税などの税金の問題についても、消費増税=庶民の敵、法人税減税=企業の味方とも言い切れないですよね。

消費増税が、社会保障・年金の原資になるのならば、そうして将来への社会不安を払拭できる基盤ができるなら、一般市民にとっても悪いことではないです。

アメリカと異なり、福祉大国となった先進ヨーロッパ各国の消費税が20%程度であることは知られています。

法人税減税の理由は何でしょう。大企業を喜ばせるためでしょうか。グローバル化された現在の国際経済において、企業の国際競争力を付けること、あるいは、外国からの投資をわが国に呼び込むことが重要であるように思われます。世界の有力企業は、法人税の安い、よく稼げる国に進出して、会社を作り、雇用を生み出し、税金をその国で納めます。

いずれにせよ、結果的に、賃金や社会的給付によって、一般市民一人一人の手に多くのお金が渡れば良い。

大きな政府を指向しているわが国において、国がその経済政策を決定するに当たっては、どうすればパイが大きくなり、公平に分配できるか、様々な要素を考えて、その政策を決定しないといけない。

経済学者ではない筆者にこの点の定見があるわけではありません。

筆者自身が、消費増税論者で、法人税減税を主張しているのでは決してありません。市民が、何で企業の税金を下げて、消費税を上げるのか、疑問に思っているなら、その理由に納得する必要があるという要素もあるでしょう。

ただ、現実の政策選択においては、相反するかもしれない多様な考慮要素を柔軟に、そのときの経済情勢も勘案して、市民が手にするパイを最大にするという点で、リベラルと保守に決定的な相違があるべきではないし、実際にないと思います。

繰り返すと、次のような図式化された一面的な見方をしている政党はありません。例えば、「労働者の味方」だから、消費税は絶対にない。「大企業の味方」だから、法人税は必ず0にする。という、規範的な政策判断は有り得ないと言うのです。

失政も当然あり得ます。そのときの政府が失敗したら、さっさと替えれば良いのです。

以上を前提とした上で、庶民生活の目線でものを考えているのか、あるいは企業活動の自由を信奉しているのかの違いを見極めることができるかもしれません。



結論
 リベラルだから、保守だから、という教条主義的で一面的な見方は、現実の経済政策については当てはまらない。

リベラル・保守の再定義ー田中直毅氏の要約2017年10月27日 02:01

日経新聞26日朝刊(電子版)に、国際公共政策研究センター理事長・田中直毅氏の投稿した記事が掲載されています。

「衆院選後の展望と課題(上)ー保守・リベラルの再定義を」というものです。

筆者の問題関心に則して、その要約をして、メモ書きとします。

重なる側面もあるので、次回以降、簡単に持論を展開したいと思います。いつもは、誰にでも理解してもらえる平易さを殊の外心がけているんですが、今回は、要約なので若干高度な議論となってしまいます。ご容赦。

以下、田中氏の記事の要約です。

日本の政治は財政規律を無視してきたので、国家債務が破綻の危機に瀕していること、北朝鮮の核保有により、日米安保体制が想定していた事態を超えてしまったこと、以上から現在の日本は戦後の体制から離れてしまった。

前者については、特に保守が罪深い。高度経済成長下、企業利益と支払賃金総額が共に増加していったので、保守とリベラルの対立もそう顕在しなかった。

しかし、現代は、グローバリズムとコーポレートガバナンスへの準拠の必要な企業経営者と、賃金決定や内部留保にまで介入しようとする保守政治家や官僚集団との対立が生じている。

核拡散が極東に生じたとしても、国際社会での日本の位置づけを未来の国際秩序づくりへの貢献という面で鍛え直すべきである、とする。

日本の保守が日本社会の持続性を損ない、国民相互間の分断を導く危険があり、他方で、未来への挑戦に高い価値を置くリベラルにも見るべきものがない。

そこで、日米安保堅持による日米同盟の維持と、地球的課題への具体的貢献を通じた世界への広範な関与という対立、秩序維持に高い価値を置く保守と、自由の確保、自律的秩序形成、未来への挑戦に高い価値を置くリベラルとの対立という、縦横の軸で区切られた四つの新政治空間に位置付けられる、新たな保守とリベラルの軸の構築が待たれる、というのが結論となる。

極東核拡散と日米安保2017年10月28日 01:11

北朝鮮がミサイルを発射したら?

青空の真ん中、白雲の隅の一点がぴかっと光った。
「あっ」と思ったら、辺り一面が真っ白になって
一瞬の内に何もかも無くなった。
私は今何処にいるのだろう・・・

核弾頭を積んでいたら、どうしようも無いですね。

日本の迎撃能力は完全ではない、と言われています。
例え、PAC3がミサイル着弾直前の低空域で迎撃できたとしても、放射能の影響は確実に生じるでしょう。

安保法によって、自衛艦がアメリカ軍艦船と一緒に、周辺領域に出動したとしても、その遥か頭上を超えて行きますし、何処を通るか予想できませんよね。

トランプ大統領が「100パーセント日本を守る」と口約束してくれても、真剣に守ってくれるのでしょうか。核弾頭を積んだミサイルから、アメリカ領域を守ることが先でしょう。
アメリカ、ファーストでしょ。

アメリカが北朝鮮の掃討作戦を行なっても、北朝鮮の核攻撃能力を、瞬時に壊滅させることができないので、破壊を免れたミサイルが、日本や韓国に飛んでくることが予想されます。何処かの都市が壊滅的な打撃を被ります。

北朝鮮の核ミサイルの保有は、日米安保体制の想定を超えているのです。

このまま、北朝鮮が核弾道ミサイルの保有を続けるとしたら、日本の安全保障はどのように達成されるのでしょうか。

日米の軍事同盟によって北朝鮮を跪かせると言っても、徒らに緊張を煽ります。

田中直毅氏は、環境保護に対する貢献など、世界への多角的な関与によって、日本の国際的な評価を高めることを、その方法としています。

世界中の国々から尊重される評価の高い国に対しては、容易に手出しができないということでしょう。

日本が国際的にリーダーシップを取ることができるでしょうか?
そのためには高い理念に導かれる高い理想を掲げ、常に、広く国際的に発信している必要があるでしょう。

これまでは、日本が主体的となって、核廃絶のためのたくさんの国連決議を成立させて来ました。ところが、今日のニュースによると、現在提案している決議について、反対する国が続出しており、通過が危ぶまれているのだそうです。核兵器禁止条約への不参加が原因です。核兵器禁止条約の採択時には、「貴方がここに居てくれれば良かった」と書いた折り鶴が、その席に置いてありました。

なぜ、条約交渉自体から回避したのか。日米安保の下で、核の傘に入っている日本がアメリカの信頼を裏切り、自己矛盾に陥るからです。

日本は核保有国と非核保有国の橋渡しをして、核兵器の縮減に努める、そのために、核兵器禁止条約には加入しないという。
参照、佐藤丙午・拓殖大学教授の「核なき世界を望むなら、日本は核兵器禁止条約に参加してはいけない」(2017年8月21日・現代ビジネス(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52629))

非核保有国全体の、日本に対する不信感の中で、橋渡しが出来るわけがないです。核の傘に入ることが安全保障の中核であるとしても、条約に加入することは可能なのです。アメリカに気遣ったのが、本当の理由です。

核廃絶に向けた努力をするべきだというのなら、中国と同時に、アメリカにもはっきりとそう言えば良い。

この他にも、経済問題以外に日本が国際的に先頭に立って貢献し得たという事例がどれほどあるでしょう。

国際的な、環境、文化、人権、人道の分野での積極的な発信が必要だと考えます。国際的な関心事に対しては、まずアメリカとEUがどう出るかを見て、更に、経済の問題でなければ、世界の国々の多くの態度決定を待って、ゆっくりと輪に入ろうかな、ということが多い国ではないでしょうか。目立つことを避けて、協調性を第一に考える・・・日本人の文化ですか?

それでは、世界の国々から尊重される、評価の高い国となることはできません。外務官僚ではなく、政治が決めることが必要です。

例えば、他国内で生じた重大な人権侵害に対しては、継続して注文を付けていくという態度を示すべきです。国際人権法・人道法の観点から論理的に理由づけなければなりません。それがどんな国であっても!

この観点からは、中国に対しても、「南京」は譲歩しても、「天安門」の追求を怠らないという態度を取ることができるでしょう。

外交・安全保障が現実的でなければならない、というのは真理です。しかし、高い理想、理念の下に、現実的な外交を、多面的に進めるというのが、正道でしょう。

日本の政治家というのは、国際音痴が多いように思われます。島国根性の国民からは、島国根性の政治家しか生まれないのでしょうか。