日本が貿易戦争を始めたよ。 ― 2019年07月06日 17:36
体制に批判的であることは若者の特権かもしれません。防弾少年団(BTS)が日本とアメリカでも活躍する韓国のグループですね。メンバーの一人が原爆投下を肯定するようなメッセージの描かれたTシャツを着用していたことが問題となり、日本のテレビ番組の出演を辞退した事件がありました。朝鮮半島を日本の占領から解放したのがアメリカなら、その戦争を終わらせたアメリカの原爆投下という行為が、韓国人からは肯定できるというものでした。きっと彼らは広島にある原爆資料館を訪れたことがないのでしょうね。私は、随分前に見学しました。原爆によって真っ黒焦げになった弁当箱や、ぐにゃぐにゃに折れ曲がった自転車が、その持ち主だった子供達のことを思わせて、嗚咽を堪えられなくなりました。そのTシャツ事件の後も、彼らは日本のヒット・チャートを賑わす常連です。
戦前、大日本帝国の統治下にあった時代に、朝鮮社会の中枢にいた人達が、後の韓国の政治経済の中心を占める存在となった例がままあり、戦後、日本の経済援助の下、韓国の経済発展を主導したのですが、この人達を韓国では親日と呼びます。今日の韓国社会では目の敵にされます。政治的な親日排斥運動がさかんです。日本人の排斥ではありません。韓国内における反体制運動は、長く続いた戦後韓国の軍事政権や日本と「癒着した」旧保守派政権に向かうので、親日排斥や反日的な傾向と結びつくきらいがあるようです。
先日、関西空港から電車に乗って都心部に移動中、二人連れの若者が、車窓に張り付くようにして熱心に写真を取っていました。偶然にJRのアンケート調査があり、片言の日本語で、もう何度も日本を訪れていると話していました。韓国の若者達でした。調査員の女性に対して、「とても日本が好きだ」とくったくなく話しているところは大変好感が持てました。
1,対韓国輸出規制強化
7月1日に発表された韓国向け輸出規制強化が4日に発動されました。韓国政府には事前に何も連絡せず、極めて迅速に実効性のある経済的な措置が発動されました。
ところで、トランプ大統領の電撃的な北朝鮮訪問がありました。半ば茅の外に置かれたような韓国政府ですが、米朝の関係が改善されるなら文在寅大統領の支持基盤が安定するかと思われた、まさにその矢先に、半導体という韓国経済の向こう臑を蹴ったのです。韓国政府及び社会の動揺が隠せません。もっとも逆に文大統領の支持率が上がったという報道を目にしましたが、いわば有事の際の一時的なご祝儀でしょう。これが法廷であれば、このような不意打ちを行い得ることこそ、敏腕法律家の証しです。実際に国内裁判では常套手段です。
半導体製造に係る製品の輸出許可手続を、安全保障上の懸念から厳格化するという措置です。国際法(WTO法)及び国内法上、これがどのような問題であり、許容されるかという法的問題と、措置の背景となった政治・外交上の問題を分けて論じる必要があります。
外交的問題としては、慰安婦問題及び元徴用工問題、自衛隊機レーダー照射など、韓国政府の行動に端を発する日韓の関係悪化が背景としてあります。元徴用工問題に関して、日本政府が、日韓請求権協定という国際法に基づき、韓国政府の適切な行動を求め、更に協議、国際仲裁の申し入れを行ったのに対して、韓国政府が無視を続けたことが今回の措置の直接の引き金となりました。ここに至り、日本政府が業を煮やしたというべきでしょう。しかし、それでは国家が経済的な措置を無制約に行えるかというと、そうではありません。これが法的問題です。これも国内法と国際法に分けて考察する必要があります。
国内法上は完全に合法的であると、その国の政府・議会・裁判所が宣明しても、国際法上は違法である場合が有り得るのであり、その場合に国家責任を生じるのです。国際法違反により不利益を被る他国が国際法違反として非難します。各国国内(法)の立場と、各国間に存在する国際(法)の中立的立場を区別しなければなりません。韓国政府が韓国は三権分立の確立した民主国家であると胸を張っても、国際法違反の誹りを免れることはできないのです。
ある韓国高官がアメリカの経済制裁は、国内法的根拠と国際法的な根拠が示されているので理解できるが、対韓国向けの日本の措置はそうではないので不当であると述べたという報道がありました。このことは全くの誤解でしょう。まず、アメリカの発動した対中国経済制裁が国内法的根拠に基づくことは当然であるとしても、WTO法上の正当化を十分行っているとは到底思えません。そもそも法治国家である以上、政府の行い得る行政的措置の全てが法律上の根拠を必要とすることは当たり前です。非常時の大統領権限など広範な裁量余地の認められる場合であっても、その裁量は法が与えたものです。アメリカは、貿易関連の詳細な法を有する国であることは有名であり、これまでも国内法上の輸出入規制を頻繁に発動してきたのです。歴史上、その国際法違反も夙に問題視されてきました。
2,国内法の根拠
日本の今回の措置は、半導体や軍需物資の製造などに使われる原材料3品目について、日本からの輸出を規制するものです。報道によると、菅官房長官が記者会見において、「(日韓)両国間で積み重ねてきた友好協力関係に反する韓国側の否定的な動きが相次ぎ、その上に(元徴用工問題で)G20(サミット)までに満足する解決策が示されなかった。信頼関係が著しく損なわれたことは言わざるをえない」と、その背景を明らかにしています。
もともと軍需物資に転用可能な製品の輸出に許可が必要であることは、外国為替及び外国貿易法48条1項に基づくものです。同条の規定は、「国際的な平和及び安全の維持を妨げることとなると認められるものとして政令で定める特定の地域を仕向地とする特定の種類の貨物の輸出をしようとする者は、政令で定めるところにより、経済産業大臣の許可を受けなければならない」、としています。
中長距離弾道ミサイルや化学兵器など大量破壊兵器の製造に用いることのできる製品が、日本から輸出されることを規制することは、日本及び国際の安全と平和のために必要不可欠なことです。
そして同項中の政令が輸出貿易管理令です。輸出貿易管理令に基づき、外国為替及び外国貿易法48条1項の適用除外が規定されており、その別表三の優遇を受け得る国のリストに韓国が掲げられています。4日に発動された措置が、暫定的に三品目のみについて優遇措置を撤回し、通常の輸出許可手続を要するとするというものです。今後、別表三のリストから、韓国を外すことが予定されています。(輸出貿易管理令の一部を改正する政令案に対する意見募集について。https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=595119079&Mode=0) その場合に、輸出許可の厳密な運用がより広範囲の製品に及ぶことなります。
3,経済制裁と国際法
国連決議や、同盟国(この場合、ほぼアメリカ)との共通の利益に基づく行為として、経済制裁が実施され、それに日本も参加してきました。国際法に違反して、大量破壊兵器を保有し、あるいは核開発を進める国に対して、他国と共同して経済制裁を加える場合です。今回の日本の措置は、これとは異なります。
二国間の外交上の問題について、その解決のために経済的措置を行うことが、そもそも許されるのでしょうか? 関税の決定や輸出入管理、外国為替規制を行うことは、その国の主権に属する事項であり、自由に決定できることです。これが前提となります。アメリカは、第二次大戦後においても、外交的問題を解決するための、筋違いかもしれない経済制裁を行う常習犯です。1981年のポーランド危機は、当時社会主義国であったポーランドが自主管理労組連帯を弾圧した事件です。この背後にソビエト連邦が存在するとして、アメリカのレーガン政権がソ連に対して経済制裁を発動し、西欧諸国とソ連を繋ぐガスパイプラインの建設を止めさせようとしました。このとき、アメリカが国内法である輸出管理法の域外適用を行うことを、西欧各国が国際法違反として非難したのです。レーガン大統領と、イギリスのサッチャー首相が真っ向からぶつかり合った事件でした。国際法違反となる域外適用の限界については、実質的な関連のある国の法規制のみが許されるとする国際法が確立されているとする学説もありますが、未だ、未解決の問題です。
もっと遡って、大戦前の国際社会には、これを規制する国際法が十分発達していたとは言い難いでしょう。このとき、国際社会は先進国=列強のみにより構成され、地球上の大部分の地域がその植民地として存在していました。大恐慌のときに、各国が自国通貨の切り下げ競争と、宗主国を中心とした植民地間でのブロック経済に走りました。ブロック内では低関税に、ブロック外との通商には高関税を課したのです。アメリカが広大な領域と豊富な資源に基づき、モンロー主義でやって行けたのに対して、列強の一でありながら、ブロック経済にはじかれて苦境に立たされたのが、日本、ドイツ、イタリアの三国でした。第二次世界大戦に通じる重大な理由の一つであることが定説となっています。そこで、戦後の国際社会は国際経済のルールを創ったのです。それがGATTであり、IMFです。この国際法は現在に至るまで発展を続けています。
法のない、あるいは法の未発達な社会は、弱肉強食の社会であり、全ての構成員が安全に生活のできるところではないので、皆で協力して、法を創り、お互いにこれに拘束されることを約束して、漸くその社会が持続し得たのです。国際社会は各国家を構成員としています。その社会の法である国際法は、一般の法よりも遅れて、近代以降に漸く成立したのです。大戦後、開発途上国が独立し、国際社会の一員となりました。現代の国際社会には、国際経済に関する精細な法が存在します。そこで、最初の問いです。
二国間の外交上の問題について、その解決のために経済的措置を行うことが、そもそも許されるのでしょうか? その答えは、国際経済に関する国際法の下に、その許容する範囲内でのみ許されるというものです。日本の対韓国向け輸出規制については、GATT=WTOが問題となります。その制約下においてのみ可能です。
4,GATT=WTO
WTOが自由貿易主義を根本原則とする国際経済の憲法たる位置づけを有します。しかし、GATT第二十条において、輸出入の規制が一般的に許される条件が規定されています。例えば、その国において、違法とされるドラッグやわいせつ物の輸入禁止や希少鉱物資源の輸出規制もこの条項において認められます。しかし、同条の次の部分が大切です。
「ただし、それらの措置を、同様の条件の下にある諸国の間において任意の若しくは正当と認められない差別待遇の手段となるような方法で、又は国際貿易の偽装された制限となるような方法で、適用しないことを条件とする。」
これをWTO法では、20条柱書と呼びます。先に述べたような措置も、差別待遇の手段となる方法、偽装された貿易制限となる方法で適用することが禁じられています。一般的な例外も、それを口実にして、その他の差別的目的や自国産業保護のために自由貿易を歪めることがあってはならないからです。これがしばしば国家間で争いとなり、実際、WTO上、紛争となることも多いです。わが国が尖閣諸島を国有化した際、中国がレアースの輸出を制限した事件において、わが国が勝訴しました。
他方、安全保障の例外については、GATT21条が規定しています。GATTは加盟国が次の措置を執ることを妨げません。
「(b) 締約国が自国の安全保障上の重大な利益の保護のために必要であると認める次のいずれかの措置を執ることを妨げること。
(i) 核分裂性物質又はその生産原料である物質に関する措置
(ii) 武器、弾薬及び軍需品の取引並びに軍事施設に供給するため直接又は間接に行なわれるその他の貨物及び原料の取引に関する措置・・・・」
重要なことは、この規定には、20条のような柱書が存在しないことです。安全保障のための輸出入規制には、締約国に一層大きな裁量が認められているということになります。
しかし、他の外交的紛争や自国産業保護のために安全保障を偽装するのではないかについては、争うことが可能です。すなわち、措置の実施方法を問題とするのではなく、真に安全保障に関わるのであるか否か自体は、問題とする余地があるでしょう。この点で、韓国側は、日本が、安全保障のための措置ではなく、他の外交的問題の制裁として、半導体関連品目の輸出制限を行ったと主張するかもしれません。韓国はその措置が全く安全保障に関係しないことを立証する必要があります。
この点で、慰安婦問題や元徴用工問題などを契機として、韓国を信頼に値しないと判断し、そのためわが国の安全保障上、問題の無い国とはなし得なくなったという説明が説得力を有するかを吟味しておかなければなりません。官房長官や副長官が、同時に、元徴用工問題に対する対抗措置ではないことを繰り返し明言しています。しかし、紛争となると、付言する部分のみならず、発言の全体や措置の背景事情などの全ての事情が関係する可能性があります。韓国が国家として、北朝鮮との瀬取り等に関与しており、国連決議に基づく経済制裁違反を犯していることの具体的な証拠を、日本政府が準備しているのだと予想します。
また、日本が輸出制限を行ったというのではなく、従来の包括的な輸出許可から、90日ほどを要する契約ベースでの通常許可手続が必要になるというに過ぎません。許可申請を継続して行えば良いので、日本の手続が恣意的に厳密であるなどのことがない限り、韓国の半導体メーカーにどれ程の不利益が生じるのかは、やってみないと分からないのではないでしょうか。手続が煩雑になるとしても、韓国メーカーにある日本産材料の在庫が無くなるまでに、次の注文品が到着すれば良いのです。輸出許可手続の運用に恣意性が認められるなら、非関税障壁に当たる不必要な貿易制限を、差別的に韓国に対して行ったとして、WTO上の問題となし得るでしょう。
もっとも、いずれにせよ、WTOの紛争解決のために二,三年は少なくとも要するので、半導体という製品の特性からしても、その結果を待っていることは余り意味がありません。
5,韓国経済の特殊性と国民性
日本の輸出規制が、通常の輸出手続を適用するというものであるので、韓国半導体産業に壊滅的な打撃を与えるものと言えるかは、先ほど述べたように分かりません。しかし、韓国政府の反応や報道を見ていると、まるで日本が必要原料の輸出禁止を行い、韓国の半導体産業を潰すことを狙っているかのような大騒ぎになっているようです。韓国政治における、微妙な対日心理が、今度も過剰な感情的反応をもたらしたようでもあります。次の様な分析もあります。
「対抗カードとして▲戦略物資の対日輸出制限▲日本製品輸入規制▲日本観光ボイコット▲日本製品の不買▲米国や中国、EUなど國際社会と協調して日本に圧力を掛ける―等が検討されているようでもある。
辺真一・コリア・レポートhttps://news.yahoo.co.jp/byline/pyonjiniru/20190704-00132838/」
いずれも奏功しなのではないでしょうか。例えば、観光ボイコットと言っても、韓国を訪れる日本からの観光客はその安全を不安視するかもしれませんが、日本を訪れる韓国からの観光客には、その不安は全く無いでしょうから、ボイコットの呼びかけが一般の人にどれほど浸透するのでしょう。また、半導体は他国製品で代替可能なので、アメリカが日本の措置を問題視するとは思えませんし、欧州にとって、遠い辺境の出来事であり、そんなに関心を持たれることがないでしょう。むしろ、中国が漁夫の利を狙うかもしれません。その他、いずれも韓国経済にむしろ大きな不利益をもたらすでしょう。今回の日本政府の輸出規制は、品目及び方法について、実によく考えられた措置であるように思えます。
しかし、韓国では、半導体材料の製造技術の開発に、政治と民間が一体となって取り組む姿勢を見せています。多額の政府補助金を支出する計画が発表されたようです。従来、財閥と距離を置き、前政権の縁故資本主義的体制を批判してきた文在寅大統領ですが、急遽、政権側とサムスンなどの財閥関係者との会談が開催されたようです。補助金支出自体、WTO上、クリアしなければならない条件が存在します。
かつて、80年代に、韓国が通貨危機を被ったとき、いわゆる国家破産に追い込まれ、IMFの救済に頼ったことがありました。その救済の条件の一つが韓国の縁故資本主義の打破でした。これが経済発展を妨げる重要な要因となっているとされたのです。韓国は、早期にIMFからの借金を返済したのでが、借入の際に、コンディショナリティーと呼ばれる経済・財政政策に及ぶ厳しい条件の遂行を要求されました。民間銀行が国有化され、財閥解体に通じる政策も実行されました。このとき、打倒IMFをスローガンとしながら、国民が一丸となってその苦境を脱したのです。
借金を返済して、コンディショナリティーを免れた韓国政府が、産業分野を選択しつつ、集中的に経済支援を行い、半導体、家電、自動車など限られた産業を育成、発展させました。そうして韓国の財閥が世界有数の多国籍企業となり、日本企業を凌駕するようになったのです。上のような韓国政府の動向は、縁故資本主義の打破を目指した文在寅大統領にとって、全くの皮肉です。今度は打倒日本となるのでしょうか。以前のブログで触れたように、大統領が打倒親日(保守主義陣営にいる「親日」)をスローガンにしています。
6,貿易戦争
韓国が日本の輸出規制措置を等閑に付することはないでしょう。たとえ分が悪くてもWTOに提訴するかもしれません。日本としては、WTO上、問題のない措置であることを、韓国社会を含めた国際社会に十分説明をして行かなければなりません。自由貿易主義、国際主義を標榜してきた日本がこれに逆行するという、原理的な批判がなされるでしょう。韓国からも予想されますし、日本国内にも、そのような批判があるようです。しかし、自由貿易主義といっても、WTOの下で、国際経済のルールを遵守することに尽きるのです。
先に述べたように、WTO法の体系の下で、日本の措置は違法ではありませんが、仮に、法の不備があったとして、その盲点を突いて、法的に賢明に行動することは自由貿易主義の下でも何ら問題がありません。韓国自体が、福島県沖海産物の輸入制限を継続しているのも、そのように行動したからでしょう。
韓国が自由貿易主義を唱えながら、日本向けあるいは日本からの、新たな輸出入規制を行うかもしれません。今回の日本の措置自体、日本経済に何らかの悪影響を及ぼすことがあるでしょう。しかし、両国にとって、短期的に経済的な不利益を被るとしても、始めたからには、その「戦争」は遂行せざるを得ません。恐らく、どちらの政府も中途半端にこれを止めることをしないでしょう。この戦争は、武力を用いて、人の命を殺め、身体を傷つけるものではなく、両国の経済的リソースを前提とした、法と論理を用いた戦争です。前者のような戦争は真っ平ごめんですが、法と論理の戦争はしっかり遂行してもらいたいものです。むしろ、従来、日本がこの面で十分力を発揮してこなかったのではないでしょうか。
同時に、次の点を忘れてはなりません。国際主義が長期的な国家利益に適うという視点です。第二次世界大戦が、経済戦争に端を発したものであることを忘れてはなりません。しかし、今度は国際の法があります。
たとえ数年の間、対立を深めるとしても、法の下、普遍的な価値観に基づく正当化を行いつつ、隣国との友好関係を回復する契機を常に探求し続け、相手国にも元に戻ることのできる余地のあることを積極的に発信するべきでしょう。やがては、未来志向の、国際共同体を共に設立できるほどの関係を導けるように。そのためにも、民間の交流が継続していることが大切です。両国の国内で、若者の日派、韓流を暖かく見守って行きましょう。
次回は、7月20日ごろ、更新の予定です。あくまで予定です。
年金と少子高齢化-金融庁報告書は正しい ― 2019年06月25日 15:17
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いよいよ暑くなってきました。こちらの地方はまだ梅雨入りしていません。
国連によると、日本の人口が2058年に1億人を下回り、2100年には7500万人になるとしています。。良く耳にしますが、世界の国々の中で、少子高齢化が際立っている国なのです。65歳以上1人あたりの25~64歳の「現役世代」は、現在1・8人で50年には1・1人に減るというのです。現役世代一人が、その稼ぎで、おおよそ一人のお年寄りを支えることになるということです。ただし、国の人口推計は、より一層人口減少が進むとしていて2100年が6千万人としているので、もっと深刻です。(朝日新聞デジタル6月18日の記事より)
国会における先日の党首討論は、金融庁の報告書が一つの中心的争点となっていました。マスコミにしても、年金100年安心が神話だったとする論調が多かったようです。老後、年金だけでは暮らしてゆけず、亡くなるまでに、夫婦二人の世帯で2000万円不足するというものでした。しかし、これが報告書の前文のような部分に記載された、いわば枕詞のようなものであり、その全体の趣旨は、ことに若い世代が、老後の生活を考えて早くから準備するべきであると、国民を啓蒙するものであったようです。
年金制度の「安心」を巡る議論のために、二つの視点が重要だと考えます。一つは、高度経済成長期と現在の日本の社会や経済の在り方が異なるという点であり、他の一つは、人それぞれの条件の相違を踏まえた人生設計は自己決定の産物であるという点です。在り来たりではあっても、この間の与野党の議論や情報番組を見聞きしていると、もう一度確認しておく必要があるように思えます。
先に、後者について、簡単に言及しておきます。現役世代の収入に即して、年金資金としての払込額が異なり、これに応じて年金額が人それぞれに異なるのです。金融庁の問題視された報告書が、平均なり、標準なりを示すとしても、万人に適したものでないことは当然でしょう。年金額がもっと少ない人たちも多いのです。現役時代の生活水準を目途に、どの程度これを維持できるか、あるいは切り詰めるべきかは、各世帯ごとに違います。将来の年金額の予測に基づき、自ら準備するべき額も、その家庭毎に計算せざるを得ず、しかも、いくらを将来の貯蓄に回し、あるいは現在の生活を楽しみながら、老後はむしろ切り詰めるなど、一に掛かって各個人の自己決定に委ねられている問題であるはずです。
そこで、一つ目の問題です。
一昔前には、60歳で定年を迎え退職金をもらえば、相当の年金を得ることができました。ある程度の生活を維持しながら、70歳から80歳ぐらいの平均寿命に到達して死ぬまで、安楽に暮らしていけると、一般的には考えられたのかもしれません。これから年金をもらい老後を迎えようとする世代は、親や祖父母の世代が悠々自適に生活している様子が原体験としてあるので、年金とはそうあるべきものであると思い込んでいるのでしょう。しかし、少子高齢化の進展による本格的な人口減少社会となることを「国難」とまで言って、政府が喧伝しているのです。
現在の60歳は、親の世代ほどの年金額を期待できません。老後を支えてくれる現役世代の人口が減ったのだから。しかも、平均寿命は年々昂進しつつあり、今60歳の人が10年後、70歳になったとき一体、平均寿命が何歳になっていることやら。再生医療の進歩、遺伝子解析による先進医療の開発など、その10年の医学の発展を考えると、全く予測もできないように思えます。更に、その先の10年後はどうなるのでしょう。まさに人生100年時代の到来です。少子化と高齢化のダブルパンチです。親の世代に影響されて、のほほんと生きてきた者にとって、この現実は余りに残酷です。住宅ローンに、教育ローン、それでも生活を切り詰めて、無いに等しい利息でも、何とか貯蓄してきたのにと、嘆いていても始まりません。退職金でローンの返済を終えて、幾ばくかの貯蓄が残されるとしても、2000万円には足りないという人も多いのではないでしょうか。政府は70歳まで働けという。私個人は大歓迎です。一刻も早く、全ての国民が、働きたいなら、少なくとも70歳までは働ける環境を整えて貰わなければなりません。
日本人は貯蓄好きであるのに対して、アメリカ人は消費性向が強く、貯蓄より投資を好むと良く言われます。アメリカの年金基金は株式等による資金運用を行っています。日本の公的な年金基金は、貯蓄に相当するような安全な運用のみを行っていたのを、一部改めています。また、個人型確定拠出年金(iDeCo)という制度が創設されましたね。個人でも、将来の年金のために資金を積み立てて、運用会社と運用方法を選択できるというものです。個人の資産が投資に向かうために、NISAのような税制上の優遇措置を用意しています。私は、FPではありませんし、素人の立場でこのような資産運用をお勧めしようとしているのではありません。ここで言いたいことは、年金の不足を補うためには貯蓄では足りず、投資による運用も必要であるとする、警告めいた情報提供が、ようやく今、国民に提示されたということです。ああ、もっと早く気づけばよかった。無知な自分を恥じよということでしょうか。少なくとも、若い世代が、老後を含めたより良い青写真を描くことができるようにすることは、政治の責任でしょう。
この意味で、政府は先の報告書を引っ込めるべきではなかったのではないでしょうか。
「ゆり籠から墓場まで」の社会保障制度は高度経済成長期に、自民党が主導し、55年体制の下、野党も共同して作り出したものです。アメリカのような自由競争を信奉する国からは、日本がまるで社会主義国家に見えるでしょう。その大前提となっていた日本の社会・経済が根本的に異なるものになったのです。国家財政が累積赤字により破綻の危機にあり、このままでは年金制度が瓦解する恐れがあるとして、早くから警鐘を鳴らしたのは、ほかならぬ日本の政府です。そのときから年金不安が社会不安を惹起したようです。国民は冬眠前のクマのように、働いて得られた給料を消費に回さず、一層、貯蓄に走りました。これが個人消費の回復を遅らせ、不況を招いた要因の一つでもあるように思えてなりません。年金不安が払しょくされるまで、大多数の国民にとって、個人消費の本格的回復は見込めないのではないのでしょうか。
高度経済成長期の成功体験が社会の固定観念となってしまっていた日本において、この固定観念を打破するべく、新たな社会経済の情勢を前提にした年金制度の見通しを、真っ正直に晒す必要があります。どうすればどの程度の年金制度を維持できるかという確実な予測を示すことができれば、国民の疑念を払しょくすることに通じるでしょう。これこそが経済対策ではありませんか。どうしても生じる年金の不足には自助努力により備えるしか方法がないのです。しかし、どの程度備えれば足りるかの、明確な指針が必要です。
例えば、こうです。行政改革による財政支出の1%減と消費税の引き上げ1%を、何年間にわたり継続すれば、最終的に、消費税が何%となり、財政赤字が解消され、どの程度の年金給付額を維持できるかを、政府が宣言するのです。1%という数字は必ずしも根拠があるわけではありませんが、そのような明確性と、実行の確実性が必要です。もとより現在実施されつつある少子高齢化対策としての諸政策を、不断に遂行することが肝要です。女性の社会進出の促進、高齢者の労働力の活用、AIやロボット技術の汎用化による生産性の向上等の政策を更に深化させていく必要があるでしょう。
これらはいずれも、箱ものではない、民間の活力を引き出すような経済政策、人への公共投資を前提とします。女性、高齢者への投資、多様な高等教育の機会の提供、イノベーションを引き起こす発明、起業の環境整備です。その一環として、外国人労働力の活用も考えられるでしょう。
同時に、外国人の移民化政策を押しすすめるべきであると思います。既に、地方からは、特定技能制度を拡充することが求められています。外国人が熟練の技術・技能を身に着け、折角、日本の生活・文化に馴染んできたのに、その時点で帰国させる必要があるでしょうか。その人たちは、自分自身で余裕をもって生計を営むことができ、税金を納めているのです。
技能、教育について選別をせず、入国した当初から、単純労働を含めた一切の職種に就くことができるものとして外国人を大量に受け入れることを移民政策というとすると、日本はこの政策を採っていません。細かく職種を限定して在留資格を設け、在留資格ごとに、必要な要件と在留期間が決まっており、法務大臣の許可決定が必要な制度となっています。そして、高等教育を受けており、相当程度の知識、経験、技能を有する高度人材外国人については、排斥ではなく、従来より受け入れ政策に転じているのです。在留資格は期間を過ぎても、何度でも更新可能であり、5年ないし10年の定住により、永住資格に転換も可能ですので、もうこれは移民受け入れ政策であるとしか言えないでしょう。政府の弁明は強弁ないし言葉の遊戯でしかありません。
しかし、単純労働については、戦後一貫して移民政策を採用していません。日本が高度経済成長を遂げたアジアで唯一の富める国であった時代には、まだまだ生活水準の低い開発途上国に周囲を囲まれていたので、移民の受け入れをすると、一気に多くの移民が押し寄せ、日本の社会が大混乱に陥ると心配されたからです。しかし、特にバブル期には、3Kと呼ばれるような職種を日本人が敬遠したため、単純労働力が不足し、在外日系人に、就職できる職種の限定のない特別の在留資格を与えて急場を凌ぎました。しかし、労働力不足が常態となったのです。技能実習や留学生ではもはや足りないので、名実ともに外国人単純労働者の受け入れを認めたのが、先般の出入国管理法改正でした。
これについても、日本の産業界において労働力不足が顕著な業種を選び、業種毎に不足数の予測をはるかに下回る外国人を、能力試験を経て入国させるというものです。技能実習制度により受け入れた外国人が、在日中、偶然に身に付けた技術・技能を基に、在留期間を過ぎても特定技能資格者として滞在を延長することが考えられます。これが一つの典型例です。その長い在日期間中、家族の呼び寄せも適わず、これを経過すると特定技能1号については必ず母国に帰国させるのです。極めて限定的な2号については、在留期間が10年を超えれば、永住資格に転換が可能ではあります。もっとも、1号資格者でも、技能を身に付けた結果、そのほかの高度人材としての在留資格に転換することができればやはり永住も夢ではありません。そこで、私の提案は、2号資格を与える職種を拡大してゆくことと、1号資格者が他の在留資格に転換可能だとする実務を積み重ね、このルートを一層拡張し、確実なものとすることです。
還暦と呼ばれる、昔なら老後を迎えていた年齢に至り、自分の青年期とは激変した日本を目の当たりにし、根底から社会の制度設計が変わらざるを得ない現実に、途方に暮れる。
親の年金で、親の介護を賄える幸せ。でもね。
ε=( ̄。 ̄;)フゥ
・・・・・あぁ
次回更新は7月6日ごろを予定してます。
・・・・・あぁ
国際主義と国家主義 ― 2019年06月02日 13:11
可能な限り、隔週で更新して行こうと思います。次回は、22日ぐらい、週末を予定しています。
トランプ大統領が先日来日していました。当初は、首脳同士の話し合いにより、日米の貿易交渉にある程度、解決の方向性が見いだせるのかもしれないという期待があったのです。しかし、今回はそのような無粋な仕事の話は適当にして、日米の親善のため、アメリカの大統領が新天皇御即位の挨拶に来たということになりました。アメリカでは観光旅行として揶揄されたようです。
今回の大統領来日によって最も得したのは、安倍総理と自民党でしょう。日本の政治家のすることで、アメリカの大統領をここまで上手く使えたことがかつて無かったと思います。日本の文化を堪能した大統領は、むしろ日本国民に対して最高のパフォーマンスを発揮してくれました。
確かに、日米の同盟強化が国の内外に示されることで、日本の国際的立場がより高められることは疑いの無いことです。
以上のこととは直接関係がないのですが、最近、わが国を取り巻く国際社会で、ナショナリズムの高揚がみられるようです。今日は、国際主義の意味と日本について考えてみます。
国際共同体
国際主義という語は、internationalism という語の訳語です。国際という語が明治期に作られた造語であり、それ以前の大和言葉には存在しなかった言葉です。inter=間、nation=国ですから、internationalとは国と国との間という意味で、これに対して、国際という日本語は、あるものの周辺を意味する「際」という語を当ててその意味を表したのです。実に妙訳ですね。
国という語は、境界線で囲まれた領域に宝ものが守られている様を表しているに思えます。国語学者ではないので、この辺り思いつきです。宝物は、その時代に応じて、王様であったり、ときの政府であったり、国民、あるいはそこに住む全ての人々であったりするのでしょう。その一個一個の国を前提として、国とは異なる、国と国の間にある何かが国際です。
共同体というとき、個人に最も身近な存在としては家族や親戚であり、もう少し大きくして、村や町、そしてその町を含む地域共同体となり、ひいて国家という大きな共同体を考えることができます。個人に対する、それを囲む人の集団が共同体です。人は生まれた瞬間から共同体の中に暮らしています。
個人の集合が共同体であり、共同体の構成要素が個人です。人が隣人と協働して全体集合としての共同体を支えるのであり、共同体は人を個人として尊重しなければ、個人はそれを動かす機械の歯車でしかない。それに気づいた途端、絶望の淵に立たされるでしょう。個が協働し、個と全体が相互に影響し合いながら、個と全体としての個人と共同体が共に成り立ちます。
それでは国家共同体を超える、国際共同体は存在するのでしょうか。一国、一国が構成要素である共同体です。少なくとも、一定の領域と、そこに住む人と、支配する政府の存在として、国家という存在が人々の意識の中に確立された、近代以降において、国際社会と言うときも、単に国がたくさん地球上に存在しているという状態を指し、武力による実力行使のみが紛争解決の手段であるとすると、それは弱肉強食の社会です。地球人は何世紀にもわたって、戦争に明け暮れ、このことを経験してきました。そのうちに、一つの国の中に法があり、秩序を生み出すことが、人々が安全に豊かに暮らしていくために必要であるように、国際社会にも、国と国との間に秩序を生み出す法が必要であると感じられたのです。
国際連盟と国際連合、憲法9条
国際連合の前身である国際連盟が1920年に設立され、1928年にパリ不戦条約が締結されました。パリ不戦条約では、国際紛争の解決のための戦争放棄を規定した画期的な条約です。人類の歴史上始めて戦争が違法であるとしたのです。
戦争は悪である。漸くこのとき始めて、このことが法として確立されたのです。なんて遅いんだ! あぁ、人類は何と愚かな!!
もっとも戦争放棄は国際紛争の解決手段としては放棄されるのであり、自衛権は当然の前提として国家間において合意されていたとされています。
ところが、この条約もあの忌まわしい第二次世界大戦を防止することはできませんでした。焼け野原となった国土と夥しい数の人命の犠牲を目の当たりにした世界の人々が、今度こそそのような戦争を回避するために、国際連合憲章が作られました。その第2条4項が、他国を侵略し、その政治的独立を侵害するための、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じるものであり、パリ不戦条約の趣旨を取り込んでいます。
どこかの国が他国を武力により侵略したとしたら、その戦争は違法です。侵略を受けた国はどうすれば良いのでしょう。武力行使が禁じられていたはずです。国連憲章の基本的なアイデアは、国連軍が国に代わって戦うというものです。そのために国連軍を派遣する手続きが規定されています。しかし実際に国連加盟国による国連軍が組成され被侵略国を救済するために訪れるまで、相当の期間が経過してしまう可能性があります。そこで、国連軍が来るまで、自衛のための武力を行使し、また、同盟国との集団的自衛権を行使することを認めるのです。
以上が国連憲章の考え方です。しかし、以前にも述べたように、国際法と国内法は、国際的な場と国内的な場において各々、至高の存在です。どこかの国が客観的には違法な戦争を起こしたとしても、その国の観点からは全く正当であり、また国際法上正当化されると主張しているとすると、国連軍の派遣がなかなか困難である場合があり得るでしょう。国際社会を一個の共同体として理解し、その理想を述べるとしても、現実の国際政治とは上手くそぐわないこともあるのです。
この国連憲章が1945年に成立し、日本国憲法が1946年に公布されています。
そして、日本国憲法9条が次の規定です。
「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
日本の憲法がパリ不戦条約の思想を受け継ぎ、国連憲章と踵を一にするものであることが分かります。しかし、2項が特異な存在であることが同時に了解できるでしょう。その崇高な理想を一歩進めて、その方法を戦力の不保持、交戦権の放棄として、現実の国家において確定しているのです。世界に誇るべき理念の実現でも有り得ます。
第二次世界大戦後、アメリカによる占領、サンフランシスコ平和条約締結後のアメリカ軍基地の存続、日米安保条約と、自衛権を行使するための最小限の実力行使を行う部隊の創設により、現実の国際社会の中で、むしろ憲法9条を担保する仕組みが作られてきました。日本の領域侵害に対しては、アメリカ軍が武力を行使して、日本を守ってくれるし、日本の実力部隊も共同して戦うとしているのです。そのお陰で、日本が自衛権行使に必要である以上の戦力を持たないで済むし、他国に侵入するような事態には決して陥らない。そうしてようやく、憲法9条自体は改廃しなくても良かったのです。
しかし、日本には自衛隊が存在します。それは次第に大きな軍事力を保持するようになり、まさに軍隊となっています。
憲法と自衛隊の関係については、裁判所が解釈を示すことを放棄しているので、専ら政治部門に憲法解釈が委ねられてきました。要するに、政府と単純多数の国会の意思です。
主権国家が独立併存し、必ずしも一個の共同体とは言えない現在の国際社会にあって、各国の領土的、経済的野心に晒されながら、日本の国民が自衛隊の存続を認めるようではあります。国民が自衛隊を受け入れているなら、崇高な国際主義の理念と、国際政治の現実とのバランスを考えて、もう一度整理し直す必要があります。国際の平和と安全に寄与するべく、日本の、国際社会における任務を再定義する試みがなされねばならないと思います。もとより、これが軍事的拡張主義による、武力による国際紛争処理を意味するのではありません。
国民的議論を巻き起こし、憲法制定権力の発動をみるべきです。それが政治の責任ではないでしょうか。
国際主義と国家主義
一国が、自国の利益のみを追求する国家主義が国際主義の対概念です。しかし、国家とはそもそも利己的なものです。国は、真に他国のためにのみ行動はしません。国際主義も自国の利益に通じるからこそ成立するに違いありません。国の利益と言っても、短期的利益と長期的利益の区別ができます。長期的にはその国の利益になると考えられるから、他国との交渉に応じ、たとえ短期的にはその利益を犠牲にしても、一定の合意に至ることが可能となります。利己的な国家が集まって、それぞれの国の少なくとも長期的な利益に適うなら、そのような集団を形成することもあるでしょう。
経済的な利益の観点からは、関税同盟や自由貿易地域があり、政治的、軍事的な意味において、集団安全保障の枠組みが考えられます。EU(欧州連合)は単なる関税同盟を超えて、一国の財政問題を除き、幅広い経済活動について同一の規律に服するし、政治的にも一層結びつきを強めつつあるようです。EU全体での法の統一への指向性も顕著です。EUの中で、集合と離散の二つの方向性が常に対峙しているとされていますが、現在ある、国家間の極めて密接な関係をもった国際共同体です。欧州各国は安全保障については、アメリカとNATOを結成しています。
そのような明確な国際共同体でなくとも、WTOという国際経済のルールに服する加盟国が、国際経済社会の共同体を構成しているという言い方もできるでしょう。法共同体です。同じ法的ルールを共有する国の集合です。
他方、国際連合がどの程度に共同体=communityであり得るか、現実の国際政治の世界では疑問もあります。利己的な国家の単なる集合体に過ぎず、重要なことは何も決められない烏合の衆なのかもしれません。WTOという自由貿易を守るためのルールが、アメリカから吹き荒れる保護貿易主義の嵐に揺らいでいることはご存知でしょう。
日本が、かつて国際連盟とパリ不戦条約より成る国際秩序を侵害した国でした。日本を含めて世界中の国が利己的な存在です。国家主義が大前提となります。長期的な利益のために短期的利益を犠牲にして他国の利益を慮ることが国際主義です。国際主義に基づく、国際法的共同体に属する国々は、そのお陰で、国民の命を守り、互恵的な経済的発展に預かることができるはずです。その共同体に属する構成員の全てが恩恵に預かることができるとき、その共同体が成功します。恩恵と言っても複線的で多様であり、ある意味においては不利益を被るとしても、長い目で見て利益に適うという慎重な判断が必要となります。一国至上主義、殊に軍事的拡張と覇権主義、そして大恐慌から始まった経済ナショナリズムが、かつての世界をいかに導いたかを思い起こさなければなりません。
先進各国は第三次産業革命から第四次産業革命へと向かっているともされます。目まぐるしいほどの科学技術の新規な展開と社会の変化に伴い、新しい形の一国主義が平和な世界に侵攻してきているように見えます。米中の貿易戦争は決着が見通せず、長期戦となる様相を呈し始めました。それは経済のみならす、むしろそのための科学的、技術的覇権争いです。IT技術の革新とIT産業の発展を通じてアメリカが世界を支配したように、中国が次の覇権を握ることを虎視眈々と狙い、アメリカが形振り構わずこれを阻止しようとしています。各国の為政者が自国利益優先に陥り、その確保に汲々としているようです。
各国の為政者がまず充分に国際主義の意義を認識すべきでしょう。民族主義というときも、自民族の伝統や文化を大切にすることは当然のことですが、決して他民族の排斥やその文化・伝統の排除を意味しません。多様性の尊重と文化的融合こそが全ての人々の文化や科学の新たな発展の礎となるはずです。各国の為政者が、偏狭なナショナリズムと民族主義を国民の間に鼓舞し、自己の政治的立場を擁護することのもたらす危険をこそ、国民一人一人が知るべきです。
子供の日に、少し遅れた憲法記念日 ― 2019年05月05日 20:06
今回から、本文については、デスマス調をやめました。デスマス調の文章にするのに手間がかかります。
子供の日に、少し遅れた憲法記念日です。
今年の4月18日に、経済同友会の憲法問題委員会が、憲法問題に関する活動報告書を公表した。グローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展によって、未曾有のスケールとスピードで変わろうとしている世界の中にあって、日本の新しい社会のあり方を考えるために、国の形を規定する憲法の議論が避けれらないとしている。
確かに第3次産業革命が更に進展している。その上、日本が世界の中でも最も早い方のペースで人口が減少する国となった。少子高齢化社会に対する政策を策定し、全力でこれを実行すると、政府がその取り組みを喧伝している。女性と高齢者の労働力の活用余力がそろそろ上限に近づいていおり、労働力不足を生産性を下げることなく克服するためには、AIとロボット技術の開発を促し、これが必要に応じて実際に用いられる社会とすること、同時に、それでも不足する部分を外国人労働力で埋め合わせることが喫緊の課題となっている。日本社会が多様性に寛容であることが一層要請されている。
女性や高齢者に対する差別の克服が叫ばれて久しい。これらの人々が充分に能力を発揮できる社会となるために必要不可欠である。その他のマイノリティーの問題について、同じ文脈においても言及できる。
外国人移民の受け入れに伴う更なる価値観の多様化と、社会全体のコミュニケーションの方法が革新される必要があるかもしれない。同質的な日本人社会のコミュニケーションに慣らされており、空気を読むこと、腹芸、忖度が、渡世のための必須の社会的スキルとなっているこの国に、そのことが必ずしも前提とならない人々と暮らすことになるからである。このことは、外国人移民を受け入れるからというだけではなく、もともとグローバル化、デジタル化、ソーシャル化の進展により、世界が極端に狭くなってきたのだから、日本という国が、あらゆる文化や産業において、今後の世界の中で生き残るためにこそ必要なのである。
工学などの理系分野のみならず、法学、及び、経済学とこれを社会に応用する商学、社会学や心理学といった社会科学と人文学を総動員して、社会的イノベーションを生み出すのでなければ、このような「国難」を乗り切ることは不可能であると思われる。
このような日本の社会及び日本を取り巻く国際社会全体の大きな変動をむかえて今日、日本の憲法はどうあるべきなのだろう。
日本国憲法の改正には、国会議員の3分の2以上の賛成と国民投票が必要である。従って改正がとても難しい。硬性憲法である。実際に、憲法が制定されて以来、改正されたことがない。
しかし、日本の憲法は、非常に抽象的、簡明であって、主として理念を宣明する憲法である。実際には、法律や判例によって補完されることによってその意義が明確にされていると言われている。実質的な意味の憲法が、「憲法」という名の法典を含めて存在しているのである。そのような法律が憲法付属法と呼ばれることがある。実質的な意味の憲法には、政府見解による憲法解釈も含まれよう。憲法典を取り巻く、実質的憲法の範囲が諸外国よりも広いと考えれる。外国では憲法典に書き込まれているようなことも、法律に規定している場合がある。すると、外国では憲法改正手続きによらなければならないことが、法律の改正、すなわち国会の単純過半数で改正可能であることになる。
このことにも良し悪しがあるだろう。例えば、選挙権を与えられる年齢が憲法に書かれている場合に、これを引き下げる度に、憲法を改正しなければならなくなる。日本であれば、公職選挙法を改正するだけで、選挙年齢を20歳から18歳に引き下げることができたのである。選挙年齢をそれほど重要視しないなら、憲法改正手続きによらねばならないとすることは煩雑であろう。
政府の憲法解釈というのが、日本のような議院内閣制を取る場合には、与党の支持を前提にするので、結局、国会の過半数の意見に相当するとも言えよう。
そもそも国家権力、具体的には、国会、政府、裁判所といった国家機関に義務付けを行うのが憲法である。そして、憲法を制定する権力は、国民にのみ与えられている。ある法を、作ること=制定・改正と、解釈することとは全く範疇の異なることなのである。憲法を、国会の単純過半数で改正できるとすること、まして政府が勝手に改正できるとすることが、ナンセンスである。
国会議員は国民の選挙によって選ばれた代表であるから、その決定で構わないとする議論もあり得よう。しかし、それでは何故、憲法の改正手続きが定められているのか分からない。憲法が法律と異なり、その改正には特別に厳格な手続きを用意した意味である。
憲法が抽象的であり、憲法的内容を国会、政府、裁判所が補充できる範囲が広範に過ぎるのであるなら、このことが既に問題なのである。他方、日本の裁判所は一般に憲法判断を可能な限り回避する傾向があり、違憲の判断を下すことに躊躇する。法の専門家であって、憲法を解釈できる最後の砦であるべき裁判所である。結局、重要な憲法問題について、国会と政府に委ねられることになる。
憲法9条と自衛隊との関係、日本が保有する自衛のための実力の解釈、専守防衛の範囲について、政府解釈が幾度も変転し、このことがその都度、憲法の内容に変更をもたらしたとする考え方が多い。憲法9条の文言は極めて平明である。世界に類例のない戦争放棄を規定している。素晴らしい理念である。もっとも、類例がないということは、経済力そのほかの能力の点で可能なのに、そのようなことをしている国が他に無いということである。
このことを世界に冠たるものとして歓迎する人々がいる。私たちの世代は、義務教育の頃から、社会科の教科書に基づきそのように教わった。政府解釈がその内容を補充し、その上、変えてしまったとして非難するのである。他方で、時代と日本を取り巻く国際情勢の変遷を受けて、政府・が適切に対処したとして、これを歓迎する意見もある。その内容の良し悪しについては、ここでは触れない。しかし、憲法9条は、その言葉はそこに厳然として存在している。
先に述べた実質的憲法の範囲で、国会と政府によって、「日本国憲法」として書かれたテキストの内容について、重大な変更を来したのは間違いない。憲法という法の性質を考えると、このこと自体がおかしいと考える余地がある。憲法という法の力を損なっている。
国際社会の進展に応じて、新たな日本社会に必要な、具体的な内容を憲法に書き込むべきである。憲法を変えないことが護憲であるとは思えないのである。
元慰安婦の損害賠償訴訟と、韓国の三権分立 ― 2019年03月26日 14:38
もう直ぐですね。漸く休暇を取って、これを書いています。これから新学期の雑務に加えて、当分、論文執筆に専念する必要があるので、不定期に更新します。更新しているのを見つけられたら、読んでみてください。
日韓関係に新たな火種 元慰安婦の損賠訴訟へ
https://www.fnn.jp/posts/00414070CX
2015年の日韓合意に反発した元慰安婦と遺族の20人が、翌年、日本政府を相手取り約3億円の損害賠償を求める訴訟を韓国の裁判所に提起しました。上記のURL は、ソウル央地裁が、本年3月8日、日本政府に対して訴訟開始を公示したため、5月から審理が開始される見込みとなった、という記事です。
1、このことの法的な意味を説明します。
(1)一般市民である私人が、国家を訴えることができる。
国家が私人と、売買やサービスに関する契約を締結することは良くあることで、仮に国家が債務不履行に陥ったとしたら、契約の当事者である私人が、履行や損害賠償を求めて損害賠償を求めることができても当然だと感じるでしょう。
国家、具体的には公権力を行使する公務員が、私人に対して不法行為を行ったとして、私人が損害賠償訴訟を提起することも良くあります。例えば、公害や薬害訴訟を思い出せば分かると思います。国の誤った許認可や監督・監視を怠ったことに基づき、多数の市民が損害を被ったとして、国を訴えます。日本においては、これが国家賠償法に基づき行われます。
契約にしろ、不法行為にしろ、民主的な国家であれば、その国の法に従い、私人が自分の国を相手取り、その国の中で民事の訴えを提起することができることが通常です。
(2)私人が外国国家を訴えることができる。
わが国においては、「外国等に対する我が国の民事裁判権に関する法律」に基づき、民事の訴えについて外国が主権免除を受けない限り、国際民事訴訟法を含めて、通常の民事手続きにより裁判することになります。
不法行為については、法10条により、外国の行為により損害を被った場合に、その行為の一部または全部がわが国領域内においてなされ、行為を行った者が行為のときわが国に所在した場合に限り、その外国は裁判を免除されないと規定されています。
国家が他国の私人から訴えられても、一切の民事裁判権を免除されるという絶対免除主義が克服されています。もっとも、完全に私人と同一ではなく、一定の制限は有ります。その範囲が国により異なるので、国際法である「国及びその財産の裁判権からの免除に関する国際連合条約」が成立しました。わが国はこの条約を批准しているので、この条約が発効すると、締約国との間では、その内容が法として効力を有します。
わが国の国内法である前述の主権免除に関する法律は、この条約に準拠して、締約国と非締約国とに関わらず、わが国において、外国国家を訴える場合の制限の範囲を明確化したものです。
前述の記事は、韓国国内における裁判ですから、韓国が締結している条約や韓国の国内法が問題となります。元慰安婦が提訴したのは、当時のわが国が彼女らに行った行為が不法行為に当たるとした損害賠償請求です。韓国が加盟していないとすると、前記国連条約は韓国を拘束しませんが、国際慣習法の重要な徴憑として参照すると、日韓併合により、わが国の統治下にあった当時の朝鮮半島において、原告らが慰安婦として従事させられ、そのことにより損害を被ったとするなら、一応、その基準に該当するようです。
なお、時効も気になるところですが、韓国国内法の解釈により、これを回避するのでしょう。
(3)訴訟を始めるために、訴状の送達が必要である。
民事の裁判では、相手型に訴訟が開始されたことを通知する手続きが必須です。そうしないと、裁判が始まったことも知らないで、従って、十分の法的な防御を行うこともできず、欠席裁判で敗訴してしまいます。これが訴状の相手方への送達という手続きです。原告がどういう相手に対して、どのような理由で、裁判で何を求めるかを明確に記載した文書が訴状です。これを被告に届ける手続きが送達です。
外国に居る相手方に訴状を送達するためには、その外国の協力が必要になります。裁判所の吏員が無断で外国に行って、相手方に訴状を渡したら、その国の主権を侵害したことになってしまいます。外国公務員の公権力行使に当たるからです。
国際的訴訟の度に、訴状の送達について、一々、外交ルートを通じて外国当局にお伺いを立てていては面倒だし、断られる可能性も高いのです。そこで、グローバル化の進展に伴い、訴状送達について条約が締結されています。「民事又は商事に関する裁判上及び裁判外の文書の外国における送達及び告知に関する条約」(略称、ハーグ送達条約)です。条約で約束した国内当局を経由した、条約の条件の通りの訴状であれば、裁判を行う国の裁判所等に代わって、相手方の居る国の裁判所等が送達を行うことを義務付けられます。
日本も韓国も送達条約の締約国ですから、条約が法として両国を拘束します。元慰安婦が提起した、日本を相手取った損害賠償請求訴訟の訴状を、韓国の裁判所が受理した場合、裁判の審理のために、その訴状を日本の政府機関に送達しなければなりません。ハーグ条約に則り、わが国の外務大臣に協力要請があったら、わが国は本来これを拒むことができません。しかし、この裁判については、日韓請求権協定や、慰安婦問題についての政府間合意などに反して提起された韓国国内における裁判に、国家としてわが国の出廷を求めるものなので、条約13条に基づき、わが国の主権侵害に当たることを理由に、送達を拒絶したもようです。
この場合に、韓国裁判所としては、条約15条に基づき一定期間の経過の後、裁判を行うことを宣言できます。
(4)韓国国内における裁判の公示?
前述の記事は、韓国裁判所が裁判を公示したので、自動的に審理が開始されるとしています。国内の裁判であっても、被告が行方不明であるような場合に、訴状の送達ができないと、公示送達が行われます。わが国の場合、裁判所前の掲示板に、訴状が一定期間、張り出され、そのことによって訴状の送達があったとみなされるのです。被告が出頭しないときに、欠席裁判になり、原告がほぼ100%勝訴します。韓国裁判所は、何らかの理由で、公示送達に類似の手続きを用いたようです。
外国国家に対する国内の裁判で、外国が訴状の受け取りを拒絶している場合に、公示送達の方法によるというのが、元慰安婦問題に関する裁判では、日本の主張に相応の根拠があると考えざるを得ないことからして、随分と不可思議な手続きを行なっているように見えます。
そこで韓国で、自動的に審理が始まったとしても、日本政府が裁判に出頭するとも考え難いですし、仮に、原告勝訴の判決が下されたとしても、日本が任意にこれを支払うとも考えられません。それでは、韓国にある日本政府の財産に強制執行が可能かというと、主権免除に関する前述の条約によると、在外公館の財産等は強制執行を免れることが規定されています。条約の発効や締約国か否かに関わらず、そのような強硬な措置に出ることは無いだろうと予想します。
更に、以前のブログで説明した外国判決の承認執行の制度があります。実質的再審査禁止の原則の下で、全ての手続きを再度行うことなく、一定の要件があれば、外国判決に自国判決と同様の効力を与える制度です。これについても、原告勝訴の韓国判決は、わが国公序に反するという理由で、日本の裁判所が承認・執行を拒絶する蓋然性が高いです。
以上、韓国内における元慰安婦訴訟は、たとえ勝訴しても、その判決の実現可能性が法的には乏しいと言わざるを得ません。単に、名目的、政治的意図に基づくものであると思えます。
2、韓国における三権分立
韓国は日本と同様に、憲法に基づき立法、司法、行政の三権分立が確立した民主的国家です。普通選挙に基づく国民の代表である議会を頂点としつつ、三権の独立と相互の抑制により権力の独走を抑止する、西欧由来の民主主義システムです。この社会体制が、戦後の途上国が独立して行くに伴い、国際社会に広く行き渡った、グローバルスタンダードです。しかし、殊に、裁判所の権力がどれほど強いかは、国により大きく異なります。
例えば、アメリカでは、トランプ大統領が裁判所の判決により、大統領命令の修正を余儀なくされることがしばしばあるように、司法積極主義で知られる、非常に裁判所の強い国です。政府と裁判所の対立が極端にまで現れることがあり、しかも政府が裁判所の判断に屈することが間々あるので、「法」特に憲法の存在感が際立ちます。これに対して、途上国では司法より政府の優位が明らかである国が多くあります。軍事政権下の裁判所の機能を考えれば容易に理解できるでしょう。中国はもはや途上国ではありませんが、三権分立については、以前のブログで触れたように、独特の位置付けがあります。共産党の一党独裁の下、党幹部が行政及び司法部門の責任者になるもので、相互の関係がより密接です。法制度の態様と共に、実際の運用を含めて検討が必要でしょう。
韓国も経済的には途上国を既に卒業して久しい国です。しかし、かつての軍事政権下において、過酷な人権侵害を経験し、新たな憲法の制定と人権意識の高揚と共に、個人の幸福追求権を尊重する法意識を持った国へと進展したのです。伝統的な家父長制的封建制度の克服にも、日本と比べて極めて長い時間を要していますが、少なくとも法制度の側面では、これも近年ようやく実現しつつあるようです。
三権分立についても、法制度としては、確立されているのです。元徴用工の裁判では、日本が韓国政府に対処を求めたのに対して、韓国の文大統領は、裁判所の判断を尊重しなければならない、韓国は三権分立の確立された国であることを理解してほしい、としていました。行政府であれ、司法府であれ、国際法を遵守するべきであるので、韓国が国として、これに違反しているというのが日本の立場です。国際法からは、政府であれ、裁判所であれ、その行為が国家実行として評価される点で異なりません。
ここで少し視点を変えて、韓国の三権分立について考えてみます。韓国の裁判所は、政権が変わると、その政権に協力的な判断をすることで知られています。裁判所という機関は、その良心にのみ従うとされる個々の独立した裁判官から構成されます。裁判官も一個の人間でしかない。孤独で、実は現実の権力、あるいは実力に対して弱い存在でもあり得るのです。法解釈の客観性の隠れ蓑の下で、優れて政治的な判断を迫られる、脆弱な権力機関です。裁判所が現実の政治や世論からの批判を回避するためにするのが、判断を下さないという方法なのです。「政治問題」であり、司法判断を超越するという口実を使います。
この方法は、日本でも、西欧諸国でも一般的に存在するのであり、アメリカでも用いられます。口実というのが言い過ぎかもしれません。軍事、安全保障、外交に関わる事項については、行政府の行為について、司法判断を回避することが妥当な場合があります。これが妥当であれば、憲法上も問題視されません。横道に逸れますが、日本の裁判所が自衛隊と憲法9条の関係について、高度に政治的な問題であるとして判断を回避しています。憲法9条が世界の中で日本国憲法に特有の条項であり、真正面から規定されている内容について、裁判所が判断を避けることできるかは、日本に固有の事象です。しかし、必要を超えて、口実でもあり得ることは確かです。
孤独で脆弱な国家機関である裁判所が、法の権威にのみ従い、他の権力と対立できるのですが、先にも述べたように、その態様は国によって様々です。政治・外交問題に関わる場合に判断を回避するという窮余の一策を講じることができることは、司法の独立と維持のために、必要なことでもあるでしょう。実のところ、法の解釈という法特有のレトリックを用いてその政治的意図を隠すことが通常の方法なのです。法原則は必ず例外則と組み合わせられます。例外のない原則は、法の世界に有りません。裁判所には相当の裁量的な解釈の余地が与えられています。更に、裁判所は手続事項について、極めて大きな裁量を有しているので、その裁判をいつまでにどのように審理するかについて、裁判所自身が決定できるのです。
三権分立の問題に戻ります。裁判所が、現実の政治や世論に抗する方法として、判断回避を行うこと、法解釈や手続の裁量を行使することが有り得るということを指摘しておきます。裁判所が、政府の言い成りになる、政府の好む結論をのみ述べる、すなわち政府の口になってはならないのです。判断回避にせよ、裁判所独自の判断を示す必要があるのに、韓国の裁判所はこのことがどうやら苦手のようです。この点で、外からは窺い知れないのですが、韓国の裁判所が、時の政府や世論にただ同調しているように見えるとしたら、三権分立が実現されているとは言い難いでしょう。
3、韓国の世論
ここで目を転じて、韓国内の世論について考察します。
テレビの情報番組で、あの優しそうなお婆さんが、涙ながらに昔の思い出を語っています。民族衣装に意義をただした高齢の女性がとつとつと、時として激しながら述べるのです。大日本帝国の植民地と化した祖国で、普通に暮らしていた女の子が、慰安婦とされた辛い日々のことです。
その当時、先祖伝来の大切な民族固有の名前を剥ぎ取られ、日本風の名前を名乗らされる。学校では朝鮮半島の言葉ではなく日本語を教えられる。その一切が、拭い去りたいけれど、忘れらてはならない記憶として、学校教育やマスメディアを通じて、繰り返し追体験されるわけです。現在の韓国政府は、韓国の独立の礎となったこのときの独立運動の継承者とされます。大日本帝国からの独立、民族主義、日本の政治的影響の払拭、これらが憲法的な価値観としての個人の幸福追求権の尊重に結びつくのが、韓国リベラルではありませんか。慰安婦への補償がその象徴なのです。
親日の徹底的な排斥が現在の政権のスローガンのようです。親日排斥といっても、大日本帝国時代から、戦後韓国の軍事政権に温存された日本の政治や考え方の影響の払拭のことです。旧日帝時代に植えられた公的施設の植物まで目の敵にする様子は、明治維新のときの廃仏毀釈を想わせます。この国は、未だに国内的な戦後処理、戦犯追放をやっているのでしょう。慰安婦問題にしても、過去における、日本からの償いの言葉やお詫び、補償の申し出も受け入れることができない程で、慰安婦合意にしても、お前の言い方が悪いから受け入れられないとするようです。もっとも、それが正に個人の法的權利の実現として、正当であることを真正面から認めよ、それこそすなわち正義であるとする視点があります。
政治運動としての側面も見逃せません。韓国の保守的政党が、日本を経済的には利用しつつ、韓国経済の発展を促したことに対抗して、リベラル政党が個人の人権保護と日帝時代の協力者や遺物の払拭を主張し、民族主義的運動を引き起こしているとも考えられます。
4、思いを重ねるために
日本の一般市民の意識と、韓国の人々の意識とが大きく乖離しています。第一に征服者と被征服者の相違があるでしょう。日本の戦後、征服者はアメリカでした。日本とアメリカは友好国となりましたが、第2次世界大戦における沖縄の悲劇や被爆体験については、今でも繰り返し語られます。殴った方はすぐ忘れても、殴られた方は一生覚えているのかもしれません。しかし、戦争の犠牲者を深く悼む気持ちが、世界平和への飽くなき希求と、核廃絶への強い運動に繋がったのです。朝鮮半島については、日本が加害者として現れるのですが、日本の人々はこの体験をどのように昇華すれば良いでしょう。
もちろん、国際社会に日本の立場を訴え続けることは必要です。国際法の論理を主張し、韓国をただ非難するのではなく、償いの気持ちとこれを受け入れてもらえないことを訴えるべきです。同時に、東アジア及び東南アジアを中心としつつ、広く世界の国々に対する人権擁護の側面での国際貢献、特に女性差別を根絶させるためにする貢献についての実績と展望について、理解を深めて行くべきです。
政府間の外交関係が冷え切ったときに、民間の交流こそが大切であるというのは、言い古されたことですが、現在の日韓の関係を見ると、当面、その他に解決の糸口が見つからないようです。韓国の若者の多くは、経済発展に関するコンプレックスも無くて、日本の文化、特に、和食やアニメ、カワイイ・ファッション、JPOPなどに随分興味のある、日本の若者が韓流文化に興味を持っているのと変わらない存在です。大人が口出ししないで、成り行きを見守ることがあっても良いでしょう。
こんなに近い国です。観光で多くの人々が直接お互いに触れ合い、そして何より商売を発展させるなら、良い商売相手を徒らに陥れることはしません。これを更に促進させるための条件整備、特に経済連携協定の締結や、TPPへの韓国加盟への働きかけと便宜の供与など、政府にできることがあります。
思いが重なるその前に・・・国際法と国内法 ― 2019年03月02日 23:57
最近、日本が韓国の国家としての行動を国際法違反であるとして非難することが増えています。
元徴用工の賠償請求事件では、同じ条件下の原告が日本企業を訴える日本での裁判で過去に敗訴していたのですが、韓国国内の裁判で損害賠償を認められました。韓国政府は韓国国内の三権分立により、政府は司法の判断を蔑ろには出来ないということを、日本政府が理解すべきだとしています。韓国裁判所が韓国憲法に従い判断したことを、政府として尊重しなければならないとするのです。日本政府は、このような韓国の国家としての行動が、行政府にせよ、司法府にせよ、日韓請求権協定という国際法(二国間条約)違反であるとして非難しています。
また、先日の報道によると、韓国の外務大臣が国連人権理事会において、慰安婦問題に言及し、紛争下性暴力の問題というトピカルなキーワードを持ち出し、日本が個人の救済という観点から行動するべきだと、批判しました。元徴用工裁判と慰安婦問題は、問題の性質が若干異なりますが、これに対しても、日本は、日韓の政府間における慰安婦問題の合意を、韓国が一方的に破棄したものであり、韓国政府が誠実に履行するべきだとしています。
国際法と国内法の関係といっても、いつものように随分遠回りをします。法学的な緻密な議論というのではなく、多分に感覚的な、イメージのお話しをしたいと思います。中々、法の話になりません。いうなれば私小説的法学? ファンタジーです。
ちょっとお付き合い下さい。
私は生きています。 ??? (ここから始まります。)
私たちの体、人間の体は、一個の器官系として、自律的に意味ある行動を行います。
歩いたり、走ったり、物を持ち上げたり、下ろしたり、食べて、飲んで。
寝て、起きて・・・。
ひとりの人間として、生きるために必要な営みを行っています。
人の器官は、幾つかの臓器から成ります。
臓器は、無数の細胞の塊です。
一個一個の細胞は、それぞれが、自律的に活動しています。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)という日本の宇宙開発を担う政府機関が、小惑星探査機はやぶさ2号によって、小惑星リュウグウの表面にある物質の採集に成功したという報道がありましたね。来年、地球に帰還する予定だそうです。地球誕生の秘密に迫ることが期待されています。また、生命の起源となる有機物の採集にも成功しているかもしれないのです。(話が逸れた!!!)
小惑星探査機はやぶさ2プロジェクト特設サイト
http://fanfun.jaxa.jp/countdown/hayabusa2/overview.html#1993ju3
地球がどのように誕生したかについては、諸説あるようです。私は宇宙物理学者でも、地学の研究者でもないのですが、このお話はとてもロマンチックに感じます。とにかく無機物(鉱物?)の塊であった地球に雨が降り、海が誕生したところから、生命も始まるとされています。無機物の組合せにより、有機物が生まれ、何らかの要因に基づく必然と偶然により、一個の生命体が誕生したのです。それは、生物体を構成するような小さな一個の細胞のような存在だったのです。裸の細胞が、やがて結合しつつ、もう少し大きな生物へと進化した。これが、現在、地球上にある全ての動植物の起源となります。
だから、地球上の全ての生物が、花や木、昆虫や、は虫類や哺乳類など、根本的な構造と機能が同一の細胞の集積として存在するのです。地球上の無機物から、有機物が生まれ、やがて生命体が誕生したので、地球上にある、ありとあらゆる存在が、限りある元素の幾通りかの組合せであり、すべての生物の基本構造が細胞としては同一なのです。神秘的で、何かとても不思議な感じがします。
人はとても複雑な生物です。10の器官系から成ります。ここら辺、インターネットからの請け売りです。骨格系、筋系、循環器系、呼吸器系、消化器系、泌尿器系、生殖器系、内分泌系、脳神経系、感覚器系です。(まだです!!!)
例えば消化器と言えば、胃、小腸、大腸・・・などの多くの臓器からなります。
この臓器達は、私たちが意識するとしないとに関わらず、生きるために必要な活動を行います。ものを食べると、胃が収縮運動をして消化の活動が始まります。私が、胃に、収縮せよとか、消化液を分泌せよなどと、命じる必要はありません。
循環器に属する心臓もそうですよね。いちいち動けと言わないといけないと大変です。
臓器は、私たちの意識とは関係がないかのように、各々自律的に活動しています。
歩いたり、走ったり、運動するときは、一見、私たちの意識に従い、骨格系や筋系が連動して、その命令に従って動いているようです。しかし、これも、視覚、聴覚、皮膚感覚など、これを司る器官から受容した刺激を脳に伝達し、他方、脳から、神経系を通じて、特定の物質が神経細胞間に伝えられて、その相互の情報交換によって骨や筋肉を活動させるのです。
人の体は、各臓器から分泌されるホルモン等の特定物質の相互的なやり取りによって、私たちの生命活動にとって意味のある、統一的な活動を行うことができる、一個の複雑系なのです。
意識というのは、私たちの脳のどこかの部位によって生み出され、どこかの部位に蓄積される情報が、どこかに引き出され、新たな情報として組み合わされ、また新しいものとして生み出される繰り返しだとすると、脳という臓器そのものとは異なります。
これらの一切が、時折、不具合も生じさせながら、しかし、とにかく統一されているのです。
人の臓器は、多様な細胞の集積です。地球の最初の海で誕生した一個の細胞と同種の、これから進化した細胞の集積です。それぞれの細胞は、自分が生きるために、自律的に活動しています。誰に命じられるわけでもなく生命活動を営んでいるのです。一個一個の細胞が、必要な栄養となる物質を取り込み、老廃物を排斥しています。
心臓の心膜や心臓弁や心筋がそれを形成する細胞の塊であり、脳という臓器も、脳細胞や脳神経細胞や、人の体のすべてが、自律的に生命活動を営む一個一個の細胞の塊です。
繰り返しますが、人は、自律的に活動する個々の細胞の集合として理解でき、各細胞ないし器官による、ホルモンなどの物質の規則性をもったやり取りにより、少なくとも人という生物として、生命活動を営んでいるのです。
漸く、国際社会とこれを構成する各国家の関係についてです。
人の体を構成する細胞を国とすると、国は、その生命のために、一定の法則に従い活動しています。そして、ひとりの人の体の全体集合は、細胞間の特定物質やホルモンのやり取り、これが規則性を持ったものであり、その規則に従ってこそ、意味のある統一的な生命体として生命を維持することができます。この人の体としての全体集合が、国の集合である国際社会なのです。
国際法と国内法の関係に関する考え方として、国際法優位の一元論と国内法優位の一元論の争いがあります。国際法一元論は、まず国際法があり、その授権により、国内法が効力を有し得るとするのですし、国内法一元論を私流に表現すると、各国家の実行の集積を単に国際法と呼ぶので、まず国内法が存在し、国際法とは各国がそれを法として承認して始めて存在し得るのである。もっと言ってしまえば国際法というのは単なる幻想に過ぎないという政治学立場もこれに属するかもしれません。
極論すれば、鶏が先か、卵が先かの議論であり無用だとも思えます。もっとも現在、わが国の国際法学説上は、国際法と国内法の二元論的理解が多数のようで、国際法は国際の場において、国内法は国内の場において、それぞれ至高の存在であるとします。各国の行動がその国の国内法に従う限り、国際法に違反するとしても、直ちに無効であるとはされません。国内的には完全に合法だからです。ただ、両者は無関連では有り得ず、国内的に調整の契機が存在すると説明しています。
国際法というのが、ある時代の、その国際社会の条件を前提として成立する、各国の国家実行(ないし国際機関の行為)の趨勢であるとして、動態的にこれを捉えることもできるでしょう。各国の国家実行に法則性が生じるのです。これが各国にとって、「法」であり、遵守しなければならないと認識されることがあるのです。法的確信などと呼ばれます。
多くの国にとって国家間の「法」であるべきルールに、ある国が反するとすると、他国がこぞって批判を始めます。国際法に反するとして、国際的な批判にさらされるのです。国際法と言っても、二国間条約、多国間条約、国際慣習法と、法の存在形式が異なるので、法としての実施方法も一概には言えません。ルールの形が明文であり、その意義が相当程度に明確であるものから、不文であるものまで有り得るのだからですし、多国間条約の中には、それ自体の実施方法を規定するものもあるのです。また、場合によると、国連の制裁決議の下で、世界の国々による経済制裁を被ることがあるでしょう。しかし、最も重要な強制の契機の一つが国際的批判であることは疑いがありません。
ある国の国家としての行動はその国内法に従い遂行されます。その国は、国際法に抵触する可能性があると考えるなら、その行動が国際法に反しないものであると主張するでしょう。国際的批判を回避する必要があるからです。国際法も法として解釈の対象となります。
一国の憲法は相矛盾するかもしれない複数の法原則から成り、どのような政府の決定も、そのような法原則の組合せによる憲法解釈により、合憲であると説明されるでしょう。同じように、ある国の行動が、複数の国際法原則の組合せによる国際法解釈に従い、国際法に違反しないとする説明が可能となります。解釈者の立場や解釈態度により、主観的な国際法解釈と客観的な国際法解釈が有り得るとすると、国際裁判所や国際法学者が行う中立的で公平な規範的態度に基づき解釈するものが客観的国際法解釈です。幾つかの既存の国際法原則を特定し、多くの国の国家実行の趨勢を確定します。もっとも、これすら複数の解釈が可能とはなり得ます。
ここで、人と、人体の細胞との関係に戻ります。人を国際社会とし、その人体の細胞を国とすると、各国は、細胞のように自律的にのみ、それ自身の生命活動として行動します。国際社会は、単にその集合体であり、しかし、一個の人として、器官系により、また単体として、お互いに情報をやり取りしながら、全体として意味ある機能を遂行しているとみることができます。各細胞の生命維持がその規則に従い行い得るように、国家にとって国内法が存在し、細胞間の情報のやり取りにみられる法則性が、人としての生命活動に必須であるように、国際社会にとって国際法が存在します。
各細胞間、器官や系の間で、その情報の解釈の対立を生じると、その人は病気になるかもしれません。国際社会も同様なのです。通常はルーティンの解釈で済むのですが、ときとして、困難な条件を生じ、解釈の抵触が生まれるのです。人が生きていくためには、そのような解釈の対立は解消されなければなりません。予定調和として対立の解消が必然なのです。半自動的に、その調整が行われるはずです。そうしないと、細胞が死滅し、人の生命が途切れるように、人類が滅亡し、国際社会も無くなります。
・・・!
そういえば、人は死ぬ生き物でした?
目の前にいる恋人が死の病に取り憑かれています。
ただ見ているだけで、何もできません。
もう僕にはできることがない。
もう僕の事も分からなくなる。
遠くを見つめるあの人を
見ているだけで....
見ているだけで....
そっと手を取って
その手を握れば
柔らかな掌
血管の浮き出た
柔らかな 手のひら
温もりを感じ
温もりが伝わる
静かに思いが
重なる
思いが重なる
その前に....
新冷戦と、集団安全保障? ― 2019年02月16日 18:52
2月2日、米国が中距離核戦力(INF)全廃条約から離脱しました。ロシアがその義務を履行していないとしています。ロシアはこれを否定していたのですが、米国による義務履行停止の通告を受けて、ロシアも即応しました。中国は、そもそもこの条約には無関係であり、遠隔操作による攻撃能力を高めているとされています。各国が中距離核兵器の増産に踏み切るかもしれません。その可能性が高いのです。先の冷戦終結の象徴が無くなり、新冷戦が始まりました。
中距離弾道ミサイルが、各国に配備され、容易に核弾頭を装着できる状況にあるのです。
日本は、アメリカ、中国、ロシアの三国に接する交点に位置します。アメリカの前線基地を擁する日本に、アメリカの弾道ミサイルが配備されると、数十分の内には、相手国領域に着弾します。その脅威によって、日本自体が、中国やロシアからも標的となり得ます。
核戦争が現実に起こるとするなら、集団的自衛権と専守防衛を巡る安全保障の議論はただの机上の空論に過ぎません。わずかな時間で、互いの核ミサイルが飛び交い、双方に多大な被害をもたらすからです。核弾頭の前の通常兵器はハチドリでしかないでしょう。もっとも核兵器の被害は甚大であるから、これを避けるためには、双方がハチドリの攻防に終始するのかもしれません。そびえ立つ核ミサイルを目の前にしながら、互いに、戦艦・戦機と砲弾による戦争にとどめるよう自制するのです。
前述したように核の脅威を前提とする新冷戦が開始されました。現代の冷戦は、資本市場主義を採用する国々があらゆる交易を行いつつ遂行する点で、過去のそれと異なります。相手が商売の良い取引相手であり互いに金儲けできる限り、おいそれとは戦争を始めないでしょう。しかし軍事的脅威をも背景として、貿易戦争が勃発しました。各国のナショナリズムが高揚し、将来の経済的覇権をかけた派手な戦争です。
アメリカの経済ナショナリズムはトランプ政権の下で自明です。他国で行われる人権侵害を問題とし、テロに対抗する防波堤たらんとして、世界の警察とまで言われたアメリカの軍事的側面が、シリア撤退に見られるように後退し、アメリカ・ファーストはアメリカ一国主義に堕しました。まるでモンロー主義に戻ったかのようです。
中国は自由貿易主義を標榜しているが、実は、狡猾に世界経済のルールを潜脱し、自国の経済的覇権を確立してアメリカを追い抜こうとする野心が歴然としています。その軍事的拡張も明らかであり、少なくとも軍事的な制圧圏を更に拡大しつつあります。アメリカと世界を二分し、対峙していこうと考えているのです。
日本がアメリカの核の傘に守られています。核兵器の数あるいは破壊力の数値が均衡していることが、核抑止力であるなら、核保有国による際限ない核軍拡に陥ります。もう既に始まっているのです。そもそも核抑止力は核保有国の疑心暗鬼に基づく被害妄想の産物に過ぎません。世界を何百回も何千回も破壊して余りあるほどの核兵器を既に持っているのだから。
しかし、核兵器に対する被害妄想とハチドリ作戦の机上の空論は、異常な博士の頭の中にあるのではなく、それこそが現実の国際社会なのです。
その真っ只中に日本もある。
この世界を眼前に置くとき、諦念に基づく安全保障の議論が始まる。
各国の野心と妄想の大きな渦に、日本も巻き込まれざるを得ません。
そのような国際社会とのお付き合い、殊に、三国の中で最も恐いアメリカの要求に必要最小限のお付き合いをしなければならないでしょう。そして、現実の日本の政治において、核の暴走を食い止めるべく、その臨界点を見定めながら、核削減の方途を模索し、各国間の平和を達成するように積極的な役割を果たしてもらいたいものです。
同時に、今現在の政策とは別に、未来を見据えた、多国主義、国際主義の集団安全保障の構想を持たなければなりません。トランプ大統領がNATO脱退の口吻を示していることが話題になっています。アメリカにとって一方的に不利な、すなわち金がかかる状態であることを、トランプ政権が問題視しています。ヨーロッパ諸国のアメリカに対する不信感が高まっています。
アメリカ軍基地の存在によって三国の交点に位置せざるを得ない日本にとって、アメリカとの強い関係を継続しながら、どのような多国間の集団安全保障が構想できるでしょう。第一にオセアニアが候補となるかもしれません。西洋文明を接ぎ木した日本からみて、政治的、経済的体制が似通っており、普遍的価値観を共有することも可能な国々であるからです。もっとも、独立的であっても英連邦に属しており、イギリスとの関係の深い地域です。
地理的には、東南アジアも考慮の余地があるでしょうが、各国の政治的、経済的発展の度合いがまちまちであり、日本の安全保障の観点からみて、相当のリスクを負うので、現在直ちには対象外とならざるを得ないでしょう。しかも、この地域は、歴史的に中国及びインドとの結びつきが強く、日本との独自の集団安全保障体制ができるとすると、両国との関係が問題となります。特に、中国は、自国と結ぶ一路一帯の交易路を構築するとして、権益の拡大を図っているので、黙ってみているとも思えません。充分の時間をかけて、日本が、法制度の構築やインフラ運用における技術的協力など、ソフト面での協力関係を強め、人権・人道面での貢献、特に女性や子供の支援と、環境保護、消費者・労働者保護など、日本と友好国が主導して、この地域全体に高いレベルで共通の価値観を醸成することができたなら、将来的にはEU型の共同体に発展する可能性も否定されません。そのときには、NATOのような仕組みも考え得るのでしょう。
あるいは、距離は遠いが、日本が欧州諸国と集団安全保障の態勢に向かう方が手っ取り早いのかもしれません。その前に、日本がEUに加盟するということも、あながち考えられなくもありません。
憲法解釈と改正 ― 2019年02月03日 23:51
遅い時間に漸く、ブログの更新です。
次回は、2月15~17日の間に更新する予定です。
憲法9条の解釈?
憲法9条の解釈論の複雑さには辟易とします。私が学生だった頃は、当時の憲法の教科書を何冊も、喜々として読み比べていました。それでも、1項と2項の関係において、各項の解釈の組合せと場合を尽くす議論に、幾重にも分岐した学説を整理するのがやっとであったことを覚えています。そのときの憲法の先生は、自説以外を答案に書くと点数が悪いというもっぱらの評判でしたが、私はどの科目でも自分で考えた結論を答案に書くことにしていました。その結果、よく勉強したのに、「良」しかもらえなかった苦い思い出があります。
これから述べることは、憲法学者でもないし、安全保障の専門家でもない者が考えたことです。その前提で、議論にお付き合いください。
さて、
憲法第二章「戦争の放棄」は、次の条文からなります。
第九条 第1項
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
第2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
この9条の「解釈」です。
憲法制定時における吉田茂内閣の立場(昭和21年)から始めるとすると、個別自衛権の否定と、いかなる戦力の保有も許されないとする解釈から、個別自衛権の肯定へと政府解釈が変更され、
これが、少なくとも鳩山一郎内閣のときまでには(昭和29年~)、そのための最小限の実力としての自衛隊を保有することが合憲であるとする解釈が確立されたのです。
そして、田中角栄内閣の時に個別自衛権を行使可能としつつ、集団的自衛権は、憲法の制約の下、行使できないとする政府解釈が明確にされました。これが、現在の安倍内閣において、平成26年に至り、集団的自衛権の一部が行使できることになりました。
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきである。」(平成26年閣議決定)
今でも、自衛隊が軍隊であることは政府解釈として認められていません。
内閣法制局の解釈によれば、従来、武力行使と一体となった後方支援が集団的自衛権の行使に当たるとされていたのです。これが、安保法制の改正により、上述の閣議決定の要件の下では可能とされるようになったわけです。
ここでは、憲法9条の政府解釈の変遷が、このようになされたということを確認しておきましょう。
そうすると、例えば、北朝鮮の核ミサイルが韓国内に打ち込まれ、更に、わが国に照準を合わせていることが確認されたようなとき、アメリカ軍が北朝鮮を攻撃する場合を想定します。わが国への存立危機事態である蓋然性が50%を超えると判断されると、公海上を航行中のわが国自衛隊艦船「いずも」に、アメリカ軍の爆撃機が停留、給油を受け、そこから出発することは許されそうです。
また、更に、上のアメリカ軍機が北朝鮮の戦艦に攻撃されているときに、これを助けるために自衛隊が、北朝鮮戦艦を攻撃することが許される可能性があるということになるでしょう。実は、法的には、船舶についてはその旗国の領域であるとされるので、この場合には既に相手国領域への攻撃に等しいとも言えます。
国会議員の議論において、わが国が敵地攻撃能力を保有することについて議論されることがあります。
個別自衛権と専守防衛についても、次の例を考えてみましょう。上例で、核弾頭がわが国に向けられているときに、わが国の自衛隊航空機が、アメリカ軍とともに、あるいは単独で、北朝鮮領域内にあるミサイル基地に対して攻撃に向かうとすると、わが国の敵地攻撃能力に基づき実力行使することを意味します。個別自衛権の発動が専守防衛に基づくとしても、抽象的には、必ずしも、わが国が敵地攻撃能力を保有しないことを意味しません。
「専守防衛」という語の解釈によるでしょう。①わが国領域が実際に攻撃された場合にのみ、その後、これに対応することを意味するのか、それとも、②わが国への攻撃が確実に予測される場合をも含むのか。(a)わが国領域内においてのみ抗戦し、相手国の軍隊をわが国領域外に追い返す、あるいは未然に着弾を防ぐことのみを意味するのか、それとも、(b)わが国領域外の周辺において、相手国軍隊と交戦することまでは認めるのか。(c)相手国領域内における攻撃まで認めるのか。
①に対して、(a)~(c)まで、又は、②に対して、(a)~(c)までの、どこまでの武力行使が許されるのでしょうか。専守防衛の語の解釈として、①に対して(a)のみとする立場から、①と②に対して(c)まで含むとする立場まで有り得るように思われます。当然、前者からは、後者は「専守防衛」を踏み越えるとするのです。そのほかに、①、②に対して、(a)~(c)の多様な組合せが考えられます。
先ほどの例に戻ります。韓国に核攻撃がなされ、北朝鮮の弾道ミサイルがわが国に向けられていることが確認されたとき(②の場合)、ミサイルが発射されるまで待って、わが国領域内において、これを迎撃する(a)、わが国の自衛隊が出動して、北朝鮮のミサイル基地を攻撃する(c)の、いずれかの立場が有り得ます。最後の立場が、②に対して(c)を含むことになります。
このことについて、未だ不勉強なので、わが国政府解釈がどのあたりであるのかよく分かりません。国会で、しっかりと議論をしてもらいたいところです。
ここで、先ほど述べた憲法9条の政府解釈の変遷を思い出してください。
日本が永久に戦争を放棄し、従って自衛のためといえども戦力(実力でも、軍隊でも何でも良いです)を保有しないとする解釈から、現在の、明らかに軍隊である自衛隊(政府解釈のいう最小限の「実力」)の公認と集団的自衛権の一部、片面的行使まで、わが国における政府解釈が変遷しているのです。これを要するに解釈改憲ではありませんか?
「政府」の「解釈」によって、政府の手を縛るための憲法が改正されていることを意味します。憲法改正とは正面からは言いにくいので、ただの解釈の変更とされます。
もっとも、このことは憲法解釈の第一の担い手である憲法学者も免れません。私の学生時代(おおよそ40年前(^-^*))の通説が自衛隊違憲説であったのです。現在の多数説が自衛隊は合憲であり、かつ、個別自衛権のみが認められるとするようです。時代が変わり、社会の要請に応えて、解釈学説がゆっくりと変わったようです。法に携わる者は、得てしてこのように「保守的」です。
自衛隊を違憲とする学説の中にも、その当時の社会党がこれを採用したのですが、自衛隊を違憲ではあっても合法的な存在であるとするものもあるのです。違憲かつ合法? 実に奇妙ではあります。しかし、自衛隊は、「実力」と呼ぼうと何と呼ぼうと、実際には誰もが認めるように軍隊であり、しかも厳然として存在するのです。国民もそれを容認し、必要としている。憲法学者がその解釈に苦心惨憺してきた歴史が窺えます。
法の解釈も、時代が変わり、社会が変わるとともに、変わり得るとは言えます。これも法の性質に応じてその柔軟さが異なるのです。例えば、民商法のような私法であれば、相当柔軟に解釈が変わる場合のあることを認めることができます。
しかし、一例を挙げれば、法的な母子関係の成立について、生殖補助医療の進展した現在においても、子を懐胎し出産した母のみが、子の法律上の母であるとする解釈を、わが国の最高裁が維持しています。従って、父母の受精卵を子宮内に移植された代理母より誕生した子は、たとえ遺伝学的には卵子を提供した母の子であるとしても、従っていわゆる血の繋がりのある子であるとしても、卵子提供者は母子関係を否定され、代理母の方が法律上の母であるとされます。代理母など知らなかった戦後間もない時代に制定された家族法であっても、法は、現在においても、そのようにしか解釈できないからだとしています。判決は、これを解決できるのが立法機関だけであるとしているのです。
代理母についての結論について賛否を述べるのではありません。しかし、次の様に言えます。裁判所や行政機関は、法を「解釈」することしかできません。三権分立の観点から、法を作る(「立法」する)のは国会であるので、自ずから、法の解釈には限界があるべきなのです。国会は選挙で選ばれた国民の代表から構成されるから、その作った法に国民が服するという、国民によるコントロールと法の支配の関係が民主主義の根本にあるからです。
さて、憲法はどうでしょう。憲法と通常の法律とは異なります。法律より優越する最高法規が憲法であり、憲法違反の法律は無効となります。憲法を全く政府の「解釈」に委ねる、どのように「解釈」しても良いというのでは、憲法の定義に悖ります。憲法の、解釈を超える改変は、憲法制定権力の発動を待たなければなりません。憲法制定権力とは国民の意思です。
自民党の改憲案は、9条をそのまま残して、9条の2を設け、自衛隊を明記するというものです。しかし、与党内においても必ずしも議論が収斂していないようです。改正発議に向けて、十分な準備が整っていると言い難いでしょう。
https://www.sankei.com/politics/news/180503/plt1805030019-n1.html (産経新聞インターネット)
立憲民主党は、自民党政権下における憲法改正に反対であるとしています。
自衛隊と憲法の関係について、上述のような問いに対しても、私自身が明確な回答を持ちあわせていません。少なくとも、自衛隊が必要であるなら、それは合憲でなければならない。もうこの辺で、自衛隊と憲法の関係について、国民の意思を問うべきではありませんか?そのための憲法改正手続なのです。
デカンショ、デカンショで・・からの... ― 2019年01月18日 17:37
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ」
(参照。http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/minyo/dekansho.html)
デカンショ節は丹波篠山の民謡ですが、明治時代以降に旧制高校生の間で流行しました。ある高校教師から、次の様に教わったことがあります。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルの意味で、哲学書を半年読んでは、後の半年は寝て暮らすという意味だというのです。
デカルト、カント、ショーペンハウエルと聞くと、今ではちょっと古いなという感慨を持ちます。もちろん、この人達の思想が、現代に至るまで社会や政治に大きな影響を与えていることを私も知っていますし、その著作が多くの人々に親しまれ、今なお、それ自体、研究対象とされています。それでも古いなと感じるのは、その時代毎に、若い人達に好まれる思想の、「流行り」が生まれては消えてゆくからです。
私の学生時代、もう40年ほど前にもなりますが、ある先輩が言っていたのを覚えています。「少し前には、左手に資本論、右手にプレイボーイを持って、キャンパスを闊歩するのが格好良いとされていたんだ」。資本論というのは、いうまでも無くマルクスの著作で、マルクス・レーニン主義のバイブルです。プレイボーイというのは、ヌードや水着の女性のピンナップ写真を掲載していた若者向け情報誌で、相当硬い読み物も載っていたようです。その二誌を小脇に抱えるのが、当時の(男子)学生のファッションであったという戯れ言です。今では資本論を読んでいるとか、少なくともその振りをしている人達すら少なくなっていますし、プレイボーイは廃刊されました。
スキゾ、パラノという言葉を今の若い人達は余り使いません。浅田彰の『逃走論』は1984年に刊行され、一世を風靡しました。ドゥルーズやデリダなど、フランスのポスト・モダン思想は、マルクスの構造主義を「脱」構築する・・・なんかが流行った時期です。
そのときどきに若者の間でもてはやされる思想は、まるでファッション(扮装)の流行のように、流行り廃りを繰り返してゆきます。
ちょっと脇道にそれますが、(服装の)ファッションの世界に、モードという概念を想定できる様に思います。英語のmode の語義をWeblioというインターネット辞書で調べてみると、「方法、様式、流儀」という意味があり、どうやらそこから「(服装・芸術などの)流行(の型)という」意味を生じたようです。a mode of life で、生活様式や風俗という意味になります。パリ・コレクションやミラノ・コレクションなど、ヨーロッパ文化・文明の中心地で産み出されるファッションが世界中に流行を生み出します。これをモードと呼ぶようですが、単なる流行という以上に、世界の服飾業に対する影響は、静かな水面に落とす小石が大きな波紋を生じて、池の隅々に及ぶように、多大な影響を及ぼすがごとくです。パリコレで生まれた新奇なファッションが、数年後には世界中のモードになっていることがままあり、これが庶民の着るカジュアルファッションにまで生かされていくのです。
今なお、哲学思想の、世界中に影響を与えるモードを生み出す場所の一つがフランスやドイツを中心とするヨーロッパなのです。哲学のみならず、文学や、政治学、社会学等にも大きな影響を及ぼし、やがて現実の政治や行政のあり方に関係し、社会のあり方や人々の暮らし方に作用するものもあるのです。若年層がその共同体の中で最も鋭敏な嗅覚を持って、その流行りをモードとして感じ取っているのかもしれません。
もっとも、これは西欧中心的な考え方であるでしょう。世界には、西欧文化圏に必ずしも属さない、イスラム文化圏やアフリカ文化圏などもあるのだから。
日本は?
西欧文化圏に属すると言う人がいます。地政学的にはアジアに位置していることは間違いがありません。中国は古代文明の発祥した場所の一つであり、少なくとも、周辺の国々の宗教・思想、生活様式に多大な影響を与える大きな中国文化圏を形成している(た?)とも言えそうです。古来、中国の辺境であった日本が、その文化的、政治的影響を被りつつも、大陸とは海に隔てられているお陰で独自の文化圏を形成したともされます。少なくとも、朝鮮半島を経由することも多く、移入された中国文化が、日本文化の基底部分に存在しつつ、独自に発達したものと言えるのではないでしょうか。
江戸時代の倫理観念は、儒教を基にした封建的な価値観を中心としていたのです。江戸時代の法がこれを反映していました。明治維新に至り、ときの為政者達が、西欧文明の発展を目の当たりにして驚愕し、日本が西欧列強の植民地となることを避けるために、西欧文明の移入を急ぎました。このとき西欧法とは全く異なる江戸時代の法とは断絶した、日本近代の法を、西欧の法を真似ることによって作り上げたのです。急ごしらえの憲法や民法が、やがては社会に定着しました。もう一度言うと、日本は、それ以前の法とは、論理も価値観も全く断絶した西欧の法を、このときに継受したのです。
但し、家族法については、儒教的な価値観を根底から変えることができなかったと思われます。法が社会に受け入れられ、実際に生かされるために、現実の社会や人々の生活と結びついたものである必要があるからです。明治期の家族法は、封建的な家父長制度を規定するものでした。戸主が全財産を相続し、多様な権限を有するものです。第二次世界大戦に敗れて、現行の日本国憲法が制定されると、個人主義的な憲法の価値観に即した、現行の家族法が制定されました。戦前の「家」の制度を払拭したもので、日本社会の変革をもたらしました。「家」が、日本という共同体の末端組織として機能した戦前の法制度と比べて、国よりも、余りに「個」を重視しているとか、憲法の個人主義が家族を思いやる良き価値観を廃れさせたという批判がされることがあります。
もっとも、まだまだ個の価値、一個一個の人の命の重要さを再確認する必要があり、多様性に寛容である社会の中で、しかし、新たな家族の形を模索するべきときが来ているように思われます。それがどのような家族なのかは私自身、まだ分かりませんが、そのような新しい家族共同体の価値が追求されても良いと思います。他人の生き方に寛容である個人が寄り添う新しい家族が地域共同体のより良い隣人同士であり、その人々が共に、そこに住む日本という国のより良いあり方を考えるのです。
そこで、最初の話に戻ります。デカンショからポスト・モダンまで、日本の文化と一口に言ってしまえないはずの、様々な考え方を包摂する日本の文化を基盤として、新しいものの考え方を、西欧から旺盛に移入する日本の姿がそこにはあるように思えます。日本の法が、ヨーロッパ大陸の法と、英米の法をよく学びながら発展し、先進国の中でもこれほど外国法の動向に敏感であり、比較法に研究熱心な国が他にないように、日本の文化が、日本の伝統の上に、世界中の文化的影響を被りながら変転を続け、新たに発展する、文化的クロスロードの只中にあるのです。
日本は、歴史的には、むしろ辺境にある国であり、決して中心に位置するものではなかったのでしょう。しかし、インターネットと航空機等の移動手段の発達により、世界が地理的時間的に今までに無かったほど狭くなった今日、一個のグローバル社会の中にあって、海を渡ってこの国の浜辺まで打ち寄せた波がこの地から寄せ返され、大きなモードとなって世界中に及ぶことがあっても良いように思えます。
さて、いよいよ、日韓の関係が険悪化しています。日本と韓国の文化的異質性をその原因とする論調もあるようです。しかし、日本が古来より築いてきた朝鮮半島との文化的、政治的関係は、歴史上、重要な隣国として緊密であり続けたのです。
儒教的な封建的家族制度は、先に述べたように、第二次世界大戦の後に日本が払拭したのに対して、かつて韓国の法の中にむしろ生き続けていました。これが西欧的な価値である個人の権利と両性の平等を重視する方向へと改正されてきたのです。2005年にようやく戸主制度が廃止されました。その大きな原因となったのが、韓国における現行憲法への改正であったのです。
徴用工訴訟に関する韓国最高裁判決も、憲法上の個人の幸福追求権を重要な根拠の一つとしています。これが日韓請求権協定に違反する国際法上違法な、韓国の行為であることは以前のブログで述べました。しかし、韓国国内法としての法発展がかくなされたということは言えます。
韓国法の発展が、ヨーロッパ法及びアメリカ法の影響の下にもたらされていることなど、日本の法発展とよく似た展開をみせていることに留意するべきでしょう。
更に、韓国の優秀な若者が競ってアメリカ留学をして、殊に、アメリカの著名大学で最新のマーケティング理論を身につけた企業戦士が、東南アジアなど世界中を席巻し、むしろ日本企業が後塵を拝することがあったことも想起するべきです。
私には、韓国の文化的発展が、もとより全く同質ではないにせよ、日本のそれによく似ているように思えます。生活様式や情感のあり方など、やはり共通の文化圏を形成し得るのではないでしょうか
すべての政策を総動員して、少子高齢化に立ち向かう? ― 2019年01月07日 00:17
一昨日、ジムに行って走り初め。たまに行く居酒屋で夜ご飯? ご飯と言うより、お酒とつまみ。走って減ったカロリー分を結局、酒ガソリンで充填してしまいました。このところ正月太り。今日もお鏡餅を下ろして、しかたないのでぜんざい。あぁぁあ。
今日は、少し軽めに。
国際通貨基金(IMF)によると、2002年から2017年にかけての15年間に、日本は、世界の主要国の中で、人口が減少し、新興国や経済開発の目覚ましい途上国と比べても、米国、英国、ドイツ、フランスといった先進国と比べても、実質GDPの伸び率が少ない。そして何よりも消費者物価指数がほとんど変化していない、特異な国であるようです。
(2019年1月4日の日経新聞記事(猪木武徳氏のエッセイ)より)
猪木氏によると、「日本経済は世界の相場と比べて不思議な動きを示してきた」としています。そのような特異性の原因として、企業や家計の予想と心理といった日本国民の精神の内的状況に原因があると主張しています。
上述の記事に従い、古い伝統のある先進国である英国、ドイツ、フランスとの比較を次に示します。記事によると、英国の人口が11%、ドイツが1%、フランスが9%増加し、実質GDPがそれぞれ28%、22%、20%、消費者物価が、39%、25%、20%増加しているのに対して、日本の人口が-1%、実質GDP15%、物価が3%の増加に留まります。従って、この国々の中では、日本のみが人口減少の局面を迎えたこと、物価が極端に安定していることが目立ちます。
以下は、私なりの感想です。
英国、ドイツ、フランスと日本の違いは何でしょうか? 私の関心からは、移民政策です。三国はいずれもEU構成国です。英国のみ離脱を控えていますが、EUの中心的な構成国として、EUの進歩発展に貢献してきた国々です。
三国の移民政策は一様ではありません。まず、英国とフランスについては、EU域外にも旧宗主国とその植民地であった国々との強い結び付きがあり、それらの国々からの単純労働者を受け入れる素地があったことは指摘できます。ドイツは、第二次世界大戦におけるホロコーストに対する反省から、外国人を排斥しないという基本的な姿勢が憲法上の要請となっています。高度経済成長期に大量のトルコ系移民を受け入れた経緯があります。
また、キリスト教文明を社会の基盤とするこれらの国々が、富める国として、人道的理由から、多くの難民を受け入れてきました。
最も重要なことは、EUの最大の眼目が単一市場の創設であり、ヒト・モノ・カネの自由移動を徹底して追求してきたことが挙げられます。域内においては、どの構成国の国民もEU市民籍を持っていて、どの国に移住して、またどの国で働いても構わないのです。原則的に構成国はヒト(EU市民)の移動の自由を制限しません。そこで、EU拡大に伴い、経済的に貧しい中東欧がEUに加盟するにつれ、これらの国々から、賃金や労働条件のより良い先進地域に移住する人々が増大したのです。
EU構成国たるポーランドからの移民が、英国人の雇用を奪っていると宣伝され、単純労働に従事する人々を煽り立てたことが、英国がEUを離脱した一つの大きな原因でした。EU構成国である限り、移民を制限できないと考えたのです。景気が悪くなり、失業率が大きくなると、その不満の矛先が移民社会に向けられることは、フランスやドイツでも見られます。その国に従来から住む人々の共同体と移民社会との分断が社会不安を招き、EUの先進的構成国において極右団体が活発に活動し始め、極右政党が勢力を増しつつあります。帰化した人々を含めて移民社会が貧困層として新たな階級を形成し、テロの温床ともなった。社会の分断がこれら国々における共通の問題となっています。
経済規模の相違もあり、単純に比較できないのでしょうが、しかし、上に掲げた統計をみると、少なくともその数字において、英国、フランス、ドイツの三国の人口減少には歯止めがかかり、実質GDPの伸び率も日本より高いではありませんか。もともと、いずれの国も少子高齢化が進行しつつある先進国の代表格だったはずです。
本格的な人口減少社会となった日本です。高年齢層が若年層よりも多い頭でっかちな人口構成になり、国家財政破綻の危機を目前に、将来の年金に対する不安はもはや大きな社会不安と言って良いのではありませんか? 平均寿命は、男性が80才を超え、女性が90近くにまで至ったのです。今後、IPS細胞の医療への応用や遺伝子療法の開発が進めば、飛躍的に寿命が延びる可能性もあるでしょう。私の世代が80才ぐらいになったころ、後、20年超ありますが、平均寿命は何才になっているのでしょう。健康寿命が延びるのであれば良いのですが、要介護となったらどうしましょうか。
また、昨年は人手不足倒産が過去最大となったようです。
女性の社会進出を後押しし、女性の労働力の活用策を練り、定年の延長など高齢層の労働力も活用する。AIやロボット技術の進歩を促し、効率的な社会とする。全ての政策を総動員して、………..国難とまで言われる少子高齢化を乗り切ることができる?
以前のブログにも述べたように、AIやロボットによる労働力の補填がどこまで望ましいか。考える余地がありそうです。近未来は、人々の外出が例外となるかもしれませんね。多くの仕事が半自動化され、しかも自宅でできるようになったり、医療も遠隔治療技術の発展により、自宅でうけられるし、買い物もレクリエーションも自宅にいながら享受できます。旅行すらVRで楽しめるでしょう。
生産の営みの多くがAIとロボットに委ねられるなら、人は何をすれば良いのでしょう。毎日、家の中に引きこもり、遊んでいるのでしょうかね。恋愛もAIで擬似的に可能かもしれません、発達した人工知能を有したアンドロイドの恋人は常に理想のパートナーとなります。そのような社会では、人類の種の保存はどのように可能とされるのでしょう。
ちょっと勇み足でしたね。まるでSFです。しかし、技術革新により十分可能とされるでしょう。もっとも、このようにAIやロボットに頼るためには、もう少し時間がかかりそうです。
全ての政策を総動員して!
まだ足りない。


